日々愚案

歩く浄土82:内包的な自然14-内包という思想の全円性について1

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親鸞は二種の廻向について説いた。往相廻向と還相廻向。親鸞の言葉になぞらえて言うと、内包論は表現の全体が還相廻向に属していることになる。わたしたちはだれも同一性的な生を日々生きているから、内包論という還相論は、現実にたいして喩としての表現的な位相を占めることになる。そのことがまず前提とされる。この位相に立つとわたしたちの人類史や文明は同一性の外延的な表現として一括りすることができる。天然自然と人口自然の相克もまた同一性の軛から免れることはない。それらのことについては少し書いてきた。

同一性を拡張することは思っているよりもはるかに困難なことなので、ヴェイユやレヴィナスの言葉、宮沢賢治や吉本隆明や親鸞の言葉、自然科学の自然を手がかりとして外延自然を拡張する内包自然について考えてきた。ペンローズの世界をたどりながらかれの言説の行間にある種の親近感が生まれた。とても意外なことだった。
内包論はほんとうはとても生々しいことで謂わば自己体験の個別性に属している。体験の個別性を体験として語るのではなく普遍として語りうるという手応えを得て内包論は始められた。その確信がなければ内包論を持続する由縁もない。

内包論を展開するにあたってふたつの困難があった。可視化と実体化という同一性の宿命をどうすれば内包論は免れうるかということがひとつ。もうひとつあった。内包と外延は意識としてどう往還するのか。どちらも例えようもなく困難だった。このふたつのことについてもブログで書いてきた。関心のある方は過去ログを読んでいただきたい。

「内包的な自然1」を「歩く浄土66」としてアップしたのが半年前。次に進む。「歩く浄土」としてマルクスの貨幣論について本格的に言及したいからである。内包的な自然としてマルクスの資本論を扱うことも可能だが、独立した稿として論及したい。内包的な自然として考えてきたことはマルクス論にも引き継がれる。

安倍内閣の特別機密保護法案の国会上程をきっかけとしてこの対話が始まった。振り返ってみると片山さんとの対話がつづいているのは安倍晋三の奇体な言動の根源をつかみたいという衝動があったからだと思う。なにか急速にこの国が変質しつつあるような切迫感があった。討議はもう2年半になる。よくつづいたと思う。困難な対話が持続したのはひとえに安倍の反知性主義のおかげである。安倍の奇矯な振る舞いは一部の知的な人の反感を買い、さまざまに論難されてきた。わたしたちには安倍内閣の無節操も、安倍内閣を批判する言動も、ともにある種の精神的な退行であるように思えた。

    2
わたしたちの生きている人類史をモダンと定義すると見えてくる風景がある。そこには内面が自己に関わる領域であり、それとはべつに共同性や社会性があるというぬきがたい臆断がある。どちらも意識の外延表現の範疇にあり、ともに内面化と国家という権力に閉じられている。わたしの理解では国家の発生と個人の内面化は同時に発祥したことになる。国家という強大な権力に抗命する余儀なさが内面という意識のありようを生んだということだ。もちろん禁止・抑圧・排除が権力の機能ではない。内面化という能産的な権力も含んでいる。毛細管現象のような張り巡らされた権力もあると云うことだ。

そのひとつが文学という内面化された権力である。けっして無垢のものではない。そこには内面という観念の王国が保守されている。文学は業界人の営みであり、人類総アスリート化のなかにあって商品として物流している。ここにはなんの未知もなく世界の無言の条理を回避するためだけに内面がつぶやかれる。知識人と大衆という認識の型はすでに半世紀前に終焉したことだ。いまわたしたちが当面しているのは人びとの総アスリート化とこの事態をコーディネートする者たちの相克であると云ってよい。その典型をひとつ取りあげる。かれは純文学は天皇制であるとデビュー時に言い放ち、相変わらず『銀河鉄道の彼方に』という純文学を書いている。使い分けはかれの得意とするところだ。高橋源一郎はツイートする。

