日々愚案

歩く浄土75:内包的な自然8-宗教の自然1

浄土真宗の経典『教行信証』の冒頭に仏の摂取不捨の真言が円融すると述べられている。

〔謹んで浄土真宗を按ずるに、〕二種の廻向あり。一つには往相。二つには還相なり。往相の廻向については真実の教行信証あり。

石田瑞麿はつぎのように現代語に移しかえた。

つつしんで、浄土の真実の心(浄土真宗)を考えてみると、それには如来の与えられる二種の恵み(回向)がある。一つには、浄土に生まれるすがた(往相)であり、二つには、ふたたびこの世に帰ってくるすがた(還相)であるが、この如来の恵みによって与えられた、浄土に生まれるすがた(往相回向)についていえば、これには、真実の教えと行と信とさとり(証)とがある。(春秋社刊『教行信証』「教巻」11p)

現代風に置きかえれば往相廻向は人格の表出にすぎない民主主義の理念のことであり、還相廻向とはヴェイユのいう人格の底にある無名性や匿名性のことである。還相廻向即ち他力は内包自然に棲まうとひとこと言えばよかったが、親鸞でさえも還相廻向の聖なるものをうまく名づけることができなかった。
釈迦に発祥する仏の理念を世親や曇鸞の大乗教を経て中国から流れ下り、縁(えにし)により仏の信が親鸞に宿り、往相廻向の教義を還相廻向へと組み替え、親鸞は往相廻向の宗教的な信を解体した。『教行信証』には浄土の真宗とはどういうかを解義した正しいことが述べられていて、書簡や歎異抄にみられる闊達さはあまり伺えない。『教行信証』という書物は往相廻向を大乗教の教義を説きながら苦心惨憺して還相の言葉をすきまに入れ込もうとしている。親鸞の日常が洩れ伝わるときだけはほっとする。親鸞の本領は竪超として説かれた往相廻向の仏の信を横ざまに破ることにあった。すでに聖道の念仏は人心から離れていた。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを横超他力と名づくるなり。これ即ち専の中の専、頓の中の頓、其の中の真、乗の中の一乗なり。これ乃ち真宗なり。すでに真実行の中に顕し畢んぬ。(同前「化身土巻」385p)

ここまでは法然も言ったことだ。親鸞の横超はどこが法然とちがうのか。言葉として洩れた横超が身を超えてしまうように親鸞は横超を生きた。法然は言葉によって身を円融するところまで入っていない。この世のしくみを断ち切るように生きることが、言葉として訪れることはついに法然にはなかった。文化人の片鱗をのこしていたというわけだ。横超というとき親鸞はしがらみのすべてが消えていた。そこまで行ったのだと思う。

衆生一人ひとりの生を還相として語り、自然(じねんに)にこの生を生きた。親鸞が在世したとき信による仏の功徳はすでに可視化され空しいものだった。かんたんに言えば虚偽そのものだった。西行の出家もまたこのような精神の布置のなかにあったといえる。世知にあってもこの虚しさはすでに流布され、空しいがためによりいっそう浄土を祈願して自力作善に勤しむというのが僧の習いだった。謀反を抱くものは悪人正機を実体化してテロリストとなった。信は時と所を選ばず、手を替え品を替え、意匠をあらたにしながらおなじことを繰り返す。

親鸞のすさまじい膂力をもってしても容易に他力が世界の無言の条理に触れることはなかった。そこに宗教的信の解体を時代との相克のうちに語るしかなかった宗教の余儀なさがあった。親鸞の宗教的思想にも時代性が負荷されていたということだ。
どこまで言葉の重心を低くできるか。そこに表現の核心があるとすれば親鸞は現代に届くおおきな言葉の弓を引いた。

爾来800年後の世界をわたしたちは生きている。往相廻向の自力作善という竪の言葉のありようは親鸞によってまざまざと超えられていたにもかかわらず信の形は根を持つことなく世知として漂流する。皮肉なことにこの信の形によってこの世の仕組みが逆説的に支えられている。取り上げるに値しない思想の退行にすぎぬものだが状況への発言として高橋源一郎のツイートを添付する。

(1)鶴見俊輔は書いている。「トクメイの批評には、あとでとりけしの必要がないからとうぜんに、誤解する権利を十分に行使する場合が多いが、トクメイでなく筆者名のある論文でも、多くは誤解する権利を行使して、論争の相手方の言説を自分であつかいやすいワラ人形にすりかえて打ち倒してみせている」

