日々愚案

歩く浄土69:内包的な自然2-宮沢賢治の自然2

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雄大というか、完璧な作品だなあ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は。あといくつかの作品をまわりに並べたら文芸作品として書かれた人類史と比喩できるほどだ。あるいは一枚の絵として描かれた人類の人格ではない表出史。かれの喩で書かれた作品はまだ読み解かれていない。なにより宮沢賢治の作品を読み解く批評の概念がない。
かれは内面の心象風景を表白したのではない。かれは内面化も共同化もできぬことそれ自体を作品と表現したようにみえる。わたしは同一性の彼方の世界が作品としてはじめて描かれていることに気づき興奮した。ヴェイユの思想もそうであるが、なぜ宮沢賢治の作品が特異かというと、かれの作品を批評する概念がないということに帰する。

「宮沢賢治の自然2」ではひとつのことが言えればいいと思っている。賢治の作品にはいつも通奏低音として「業の花」の心情が流れている。「銀河鉄道の夜」でもそうだが、「ほんとうのほんとうの神とか」、「かなしいとか」、「ほんとうのさいわい」とか、「どこまでも一緒に行こう」という印象的な言葉がくり返し出てくる。ほんとうのほんとうの神とはなにか。自己に先立つ根源のことを、ほんとうのほんとうということで寓喩したいのではないか。宮沢賢治のほんとうのほんとうの神はどこかヴェイユの不在の神によく似ている。なぜ宮沢賢治は、かなしいとか、ほんとうのさいわいとか、どこまでも一緒に行こうとか作品中で言うのだろうか。

若い頃に『注文の多い料理店「序」』を読んでかれが描いた作品の心象風景に感嘆し、後年「業の花」に出会い、なにか得心することがありひそかに興奮した。苦と赦しが渾然一体となった作品を内包論で読み解くことはできないか。無限を扱う濃度の概念ぐらいには宮沢賢治の作品に迫ることができるのではないか。もともとわたしの賢治の作品の印象は感覚的なもので概念的なものではなかった。その感覚にわたしの言葉によって裂け目や切れ目をいれてみたいという誘惑に駆られた。それはかれの作品を読み解くことで内包論の目鼻がいくらかでもくっきりするような気がするからだ。だれのどの批評を読んでも満足することがなかったことも宮沢賢治の作品に迫りたいという動機のひとつとしてある。賢治の詩や童話には最後の最後のところで赦しと救いが訪れ、ほっと一息つける。生が赦免され救抜されるようにできている。なぜそういうことが起こるのか。また宮沢賢治の作品では一切の有情にたいするまなざしというものがいつも配慮されている。それはどういうことなのか。

ひとはアニミズム的な心性の痕跡や意識の日本的な自然生成としてかれの作品を味わっている。わたしには宮沢賢治の作品がそれらのできあいの心性で解読できているとはとうてい思えなかった。宮沢賢治が生きた自然はもっと深くて苛烈なものだったといつも思ってきた。その賢治の作品世界にじぶんなりの濃淡を刻んでみたくなった。なによりかれの作品は読み解かれていないという切迫感があった。わたしたちの生の現場は液状化し混迷を極めている。その日々にあって賢治の言葉は状況にたいして屹立している。まだある。かれの作品の言葉と言葉のあいだにすきまがないということ。ひとがこれほどに言葉に真剣になることができるということは信じがたい驚異だ。欺瞞も虚偽のかけらも宮沢賢治の言葉にはない。病んだ世界をみずから病みながら宮沢賢治は世界に直球をなげつづけた。

