日々愚案

歩く浄土62:内包親族論6-吉本隆明の自然と宮沢賢治の自然

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どういう世界を構想すればいいのか。どういう世界を構想しようとしているのか。
たとえば民主主義の機能不全を民主主義の理念によって糾してしていくということ。そこでは主観的な意識のうちに宿った民主主義の理念が恣意的に乱立している。
足元からの民主主義プロジェクト実行委員会というのがあるらしく、藤田孝典という人がそういうことについてツイートしてる。著書に『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』がある。読む気もないが、売れているとのこと。高橋源一郎もこの人たちと座談会をやってる。弱いつながりが好きな人だからなあ。そうか、そうなのか、ぼくらの民主主義なんだぜは、こんどは足元からなんだ。下流老人とか、貧困による生活破綻で死ぬ人たちを殺させないというのがプロジェクトのスローガン。

赤裸々に、おれが下流崩壊してるというのかい、やりたいことやって好きに生きてきてなんの文句もない、いらぬお節介だ、お前達から施しなんかうけない。というようなことを一人ひとりのお年寄りがいうことからしか始まるものも始まらない、と言い放つようには人は生きていない。それはなぜか。同一性の生にがんじがらめにされているからだ、と内包論では考える。

弱者への寄り添いやいたわりのまなざしが若い頃から思いっきり嫌いだった。苛烈なこともどんづまりもあった。ところがどっこい、まだおれは生きている。民主主義の理念を唱導する者らは痛くも痒くもないのに、額に正義と書いて、いい気になって俗世を眺め下ろしている。この視線を観察する理性と言ってきた。隠し味として、場面場面で、わたしはこうしてさまざまな地獄から立ち直ったとおじいさんやおばあさんが文化的な場で証言する。刺身のつまとして、たんなる症例として引き合いに出される。まっぴらごめんだ。生きていることはサンプルではない。わたしはわたしの生存感覚を言っている。身にしみるということはなにものにも変え難くてなかなか味わい深いぞ。リトル・トリーの祖父の気分。

わたしの構想する内包につながる思想の系譜の人はわずかしかいない。ヴェイユであり、レヴィナスであり、親鸞であり、宮沢賢治であるというぐあいだ。かれらの思想にはじつに太いうねりがあり、同一性の論理ではとらえがたい不思議な呼吸をしている。わたしは数少ない思想家が遺した言葉の断片を手がかりにしてかれらがやりのこした思想の課題を拡張しようとしてきた。
ここからみると民主主義の理念はどう映るか。〔じぶん〕を生きるというわたし固有の生存感覚でこのことを考えてみる。

自力作善もおのずからなる内包の面影からやってくるものだからべつに悪いことではない。できるなら、こっそりやってほしい。親鸞も、源信らの浄土信仰の実体化がしらけてきたそういった乱世の鎌倉時代を背景として信を組みかえようとした。強固な浄土教の教義の信を解体しようとして自力作善はやるなといくらか力こぶをつくったのだと思う。はじめは素朴な信のかたちであっても知らぬまに信は信自身とその信の共同性をしばり、やがてがんじがらめになってしまう。あんたの信は生煮えだ、おれの信のほうが強いぞ、かれはどうだろうかと、際限もなく信が信を査問する。徃相廻向とはそうものだ。そのことを親鸞は知り抜いていた。自力作善の往相廻向はその信の内部にいるかぎり信を解体する縁はない。

人格を基準とする理念はどんな精妙なものであっても内部に解けない特異点を生んでしまうというのがわたしが到達している地平だ。数学者は1のなんたるかを知らないと言った数学者の岡潔に特異的なことではない。自己という質点は、それを自我と言おうが、主観と言おうが、主体と言おうが、同一性を認識の基点にしていることにおいて変わるところはない。過剰な自意識の剰余をフロイトのエスやユングの集合的無意識と言ったところで自己の外延を意図していることにおいて外延表現の範疇を出るものではない。そういう認識の範型に囲繞されて世界認識を語っている。世界の当面する困難な課題を、いずれも解けない主題を解けない方法で解こうとしているわけだ。解けるわけがないとずっとわたしは思ってきた。解きがたい世界を解くにはもっとはるかに根本的な思考の態度変更が要請されている。それはいまわたしたちにとって世界史の規模の鎌倉時代として現前している。乱世である。底の見えない世界の無言の条理が暗くて大きな口をぱっくりと開いている。

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今春(2015年)、菅原則生さんから『浄土からの視線』という本をいただき、吉本隆明の『歎異抄』版として読んだ。吉本隆明に思想について書かれた本は夥しくある。そのどれよりも菅原さんの著書は抜きん出てよかった。吉本隆明の思想を理解したければこの1冊に尽きる。菅原さんはなんの下心もなく吉本隆明の思想を語っている。ほんとうに稀なことだと思う。親鸞に唯円がいたように、吉本隆明に菅原則生がいる。媚びも諂いも賢しらさもなく、生の根柢で吉本隆明の思想を読むという稀有な本だった。
その菅原さんがオウムについて語ったということをかれのツイートで知り、さっそくpdfを送ってもらった。解像度がよくなくてOCRでは読み取れずキーボードから入力した。超絶技巧曲を演奏するうるおい治療の夏井睦さんはピアノを弾くようになめらかに入力できるのだろうけど手からの入力はひどく疲れる。
これまで民主主義という理念にたいする批判と不満をブログで書いてきたが、吉本隆明は市民主義の理念では生きることができない思想家だった。今まわりは猫も杓子もそれしか言うことがないのかというくらいに皆が民主主義を唱和している。その極北に吉本隆明の思想はある。唯円が親鸞を語るように菅原則生は吉本隆明を語る。部分引用では意を尽くせないので以下全文を掲載する。