①2011年4月に始まった、ぼくの「朝日新聞論壇時評」は六十回目の今日が最終回です。5年間、読んでいただいたみなさん、ありがとうございました。一回目のテーマは「ことばの「復興」」でしたが、最後にもう一度、同じテーマをとりあげることにしました。ご笑覧ください。

②5年前に「論壇時評」を書きはじめて以来、「社会について語ることば」の姿はどんなものなのか、ずっと考えてきました。試行錯誤の日々でしたが、最後にたどり着いたのが「社会の複雑を、その複雑を縮減しないまま描くこと」でした。もちろん、それがうまくできたわけではありませんでしたが。

③「論壇時評」は東日本大震災と共に始まりました。原発事故があり、テレビやメディアに出てくる専門家たちのことばがどれも納得いかなかったとき、原子炉工学や原子核物理学や放射線物理学の本を集めてこつこつ勉強するしかありませんでした。これが時評を書くときの基本的なやり方になりました。

④実際に紙面に書くのは2200字ほどでしたが、論壇委員の話を聞き、集めた文献をひたすら読み、考える日々でした。この5年間、ぼくの生活はずっと、毎月最終木曜日に掲載される時評のために存在していたように思います。不勉強で、大学にも通わなかったぼくにとって初めての「大学生生活」でした。

⑤「社会について語ることば」が「複雑なものを複雑なままで語ることば」でいいと思えるようになったとき、それは、もともとぼくがやってきた「文学のことば」そのものであることに気づきました。確かに、すぐれた学者や批評家たちの多くは、繊細なことばづかいのできる「文学者」でもあったのです。

⑥とりあげたテーマに関して、できるだけ文献にあたり、できうるかぎりフェアに書こうとしてきました。もちろん、そんなことは不可能に近く、どこまで実現できたか自信はありませんでしたが。思えば、5年間、そればかりやってきたように思います。

⑦ずいぶん前から、「論壇時評」を降りることをお願いしていました。不器用なぼくにとって、小説を書くことと共にやることができなかったからです。今年でぼくも六十五歳になります。そろそろ作家としての晩年に近く、やり残していることもたくさんあります。「ふるさと」に戻る時期だと思ったのです。

⑧もちろん、「論壇時評」をやめても、社会について書くこと、考えることをやめるわけではありません。いままでと違ったやり方で、つづけていこうと思っています。ここまで書いてこれたのは、読んでくださった方々のおかげです。みなさんに深い感謝をささげます。 (2016年3月30日 )

高橋源一郎は「文学のことば」と「社会について語ることば」を区別している。そして社会の複雑なものを複雑なまま語ることばは、文学のことばそのものであると気づいたとツイートしている。『ぼくらの民主主義なんだぜ』もそうだが、じつに喉越しがよくてつるんとしている。高橋源一郎の成熟にはべつの背景がある。これもネットで知った記事である。若い頃は感情というものがなく能面みたいだったけど、歳をとって日本的な感性がわかるようになったと言っている。長いけどそのままコピペする。とても良い文章です。じっくり読んで下さい。

死者と生きる未来

これから書く文章の中には、読者のみなさんにとって、不愉快に感じられる箇所があるかもしれない。そのことをお許し願いたい。

わたしは大学を卒業していない。入学したが、わけあって大学を離れた。親や友人との交際も絶って、肉体労働をしながら、小さな小さな世界で生きた20代だった。

20代の終わり頃、腰を痛め、肉体労働もできなくなった。妻子とも別れ、養育費を送る身だったのに、金を稼ぐ術を失った。おまけに、ひどいギャンブル依存症になっていた。つてをたどり、やれる仕事は、他人にはいえないようなものでもやった。その一つが「女衒(ぜげん)」だった。簡単にいうなら、売春の斡旋である。

インターネットなどなかったから、三流夕刊紙に、内容をほのめかした広告を出す。男たちが電話をかけてきて、その男たちに女の子を紹介する。そんな、ヤクザがやっている商売の一番下っぱの仕事をした。わたしは、もっぱら新大久保のラブホテルに女の子を届ける役だった。ホテルの部屋の前まで行き、金を受けとり、女の子を渡す。明らかにおかしい男もいた。酔っぱらいもヤクザも。だが、それは、わたしの知ったことではなかった。
首を締められた子も、後ろ手に縛られ、犯されるようにやられた子も、いきなり注射をうたれた子もいた。幸いなことに死んだ子だけはいなかったが。