(2)論争の相手方の言説を自分であつかいやすいワラ人形にすりかえて打ち倒してみせている」。いまぼくたちが見ている「論争」はほぼ100パーセント、これだ。そしてそのことにほとんどの人間は気づかない。ぼくも気がつかないうちに、この論法に陥っている自分を見つけて愕然とする。

(3)鶴見の膨大な著作を読んで驚くのは、相手を否定することばが殆ど見つからないことだ。鶴見はどんなに敵対する相手のことばでも「ワラ人形」にすりかえようとはしなかった。厳しく批判されたときでも、「ワラ人形」の自分ではなく「等身大」の自分が批判されたなら大喜びしたという挿話は鶴見らしい。

(4)すべての相手を「ワラ人形」ではなく「等身大」のものとしてみるなら、その誰かには否定すべき部分も肯定すべき部分もあるだろう。それは、ぼくたち自身がそうであるように。あらゆる思想はそこから始まるべきだ、と鶴見は考え、相手を「ワラ人形」にして恥じないものすべてと戦ったのである。(2016年2月15日 ツイート)

おなじ意識の型としてもうひとつ。

大阪での関西市民連合の立ち上げ相談会だん。SEALDsKANSAIとSADLとママの会とあすわか会。学者の会、前回は岡野先生と白井さんが出てくれたので、本日は僕が代表。関西市民連合は来月発足します。野党共闘のプラットホームとしていろいろな活動をする予定です。お楽しみに!(内田樹の2016年2月18日ツイート)

司馬遼太郎没後20年ということで産経新聞では司馬遼太郎追悼の企画がいろいろされています。僕も司馬遼太郎についてのエッセイを4回書きます。その第一回「司馬さんと私」を書きました。『この国のかたち1』の戦車の話です。

「私事をいうと、私は、ソ連の参戦が早ければ、その当時、満洲とよばれた中国東北地方の国境の野で、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたはずである。その後、日本にもどり、連隊とともに東京の北方に駐屯していた。

もしアメリカ軍が関東地方の沿岸に上陸してくれば、銀座のビルのわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃え上がる自分の戦車の中で骨になっていたにちがいない。そういう最期はいつも想像していた。」

自分の死に方を、具体的に-焼けただれた皮膚や砕けた骨の痛覚を織り込んで-想像する長い時間を持ったことが司馬遼太郎の精神に深い屈託を刻み込んだのだと思う。彼は高い確率で死んだはずの人間である。それが偶然生き延びた。他の若者たちが死に、彼が生き延びたことに必然性はたぶんなかった。

「あの当時、いざというとき、私どもが南下する道路の路幅は、二車線でしかなかった。その状況下では、東京方面から北関東へ避難すべく北へたどる国民やかれらの大八車で道という道がごったがえすにちがいない。かれらをひき殺さないかぎりどういう作戦行動もどれないのである。」(同書)

もし「ひき殺して進め」という命令があった場合、自分はそれに抗命するだろうか、たぶんできないだろうと司馬は思った。「何のための軍人だろう」という詠嘆は、自分が犯したかもしれない仮想的な非道に向けて発されたものである。そんな人間に「生き残る必然性」があるとどうして思えるだろう。

この経験から司馬遼太郎は「死んだはずの人間」としてそして同時に「同胞を殺したはずの人間」としての仮想的な立ち位置から歴史を記述することになった。それが司馬の書き物に、しばしば例外的な広がりと深みを与えることになったと私は思う。(内田樹の2016年2月19日ツイート)

自分のことを典型的な日本人男性と呼ぶ内田樹のずるさはともかく、純文学は天皇制であると言ってデビューした高橋源一郎が天皇親政を宣う気楽さにはクリビッテンギョウ。かれらにはひりひりする現実も表現の未知への渇望もなにもない。あるのは予定調和の世界を満喫する余裕ある敗北の美学だけである。これがいまわたしたちが目撃している思想の退行の現場だ。民主主義は親鸞が批判した聖道である。内包論はいつも人格の表出にすぎない民主主義を拡張することを念頭においている。
鎌倉時代にもいた高橋源一郎や内田樹のような聖道の者らと親鸞は延々と諍いをしてきたわけだ。読者の皆さん、かれらのなにが、そしてどこがうそであるかしかとお考えください。