「吉本隆明はなぜオウムを擁護したのか(『宗教問題vol.11』2015年夏号)」として菅原さんはインタビューに答えている。

 一九九五年九月五日。オウム真理教による地下鉄サリン事件から約半年が過ぎ、麻原彰晃以下の教団幹部もおおむね逮捕きれ、世間がやや落ち着きを取り戻していたそのとき、産経新聞の夕刊に衝撃的な記事が掲載される。「麻原被告を高く評価 犯罪は否定、宗教は肯定」―。
そんな見出しで、宗教学者・弓山達也氏のインタビューを受けたのは、「戦後最大の思想家」とも呼ばれた、評論家の故・吉本隆明氏(一九二四~二〇一一二)であった。
「僕は今でも(略)麻原さんの存在を重く評価していると思います」「麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「僕は現存する仏教系の修行者の中で(麻原)は世界有数の人ではないかというくらい高く評価しています」。こうした吉本氏の発言に批判が殺到。「吉本隆明はオウムを擁護している」と指弾された。
 ただサリン事件前にオウムを擁護した文化人は山のようにいたが、吉本氏のように事件後に″擁護″の声をあげた文化人は少なく、また吉本氏はその後もこれらの発言に対して謝罪や撤回などをしなかった非常に珍しい存在である。いったい吉本氏の″擁護発言″の背後にあった思いとは何だったのか。生前の吉本氏と交流のあった評論家の菅原則生氏に聞いた。(聞き手・本誌編集部)

―本題の前に、吉本隆明さんと菅原さんのご関係について教えていただけませんか。

菅原 私は一九七〇年代の学生運動のひとつの党派だった共産主義者同盟叛旗派というグループのメンバーでした。ここのリーダーと吉本さんは六〇年代から親交があり、叛旗派で主催した講演会などに、吉本さんはよく来ておしゃべりしていました。そんな流れの中で、いつのまにか書店に吉本さんの本が並ぶのを心待ちにするようになっていました。それから失業していたころ、迷惑も顧みずにご自宅へうかがうようにもなりました。吉本さんと交流があったというよりも、私はただ吉本さんを困らせていただけだったのかもしれませんが。

―菅原さんご自身は、いまから二十年前のオウム事件というものをどのようにながめておられたのでしょうか。

菅原 一九七〇年代の学生運動の最も過激な部分を、一次元おし進めてしまったという感じを持ちました。彼らの中に自分の一部分を見たようでもあり、動揺しました。
 ご存じの通り、一九七〇年代の学生運動は、連合赤軍というものを生み出し、殺人を含む陰惨な内ゲバに終始し、ひとつの終幕を迎えました。そこで行われたのは、「生きるということを捨てることが生きることだ」という倒錯、錯乱でした。
 連合赤軍には「世界同時革命」という途方もない理想があって、それを実現するために武器をとり、命を捨てるという選択がなされた。オウム真理教もまた「自分たちの教義にもとづいた国をつくる」という考えがあり、そのために信者たちが命を投げ出してサリンをまいたわけでしょう。他者を殺すというのは、自分を殺すという心の作用を同時に伴っていると思います。そこにどうも共通するものがあるような感じがします。

―吉本さんも、またそういう風に考えていたのでしょうか。

菅原―吉本さんは一九二四年の生まれで、戦争のまっただ中に青春を送った人です。そして、自分は現人神を信奉し、戦争をやれやれという″軍国青年″だったと、ことあるごとに言っています。つまり吉本さんもまた、戦争中に倒錯してしまったということになります。あの太平洋戦争というものを、国を挙げて、民衆がこぞってなぜやってしまったのか、また結果として何をしたのか、いまだに結論が出ていないと言っていいと思います。敗戦後、国際法にのっとってということですが、あからさまな報復として、欧米列強によって戦争指導層が処刑され、それで何ごともなかったように時が過ぎてきたといってもいい。本質的な議論は避けられていた感さえある。それをあやふやなままにしてきたことが、現在の安保法制に対する左右両端の論調をうさんくさいものにしていると言ってもいいと思います。
 仲間の大半を「総括」と称して殺してしまった連合赤軍の事件もまた、なぜあんなことをやってしまったのかについての思想的な解明は、当事者によっても、われわれ同時代人によっても、いまだなされてはいないのです。そしてオウム真理教も同じです。
 いずれもあれだけの大事件なわけですから、法的な死刑ということだけですむはずがないのです。背景にどのような思想や宗教理念があり、時代状況があるのかを捨象して、行為事実だけをとらえて断罪するということの根底にあるものは、意識的にせよ無意識的にせよ、法や国家を絶対善だとする理念です。けれども吉本さんによれば、法や国家もまた一種の宗教であり、そして宗教の最終的な形態だということになります。
 マスコミや識者、知的大衆というのは、法や国家を絶対善だとする立場をとっています。つまり「絶対善だという宗教」を信奉しているのです。そして法や国衆が絶対善だという理念は、本当はファシズムと地続きであり、いつでも絶対悪としてのファシズムに転換するのです。
 連合赤軍のときもオウムの時もそうでしたが、マスコミや職者は彼らを「凶悪な殺人者の集団」ととらえ、精神に半ば障害をもった人物のように描き、そういう世論を形成して襲いかかりました。けれども吉本さんの考えによれば、事態は逆です。無自覚なのでしょうが、凶暴で無責任なのはマスコミや識者の方なのです。なぜなら吉本さんの戦争体験によれば、連合赤軍もオウムも、人間性の地獄の表出であったのは事実だとしても、それもまた人間性の範囲内だったのです。このことが識者には理解できないのです。
 まさにその点において吉本さんはオウムを擁護しているように見え、マスコミから袋だたきにあったのです。そして麻原の宗教観をちゃんと評価した方がいいという吉本さんの発言は、「凶悪な殺人者の宗教観を評価するもヘチマもない。オウムを擁讃するのか」という短絡と狂信にさらされたのです。

―単純に″オウム擁護″と言い切れるものではないということですか。

菅原 吉本さんは同じ記事の中で、地下鉄サリン事件に関しては「まったく肯定すべき余地がない」と言っています。単なる”オウム擁護″のような文脈だったとは、私は思っていません。また、マスコミは被害者の立場に同情を寄せていないという視点から吉本さんを批判しました。しかし彼らの言う、”同情″とは、実は”同情のふり″にすぎないわけです。