高校生の女の子がひとり、紛れ込んできたことがあった。学生証を見たから、間違いはなかったと思う。なぜ、そんなところにやって来たのかわたしは知らなかった。わたしは、いつものように、ラブホテルの部屋の前まで行き、ドアを開け、金を受けとった。男は、最悪より少し上という感じだった。わたしは、女の子を男に渡し、すぐ近くの、事務所という名の荷物置き場のような部屋で待ち、90分後にホテルに戻った。女の子は青ざめた顔つきになっていた。

わたしたちは、「事務所」に戻り、迎えの車を待っていた。そのとき、女の子が、なにかを呟いた。

「あたし……」
「なに、なにいってんの?」とわたしは訊ねた。女の子はもう一度はっきりいった。
「あたし、魂を殺しちゃった」

それから、女の子は、持っていた小さなポーチに左手を入れ、剃刀を出し、右の手首に当てて引いた。切ったのは静脈で、だから、血は噴出することもなく、けれど大量に流れ出した。わたしは、剃刀をとりあげ、ごみ箱に放り込んだ。そして、女の子の右手を持ち、高く掲げ、トイレに向かい、そこまで女の子の手を持ったまま歩いていって、タオルを見つけ、出血している場所の少し下で固く縛った。女の子は、反抗することもなく、ことばを発することもなく、人形のようにおとなしく、わたしについて来た。それから、その縛った手をまだ高く掲げたまま、「上」に電話をした。すぐに、「上」の連中がやって来て、わたしの不注意を叱りつけ、そのまま女の子をどこかへ連れていった。その女の子とはそれ以来会っていない。

そのすべてが愚かしいようにわたしには思えた。なによりわたしが驚いたのは、わたしが少しも、その女の子に同情していなかったことだった。わたしは、その哀れな女の子を痛ましいと思うべきだったのだろう。けれども、わたしには、そんな感情が少しも沸いてはこなかった。「自分には関係のないことだ」というのが正直な気持だった。いや、まるで、当てつけのように、目の前で手首を切ったその女の子を、わたしはどちらかというと憎んでいたように思う。それから、なお2週間、わたしは「女衒」を続け、その後やめた。それから35年、新大久保には近づかなかった。わたしが作家としてデビューしたのは、その2年後だった。

それからも、時々、わたしは、その女の子のことを考えた。

どうして、わたしはなにも感じなかったのだろう。どうして、同情ではなく、腹立たしい思いがしたのだろう。手首を切ったことではなく、「魂を殺しちゃった」といった、その、まるで小説の中のセリフみたいなことばを使ったことに、憎しみを抱いたのかもしれない。なぜなら、彼女には、確かに、そのことばを使う資格があるように、わたしにも思えたからだ。そして、そのことばによって、わたしを責めているように、思えた。

それは、ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似ていた。「あの戦争を繰り返してはならない」といわれるとき、感じる、「でも、自分には関係のないことなのに」という思いにも似ていた。反論しようのない「正しさ」を前にして、「正しいから従え」といわれたときのような、やる瀬なさにも似ていた。

だが、問題は、そこにはなかったのかもしれない。わたしには、なにかが決定的に欠けていた。ただそれだけの話なのかもしれなかった。

作家になって、しばらくして父が癌で亡くなった。父は放蕩と無能で家族を何度も路頭に迷わせた人だった。わたしはほとんど父を憎んでいたので、病院に着いて、ベッドで微かに瞼を開けて死んでいる父を見ても、なんの感慨も浮かんではこなかった。それから、ほどなく、父と別居していた母も亡くなった。そのときにもほとんど、わたしはなにも感じなかった。弟や妻は泣いていたが、わたしは、そんな彼らを不思議そうに眺めるだけだった。彼らは、わたしにとって生物学的な父や母にすぎず、そして、すべての人間がそうであるように、死んでいった。ただそれだけのことのようにわたしには思えた。もちろん、わたしも、そうやっていつか死んでゆくだけのことなのだ。