身はたがいに離接していても心がふたつあるということ。賢治は他者と薄い皮膜で接し他者と融合しやすい天与の資質をもっていたのではないかという気がする。まだある。作品の背景には時代の激流のなかでなにをやっても間に合わない逼迫感があった。それに「業の花」がある。これらが渾然一体となったところで奇蹟のようにして賢治の作品は生まれた。それがどういうことであるかを味わいつくすまえに宮沢賢治は夭折した。「灰色のミルク」を飲んだ「死のフーガ」で黒いミルクを飲んだと書いたツェランは、出来事のまえで茫然と立ち尽くし、出来事に豊かにされて、「私が私であるとき、私は君である」という内包的な世界にさしかかった。もしかすると賢治には生れながら心がふたつあったのではないか。同一性を公準とする世界からすると風変わりかもしれぬがけっして病的ではない。むしろ人であることの可能性を時代に先駆け無意識に生きた。賢治の世界にいまもおおくの人が惹きつけられるのは、読者もまた賢治のなかにある人間であることの本然としての可能性を無意識に感じとるからではないか。

賢治にあったふたつの心は事後的にあまねく有情へと分節された。それが「業の花」だと思う。有情のひとつとしてありながらみずからもまた他の有情を喰みながら生きているということへの哀切の情を「業の花」として書いたのではない。賢治が触ったリアルは、自我もまた自然の一部にすぎないという自然生成とはまったくべつの出来事なのだと思う。だれによる宮沢賢治の作品の批評も凡庸でしかないのは批評者が宮沢賢治の作品を自我との葛藤や自我の無意識の表出から解釈するからだ。それらの解釈を拒むところにかれの作品は悠然としてありつづけている。

ツェランが「私が私であるとき、私は君である」といったことの真意はこうである。
ほんとうは、あなたの眼の中に映っている〔わたし〕が「わたし」であり、わたしの眼の中に映っている〔あなた〕が〔あなた〕であるということ。この驚異が〔性〕なのだ。〔性〕は手前にあるのではなくいつもほんのすこしだけ向こうにある。その不思議が〔還相の性〕ということなのだと思う。このリアルを身が心をかぎる同一性に封じ込めるとき性は自己のなかに対幻想としてあらわれることになった。性を知覚しているのは自己であるから、対幻想のなかで自己は全的にではなく部分的にしか登場できないという錯認は根深い。いぜんとしてわたしたちはこの囚われのうちにいる。

自己意識の外延をなすかぎりこの囚われから逃れるすべはない。だから自己を実有の根拠にすれば、自己幻想から対幻想という結節を媒介に国家という共同幻想へと至るのは不可避だった。もしもわたしたちが内包の世界を生きるとすれば事態は一変する。
また内包の知覚を基にして世界を構想するとおなじように貨幣のあり方も内包の力によっておおきな変形を不可避的に被ることになる。わたしたちのしる貨幣の道理とは異なる未知が現象することになるだろう。国家をつくらない人と人の関係が、つまりそれぞれの還相の性が、それぞれの還相の性の力によってそれぞれに空間をひきよせ、そこでは外延論理の三人称は、あたかも喩としての内包親族として結合されていくことになる。

こういうことだと云ってもよい。内包論の還相の性を核にして世界を感じると自己幻想も対幻想もそれぞれがそれ自体にたいして表現してしまうことになる。だからわたしは思考の慣性としてある自己に相当するものの代わりに根源の性の分有者を充てればいいと思う。分割不可能の意識の座として分有者を据えればいいと考える。個人ではなく分有者。わたしは自己も対幻想も押し広げることができると内包論で主張してきた。外延論と内包論は往還できるので、外延では自己はいつもの自己であり、内包ではその自己が膨らみ、あたかも自己にふたつのこころが棲まうようなこととしてあらわれる。またこのありようを領域としての自己と名づけてきた。

    2
賢治がほんとうのほんとうの神というときそれは世俗のどんな宗教も意味していない。かれが日蓮宗の信徒であったこととはなんの関係もなく、ヴェイユが不在の神にむけて祈ったように、宗教を突きぬけたところにあるなにかにむけて祈っている。それが賢治に固有の神であった。賢治の固有の宗教とはなにか。固有とは普遍的であるということと同義である。どの宗教とも無縁であるという意味で普遍的なのだ。それは賢治にとってけっして「業の花」を内面化することでもなく、まして共同化という間違った一般化をすることでもなく、「業の花」という不条理をそのままに浄土として顕現させることだった。歩く浄土がありうることを賢治は作品で現前させた。賢治は作品のなかで「業の花」に然りと応えている。だれがこのようなことを作品として為しえたか。