それは〝洗脳〟だったのか

―太平洋戦争、連合赤軍、そしてオウムにはある共通した何かがあると、吉本さんは思っていたのでしょうか。

菅原 先ほど言ったように、「命を投げ出してもなさねばならない理想や大義がある」という考え方の下に、人々が急進的な行為に突き進んでいった。その意味で、その三つに共通性はあると思います。そして、もう一つ指摘しておきたいのは、そこにあったのは実は”洗脳″ではないということです。
 後世、および外部からは安易な指摘がなされるわけです。太平洋戦争では皇国史観や大東亜共栄圏というイデオロギーに、連合赤軍では共産主義や毛沢東主義に、そしてオウムでは麻原の宗教観に、人々が”洗脳″されて、あのような大きな動きが生まれていったと。しかし本当はそれは正しくありません。
 たとえば一九七〇年代という時代において、一部のイデオローグが若者たちを共産主義思想で”洗脳″し、意のままに操っていたなどという話は事実と異なる。当時の若者たちは、自分たちが置かれた時代状況の中で、自分たちなりにさまざまなことを考え、自分の意志で闘争に参加していったのです。個人の意志という側面が必ずあった。太平洋戦争にしてもそうでしょう。当時の日本国民は、西欧列強がアジアを植民地化し、日本を経済封鎖し、それで日本国家が存立の危機にいたったので、それに対して大東亜の解放や鬼畜米英といったことを、それぞれに正しいと信じて戦っていたのだと思います。アメリカからは「日本国民は戦争指導部に洗脳されていた」と見えていたかもしれませんが。また共産党によれば、兵士たちはだまされ、犬死にだったということになります。
 オウムでも、本当にそれが”洗脳″だったのだとしたら、それは単に「一部の詐欺師と、大勢の愚か者の集団」ということになってしまう。そんな馬鹿なことはありえないのです。
 そしていま問題になっているブラック企業や「イスラム国」(ISIL)の問題にしても、これと同じような構図があるのではないかと感じます。ブラック企業というものを見てみると、必ずしも経営者によって労働者が強制的に働かされているのではない。労働者が単に虐げられ、奴隷状態に置かれているといった話ではとらえきれない。ISILにしてもそうですよね。世界中から戦闘員として集まってくる人たちを、西欧や日本では、何かに取りつかれ、洗脳されている人々と見たいのでしょうが、そんなこともないのです。
 こうした現象はある意味で、「オウムの世界史的展開」と言っていいのかもしれないと感じています。

―ただ、なぜ太平洋戦争にしても連合赤軍にしてもオウムにしても、きちんとした総括がなされてこなかったのでしょうか。

菅原 誰もがそれをやっていかなければいけないわけですが、「洗脳する者がいて洗脳される者がいたということにすれば自分を棚上げできるし、精神のおさまりがつくのだと思います。そして、それが多数派を占めます。何ごともなかったように時代が過ぎてゆくということに対して異をとなえ、自分をえぐり出していくことは、孤立無縁であり、誰にとっても生きることを難しくしてしまうからではないでしょうか。”軍国青年”だった吉本さんは、「戦争に負けた時は自分が死ぬ時だ」と思いつめていたけれども、一九四五年八月十五日、絶対的な存在だった天皇が敗北宣言をして敗戦になった。納得がいかず「自分だけでも戦い続けよう。兵士たちも戦い続けるはずだ」と思っていたけれども、兵士たちは武装解除し、黙々と故郷に帰っていった。そして自分が生きているのは卑怯なのではないか、最も醜悪だったのは自分ではないかという絶望体験になった。それから古本さんはその体験を元に、戦争とは何か、国家とは何か、人間とは何かを客観視しようとして、何十年とやってきたわけです。

村上春樹の”浅さ”

菅原 ここに興味深い文章があります。今年四月に「世界でもっとも影響カのある百人」に選ばれたのを受けて、共同通信が作家の村上春樹さんにインタビューしたものが新聞に掲載されたのですが、その中で彼はオウム事件にも言及しています。読んでみます。〈彼ら(注・オウム真理教の信者たち)が十代のころに「ノストラダムスの予言」について書いた本が出て、それをテレビなどが盛んに取り上げた。”一九九九年に地球は滅びる”という不安があり、さらにそこに「スプーン曲げ」に代表される超能力信仰みたいなものが刷り込まれていった。(略)そんな素地があるところに麻原彰晃が現れて、超能力っぽいことを少しやってみせると、すぽんとはまっちゃう。入間の心をクローズドサーキット(閉鎖回路)に引き込み、外に出られなくし、精神の抵抗力を失わせてから、サリンを散布させる。麻原が信者に与えたこのような物語はいうなれば悪しき物語です。僕たちはそれに対抗する力を持った物語を書いていかなくてはならない〉
 この村上さんの認識は間違っています。これだと結局「麻原が詐術のように洗脳して若者をだまし、信者にして操っていた」という埋屈になってしまう。こんな馬鹿話ですむわけがないのです。ようするに村上さんはどこまでも外側から浅く表面的になぞっているだけで、オウムを生んだ自分の住む社会と正面から向き合うことをしていない。国家から小さなユートピア集団まで、なぜ共同性は閉じられてしまうのか、倒錯が起こるのかは、そんな簡単なことではないのです。
 さらに唖然とするのは、世界を「善い方向」に導くには「体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます」などと誇っていることです。本気なんでしょうか。早寝早起きをしたらオウムやISILの問題は超えられるんですか。私は村上さんの初期の十年ほどは熱心な読者だったんですが、社会を語る人間としては通俗的な正義派に過ぎない。そういうことがよく表れているインタビューだと恩いました。

―吉本さんはそうではなかった、と。

菅原 通俗的な正義や心情的な倫理は嘘だと考えていたと思います。これは晩年の話ですが、吉本さんは、東日本大震災の後に「一度の失敗で原発をやめてしまえというのは間違いだ。経済効率ではなく、本体よりもお金を注ぎ込んででも万全の防御をつくったうえで原発を続けるべきだ。すべてやめてしまえというのは、猿に戻ることと同じだ」といった発言をしました。少なからぬ人々が吉本さんに反発し、吉本批判をやり、そのもとから去っていくこともありましたが、吉本さんは最期まで態度を変えようとはしませんでした。ここには人類の発生と人類の未来をを見すえた、鬼気迫る普遍的な視線があります。オウム事件において「麻原を宗教家として評価しよう」と語ったことは、それと同次元の発言だったと思います。