わたしは作家を続け、その作品の中で、あるいは、エッセイの中で、「他人」の境遇や悲惨さに心を動かすことばを書きつけたこともあった。けれども、書きながら、「それはほんとうだろうか」と思った。わたしが、政治や社会について発言することを用心深く避けてきたのも、そんな、わたしの本心を気づかれるのが恐ろしかったからなのかもしれない。

ほんとうに、みんなは、世界の悲惨に憤ったり、この国が犯した恐ろしい罪を憎んでいるのだろうか。本心から、そんなことが思えるのだろうか。わたしには、疑わしいように思えた。というより、そんなことは、どうでもいいことのように思えた。

そして、わたしは、いろんなことを忘れた。父も母も、あの女の子のことを思い出すこともなくなった。

8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。

そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。

バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。

わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現したと思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。

わたしは、その愚かしい間違いに、失笑した。なんてことだ。馬鹿馬鹿しい。

その瞬間、わたしは、それまで一度も体験したことのない不思議な感覚を味わったのである。鏡に映っているのが父だとするなら、その父に歯を磨いてもらっている長男は、わたしではないか。そう感じたとき、体が裂けるほどの痛みがわたしを襲った。ほんとうのところ、それは、痛みではなく悲しみだったが、あまりに突然だったので、痛みに感じられたのだ。

長い間忘れていた父の記憶が、どこか深いところから甦り、噴き出すのを感じた。

会社が倒産し、夜逃げをして、極貧の生活をしていた頃、「おかしが食べたい」といいだした5歳のわたしのために、深夜、何時間もかけてリンゴを鍋で煮ていた姿、あるいは、6歳の頃、やはり突然夜中に発熱したわたしを背中にかついで30分以上かかる医者のところに運んでくれた姿が、わたしの中で甦った。父は、幼い頃、小児麻痺を患い、歩くことはきわめて困難だったのだ。

わたしは21世紀の東京で子どもの歯を磨いていたが、同時に、半世紀前、父親に歯を磨かれている幼児でもあった。

わたしは父を忘れていたが、父はわたしを忘れてはいなかった。そんな気がした。父はわたしの中で、ずっと生きていたのだ。わたしは、父がその幼児に、すなわちわたしに抱いた、溢れるような感情の放射を、半世紀たって再び、浴びせられたように思った。それは、わたしが、なによりいとおしく思っている子どもへの感情と同じであった。

気がつくと、長男が不思議そうにわたしを見つめていた。

「ぱぱ、どうしたの?」と長男はいった。
「なんでもない」とわたしは答えた。
「なんでもないよ」

そのときから、わたしと過去の関係は変わったように思う。

わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。

そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。

わたしたちが生きる、この現在は、過去が生み出したものだ。遥か、視線を上げると、わたしたちの周りにあるもので、過去と無関係なものは一つもないのである。一つのコップ、一枚の紙ですら、かつて誰かが、もうこの世には存在しない誰かが、全力で作り上げようとしたものの果てに生まれたものなのだ。

いや、わたしもまた、同じではなかったろうか。わたしのことばづかい、わたしの癖、わたしの感覚、それらもまた、わたしが勝手に生み出したのではなく、わたしを愛してくれた、父や母や、そんなすべての人たちが語りかけたことば、感情、によって刻みこまれたものにちがいないのだから。

そんな当たり前のことに、どうして気づかなかったのだろう。

書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。

なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。

今年の6月、わたしは、70年前に戦死した伯父の慰霊に、フィリピンに出かけた。伯父とは、もちろん一度も会ったことなどなかった。伯父は、昭和16年に慶応大学を卒業した、フランス文学とフランス映画が好きで、内気な、さらに付け加えるなら「戦争が嫌いな」青年だった、と父から聞いた。伯父は、昭和20年、フィリピンに渡った。フィリピンには60万余の日本軍兵士が向かい、武器も食糧もない戦いの中で、およそ50万人が死亡し、その遺骸は、フィリピンの原野を埋めた。伯父もその中のひとりであった。

