日々愚案

歩く浄土80:内包的な自然12-自然科学の自然2

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パソコンの調子が悪いので新築することにした。ついでにwebも改版する。渋くてごつくてシンプルなものをつくりたい。webのデザイナーさんからプロフィールはどうしますかと訊かれ、そんなこと言われたって。。。webで書いている文章の全体が人物の紹介なんですけど、と答えた。じぶんのことを要約できないなあ。

いつも言葉の始まる場所のことを考えている。じぶんであると思っている現象に先立つ根源のこと。背後の一閃によぎられてじぶんがあらわれる。その機微を言葉であらわしたい。それ以外に書く理由はない。ということを考えていたら、ふと背表紙を本棚にくっつけた厚めの本が目に入った。なんだろう。手に取ると『人間仮免中』だった。マンガです。強烈なのであまりお勧めできない。読みたい方はどうぞ。
スキャナした「あとがき」を貼り付ける。作者は間違った一般化ができなかった人だと思う。じぶんを共同化できなかったのではないか。

 描けなくなって、そうしてこの本が出るまで、十数年、ブランクがあります。以前、わたしの漫画を読んで下さった方、ぬるくなったと、思われるかもしれません。わたしは、実体験を反映させた物語しか、描けません。
 変わったのは、わたし自身が、ぬるい生き方をするようになったからでしょう。
 ここ十数年、何かとあがくたんびに病状が悪化し、今では、ドーパミン桔抗薬を長期間投与されると出る、ジスキネジアまで始まってしまいました。ジスキネジアとは、不随意運動といって、身体の筋肉が意思と無関係に動いてしまう症状で、わたしの場合は主に顔面の筋肉が収縮して、とんでもないブスになります。これは、ドーパミン括抗薬を絶っても、一生続く、不思議な副作用です。
 診断書の要介助の項目には、たくさん丸がついています。内縁の夫である、ボビー、そうして、家族、友人、主治医の助けで、なんとか生きています。人に、護られる暮らしをしていく中で、人の有り難さを感じ、本当に、「おかげさま」で、日々が過ぎてゆくうちに、苦いころのような無闇なプライドも、持ちようがなくなりました。歩道橋から飛び降りて、顔を壊しましたし、片目の視力も失いましたが、この1件で、人の愛情のなんたるかを、思い知りました。
 自分の、奇天烈な顔を見たとき、この一連の出来事を、漫画にしたいと思いました。浸画家の、業です。ネームに取りかかってから、3年経ちました。
 要領を得ず、パースの取り方も忘れ、散々だった初めのネームから、七転八倒して、なんとか形になりました。片目の視神経が切れてしまったせいで、枠線引きなど、ピントが合わず、濃い色のトーンを貼るのも困難で、人の手を借りました。幻聴や妄想が起こるたんぴに、注射を打って、部屋に引き篭もった時期もありました。
 まるでゴキブリのように、薬に耐性がつき、セレネース2アン、レポトミンを同時に打っても(普通の人ならかなりふらふらになってしまう量です)、直線を走れるという、余計な状態です。睡眠障害が酷く、睡眠時の薬が、どんどん増えて、主治医から、このままいったら、10年後には寝たきりになってしまうから、漫画が一段落したら、減薬に挑戦しようと言われています。一番厄介だったのが、沈静効果の強い、レポトミンとバルネチールが増えていくに従って、陰性症状が強く出るようになってゆき、やる気が全く起こらなくなったことでした。1日にやる枚数を減らして、担当の山口さんにも手伝ってもらって、なんとか対処しましたが、最後の方、本当にきつかったです。薬の影響で内臓が痛くなったり、朝、足の裏がむくんで、痛みが走ったり、我ながら、散々な日々だったなあと思うのですが、それでもなんとか、描き上げることができました。

 異常体験が始まりだしたのが、小学5年生。
 最初の自殺未遂は、中学3年生でした。
 それから、何度か自殺を図り、精神病院への入退院は7回、そのうち2回は措置入院です。
 状態が落ち着いてきて、漫画も描けるようになり、またぽつりぽつりと、漫画を描いていきたいと、意欲らしきものも出てきました。
 ゆっくりしたペースでしか、漫画は描けません。連載なんて、まず無理です。
 だけれども、この本を皮切りに、また、漫画を、描かせて頂けたらと、思っています。
 ご一読下さって、本当にありがとうございました。