強く印象に残る賢治の詩がある。迫り来る世界大恐慌の予感や東北の飢饉が作品の時代背景としてある。それはひりひりと痛い異様な切迫感だ。

「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない/・・・・・/その兎の眼が赤くうるんで/・・・・・・・/草も食べれば小鳥みたいに啼きもする/・・・・・・・/そうしてそれも間に合わない/・・・・・・・・/世界ぜんたい何をやっても間に合わない/・・・・・・・・・/その親愛な近代文明と新たな文明の過渡期の人よ」(「詩稿」1927年8月」)

「空には暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるへてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」(「業の花」)

「もうぢきよるはあけるのに/すべてあるがごとくにあり/かゞやくごとくにかがやくもの/おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ」(「青森挽歌」) 

おそろしい予兆や苦界をひらき充たすものが賢治のほんとうのほんとうの、かれに固有の神であった。賢治の作品を読んでいるといつも賢治の言葉の立ち位置にさらされる。「業の花」で有情の生の真相に傷つき、「注文の多い料理店の『序』」でさんざめく情景を歌い上げるとき、なぜこの相反する世界が共鳴するのか。たえずこの問いが迫ってくる。
賢治の作品は諦念でも無情でも悟りでもない。かれのなかに起こったことをそのままに書いているようにみえる。なぜこのようなことが可能となったのか。
だれもが知る「雨にもマケズ」の詩でもいい。自己意識の同一性からは欺瞞や虚偽というほかない。しかし賢治の作品は不思議なことにかるがると主観的な意識のこわばりを超えている。なぜそういうことが可能なのか。ここにだれによっても解読されたことのない賢治の自然が熱く息づいている。相反する世界を合一する賢治の自然とはなにか。おそらく意識の同一性によって賢治の作品世界を読み解くことはできない。かれはその場所を突きぬけてしまっている。かれはそこにはいないのだ。

内へ内へと言葉を掘り進んでいるといつのまにか言葉が外にめくれてしまう賢治の作品世界の不思議。内と外の反転。わたしは賢治に固有の自然から作品の言葉が溢れているようにみえる。もちろん意図的なものではない。かれにはどんな作為や衒いもない。もう一度問う。なぜそんなことが可能となるのか。賢治は意図せず、無意識に同一性の彼方を描いているのだ。だからこそ意識の明証で賢治の作品をたどることはできなかったのだといえる。意識の明証とは理性であり、理性は自力作善の圏域に棲まう権力の言説である。これらの言葉で賢治の作品を批評することなどできるはずもなかった。どんな論じ方をしても賢治はすでにそこにはいないのだ。わたしはあたらしい批評の概念をもつことなく宮沢賢治の作品にふれることはできないと思っている。

ジョバンニがカムパネルラにいつまでも一緒にいよう、どこまでも一緒にいようとよびかけるとき、作者の無意識は自己に先立つ根源のなにかとのつながりを希求している。それはいつもすでにそのうえにたっているシンプルな情動であり、それがあることによって自己が自己として分別されるなにか。そのなにかが賢治にとってのほんとうのほんとうの神ではないのか。そしてそれだけが賢治の生を根柢でささえている。それは神という言葉でさえいえない根源であり、存在しないことの不可能性として神のように寓喩されるなにかだ。それが賢治が希求するほんとうのほんとうと呼ぶほかない賢治に固有の超越なのだと思う。

自己に先立つ根源とのつながりが賢治にとっての第一義なものであり、万物の有情にたいする視線や配慮は第二義的なものだと言える。この関係は絶対的に不可逆である。意識の明証性や、この国特有の自然生成の意識はいつもここを読み違える。あらかじめ自我を自然に融即し、そこから自我を再生するのはわが国の伝統芸である。こんな腑抜けたところに賢治はいなかった。暗い時代と真っ向から直面し作品によってただひとり時代のむこうへと抜けていった。それが宮沢賢治の作品だ。