父や祖母は慰霊の旅を熱望をしていたが、果たすことはできず、わたしがその代わりを務めたのである。

最大の檄戦地となったルソン島・バレテ峠の、北に向って、すなわち遥か日本に向って建てられた慰霊碑の前で、わたしは、長い間、瞼を閉じ、頭を垂れていた。

そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである。

人は、最後の瞬間が近づくとき、なにを考えるのだろう。彼らは、死が目前に迫っていること、そして、それから逃れることが不可能であることを知っていた。そのとき、彼らの脳裏になにが浮かんだのだろう。それがなにであるかは決してわからないであろう。けれども、それを想像することは可能であるように、わたしには思えた。なぜなら、彼らもまた、わたしと変わらぬ、ふつうの人間であったであろうから。

彼らは、遠く日本にいる、家族を故郷を思っただろう。わたしが立ち尽くしていた、北ルソンの風景は、想像していた熱帯のそれではなく、不思議なほど、日本の山野に似ていた。

そして、わたしには、伯父が、彼らが、そのとき、戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像したに違いないと思えた。死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに晒されながら、それでも生き抜いて、その未来にたどり着けたら、と薄れゆく意識の中で、思ったのではないだろうか。

そして、彼らが切望した未来とは、いまわたしたちが生きている「現在」のことなのだ。わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。

慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。そして、その視線に気がつかなくとも、彼らは、わたしたちを批判することはないだろう。「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである。

そう思えたとき、わたしは、70年前ではなく、70年後の未来を思った。彼らが、未来を見つめたように、わたしも未来を見つめたいと思った。まだ生まれてもいない、わたしたちの家族の末裔を想像しようとした。その未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように、祈らずにはいられなかった。もしかしたら、慰霊とは、死者の視線を感じながら、過去ではなく、未来に向って、その未来を想像すること、死者と共に、その未来を作りだそうとすることなのかもしれない。いま、わたしには、そう思えるのである。

最近、あの女の子のことを、また考えるようになった。あのとき、あの女の子は、なにを考えていたのだろう、と思う。あの女の子は、なにを見ていたのだろう。

彼女の目に、心を閉ざした、機嫌の悪い、無口で、視線を合わそうとはしない、30歳近い、男の姿が映っている。

彼女は、深く傷ついていたのだと思う。けれど、それにもかかわらず、目の前の、不機嫌な男に、声をかけずにはいられなかったのだ。その男もまた、傷ついていることを彼女は感じていたのだろう。そして、手を伸ばそうとしたのだろう。不器用なやり方ではあったけれど。残念なことに、男は、なにも気づかなかったのだが。(「ポリタス」2015年8月18日)

いい文章だなあ。とてもいい文章です。でも、わたしは高橋源一郎の視線の移動について語りたい。作為的かどうかわからぬが、微妙なごまかしがある。あんがい本人は気づいていないのかもしれない。かれが若い頃能面のような感情をもっていたということ。よくわかる。あの時代のあの歳ではみな似たようなものだ。思いあたることがないはずがない。だから高橋源一郎が若い頃を回想して書いていることに異論はない。
歳月を経てかれはフィリピンで落命した父の叔父を慰霊したくて彼の地を巡礼する。激戦地のルソン島でかれは不思議な感情に襲われる。無数の戦死者たちがじっと見つめているような気がする。かれらが生きて祖国に帰りたいと思った未来はいまわたしたちが生きている現在である。であるとするなら、慰霊とは死者の視線を感じながら、過去ではなく未来に向けて、死者と共に未来を作りだすことではないのか。おおよそそのようなことが書かれている。
高橋源一郎は間違った一般化によって成熟を語っている。むろんこの間違った一般化はこの国の習いに従って自然生成されるようななにかとして起こっている。見飽きた光景だ。凡俗の知が、自力作善の知が説かれている。もしも文学や表現がこのようなものであるとしたら書かぬに如くはない。『ぼくらの民主主義なんだぜ』の趣旨がよくわかった。
女衒をやっていた頃、高橋源一郎は世界の無言の条理と真向かっていたと思う。だからかれは感情を喪失して能面になった。ここに欺瞞はない。無言の条理に文学も政治もない。後年かれは世俗知に従って「文学のことば」と「社会について語ることば」を区別するようになる。「複雑なものを複雑なままで語ることば」がそのまま「文学のことば」であると結論する。ここにあるのは内面のつぶやきが共同化できるという俗知であり、間違った一般化である。わたしはこのような欺瞞と虚偽を括弧に入れる作家や知的なひとを「社会」主義者と読んでいる。広義には小林多喜二の『蟹工船』の表出の意識とまったく同型である。ここに文学はない。この文学もまた主観的な信のうちにある権力である。意識を内包的な自然という全円性に向けてひらくこと。そこにまったく未知の文学や思想がある。