―そうした吉本さんの姿勢の源にあったものとは何だったのでしょう。

菅原 やはり戦争体験だと思います。どこかで自分の自分に対する認織を決定的に誤ってしまったという痛恨の認識だと思います。そして、どこかで無名の大衆を敵にしてしまったという痛恨の認識だと思います。
 吉本さんを評するとき、よく「大衆に寄りそう思想家」という言い方がされますが、そんな甘っちょろいことではないのです。村上春樹さんの言い分は通俗的正義派として大衆に受け入れられるでしょうし、吉本さんの言い分はむしろ嫌悪されるかもしれません。しかし、その大衆は”知的大衆″であって、本当の大衆ではありません。
 吉本さんの思想には、国家から小集団まで、人間のさまざまな集団は、追い詰められれば徒党を組み、倒錯し、錯乱に至ることから免れえないという根本的な考えがあります。それは吉本さん自身も免れえないということです。「本当のことを言えば世界は凍る」とはそのことです。知的大衆や識者、あるいは村上春樹さんなどは、「自分は賢いので、そんなことにはならない」と言うでしょう。ただ真の大衆とは、それを免れえないということを内臓で分かっていると思います。その大衆に寄りそいたいと、吉本さんは言っていたのだと思います。
 吉本さんはサリン事件の後に「麻原を宗教家としてきちんと評価しないといけない」と発言し、「あんな極悪人を評価する必要はない」と感情的に批判された。しかし例えばある殺人を犯した人が、ご近所では温和なお父さんとして知られていた、などという話は珍しくもなくあることです。その場合、その犯人に「温和な面もあった」という事実は、彼が「殺人をした」という理由で、語ってはいけないものになるのでしょうか。むしろその殺人事件がなぜ起こったのかを理解する際に、重要なキーともなる事実なのではないのでしょうか。たとえ偉大な知識人であっても、ある日、錯乱するということはありえるのです。以前に著名な経済学者が女性のスカートの中をこっそりと撮影したということで世間から追放されてしまいましたが、そのことによって彼の学問的な業績はゴミ同然だということにはならないと思います。
 そうやって法に違反したということで、社会はその人物を嫌悪し、隔離し、追放し、何ごともなかったようにしたいのです。

階層化社会への懸念

―オウムの総括は、これからでも可能なのでしょうか。

菅原 オウムに限らず、まだこれからだと思います。たとえば二〇〇八年に、東京・秋葉原で連続通り魔事件がありました。たくさんの人が亡くなった大震災の直後に、その加藤智大という名の青年に死刑判決が下りたという小さな記事が、新聞の片隅に載りました。 あるとき、私はある有名大企業に勤めている若い友人に「あの事件をどう思うか」と聞いたのです。すると「自分は努力したが、犯人は努力を怠って派遣社員にしかなれなかった。その結果だと思う」という答えが返ってきました。その応えは無残です。
 加藤青年は数人を無差別殺傷した段階で、精神的には死んでいるのです。また、この殺傷行為は一青年の責任に本当に帰せるものでしょうか。ある時代のある環境の下に生まれたことは彼の責任ではないし、時代環境に一青年が押しつぶされてしまったことは彼の責任だと言えるのでしょうか。単に時代環境のせいだと言っているのではありません。人間の地獄は時代環境と個人の意思の錯合で、どちらにも還元できないものです。万人がそれを分離できないから苦闘しているのです。彼を死刑にしなければならないのは、ただ国家という支配秩序に背いたからであり、見せしめとしか考えられないのです。
 もう一つ無残なのは、立派な大学を出た前途有望な若い友人の「自分は努力したが、彼は努力を怠った」という言い方です。ここには政治と経済と文化の支配層の、人間を蔑む幼稚な本音があります。社会では上昇と失墜の冷酷な乱気流が激しく渦巻いています。この乱気流は次第により激しくなっていくでしょう。支配層が法的な禁圧を強化するだけではどうすることもできないのです。
 私がここで述べたことのオリジンはすべて吉本さんの著作の中にあります。だから、もっと知りたいなら吉本さんの本を読んだらいいと思います。究極のことが書かれています。また、私を吉本亜流だという人も出てくるでしょう。そんなことはもう、気にならなくなりました。

吉本隆明の思想が最深の場所からで読み解かれている。すぐに菅原さんの『浄土からの視線』のいちばんすきなところを思いだした。菅原さんの吉本思想の理解にもっともふさわしい情景だ。

 二〇〇〇年の真夏だった。たまたま立ち寄った土肥の遠浅の海水浴場でわたしは泳いでいた。吉本さんがその三、四年前溺れたのはこの海だったのではないかという意識が頭のかたすみにあった。けれど、泳いで海からあがろうとしたときは、そのことはまったく忘れていた。砂浜にたどりつき、立ち上がったとき、おおぜいの海水浴のひとたちにまじって、二十メートルほど前方のコンクリートの低い防波堤にひとり、ロダンの「考える人」のように頬杖をついてすわり、遠く海の彼方をみはるかし、なにごとかかんがえごとをしている老齢の男の姿がみえた。わたしはひととき息をのみ、海辺のざわめきが一瞬消え、その姿に惹きつけられた。そのひとが吉本さんだと気づくまで時間がかかった。その貌はこれまで写真や講演会なとでみた、他者を意識したいずれの貌ともちがっていた。険しいというのではない、すべてをそぎ落とした、澄明な、長いあいだかんがえごとを重ねてきた貌だった。おそらくその貌はあまりみせたことのない貌だったとおもう。そのときみた貌は、彫像のように硬質な、孤独なそれだった。(『浄土からの視線』102~103p)

菅原さんの情景の切り取り方はとても見事でここに吉本隆明の思想のすべてがあると思った。いままでに知るどの顔とも違っていたと菅原さんは云う。「険しいというのではない、すべてをそぎ落とした、澄明な、長いあいだかんがえごとを重ねてきた貌だった。おそらくその貌はあまりみせたことのない貌だったとおもう。そのときみた貌は、彫像のように硬質な、孤独なそれだった」。「海辺のざわめきが一瞬消え」るように思わせるなにかが吉本隆明の思想だった。理屈を超えたなにかである。わたしも吉本さんがフーコーの思想について、もしもフーコーさんの言うようになるとしたら、人間の意志というものはどうなるのでしょうか、たまらないですね、と大音声でしゃべったとき、その一瞬、床も壁も天井も消えてしまった。たしかにわたしにもそういう体験がある。なにか苛烈な思想が語られた。遠い目をして海のかなたをみはるかす吉本隆明さんの脳裏をよぎっているもの、それが吉本隆明の悠遠な思想だ。すぐにまた『開店休業』のハルノ宵子さんの文章を思いだした。