    3
賢治がじぶんの表現について語る。「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき/それをがいねん化することは/きちがひにならないための/生物体の一つの自衛作用だけれども/いつでもまもつてばかりゐてはいけない」(「青森挽歌」)
見田宗介は賢治の自然についてインディオの知者の「トナール」と「ナワール」という言葉を借りて説明する。

 〈がいねん化する〉ということは、自分のしっていることばで説明してしまうということである。たとえば体験することがあまり新鮮にすぎるとき、それは人間の自我の安定をおびやかすので、わたしたちはそれを急いで、自分のおしえられてきたことばで説明してしまうことで、精神の安定をとりもどそうとする。けれどもこのとき、体験はそのいちばんはじめの、身を切るような鮮度を幾分かは脱色して、陳腐なものに、「説明のつくもの」になり変わってしまう。
 にんげんの身をつつんでいることばのカプセルは、このように自我のとりでであると同時に、またわたしたちの牢獄でもある。人間は体験することのすべてを、その育てられた社会の説明様式で概念化してしまうことで、じぶんたちの生きる「世界」をつくりあげている。ほんとうの〈世界〉はこの「世界」の外に、真に未知なるものとして無限にひろがっているのに、「世界」に少しでも風穴があくと、わたしたちはそれを必死に〈がいねん化する〉ことによって、今ある「わたし」を自衛するのだ。
 このように、にんげんの身をつつんでいることばのカプセルとしての「わたし」と、その外にひろがる存在の地の部分とを、インディオの神話のことばを借りて〈トナール〉と〈ナワール〉とよぶことにしよう。
 「〈トナール〉は社会的人間なのだ。」とインディオの知者ドン・ファン・マテオスはいう。「〈トナール〉は世界の組織者さ。その途方もないはたらきを言い表わす仕方はたぶん、世界の混沌に秩序を定めるという課題を、それが背負っているということだ。われわれが人間として知っていることもやっていることも、みんな〈トナール〉のしわざなのだ。」「〈トナール〉は世界をつくる。〈トナール〉は話すという仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは判断し、評価し、証言することで世界をつくるんだ。いいかえれば、〈トナール〉は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。」
 〈トナール〉はもともとわたしたちの守護者であるのだけれども、それはいつのまにか、わたしたちをじぶんの「世界」の内にとじこめる看守になってしまう。
 〈ナワール〉とは、この〈トナール〉というカプセルをかこむ大海であり、存在の地の部分であり、他者や自然や宇宙と直接に「まじり合う」わたしたち自身の根源であるという。
 「まったくわれわれは、おかしな動物だよ。われわれは心奪われていて、狂気のさなかで自分はまったく正気だと信じているのさ。」 このようにドン・ファン・マテオスがいうのは、わたしたちはトナールのつくりあげている〈ひとのせかいのゆめ〉だけを、正気の世界であると信じているからである。(『宮沢賢治』191~192p)

 〈力にみちてそこを進むもの〉だけが、自分の「世界」に裂け目をつくって未知の空間に出で立ってゆくことができる。そこは〈がいねん化〉のはたらく以前の、すべてがあるがごとくにあり、かがやくごとくにかがやいてある場所である。賢治ととし子、生きているものと死んでいるもの、人間とあらゆる生命、人間とあらゆる非生命とをわけへだてている障壁をつきやぶる武器は、わたしたち自身の内にあるナワールの力であった。今ある〈わたくし〉のかたちに執着して自衛する力としてのトナールにとって、そのことがくらくおそろしい力にみえるだけである。それはわたしたちが〈外に出る〉こと、万象の同帰するあの光の中に身をさらすことの、恍惚と不安がひとつのものであるような戦慄を表現している。(前掲書 196~197p)