    3
AIが人間の知性を超えるかという問いのつまらなさはなにかというと知性が定義されていないことであり、知性が定義されたとして、それは観念の自然過程としてある知にすぎぬものであり、そこでは往相の知が語られるだけである。かぎりなくばかばかしい。そんなものが知であるはずがない。人間にとってもっとも本質的な知は還相の知である。世俗的な往相の知ならばアルゴリズムとしてAIに組み込むことはできるだろう。なにか人間にとっての知性にからむ根本的なことがすっぽり抜け落ちた起ころで空騒ぎしている。愚かだと思う。

 言ってみれば、自然数はすでに〝そこに〟ある、つまりプラトン的世界のどこかに存在していて、私たちは対象を意識(アウェア)するという能力を介して、その世界に入ることができるのである。
 もしも私たちが知性のないコンピュータにすぎないならば、私たちにはその意識という能力がないことになる。
 ゲーデルの定理が示しているように、自然数の性質を私たちが理解できるのは、規則によるわけではない。自然数が〝何であるか〟を理解することは、プラトン的世界と接触することである。
 こうして私の主張をさらに一般化すると、数学的理解は計算的なものではなく、ものごとに気づく能力に依存した全く異なる何かである。そこで次のように言う方がいるかもしれない。
「あなたが証明したと主張するのは、せいぜい数学的洞察が計算的ではないということだけだ。意識の他の形態については、それほど多くを語っていないではないか。」
 だが私は、それで十分だと思う。数学的理解と他の種類の理解とを区別することは、不合理である。・・・・・・・・・・理解は数学に特有のものではない。人間は一般的理解という特性を発達させているが、数学的理解が計算的でないのと同様、その特性は計算的ではないのである。
 一般的に人間の理解と人間の意識とは区別できない、と私は思う。そこで、人間の意識がどういうものかわからないと述べたものの、人間の理解がその一例だと思うし、あるいは少なくとも、理解は意識を必要とするだろう。また私は、人間の意識と動物の意識とを区別するつもりもない。これについて、さまざまな団体の人々と、私はトラブルを起こすかもしれない。
 人間は他の多くの種類の動物と非常によく似ていると思う。確かに私たちは、いくつかの親類よりも多少は理解力が優れているかもしれないが、彼らもある種の理解をしているのであるから、やはり「気づく」という意識(アウェアネス)をもっているに違いないのである。
 以上のようなわけで、意識の〝ある〟局面における計算不可能性、特に数学的理解における計算不可能性は、計算不可能性というものが〝あらゆる〟意識の特徴であることを強く示唆している。これは、私の提案である。(『心は量子で語れるか』184~186p)

ペンローズのこの箇所を読んで、すぐに美しい同一性の夢を語ったエンデの『モモ』を思いだした。意識の息づかいがそっくりなのだ。おなじだと言ってもよい。ペンローズにとって意識という気づきは数学的なアルゴリズムより根源的なものとしてある。それがかれの言うプラトン的な世界の実在だ。もっと云えばプラトン的なイデアの実在性を超えたことをペンローズは考えているように思う。偉大なソクラテス以前を意識しているのではないか。強いAIを批判するペンローズの気づきはここに発している。わたしはペンローズの主張はまったく正当であると思う。