父が亡くなる三、四ケ月ほど前、冬に入る頃だった。流しで洗い物をしていると、夜食の後ぼんやりとキッチンの椅子に座っていた父が、「さわちゃん、そこにいるか?」と尋ねた。「そこまでひどくなったのか」と思う。父と私の間には食器棚があるとはいえ、一メートルほどの距離だ。耳も遠くはなっていたが、水を流したり食器を洗う音は聞こえているはずだ。しかし父にとってそれは単なる〝音〟であり、〈水音→洗い物→そこに私がいる〉と、認識できていない。脳の回路が途切れているのだ。
「いるよ。何だい?」と、手を拭きながら父の目の前に立つと、「すまないが氷の入った水を一杯くれないか」と、父は言った。その言い方が、これまでの父とは違って、あまりにも〝ニュートラル〟だったので私は驚き、限りなくやさしい気持ちになって、あわてて水を入れに行った。〝水〟じゃサービスのしょうも無いので、せめて、ミネラルウオーターにロックアイスを入れ、父に差し出した。父は「ああ……うまい! うまいなぁ」と、本当に美味しそうに飲み干すと、奥の客間へと這って寝に行った。

 そんなことが二、三度あっただろうか。私は人間のこれほどまでに〝含み〟の無い言い方を聞いたことがない。歩き疲れた旅の僧が村に差しかかり、初めて出会った村人に「すまんが水を一杯所望したい」と言う。時には気味悪がられ、目の前でピシャリと戸を立てられることもあるだろう。しかし僧は落胆するでもなく、恨み言を浮かべるでもなく、また再び歩き出す ― そんな言い方なのだ。そこには懇願も媚(こび)も威圧も取り引きも無い。ただそのままそこに〝有る〟だけの言葉だった。
 父がどれほどの高みにまで達したのかは、私は知らない。ただもう家族のもとには帰って来ないのだという予感だけがあった。
 父は一介の僧となって旅に出てしまったのだ。

―なので、今も仏壇に供える水には氷を1個入れる。

「そこには懇願も媚(こび)も威圧も取り引きも無い。ただそのままそこに〝有る〟だけの言葉だった」。いつも吉本隆明の思想はここにあった。そして菅原則生もこの場所から吉本隆明の思想を語り、そこを生きている。

わたしもながいあいだ吉本隆明の思想に惹きつけられ延々と吉本さんのことについて考え、書いてきた。1973年の初秋、吉本さんのお宅に伺い暗い話をていねいに聞いてもらった。帰りに玄関で、あなたの世界をつくりなさいと励ましてくれた。わたしは24歳だった。どこで吉本さんの思想と訣かれたのだろうか。わたしは吉本さんの思想を拡張しようとした。そうしないとじぶんが生きられなかったからだ。1990年に吉本さんと対談をし、1995年にオウム事件について書いた。そのころよりは吉本さんの思想とわたしの考えがどこで分岐したのかずいぶんとはっきりしてきた。海岸の防波堤で遠い目をして世界をみはるかしていた吉本隆明さんの悠遠な思想をすこしだけ拡張できた気がしている。
麻原の考え(それがあるとしてだが)を吉本隆明が評価することはわたしにはわからない。オウムの理念にはなんの関心もなかったし、いまもない。また吉本隆明の原発理解については異論があるが、今回はそのことには触れない。吉本さんの自然科学や技術の理念は少し硬直化していると思う。