2012年3月 卯月妙子

わたしも『人間仮免中』の作者である卯月妙子さんとさして変わりばえのしない日々を送ってきた。入院退院は8回したしなあ。おまけに前科もあるし。一身で三生を経るという言い方もしてきた。なにか特別な生涯のことを言っているのではない。内縁の夫や家族や友人や主治医の助けを借りなんとか生きている、それはとても有り難いことで「おかげさま」で日々を過ごしている、と作者は言う。
どんな人であっても生は比類のないもので苛烈だと思っている。そしてどんなありふれた生であれ、そこにしか譲渡不能の生の固有性はない。わたしはわたしを不意打ちした内包という体験を言いあらわそうとして「日々愚案」を書きつづけている。

わたしは概念で書かれた詩を書きたいとずっと思ってきた。そのことを内包として考えている。当事者性を生きるということでは人工知能よりマンガの作者のほうがずっとまっとうだが、AIの「特徴量」は卯月妙子さんの「病」を表現できるだろうか。ゲーデルの不完全性定理に沿って彼女は生きているのだろうか。AIによって生活の利便性や快適さはこれまで以上にもたらされることになるだろう。それは外延自然の必然であって人間の観念にとっての自然に属するので倫理的な善悪を論じても意味がない。倫理は自然科学の勢いに呑み込まれてしまい、その成果は人間の観念にとっての自然として受け入れられていく。わたしは、どんな人であれ、それがどんな平凡な生であれ、ゲーデルの不完全性定理では形式化できないむきだしの生を生きていると思っている。文芸オタクがいるように科学オタクもいる。しかしどんなオタクにも生がある。そのあたりまえに気づかないオタクたち。オカルトアベシンゾウもそのひとりである。ドーキンスらもまたグローバルコモンな通俗の理性を敷衍しながら世界を語っている。紛うことなき権力の言説である。

自然科学の自然がどういうものかについて考察をすすめていく。考察がすすむにつれて、わたしたちが内包的な自然と名づけている概念がどういうものであるか、少しずつ概念の輪郭が鮮明になってくるだろう。

『資本論』の価値形態論で述べられている交換価値という概念でも、あるいは『資本論』に影響をうけたソシュールの言語学でも、さらに吉本隆明の自己表出の歴史をたどった言語の表現理論でもいい。あらかじめ信じられているある前提がある。多田富雄の『免疫の意味論』でも、ドーキンスの『利己的遺伝子』でもおなじだ。自己が自己によって実有されることが暗黙知となっている。それが疑われることは一度もなかった。偉大な近代が世界となり、そしていまその近代が孕む逆理にわたしたちは閉じ込められている。それが現在ということだ。だれもこの罠から逃れられない。

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松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』を読み進めるにつれてなにが問題とされているのか、所論がしだいに佳境にさしかかってくる。
人間の思考の癖をAIはパターン化するのだが、人間よりはるかに効率的なものだ。AIがだんだん人間に似てくる。AIは人間を模倣し、やがて人間を超えて行く。それが2045年のシンギュラリティだ。

AIには3度のブームがあっていまその3度目の興隆期だと松尾は言う。ディープラーニングの手法が人びとにシンギュラリティを予感させる。ディープラーニングの核心は「特徴量」という概念にある。AIがブレークスルーを起こした、と。「特徴量」というブレークスルーが人間の自意識に比喩される。うまい比喩だがかれの頭の平板さを投影しているだけだという気がする。構造主義の構造という概念を再帰的に構成する手法だとわたしは理解している。人間の思考の動態化とは違う。