かれは1・物理的世界、2・心の世界、3・プラトン的世界というものがぐるぐる循環していて、いつもひとつがほかの一部を表現していると解釈している。ペンローズのプラトン的世界は無意識にギリシャ以前の意識のありようをなぞっているような気がする。ニーチェはあらゆる価値の転倒を試み、存在に穴が開いていることを知覚して狂死した。おなじことを数学的に表明したゲーデルの不完全性定理を論拠に強いAIを強く批判するペンローズの3つの世界の循環が、ラカンの現実界、象徴界、想像界に似ていておおきく違うのは、かれの世界解釈の根っこに生の豊穣な源泉が感じられるからだ。フロイトを継承したラカンのニヒリズムとは意識の呼吸法が異なっている。

人間の精神現象のひとつの枝葉にすぎない数学や物理の理念に先立って名づけようもなく名をもたぬ意識があるということ。そのことを明確に表明しているペンローズの思想に触れることができてとてもうれしくなった。ドカンとくるきりのない余震がなかったら、頻発する余震がなかったら、ペンローズの本をていねいに読むこともなかったように思う。もしもペンローズに考え残したことがあるとしたらそれは内包論で引き継げばいいことだと思っている。

〔追記〕
このブログの記事を書いているときにネットのニュースで高橋源一郎の沖縄に寄せる投稿記事を目にした。ますます大江健三郎に似てきた。考えることをなくしたもの書きの精神がどこまで衰退するかその見本だといっていい。なんの当事者性もなく俗知の間違った一般化をするとこういうことになる。凡俗な善人というほかない。安倍晋三も反知性主義を唱える市民主義も、ともに半世紀思想的な退行を起こしている。ここまで世界は落魄れることができるのだ。その精神の退行の記録を貼りつける。

 天気予報ははずれて、抜けるような青空が広がっていた。

 憲法集会に出席した翌日、世界遺産にもなった、古琉球のグスク(城)の遺跡の一つ、勝連城跡に登った。13世紀前後に作られた城の壁は、優雅な曲面を描き、目にしみるほど赤い花に彩られたその姿は、どこか異国の建物を思わせて、息を呑(の)むほど美しかった。

 城の頂上に登ると、遙(はる)か遠くまで海が見えた。太古の時代、その海を通り「やまと」まで北上していった人たちがいたのだろうか。

 柳田国男は晩年、日本人の祖先は、遠い南方から、沖縄の島づたいにやって来たのではないかと書いた。その中で、島に残った人たちは、そこで生き、やがて日本本土とは異なる歴史と文化を持つ一つの王国を作り上げた……その仮説は、いまも不思議な魅力をたたえて存在している。

■「9条掲げて独立を!」寸劇の叫び

 わたしが出席したのは、毎年、憲法記念日に開かれる大きな集会だった。その中で、一場の寸劇が演じられた。途中、役者たちは、日本国憲法について論じ合う。

 「『憲法第43条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する』。けれども、憲法制定を議論した国会に沖縄の代表はいなかった。米軍の統治下にあった沖縄は、議員を送ることができなかったからだ」

 あるいは、こういうことばも。

 「もし、日本が憲法9条を捨てるなら、沖縄はその9条を掲げて独立したほうがいい!」

 ログイン前の続きこんなセリフが役者の口から出るたびに、場内から、大きな拍手や口笛が、あるいは、ためらいがちな拍手が起きた。

 沖縄について考えるとき、たとえば、基地問題は保守と革新で対立しているのだ、というように思われがちだ。

 だが、実際には、保守が基地依存派で革新は基地反対派、と単純に分類することはできない。そして、ときに、政治的な立場を超えて、沖縄は一つの声になろうとする。

 2007年、沖縄戦における「集団自決の強制」という記述が、高等学校歴史教科書から、「日本軍の命令があったか明らかではない」として削除・修正させられた。この検定結果を撤回するよう求める決議は、沖縄のすべての市町村で可決された。