わたしは市民主義的な善悪観からではなく、そうするよりほか生きようがなかったじぶんじしんの生存感覚から麻原彰晃の愚劣を批判した。

誰も書かなかったオウム-その愚劣を超えるもの

 言葉による行為が一連のオウム事件に関わるとき表現の器量が赤裸々に問われる。誰も書かないオウムがある。サリンによって、拉致され、あるいはリンチで酷い殺され方をした者が、その無惨な死を何かに照らされて、ああそれならもう一度この死を生きる元気が湧いてくると笑ってみせる、そこまで言葉が届くときはじめてオウムの論評が表現として現成する。それが、ないものを創る表現という行為だ。またそこが眼を覆う惨劇が突きつけたことのほんとうの核心だと思う。
 オウムの愚劣を竦みあがらせる凛とした言葉が欲しかった。麻原彰晃と彼を尊師と仰ぐオウム真理教団の吐き気のする愚劣さを目の当たりにして、自身の言説へのとまどいをおぼえないこの国の八十年代以降の全ての言論人はさかしらな言論の敗北を潔ぎよく認め断筆せよ。
 私たちの日常感覚から隔たった常軌を逸する事件が起こるとマスコミはこぞって事件の猟奇性を煽りたてる。連合赤軍事件やイエスの方舟事件で当事者を狂人に仕立てあげ断罪したマスコミとマスコミに登場した学者・文化人の卑劣を私はまだ明瞭に記憶している。
 その反動で吉本隆明は「著作から判断して優れたヨーガの修業者」(「サリン事件考」『サンサーラ』95年6月号)だと麻原彰晃を擁護する。おお、なんと的はずれなことを言う。オウムの愚劣の核心はそこにあるのではない。マスコミの報道の姿勢がどうであろうとオウムに接した者が一様に神経を逆なでされ感受した、言葉にならないおぞましさと禍々しさがオウム真理教の核心であり本質なのだ。その余は野次馬の鳥瞰にすぎない。
 村上春樹の文学を現実のポジの象徴だとすると、オウムが裏側にネガとして貼りついていたということではないのか。そこを曖昧にしてきた15年分のツケがオウムで一挙に噴出したのだと私は考え始めた。
 根深い知の囚われが言説を拘束する。たしかに貧困を時代の背景とする表現はとうの昔に過ぎ去ったことだ。左翼理念は滅んだのに、しかし表現を時代の反映とみる理念の型はしぶとく生き残る。事件を社会の背景や病理から解釈する理念の型そのものがほんとうは問われるべきだと私は考える。
 人間の社会的存在のありようが意識を決定するという古い知の囚われが根底的な疑問にふされるべきだ。このふるい知の習慣を脱ぎ捨て、ここを体ごと突き抜けないと未知の生の様式は手にはいらない。生煮えの解釈を可能とする思考の習慣を大本からあたらしく創り変えないと表現はいつまでも現実に到達できない。そういうことばかり繰り返している。生が希薄になったのではない。生を感じる思想が貧血しているのだ。
 いま、時代の顔は貧血である。するとすぐに、豊かな社会で自我や生の実感がつくれず裸で漂流している若者といういかにもありそうなイメージがつくられ、そこに希薄な生の現在を象徴する社会病理が引き寄せられる。そしてそこにオウムの愚劣をあてはめるとオウムの狂気についてのもっともらしい解釈が成り立つというわけだ。まるで昔のプロレタリア文芸みたいじゃないか。いったいどうしたことだ。この錯誤の根は深い。
 若者がその時代の感性をもっとも鋭敏に身に浴びるのはいつの時代も変わらない。今は生の気配が希薄だからそこにあたかも新しいタイプの離人症が広範に育ちつつあるかのように誰もかもが思いたがる。世間の大人はそんな若者を見て覇気がないという。私は違うと思う。若い人の中でも目に見えない愛や憎悪や執着が激しく渦巻いている。ただ彼らはそれをどう表現していいのかわからない。
 若者の生が貧血して覇気がないように感じられるとしたら、それは大人のできあいのリクツがガラクタだからそんなものでは自分たちは熱くなれないともがいていることのあらわれにすぎないのだ。世の大人はそんな彼らを最近の若い者は根性がないときめつける。彼らは小さなニーチェを身をもって生きている。そうでなかったらオウムが起こるわけがない。
 オウム狂騒の最中、テレビに実名で登場した高橋青年はモザイクなしの映像で終始誠実に自分のオウム体験を内省し麻原彰晃を尊師と呼び、その存在感は世界有数のパワーをもっていると言って憚らなかった。誠実さは伝わるのだが、この青年はオウム経験の半分しか喋っていないと私はすぐに直感した。
 やがて隠された半分がめくられてリンチ殺人が報道される。リンチで殺された落田さんは俺だと実感した。やり残したことがあると気が咎めた彼がどういう気持ちで夜更けサティアンに戻り、彼の見開いた眼がそこで何を見たか。
 一瞬の昂揚のあと雪崩をうつように後退した全共闘運動の敗走期、私もまた同じ状況下にあった。何人か死ぬなという予感が脈を打ちドクンと世界が鼓動した。高橋君よ、麻原彰晃は義にもとると何故真正面からぶつからなかった。とことんやればいい。それが逃れえぬことだとしたら、誰に届くとも知れぬそこからしか一切が、そして何事もはじまらないのだ。世界にじかに触れるということはそういうことだ。私は偶然そこから生還したが、いいようのない感じがして言葉がない。
 オウム吊るしの野次馬としてではなく自己体験的にいえば、実直で真面目な高橋青年が崇拝する麻原彰晃の「魅力」とリンチ殺人にいたる振幅のなかに、サリン事件や拉致・監禁・人格と金品の強奪、その他の数多くのテロの、およそ人がなしうる愚劣の鍵がひそんでいる。得体の知れないものが私たちの中にある。私たちの短い永遠。私たちの小さなニーチェ。ささやかということの激しい夢。私たちの平坦な戦場を生き延びること。知識による行為がこの鍵を開けたことはまだ一度もない。
 死の雰囲気のたちこめる暗い地下室で彼らは何を想ったのだろうか。彼らはかつての私であり、いくぶんか今の私でもある。世間に融け込むのがぎこちない彼らはドラゴンボールの元気玉が欲しくてたまらなかったのだと思う。何か世界の芯のようなものが欲しかった。そのありふれたことがオウムの狂気のはじまりにあった。そしてすぐにかれらの顔から晴々とした表情が失せた。手にとるようにわかる。
 ひとは義を成就するのになぜ群れるのか。この謎はまだ解かれていない。連合赤軍の狂気を引き受けた者として、だから、私は彼らを断罪する。首謀者麻原彰晃の悪意と妄想と虚言とそれに踊った幹部達が公判を経て法の執行者からどういう刑を受けることになるか、それは私の知るところではない。
 私は生の全てが表現だと考えるから、麻原彰晃の声や表情やものごしから冷酷とかキワモノという言葉ではとうてい形容しがたい、彼が内に秘めているおぞましさをじかに体感する。彼の強烈な禍々しさを浴びて周囲はひとたまりもなかった。そして知識の行為がここに爪を立てたことはまだ一度もないのだ。
 私はかつてひとりでここをかい潜った。宗教や神秘体験より遥かにふかくどうしようもないものが日本の底の底でとぐろを巻いている。つまり私は吉本隆明ほど脳天気ではない。それは理念からくるというより繋けた日のちがいに因るとしかいいようがない。
 バタイユでさえ錯覚した人類の激烈な性の発見から認識による生の貧血の不可避性という、近代に起源をもつ転倒したぬきがたい思考の型は、私の、〈狩るごとにふかくなる性があるから、「いま・ここ」にあふれる狂おしさを、そのつどまったく新しい生として繰り返すことができる〉という世界の知覚へとひらかれる。手にしたひとつの直観と実感から未存の新しい自然理念と固有の歴史理念が次第に形を現わしてくる。
 私は性を基軸にした、まっさらで熱にはぜる世界認識の、人類史的な構想が可能だと思っている。たぶんその中でだけ昏い呪的な麻原彰晃の眼がひらかれる。(『読売新聞』夕刊1995年7月12日)