うまい言い方だなと感心する。でも、と立ち止まる。なにかを探し求めて意識はどうどうめぐりをしているだけではないのか。内が外であり、外が内であるという指摘の仕方は意識の外延そのものではないか。明証の及ばぬところに賢治の自然があると言われているだけなのだ。インディオの知者の言いたいことも、見田宗介の言いたいこともよくわかる。可視の世界と不可視の世界、現実の世界とたましいの世界の二分法。この意識のありようがすでにモダンだということにインディオの知者も見田宗介も気づいていない。身が心をかぎる同一性の罠は斯様に根深いのだ。世界を社会性というものだけで語ることができないということはたしかにそうだ。だから共同性から疎外された意識は語りえないものを内面化することによってそのありかを可視化する。それがわたしたちの知りうるたましいというものだ。トナールとナワールをどう語ろうとトナールはナワールを、ナワールはトワールを前提とするように意識は円環している。この意識を措定する作用が同一性の仕業なのだ。この方法では賢治の自然に触ることはできない。
わたしたちが内包と呼ぶものはトワールとナワールをふたつながらともに位相変換する意識の作用を指している。もちろん内包という意識の常態は歴史の概念としても言いうる。自己の自己についての観念も、自己の他者にたいする観念も、自己の共同性にたいする観念も、それぞれがそれぞれの観念にたいして表現を遂げた、そういう時代の与件をあげることもできる。内包ということばの始まる場所はまたきわめて時代的で状況的な要件でもありうるのだ。言うまでもなくここを抜かしたどんな世界論も情況論もまったくの空無だと思う。

意識の明証に先立つ根源によぎられてはじめて自己の自己性が出てくるのであって、自己が根源を指し示すのではない。自己はつねに事後的なのだ。自己に先立つ根源が第一義的であって、自己の自己についての意識は第二義的なのだ。
見田宗介は人間の身を包んでいる言葉のカプセルという言い方をしている。身が心をかぎるというわたしの言い方とよく似ている。心身一如というわたしたちの存在のありようの彼方に存在の地であるような自然があると見田宗介は言う。半分あたって半分ははずれ。「そこは〈がいねん化〉のはたらく以前の、すべてがあるがごとくにあり、かがやくごとくにかがやいてある場所」というとき、すでに見田宗介のなかで意識の自然生成があらかじめ措定されている。もう少し言えば、ナワールの場所を言い当てようとしてトワールの指示性を暗黙の公理として前提しているということだ。すべてがあるがごとくにあり、かがやくごとくにかがやくには、この自然をけっして内面化することも共同化することもできないそれ自体としてそのことを名づけるしかないのだ。ここをずらしてしまうと世界はのっぺらぼうとなる。自我を自然に融解すればそれは既知の自然としてじかにあらわれる。わたしたちの国に根ざした伝統では「人間とあらゆる生命、人間とあらゆる非生命とをわけへだてている障壁」はいともたやすく消滅する。それが天皇の赤子という自然だ。そのことに賢治がどこまで自覚的であったかはわからぬが、賢治がもがいて手にした自然はこの自然とはまったくべつようのものだった。

わたしたちは内面化できない出来事をまだ意識の外延性によってかたどることしかできていない。それがわたしたちの知る人格の表出にすぎぬ歴史であり、思想であり、文学・芸術である。ほんとうはこの領域のはるか彼方に内包という広大な意識の領野があるのだ。
どういう意識の階梯をたどれば、まことはたのしくあかるくなるのだろうか。思弁ではなく、なによりも自己に先立つ根源のつながりを、根源のつながりの分有者として生きること、それに尽きると思う。