 あるいは、沖縄の本土「復帰」を目指した「沖縄県祖国復帰協議会」にも、初期には、保守的な性格の団体も加わっていた。

 当時の記録を読むと、敗戦で日本から切り離された彼らが共に目指したのは、なにより、本土に「復帰」し、日本国憲法が自分たちにも適用されること、そのことで、奪われていた平和と人権を獲得することだったことがわかる。沖縄の人たちが、党派を超えて戻ろうと願ったのは、単なる祖国日本ではなく、「日本国憲法のある日本」だったのだ。

 1972年の本土復帰の数年前、突然、うるま市の昆布という地域の土地を接収する、と米軍が通告した。数年にわたる反対闘争が起こり、やがて米軍は土地の使用を諦めた。当時まだ二十歳(はたち)そこそこだったある女性は、忘れられないこんな光景を話してくれた。

 あるとき、アメリカ兵たちが行軍してきて、反対派の小屋に向かって、石を投げ始めたのだ。その頃、沖縄は「ベトナム戦争」への米軍の出撃拠点だった。まるで、その「戦争」が、直接、持ちこまれたかのようだった。

■「国」の冷たい顔、突きつける

 いま、米軍の普天間飛行場の辺野古移設をめぐって、大がかりな反対運動が起こっている。辺野古のゲート前で座りこみを続けるある男性は、こんなことをいった。

 「米軍は表には出てきません。わたしたちが反対のために座りこむと、機動隊が排除のために出てきます。当初は沖縄県警の機動隊でした。最近では、東京の警視庁から来た機動隊がその役目を担っています」

 なにより印象的なのは、東京から来た機動隊は、ときに「笑いながら」、反対派を排除してゆくことだ、と男性はわたしに呟(つぶや)いた。それは沖縄の機動隊員には見られない表情だった。

 「アメリカ」の代わりに、自分たちの前に立ちはだかる「日本」。その「日本」は、戻りたいと切望した「日本国憲法のある日本」なのだろうか。

 鶴見俊輔がアメリカに留学中、日本とアメリカの間で戦争が始まった。鶴見は、敵性外国人として捕虜収容所に入れられていたが、そこで、日本に戻るか、と問われ、「戻る」と答えた。鶴見は、戦争を遂行しようとしている祖国日本に反対していた。それでも戻ろうとした理由について、こう書いている。

 「日本語……を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが『くに』で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その『くに』が自分のもとであることにかわりはない。法律上その国籍をもっているからといって、どうして……国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。……この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは『くに』を踏みにじる。そのときに『くに』とともに自分も負ける側にいたい、と思った」

 鶴見は、「国(家)」と「くに」をわける自分のこの考えは、なかなか理解されにくいだろうと書いている。鶴見が戻った戦争中も、そして、現在でもなお。

 だが、沖縄にいると、鶴見の、そのことばが、わかるような気がする。

 沖縄の人たちが守ろうとしてきたのは、そこで生きてきた、自分たちの土地、そこで紡がれてきた文化だろう。それは、彼らにとって「くに」と呼ぶべきものなのかもしれない。けれど、彼らが「くに」を守ろうと立ち上がると、その前に立ちはだかるのは、「アメリカ」という「国」、そして、彼らを守るべきはずの「日本」という「国」だったのだ。
 沖縄で見せる、この「国」の冷たい顔は、わたしたちに、「国」とは何か、ということを突きつけているように思えるのである。

 ベトナム戦争が続いていた60年代半ば、合衆国憲法で保障されているはずの黒人の権利、とりわけ参政権を求めて戦っていたアメリカ公民権運動の活動家、フェザーストーンは日本中を講演して回った。アメリカ軍政下にあった沖縄にも渡った。旅の感想を訊(き)かれた彼は、簡潔にこう答えた。

 「日本は、沖縄と沖縄以外の部分と、その二つにわかれている。それだけだ」

 彼は、遠い異国を歩き、考えたのだ。アメリカの黒人たちと同じように、抑圧される人たちがここにいる、と。それから半世紀、いま生きて、彼が沖縄を再訪したなら、どんな感想を抱くだろう。
(「くに」守る時、「国」は-高橋源一郎さんが歩く沖縄 朝日新聞 2016年5月22日)

 

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