戦争期、吉本青年は身を無きものにして猛る心を鎮めようとした。
問うて云う。それでも心が鎮まらなかったらどうする。閉じた共同性の中ではそれがどんな非道で無道なことでも人間的な行為であるし、そのことに例外はない、と云うのが吉本隆明の思想だ。天皇のためなら死ねると思った吉本青年は敗戦時も一人だけでも戦おうとしたみずからの倒錯と錯誤のきわどい機微を痛恨の極みとして内省し、主観的な意識の襞を内面化することでそこを理念化した。かれは出来事を内面化することができたのだ。それは「マチウ書試論」や「転向論」を経て吉本幻想論として表現された。
再び問うて云う。身を無きものにしてもなお心が猛ったらどうする。人はそのときどうふるまえばいいのか。
答えて云う。世界の無言の条理のただなかで苛烈を敢行せよ。たとえそのことによって心がやぶれても。心が心を突きぬけるとしても。わたしはひとりの修羅として苛烈を断行し心を突きやぶった。わたしはわたしの固有の体験を内面化することも共同化することもできなかった。吉本隆明とわたしの言葉の立ち位置の違いは大きいし、折り合うことがない。
わたしに起こった驚異についてべつの言い方をする。いきなり世界の底が抜けたのだ。無言の条理の世界にも底のない底があって、その底を踏み抜いてしまった。いつもすでにその上に立っている、天意をつきぬけた、あたかも重力の法則を覆すことにも似た驚異がふいに湧出する。それは狂おしい戦慄だが、そこには熱い風が吹いていた。親鸞は「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり」と言った。なにか親鸞の言うことがよくわかった。吉本隆明は「マチウ書試論」の最後で関係の絶対性と書き記した。この関係の絶対性は往相廻向の言葉として言われている。世界の底が抜けるということは関係の絶対性を踏み抜くこととしてある。むろん自力ではない。縁によって向こうから一方的にやってくるということだ。もしも外延表現が表現のすべてであるとしたら吉本隆明の思想はいまでもゆるぎないものとして存在していると思う。

吉本隆明の思想の型についてみたび問い、答える。たしかに吉本隆明は国家の成り立ちを言葉によって開示した。国家という共同幻想のしくみをかれは解明した。この思想によって自己が自己ともつ関係とも、対や家族の関係とも、共同性の成り立ちやしくみは次元が違うということを始めて解き明かした。共同幻想という思想からわたしは大きな恩恵をうけた。それによって生きられた生もある。しかし吉本隆明が解いた国家という共同幻想は共同幻想の高みから折り返す道がない。たどることはできるが、帰り道がないのだ。親鸞について驚くほどの探究心をもちながら、吉本隆明は親鸞の信の解体がどういうことであるのか遂に身をもって体験することはなかった。吉本隆明においても思想は未然である。民主主義を唱道する市民主義で吉本隆明は生きることができなかった、それはたしかだ。傑出した野生の思考を生きた思想家だということも、雄渾な思想をかれが生き、貫いたということも実感としてわかる。
わたしはこの思想の型を自己意識の外延表現と名づけた。それがどんな思想であろうとだれがやろうと外延表現は自己に先立つ根源を外延的にとりだすことしかできないので、自己意識の余剰がかならず特異的にのこる。たんてきにそれは自己がそれ自体としては空っぽであることに起因している。国家が共同幻想であるとしたら、国家を相対化し消滅に導く契機がどこかにあるはずだ。この契機を吉本隆明は大衆のありように求めた。理念として追い求められた大衆という理念は、理念と現実の大衆へと不可避に二重化される。知的な大衆とほんとうの大衆はなぜ分離するのか。理念としての大衆が自己において実現されるなかに、自己に附随する特異的な空虚を消尽する契機があると吉本隆明は言いたくてたまらなかった。答えて云う。理念でとらえた大衆が現実には分離し、二重化されるのは外延思想からする必然なのだ。むしろ分離するのが自然なのだ。外延的な思想はこの逆理に答えることができない。

菅原さんの卓越した吉本隆明論に誘発されて吉本隆明の思想について少し書いた。吉本さんが言ってきた、観念が増殖することは価値ではなく自然過程に過ぎないという考えや、この気づきを根っこで支えている生存の最小与件という思想や、無限遠点から人間を俯瞰する世界視線という思想の卓越性はこれからものこりつづけるとわたしは思う。このメモも、問い、問いながら答えようとした、若い頃うけた思想的な恩恵にたいする、わたしなりの吉本さんへの答礼のひとつである。吉本隆明さんがさわった自然は民主主義の理念を唱える者らとは違ってはるかにリアルで生々しいものである。たしかにそこには吉本隆明が触れて生きた自然がある。わたしたちはこれから宮沢賢治が生きた自然について探索をつづけることで吉本隆明の自然を包み込もうと意図している。

    3
少しずつ宮沢賢治の作品を読み進めている。読み込むほどに渦が深くなり、いよいよ謎は強くなる。宮沢賢治とはいったい何者なのだ。しだいにほんとうはまだだれによっても読み解かれていないという気になってくる。かれの作品の背後に滅亡に向かって突進したこの国の当時の世情があることは、「何をやっても間に合わない」「世界ぜんたい何をやっても間に合わない/・・・・・・・・・/その親愛な近代文明と新たな文明の過渡期の人よ」からも、森羅万象をまるごと山川草木悉有仏性として救抜しようとした「・・・・・・・・/空には暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるへてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」という「業の花」という詩からもわかる。ケンジを襲った覚知はヴェイユの「匿名の領域」とおそろしいほどぴったり重なっている。こういう狂おしい気持ちを満身に浴びかれは作品を書いた。

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。・・・・・・・・ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」(『「注文の多い料理店」序』)
ケンジのしんとした透明な作品が「世界ぜんたい何をやっても間に合わない」や「業の花」を後景にもっていたというのはびっくり体験だった。ケンジの宗教体験を吉本隆明は「狂者の拘束衣」と呼んだが、違う。指摘が外在的すぎる。ケンジはそのなかにいてそこを生きたのだ。「わたくしにもまた、わけがわからない」こととして。

ふいに思った。ケンジの作品の感想を記すには記す言葉の器をおおきくしないと作品の言葉がこぼれてしまう。ほんとうにはまだ読まれていないというのはそういうことだ。ケンジの作品をたどりはじめてすぐにマルクスの美しい文章を思いだした。そこにはつぎのように書いてある。

人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間にたいする〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。(『経哲草稿』ブログでは傍点は略)