司馬遼太郎と好きな思想家鶴見俊輔についてはいつか機会があるときに存分に批評したい。司馬は明治の精神を称揚し、第二次大戦の無条件降伏による精神の沈没を覆い隠している。内田樹の司馬礼賛はおそらく辺見庸の『1★9★3★7』のモチーフを意識しながら天皇制への批判を隠蔽した巧妙な市民主義的応答である。司馬遼太郎は帝国陸軍を批判したがいちども戦争期の天皇について論じていない。なお内田樹は今上天皇を尊崇することを表明している。

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證ひさしくすたれ、浄土の眞宗は證道いまさかんなり。しかるに諸寺の釋門、教にくらくして眞假の門戸をしらず。・・・これによりて眞宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に處す。余はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす。(春秋社刊「化身土巻」『教行信証』 494p)

叡山を降りていったんは法然に帰依し、興福寺より専修念仏の停止を訴えられたいわゆる承元の法難により、親鸞は僧籍を剥奪され、越後に五年の流罪に処せられる。赦免ののちも法然に会うことはなかった。みずからを愚禿親鸞と呼び、浄土教の教義を解体し尽くし、群生と逍遥遊しながら一念義の浄土を説き、90歳をもって入滅するまで生涯に渡って非僧非俗の思想を貫く。親鸞の生きた自然(じねん)とはなにか。

しばらくブログで宗教の自然について考える。親鸞が『教行信証』の「化身土巻」で言う、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證ひさしくすたれ」とは、親鸞が生きた鎌倉時代にあっても念仏が空しくて霊験あらたかではなかったということだ。

僧に非ず俗に非ずを生きた親鸞は最後はどこに行ったのだろうか。わずかに他力や自然法爾という言葉が記されているばかりで、遺された親鸞の言葉を精読してもなにも書かれていない。おい若造、おれはもう出来事そのものになったのだよ、いちいち詮索するなと言っているような気もする。800年後のおっさんであるわたしは、でも親鸞さんちょっとずるくないですか、ことばに隠れてしまって、もうすこしすがたを見せてくれませんか。というような問答をすこし書く。

僧に非ずとはどういうことか。これはかんたん。親鸞の言葉を今に即していうと民主主義の精神から劣悪な安倍を指弾する自力作善はやらんでいいよ、そんな暇があったらお前の頭のまわりをぶんぶん飛んでいる蝿を追っ払え。善き行いをなし、徳に励む民主主義という竪超の念仏がむなしいことはひろく人びとがしっている。竪ではなく、横ざまに超えること、それが自然(じねん)なのだ。じぶんを煩悩にまみれて生きれば充分。わたしが50年近く言いつづけてきたことを大昔から親鸞が言っている。親鸞の僧に非ずという言葉とわたしの言葉のあいだにすきまはない。

ちょっとむつかしいのが、俗に非ずということ。知と無知と対比される無知が俗に非ずではない。では世間知が俗か。これも違う。無知と世間知の是非はわたしのなかで疾うにすぎたことなので関心の対象にはならない。そういうことはうそにうそを重ねる市民主義を唱えるアホにまかせておけばよい。村人に説教することや女性が好きだったのでついにおれは浄土に恵まれなかったと親鸞は言ったこともあるが冗談だと思う。バタイユの非知はどうか。これも違う。バタイユの非知には深さがない。非知が同一性の派生物にすぎないからだ。バタイユの非知は知を相対化する意味しかもっていない。

俗に非ずとはどういうことか。かんたんだが、それがなんであるかということを言うのはちょっとむつかしい。俗に非ずが意味するものは存在それ自体ということだ。俗に非ずという言い方で親鸞は存在の横超の可能性を暗喩した。親鸞もこの機微をうまくは言えなかった。だから自然法爾という言葉の流れに身を任せた。レヴィナスは凡庸な悪を超えたくて、存在するとは別の仕方でとか、存在することの彼方と呻いて絶句した。俗に非ずをわたしの内包論に引き寄せて換骨奪胎する。この組み替えによって、親鸞の俗に非ずという珠玉の言葉はあたらしい生の可能性をひらくことになる。生の発明だ。

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