 かつて、言語哲学者のソシュールは、記号とは、概念(シニフィエ)と名前(シニフィアン)が表裏一体となって結びついたものと考えた。シニフィエは記号内容、シニフィアンは記号表現ともいわれる。図19に示すように、シニフィアンであるところの「ネコ」という言葉は別に任意のものでよいが、いったん結びついてしまうと、ネコという名前(シニフィアン)は、ネコの概念(シニフィエ)を表すように了解され、運用されるようになる。
 コンピュータがデータから特徴量を取り出し、それを使った「概念(シニフィエ‥意味されるもの)」を獲得した後に、そこに「名前(シニフィアン‥意味するもの)」を与えれば、シンボルグラウンディング問題はそもそも発生しない。そして、「決められた状況での知識」を使うだけではなく、状況に合わせ、目的に合わせて、適切な記号をコンピュータ自らがつくり出し、それを使った知識を自ら獲得し、活用することができる。これまで人工知能がさまざまな問題に直面していたのは、概念(シニフィエ)を自ら獲得することができなかったからだ。
 いま、コンピュータが、与えられたデータから重要な「特徴量」を生成する方法ができつつある。コンピュータがシニフィエを獲得する端緒が開かれつつある。(139~141p)

松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』は特徴量というディープラーニングの特性をソシュールのシニフィエとシニフィアンに結びつけて説明しようとしたことが、書かれていることの頂点をなしている。著者はシンギュラリティの兆しはないと言い、わたしもそう思う。コンピュータのアルゴリズムが再帰性を繰りこんだというブレークスルーがホーキングらに衝撃を与えたことは理解できる。これまでの人工知能の研究からいうと大発明であることはたしかだ。
2012年に画像認識の世界コンペがあり新参のトロント大が優勝する。その新しい画像認識の手法がディープラーニングと言われる。

 ディープラーニングは、データをもとに、コンピュータが自ら特徴量をつくり出す。人間が特徴量を設計するのではなく、コンピュータが自ら高次の特徴量を獲得し、それをもとに画像を分類できるようになる。ディープラーニングによって、これまで人間が介在しなければならなかった領域に、ついに人工知能が一歩踏み込んだのだ。(147p)

与えられた計算のアルゴリズムから特徴となる関係の型を学習しその関係の型を再帰的に組み込むのだ。画期的である。あたかもコンピュータが自我をもったかのように見える。

 コンピュータが概念(シニフィエ、意味されるもの)を自力でつくり出せれば、その段階で「これは人間だ」「これはネコだ」という記号表現(シニフィアン、意味するもの)を当てはめてやるだけで、コンピュータはシニフィアンとシニフィエが組み合わさったものとしての記号を習得する。ここまでくれば、次からは、人間やネコの画像を見ただけで、「これは人間だ」「これはネコだ」と判断できることになる。(164p)

もう少し松尾の主張をつづける。

「人間の知能がプログラムで実現できないはずがない」と思って、人工知能の研究はおよそ60年前にスタートした。いままでそれが実現できなかったのは、特徴表現の獲得が大きな壁となって立ちふさがっていたからだ。ところが、そこにひと筋の光明が差し始めている。暗い洞窟の先に、いままで見えなかった光が届き始めた。できなかったことには理由があり、それが解消されかけているのだとしたら、科学的立場としては、基本テーゼに立ち返り、「人間の知能がプログラムで実現できないはずはない」という立場をとるべきではないだろうか。
 いったん人工知能のアルゴリズムが実現すれば、人間の知能を大きく凌駕する人工知能が登場するのは想像に難くない。少なくとも、私の定義では、特徴量を学習する能力と、特徴量を使ったモデル獲得の能力が、人間よりもきわめて高いコンピュータは実現可能であり、与えられた予測問題を人間よりもより正確に解くことができるはずである。それは人間から見ても、きわめて知的に映るはずだ。(172p)

人間の思考の回路は電気回路とおなじであると云う仮説を前提にすると人間の考えることはアルゴリズムとして計算可能だということになる。もちろん計算可能であるということも仮説にすぎない。これが強いAIの立場というものだ。入力が決まれば出力も決まるという機能的な考えだが、ここでは是非は問わない。そういう考え方もまた可能ではある。
松尾が驚いているのは画像認識しているその当体のコンピュータが認識を再帰的に判断できるということのなのだ。ある関係の型のなかからパターンを抽出できるということだ。この場面でソシュールの言語論が援用されている。とてもわかりやすくてつるんとしている。わたしには科学的信の宗教性が表明されているような気がしてならない。この宗教性はたしからしさという共同的な迷妄に覆われている。人であることにつきまとう迷妄を人工知能は模倣するだけではないのか。