意識の外延的な形式ではいうまでもなく自己の自己にたいする関係と対の関係と共同性の関係はそれぞれに次元を異にする。いずれの観念も同一性が統括していて対の関係の特異性をぬきにすると代わり映えがするものではない。自己は共同性の、共同性は自己の雛形であるともいえる。外延的な表現の範型では内面化という形式において自己の観念は究極には共同の観念に同期する。なぜならば身が心をかぎる心身一如が同一性の派生態であるからだ。圧倒的な外延権力にたいして是非を超えて個人は内面化という権力で対抗するしかない。それがわたしたちが知る歴史であり、また個人の生涯である。
ではなぜ対の関係だけが同一性の重力が加圧されても特異であるのか。それは同一性権力の裂け目から対の関係意識だけに内包の痕跡の光があたかも内包の面影のようなものとして射しこんでいるからではないかと思う。こういうことは意識の明証性に属することではなく体験的な知としてわたしたちの生に重畳されている。

いまわたしたちの日々は息苦しいまでに人工自然に囲繞されている。そのときこの世界で自己が自己にとって慰安となるか。あるいは共同性が自己にとって安息の地となりうるか。実感としてそれらは空虚なものである。
ツェランの言葉をまた使う。「私が私であるとき、私は君である」。このリアルがあるとき、はじめて〔わたし〕が〔わたし〕でありうる。このときわたしと言葉のあいだにはすきまがない。なぜならば〔わたし〕は〔あなた〕だからだ。このこともまた意識の明晰さとはちがい体験的な知に属する。対の関係意識は内包の痕跡なのだ。同一性の拡張の可能性は内包の面影のなかにだけある。またここにしかわたしたちの観念を拡張しうる可能性はない。わたしの言葉で云えば、根源の性の分有者のいちばん奥まったところに還相の性が無限小のものとして棲まっている。この場所のことを内包自然とわたしは名づけた。対の外延性としてある対の意識は外延自然から内包自然へと垂直に拡張しうるとわたしは考えている。その余熱がしだいに喩としての内包親族をかたどっていくことになる。
わたしの理解では宮沢賢治はこの場所を無意識に表現しているようにみえた。一切の有情にたいするまことはあかるいという知覚はこの覚知なくして起こらない。ひとは賢治のことを万物にたいする博愛者だと錯認している。そうではない。賢治に訪れた縁は、はるかに苛烈なものだった。この契機ぬきにかれの他者や一切の有情たいする視線や配慮が生じることはなかった。賢治がよぎられた不思議によって賢治の作品世界では一切の有情があたかも喩としての内包的な家族のようなものとしてあらわれた。宮沢賢治の作品に赦しと救いがあるのはそのためだ。

仏はただ親鸞一人(いちにん)がためにあると親鸞がいうときわたしの理解ではそこには二重の意味がある。同一性を前提とした超越者としての仏という意味と、隠されたもうひとつの意味。仏がどれほど親しく親鸞のかたわらに居ようと、かれ親鸞と仏は不一不二であり、親鸞は仏のまったき受動者としてあるということだ。他力とはそういうことにほかならぬ。最期の親鸞は文字として書くことも語ることもなかったが、おそらくここを包越していたとわたしには思われる。どうしてもそう思えてならない。それは親鸞にとって秘匿されることであった。ほんとうは文字としてのこされぬ苛烈がそこにあったのではないか。正定聚から還相の性への過ぎ越しを考えていたときわたしに秘めやかなものとしてこの覚知が訪れた。わたしは悶絶のただなかで呪文のように還相の性の可能性を考えつづけた。ああここで親鸞の他力も拡張できると思った。じつは仏とわたしはいいなかであるとただひとこと親鸞は言えばよかった。それを押しとどめたのは仏の言葉で世界の成り立ちを説いた親鸞の最後の矜持であったように思う。「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラの関係もそうであったようにわたしには思えてならない。賢治はけっして自力作善の自然人ではなかった。親鸞の悪人正機にも似た苛烈が宮沢賢治が触った自然だった。親鸞も賢治も期せずして内包自然に触れたのだと思う。それは日本的な自然生成とはおよそ似て非なるものだった。わたしたちはすべてが然りとなるこのおそろしさを身にしみて感じることでしか同一性の彼方に行くことはできない。

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