①「男性の女性にたいする関係」と、②「人間の人間にたいする関係」と、③「人間の自然にたいする関係」は互いに離接しているにもかかわらず、3つの推移律を強引に接合し、類推と対応の魔術によって世界を記述するというのがマルクスの文章の特徴としてある。なんとなくそうだよねと云う手応えがいつのまにか巻き取られマルクスの術中の落ちる。完全にヘーゲル譲りだと思う。
吉本隆明はかつての痛恨の現人神体験を経て、ここをていねいに取りだし、国家の起源を見事に記述した。わたしはあるときに3つの推移律を強引に接合する力が同一性だということに気づいた。確乎とした同一性がなければ、3つの命題はてんでばらばらなのだ。錯認したり倒錯したりしながら無意識に世界をつくってきた。そこに吉本隆明はきっちりと論理の筋目を入れた。それがかれの幻想論だ。画期的な思想だった。

マルクスが男性の女性にたいする関係を、人間の人間にたいする関係に、さらに人間の自然への関係へと外延するとき、表現の器がおおきくなりつつあるように見えて、しだいに対象世界がひろがっているようにみえて、じつは器が小さくなってしまっていることをわたしは発見した。人間の自然にたいする関係へと表現が拡大しているように見えるのだが、なにか入りきらないものがそこに無理して詰め込まれてしまっている。この無理がマルクス主義の厄災として歴史に登場し、いまなおその余塵はくすぶっている。わたしの理解ではマルクス主義の言葉を使わないもっともソフトな社会思想が民主主義の理念ということになる。過ぎ去ったマルクス主義にしても民主主義の理念もいずれにしても人格の表出の形式にすぎないのだ。
レヴィナスの思想も、まずはじめに男性の女性にたいする関係が自我を超越する形式として想定され、いつのまにか他者一般に外延化された。
偉大な才能も間違った一般化をやると、立ちどころにやり損なうということだ。しかしこれはいったいどうしたことなのだ、という不可解さがケンジの作品にはない。狂おしくてしんと張り詰めているがおおらかなのだ。一気に惹き込まれた。読むごとに謎が深まる。当の本人がわからないと言っている。「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」、と。

おそらくケンジの無意識だと思うが、森羅万象の共喰いと共鳴りの世界をそのままになめらかにつなげたいという狂おしさがケンジの表現意識の根柢にある。人間世界の共喰いの実相も、その人間の自然への侵入や収奪も、宮沢賢治の根っこでは異和そのものだった。人間の人間にたいする対立や、人間が自然をそのつど簒奪することを、かれは嫌った。だから時代の精神を共鳴器のように響かせ、狂おしく生き急ぎ、夭折したのではないか。ヴェイユのように。

わたしはわたしが造語した内包自然という器にケンジの作品の言葉を入れてみたい。わたしたちがふつう自然と考えているものよりもっとふかい自然を宮沢賢治は知覚していたのではないかと思えてならない。この自然を内包自然(じねん)と呼べば、ケンジの作品はそのうえに成り立っている。内包自然はずいぶん前に着想して、この10年余、放置してきた。あるきっかけでふっと根源の性がだれのなかにも無限小のものとして埋め込まれているのではないかと考え始めたとき、あらためて内包自然が前景に浮かびあがってきた。

真木悠助の『自我の起源』や見田宗介の『宮沢賢治』も吉本隆明の『宮沢賢治の世界』にも目を通した。見田宗介も吉本隆明もケンジにかんしてはどこへもたどりついていない。なんといってもケンジの作品の言葉が茫洋としておおきすぎるのだ。彼らの批評の言葉の網の目が粗すぎて作品の言葉を掬い切れていない。そんなふうに思えた。もっとやわらかい作品への触れ方があると思う。わたしは内包論から宮沢賢治の不思議な作品を語りたい。

わたしの考えでは、還相の性があるから、根源の性の分有者の真芯にある還相の性の余熱によって、外延表現としての自己が、〔わたしがわたしでありながら〕、〔わたしがあなたである〕という同一性からは逆理としてみえるありかたに拡張され、そこに同一性からは背理でしかない〔領域としての自己〕が実現されてしまうのだ。
還相の性を〔領域としての自己〕として生きるとき、それぞれのひとの固有の生に内挿されている根源の性の分有者は、互いに、外延論の喩として言えば、一切の有情によって、「みなもて世々生々の父母兄弟」(親鸞)であるかのようにおのずとつながる。だからだれのなかにもあるそれぞれの根源の性から発したそれぞれの分有者たちは三人称としてではなく、喩として、あたかも家族のようなものとして表現されるほかない。この表現を、〔喩としての内包的な親族〕とわたしは名づけている。このように分有者が連結するという知覚はわたしに固有のものだが、いまはだれにとっても可能なものだと思っている。

還相の性がだれのなかにも、それが無限小のものとして、痕跡のようにして根づいているということ。だから歴史はそのひとが意識するか否かに関わりなく内包と外延をはるかな太古から飽くことなく延々と繰り返してきた。わたしたちの知る、身が心をかぎる外延という同一性の表出の歴史ではその痕跡は神や仏として表象された。
いまの若い者は見えるものしか信じない、ああ嘆かわしい、世も末ぢゃ。わが鶴見俊輔も白川静も吉本隆明も石牟礼道子も外延の鞏固さに圧倒され、人類は滅亡への道を進んでいると嘆息した。いや、違う。人間というものはもっとしぶといぞ。もっとしたたかだと思う。見えるものしか、実体化できるものしか信じていないというのはよくできたうそだ。ひとはやすやすと目に見えないものを信じているではないか。一人の漂泊者(バガボンド)ともう一人の漂泊者(バガボンド)が互いに惹かれ惹きあい、その目に見えない有情を信じて、その刹那、〔性〕を同一性に封じ込めることになったとしても、内包の面影を宿しながら対や家族を連綿として営んだ。だから詩経の葛生という詩が吐息のようにしてつぶやかれたのだ。
人格の表出がかたどる外延史がわたしたちの知る、わたしたちがそこを生きてきた歴史だが、目を凝らすといつもそこには内包が無限小のものとして埋めこまれている。それは信じてもよい。

宮沢賢治の作品世界の固有性は、ケンジの情緒が内面化して表現されたものではなかった。ケンジの表現意識はおそらく内面化も共同化もできないこととしてそれ自体の表現を遂げているようにわたしには見える。ケンジの作品の不思議な印象はそこからきている。わたしはこれから内包自然という知覚の場所から宮沢賢治を読み解いていく。

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