われわれが生きるこの世界において、複雑な問題を解く方法は、実は、選択と淘汰、つまり遺伝的な進化のアルゴリズムしかないのかもしれない。優れたものは繁栄し、そのバリエーションを残し、劣ったものは淘汰される。人間の脳の中でも、予測という目的に役立つニューロンの一群は残り、そうでないものは消えてゆくというような構造があるのではないだろうか。
 私の研究室では、ディープラーニングをこうした選択と淘汰のメカニズムによって実現しようという研究を行っている。組織の進化も、生物の進化も、脳の中の構造の変化も、実は同じメカニズムで行われているのではないか。そう考えると、個人と組織、そして種との関係性は思ったよりも密であり、そして「システムの生存」というひとつの目的に向けて、備わっているのかもしれない。(202~203p)

ああ、ここでもまた適者生存か。まるでベジャンの『流れとかたち』の主張そのものではないか。個人と組織のメカニズムも、生物の進化や脳の構造的変化のメカニズムもおなじと考えることは勝手だが、それもまた仮説にすぎない。どうして見たこともない仮説がこうもやすやすと可視化されるのか。この迷妄をAIが模倣するだけではないのか。AIという人間のシュミラークル。遺伝子工学や生殖医療やAIの急速な進展に伴い、自己という現象の起源の闇はますます巨大化する。自己という始まりの不明はどう解消することができるのか。この特異点を解消しないかぎりニヒリズムが漸増するだけだ。それが自然であると人はそこに身の丈を合わせていくのだろうか。

    3
こういった機能主義的な主張にたいしてペンローズは猛然と反発した。AIを批判した『皇帝の新しい心』とこの本が引き起こした論争を受けて書かれた『心の影』や『ペンローズの量子脳理論』、『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』は、同一のモチーフによって貫かれている。人間の心は計算可能ではない。意識の起源を解明するには量子重力理論が必要である。そのためにはまったく新しい数学が要請される。ペンローズの主張はこの流れに沿ってなされている。
ゲーデルの不完全性定理はペンローズに衝撃をもたらした。AIが人間の知性を超えることは原理的にできないという根拠については、どれほど優れたAIであってもアルゴリズムの内部にゲーデル文が存在してしまう不可避性を背理法を使って批判している。
ペンローズの批判は妥当である。ペンローズの本を読み返したり、あらたに読み込んですぐに柄谷行人の「言語・数・貨幣」を思いだした。柄谷もまた形式化ということにこだわりのある批評家だった。

ここに、いくつかの公理によって成り立つひとつ系があるとする。その系に矛盾がないことを系を支える公理を使って導くことはできない。
このゲーデルの不完全性定理をペンローズはつぎのように解釈する。

ペンローズ ・・・もともとゲーデル型の議論では、いわゆるトップダウン方式の人工知能がダメなことを示しました。トップダウン方式というのは、コンピューターのプログラムに、あらかじめ、特定の明らかな規則が書き込んである場合を指します。
 私は、数学的な理解力というものは、そのような特定の明らかな規則(数学的信条)には帰着できないのだ、と主張したのです。しかし、アルゴリズムに従いつつも、規則が明示されない〝無意識的″なプログラム方式の可能性については論じませんでした。
 そこで、今回の新しい議論では、未来の仮想的な状況を想定しました。奇跡的に知的な人間が、人間の活動を完全にシミュレートできる人工知能(AI)のロボットを訓練する話です。このロボットに組み込まれているプログラムは、積み上げ方式、トップダウン方式、自然淘汰などあらゆる方式を網羅していて、もしかすると、出来の悪いロボットを殺す機構も含まれているかもしれません。

ペンローズ そうですね、依然としてコンピューターであることには違いないんですが。今日の意味でのコンピューターです。でも、ニューラル・ネットのような学習機能も備えているし、ファジー論理など、あらゆるものが入っているわけです。
 さて、ポイントは、このような機能を全部働かせるためには、それも計算として働かせるためには、最初にいくつかの規則が必要な点なんです。原理的には、これは数学的な形式システムにほかなりません。だから、ロボットたちは、その定理を絶対の自信をもって保証することができるのです。絶対的な「定理」には☆印でもつけて区別しておくのがよいでしょう。なにかエリートのロボットの学会のようなものが存在して、このようなつけいる隙のない定理を決定する状況を思い浮かべてください。

