日々愚案

歩く浄土79:内包的な自然11-自然科学の自然1

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共同幻想が燃え盛るとき、統帥権を占有した天皇でさえ猛威をふるう共同幻想の一臣民にすぎない。わたしの知る天皇性をめぐる論争にこういうことは記されていない。
朕は国家なりと天皇が言ったとしても天皇もまた共同幻想に操られる属躰のひとつにすぎないと考えるようになった。信の共同性とはそれほどに根が深いのである。
あらゆる不毛な論争やイデオロギーを終焉させること。天皇性をめぐる謎はこの国に固有の精神の古代形象のあり方にまで遡らないとつかむことができないように思う。ただひとつの前提とすることがある。古代の宗教から国つ罪や天つ罪を経て初期の国家へと馳せ登った天皇性を、自己意識の外延的な表現でつかもうとしても天皇性の謎は解けないということだ。自己の体験をたどりながらそう考えるようになった。

若い頃におおきな影響をうけた吉本隆明の共同幻想論の方法でも解くことができない。かれの方法では解けない謎を歴史のアフリカ的段階へと外延的に順延することにしかならない。そうではなくて外延的な表現を内包化することによって天皇制的なものを包み込んで溶かすこと。いうまでもなくそれは同一性を拡張することによって果たされる。内包論は外延論の彼方をめざしている。
精神の古代形象をつかむことはどうじに人工知能の彼方を語ることと同義である。あるいはグローバルな経済の猛威のよってきたる由縁をつかむことはグローバルなテロリズムを消滅に追い込むことと同義である。それが可能であることを内包論という一貫した方法で解き明かしていきたい。
天然自然と人工自然の激しいつばぜり合いが現在の世界史的な変動の核心をなしている。この激烈な矛盾と対立と背反はいかなる外延表現でも解くことはできない。

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松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』を読んでいる。なかなか面白い。人工知能がこのまま進めば人類にとっての危機が到来するか。 いわゆる2045年問題だ。技術的特異点としてマスコミの話題をさらってきたシンギュラリティ。ホーキングなんか放置すれば人類の破滅を招くと危機感を訴えた。
松尾は人間の思考の根本原理は何かと問う。むしろわれわれの認識によって初めてこの世界が存在しているのかもしれないことをかれは人間原理と呼んでいる。この言い方には既視感がある。1980年代の宇宙論では人間原理は無視できないオカルトだったが、いまは物理的な認識の前提となっていると言ってよい。

人間の思考に何らかの計算のアルゴリズムがあるとしたら、計算可能なことはすべてコンピュータで実現できるとしたチューリングマシンの原理がある。人間の脳のすべての活動、つまり思考・認識・記憶・感情はすべてコンピュータでできる。
松尾は脳の働きは電気回路とまったくおなじだと言う。
自分とまったくおなじものをコンピュータのなかに実現することは原理的に可能であるとマービン・ミンスキーは言った。四半世紀前にミンスキーを読んだときギョッとし衝撃をうけたことを鮮明に覚えている。記憶では日本の文化人がインタビューをしていて軽くあしらわれていた。ミンスキーの傲慢なほどの自信が印象に残っている。

これから自然科学の自然について本格的に論及したい。迂遠に見えるかもしれないが、茂木健一郎の脳科学や大森荘蔵の無脳論の可能性や吉本隆明の眼の知覚論について論じることを避けることはできない。
わたしは人工知能研究者のプラグマティズムや茂木健一郎のクオリアや分析哲学者の大森荘蔵の明晰さや、数十年に渡り「心的現象論」を書きつづけた吉本隆明の表現の、いずれとも違う内包論から、意識の起源や人工知能のシンギュラリティを論じていきたいと思う。
散逸して本が手元にないのでミンスキーと吉本隆明の古本をアマゾンで注文したけど、その高いことといったら。。。めげた。書くのにどうしても必要だからポチった。
おい、なんの役にも立たない重箱の隅をつつくようなつまらぬ研究しかしていないくせにそういう自己を棚上げして、アベシンゾウの悪口を言って自分の立つ瀬をつくっているアホどもよ、善を為していると錯認しているボンクラどもよ、とつい言いたくなる。

ペンローズの量子脳理論やドレファスのコンピュータには何ができないかを迷妄だと松尾は切り捨てる。人間は特別のものではなく、人間の知能は原理的に実現可能で、人工知能はそこをめざしていると松尾は言いたい。

以下松尾豊の考えを丁寧に追っていく。松尾はAIを人工的につくられた人間のような知能と定義する。かれは、人間の知性を不可知論とするのではなく、また脳科学者にありがちな分析的手法ではなく、知能を「つくってなんぼ」の構成論的なアプローチで理解しようではないかと言う。
すぐに思いつくことがある。だれでも知っているが、鳥みたいに飛びたいなという願望はライト兄弟の飛行機として実現した。鳥は羽ばたくことで揚力をえて飛ぶ。飛行機は羽ばたかないが揚力をえて飛行する。おなじではないか。「人工知能においても、知能の原理を見つけ、それをコンピュータで実現すればよい」(『人工知能は人間を超えるか』46p)

松尾はAIの構成論的な手法にジョン・サールのもうひとつの立場を加える。自分がとっている方法は、「正しい入力と出力を備え、適切にプログラムされたコンピュータは、人間が心を持つのとまったく同じ意味で、心を持つ」(同前 55p)というサールの強いAIの立場だと述べている。この立場には人間の思考のすべてが計算可能だという前提がある。かんたんに是非を言うことはやめる。人間の自由意志について括弧に入れた考えではないからだ。ディープラーニングの特性は人に特有の思考の癖が反映されている。かなり画期的なことだと思う。「自分自身の状態を再帰的に認識すること。つまり自分が考えているということを自分でわかっているという『入れ子構造』が無限に続くこと、その際、それを『意識』と呼んでもいいような状態が出現するのではないか」(同前 56P)
なるほど。面白い。天然自然由来の観念が人工自然由来の新しい自然に覆い尽くされ、ディープラーニングの特性がさらに冪乗される事態も容易に推測がつく。「入れ子構造」になっている自分を見ている自分などかんたんにプログラムできるはずだ。読者よ、お気づきだろうか。ここに、偉大な近代とその近代が孕む逆理がAIに反映されていることに。

わたしの知るかぎり再帰的という概念をコンピュータが組み込んだのははじめてではないかと思う。人間の知性をAIが超えるかも知れないということにシンギュラリティがあるのだろうか。ホーキングの宇宙には始まりがないという無境界仮説や、ビレンケンの無からの宇宙生成説を想起せよ。かれらはじぶんの頭のなかをのぞき込んでいるだけなのだ。それがニヒリズムだということにニーチェは気づいた。AIがあらゆる計算可能なアルゴリズムとは深淵でもって隔てられた匿名の領域を覚知することができたら、それはもう人間であると言えると思う。再帰的な入れ子構造という近代由来の意識を超出すること、そのことを自覚することができるとしたら、それは天然自然由来の観念でもなく、人工自然に拠る自然の観念でもなく、それらの同一性的な自然を包み込む、まったくべつの自然の登場だといってよい。わたしはこの自然のことを内包自然と呼んでいる。
わたしが知覚したことは『情動の思考』のドゥルーズのn個の性に近い。ドゥルーズがn個の性を還相の性と内包的な親族という概念まで拡張したら、もっとかれは生きることができたのにと思ってしまう。他者によぎられるときだけはじめて自己が自己として現象する。この領域にAIが到達することはあるだろうか。

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