クラーク つまり、このロボットたちは自分たちの公理を理解することができないのですか?
ペンローズ これは一種の背理法なのです。私は、もし、人間と同じような理解力を持ったロボットをつくったらどうなるかを示そうとしたのです。ゲーデルの定理は基本的には理解力についての定理です。ゲーデルの定理は、一つの形式システムからそのシステムの外へ出る方法を教えてくれます。システムの発言をもとにして。この定理は、記号の「意味」についての質問に関係していて計算システムには「意味」という次元は存在しないのです。計算システムには、従うべき規則があるだけ。数学では、記号の意味を理解して、形式的な規則を超えて、当てはまる新たな規則を探すことができます。その際、意味の理解が不可欠なのです。
 要するに、完全に計算的なシステムはこのような意味の理解はできない、ということです。

クラーク したがって、ロボットは本当に人間のような意識を持つことはない。

ペンローズ それが結論です。(『ペンローズの量子脳理論』所収「ペンローズインタビュー」60~64p)

ペンローズのAIの批判は複雑であるように見えるが、ほんとうはとても簡単なことを言っている。バランスのとれたカロリー制限食という閉じた信の体系がある。傷は消毒するという信の体系がある。その内部にいて信を疑うことはできない。どうじにバランスのとれたカロリー制限食が真であると言う公理を使って糖尿病の治療が真であると証明することもできない。傷は消毒するという信の状態にあるときその信の外部に出ることはできない。どうじになぜ傷は消毒するのが真であるのか、消毒という公理を使って説明することはできない。真が閉じているときその真がなぜ真なのかということに答えることができないということだ。べつに医療にかぎらなくても、生きているということは形式化できない。かろうじて人格の表出の層で民主主義の理念が機能しているだけである。それもまたどんづまりになっているのが現在だ。

人はいつも形式化をはみだして生きているものだ、そういう思いがペンローズの胸中にある。かれの世界解釈には、1・物理的世界、2・心の世界、3・プラトン的世界というものがぐるぐる循環している。
ペンローズのいうプラトン的世界は観念の実在のことを指している。それはかれにとって数学的理念の実在ということだ。まだ実現しない数学や物理学があるはずであるということがそこに含意される。とても伸びやかだと思う。吉本隆明が意識以前に原了解として「アフリカ的段階」を想定していたことによく似ている。ペンローズがなにを言いたいのかは、『皇帝の新しい心』・『心の影』・『ペンローズの量子脳理論』・『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』をていねいに読めばわかる。大著なので時間がかかります。

ペンローズはつぎのようなことをAIを信奉している研究者に要請する。人間の知性をはるかに凌ぐ人工知能をどんどんお作りなさい。なにもためらわなくていいのですよ、もちろん技術的なことは解決可能と考えてなにも問題ありません。いいんですよ、どんどん作って。そこでペンローズはゲーデル文を人工知能に差し出す。ハングアップするというわけだ。人工知能が人間の知性を超えると仮定してごらん。2の平方根が無理数であることも平行線公理も背理法から導かれる。どんな仮定に基づいて完全な形式化を実現するシステムをつくってもゲーデル文が内挿されることになるのだよ、とペンローズは言う。
どんな形式化もデフォルトのときアルゴリズムがプリインストールされる。そのアルゴリズムに矛盾があるかどうかを公理を前提として形式化された系は決定できないということだ。閉じた信の体系の外に出るしかない。そんなことがAIにできるかい。ペンローズはそういうことを言っている。

第一のステップとして、この形式システムについてのゲーデル文をつくってロボットたちに見せて、そのゲーデル文を信じるかどうか訊くのです。
 すると、ロボットたちは、「さあ、そのゲーデル文は必ずしも受け入れることができない。なぜなら、われわれの人工頭脳の規則から導かれるかどうかわからないから。もし導かれるなら、受け入れて☆印をつけてあげるが、わからないのだから☆印をつけて学会の保証を与えることはできない」と答えることでしょう。

 さて、次のステップとして、今度はちょっと違うタイプのゲーデル文をつくります。今までロボットたちが無条件で保証していた数学的な文(命題)より範囲を拡げるのです。すなわち、「もし君たちが次のようなメカニズムによってつくられたなら、その知識から、あなたはどのような数学的な命題を導くことができますか?」という質問に対する返答として出てくるような数学的命題を含めるのです。範囲を拡げたからといって、含まれる数学的命題があいまいになることはありません。そこで、ロボットたちにこう訊くのです。「これらの規則に従って君たちがつくられたという前提(仮定)から、どのような、つけいる隙のない導出ができるだろうか?」。そして、追い打ちをかけるように、彼らの目の前で、彼らのゲーデル文をつくってやるのです。すると、矛盾が生じてしまう! ちょっと話は複雑なのですが、最終的に、ロボットたちは、自分たちがこのような規則に従ってつくられたはずはない、という結論に達する。この議論は、どんな規則を使っても同じように当てはまります。(同前 62~63p)

いまある数学は、あるいは物理学は不完全なものでもっと美しい数学や物理学がありうるのだというプラトン的な観念の実在がペンローズに前提されている。この確信がなければこれほど剛胆なことは発言できない。

 量子力学には根本的に欠けているものがあるわけだから、それを完成するためには、現在の理論にはない何かが必要です。そこで、私は、「非計算的」な要素を付け加えるというのは、それほど悪い考えではないと思うんです。
 もちろん、現時点では憶測にすぎません。ですが、そのような方向が正しいと信じる十分な理由があると思います。つまり、私の考えは、意識を説明するには量子力学が必要だということではないんです。意識を説明するには、量子力学を超える必要があるんです。(同前 68p)

ペンローズはかなり大胆なことを言っている。

 しばしば、ゲーデルの定理は、人間に証明できない定理があることを意味すると考えられていますが、そうではないんです。ゲーデルの定理が証明していることは、私たちは常に新しいタイプの理屈を探し続けなければならず、ある一定の、固定したルールの集合に頼ることはできないということだけです。(同前 74p)

物質的世界は、プラトン的世界の一部から生じます。だから、数学のうち、一部だけが現実の物質的世界と関係しているわけです。次に、物質的世界のうち、一部だけが意識を持つように思われます。さらに、意識的な活動のうち、ごく一部だけが、プラトン的世界の絶対的真実にかかわっているわけです。このようにして、全体はぐるぐる回っていて、それぞれの世界の小さな領域だけが一つにつながっているようなのです。(同前 73~74p)

数学者にもたらしたゲーデルの衝撃を物理学者のペンローズはうまく乗り越えている。とても大変なことだったと思う。ペンローズはゲーデルの理念の外に出ている。形式化された系の無矛盾性を説明することはできないというゲーデルの世界の外部がありうることをペンローズは直感しているということだ。人間の思考をアルゴリズムという形式化によって語ることはできない。それがペンローズの立っている場所だと言える。

ペンローズがAIの研究者に、「つけいる隙のない」論理をつくれるものならつくってよ、と挑発するときそれはゲーデル文を指しているが、かれはこの意識の型は拡張できると思っている。ここでやっとわたしの考えとペンローズの考えが交叉する。
「つけいる隙のない」論理はゲーデル文で破ることはできる。それはたしかだ。わたしは人間の産出する精神現象のよく茂った枝葉のひとつが数学であり物理学であると思う。そのことは認める。わたしは、精神現象という太い幹のありようを枝葉の精神で説明できるとは思っていない。なんら理念的なことでもない。生きているということはどんな形式化からもはみ出しているからだ。民主主義という人格の表出の理念もまたそうである。生きているということにたいしてあまりにも理念が部分的なのだ。生のぜんたいを表現する意識がありうることを内包論は前提としている。
この覚知はおそらくゲーデルにはなかった。ペンローズもちょっと腰が引けている。「つけいる隙のない」論理が不可能であるのは数学の問題でも物理学の問題でもない。人間の思考の癖や慣性の問題なのだ。人が外延表現の途に就くかぎり、始まりはいつも不明なものとしてあらわれることの反映が、意識の特異点問題としてあり、それが数学の領域に投射されるときゲーデルの不完全性定理があらわれるとわたしは考えている。ほんとうは些末なことにすぎないのではないか。

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