日々愚案

歩く浄土61:内包親族論5-ふたつの共同体:ブランショと皇后の美智子さん

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数少ないブログの読者にとってこの稿の前半はわかりにくいと思う。ブランショの共同性についての考察を、かれに影響を与えたジョルジュ・バタイユやジャン=リュック・ナンシーの著作を既知のものであることを前提に、論註しているからである。そのわかりにくさをいくらかでも緩衝するために西谷修の解説や批評をつけ加えた。そのことも含めて論難する。ブランショは自己に超越する大義がなした人類史の規模の厄災を経たうえで共同性とはなにかということを書いている。共同性に貼りついた至高性や狂信や高揚をなんとかなだめたいという意図がそこにある。ブランショもバタイユもナンシーも、いうまでもなく西谷修も共同性をうまく説明できていない。

わたしからはかれらがなにを考え、どこに位置し、どういうふうに思考が滞留しているのかよくみえる。共同性を内在的にあつかい実体化された共同性を反転させたいのだ。そのモチーフはよくわかるが、外在性としてではなく内在性として共同性をあつかうその意識の呼吸法が外延的なのだ。ここを解かないかぎり外在的であろうが内在的であろうが、共同性はいつまでも共同幻想でありつづける。

還相の性がどういうことであるかを、感じながらよく考えると、考えただけ内包自然の輪郭がはっきりしてきて、その度合いに応じて表現が深くなり、わたしたちが三人称として生きている外延世界を巻き取っていくことになると内包論の考察をすすめてきた。
喩としての内包的な関係、それをわたしは内包的な親族と名づけようとしているが、内包論の探究とともに、わたしたちの知る文学や芸術の形式も、三人称の世界が不可避とする国家や共同体、あるいは社会を還流する貨幣はいまとはちがう相貌をあらわすことになるだろう。おおいなる観念の飛躍と豊穣な生の源泉がまったく未知のものとしてそこにひらけてくる。わたしは内包論でそういうことを考えてきた。

わたしのこのもくろみから、むかし読んでずっと気になってきたモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』を再読し、論註を書いてみようと思った。共同幻想のない世界を内包論で構想しているわけだから、気にならぬはずがない。ヘーゲルからマルクスに受け継がれ、縮小されて生き延びている知の系譜を相対化しようと意図している。かんたんにいえば内包論で作ってきたいくつかの概念で蓄積された知の諸学を拡張したいのだ。そこにはヨーロッパ的知の制約と、日本的情緒のありようを、おなじモチーフで、拡張してみたいというわたしなりの切迫感がある。
再読し、かなりびっくりした。ブランショはどこへもたどりついていない。内容の空疎さは翻訳の生硬さや稚拙さによるのかもしれない。訳者による長い解説文も読んだぞ。著者にたいしても訳者にたいしても、言葉をもてあそんでいるだけではないか、なにが言いたいんだよ、という不満が残った。閉じた言説圏での解釈された世界はあっても、生きられる現実はどこにもなく、ましていま進行中の押しよせるグローバリゼーションによる猛烈な社会革命に抗しようもない。干涸らびて貧血した言説が空しく宙を舞っている。わたしにはそう思えた。ブランショの本を読んでいて、こんなものかと思い、なんだか少しかなしかった。

そこで三読。
無惨なものだと思った。世界の現在はとっくにブランショの問題意識を抜き去っている。
バタイユの天衣無縫さに翻弄され、ナンシーのあざとい弁舌になかば脅迫され、挟み撃ちに遭って悶絶したブランショの呻き声が読後に残響として残る。大知識人であることも高潔な人であることも書かれた文章からつたわってくる。しかしどこへも突きぬけていない。『明かしえぬ共同体』から印象的な箇所を引用する。

①ナンシーに触発された『明かしぬ共同体』
 ジャン=リュック・ナンシーの意義深いテクストを糸口に、私は、決してとだえることはなかったがときおり言葉にされるにすぎなかったあるひとつの考察を、改めて取り上げてみたいと思う。その考察とは、共産主義のもつ要請に関するものであり、また、共同体を見失いそれが何であるかを理解することすら困難になってしまったかに見える時代において(だが、共同体とは了解という事態の埒外にあるものではなかろうか)、その共産主義の要請と共同体の可能性あるいは不可能性とがいかなる関係にあるのか、ということをめぐるものであり、さらには、共産主義、共同体、といった語が含みもっていると思われる言語の欠陥に関するものである。これらの語が、ある集合体、あるグループあるいはある評議会、団体等に所属している―いかなるかたちにもせよそこに統合されることは肯んじないとしても―とみずから信じてもいるだろう人びとの間に、共有されているようなものとはまったく別の何ものかを担っているのだということを私たちが感じとるならば、それはおそらく無視することのできない欠陥であろう。

 共産主義、共同体、といった用語は、歴史が、そして歴史の壮大な誤算が、破算と言うをはるかに越えたある災厄を背景にしてそれらを私たちに認識させる限りで、まさしく一定の意味を帯びた用語である。辱しめられた、あるいは裏切られた概念というものは存在しない。あるのはただ、おのれ自身の―従って自身に背く放棄(単なる否定ではない)なしには「しかるべき」ものとはならない概念であり、そうしたものこそ、私たちが安んじて拒否したり忌避したりしてすますことのできないものなのである。望むと望まざるとにかかわらず、私たちはまさしくそうした変節によってこれらの語と結ばれている。(7~9p)

レヴィナスの奥さんをナチから匿いとおしたブランショにも大戦への深い悔悟がある。それが「自身に背く放棄」だ。その覚知からブランショはどこに向かうのか。あるときレヴィナスの思想に震え、自同者の組み替えを意図した。

②自同者の組みかえ
しかし、人間と人間との関係が自同者の自同者に対する関係ではなくなり、還元しえないものとしての他者、彼を注視する者に対して対等でありながら、その者とはつねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そこを領するのはまったく別の種類の関係であり、この関係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのないある別の社会形態を必然化することになる。あるいは人は、ある共同体をめぐる思考の中で何が問われているのかを自問し、またそうした思考はそれが存在したにせよしなかったにせよ、必ずしも最終的に共同体の不在を結論づけはしないのではないかと自問しながら、このまったく別の社会形態をあえて共同体と呼ぶことがあるかもしれない。(13p)

ブランショはほとんど共同体と名づけようもないある別の社会形態が必然化されることを熱望する。しかしレヴィナスは言っている。第三者が登場するやいなや国家が要請されると。レヴィナスの思想では国家は不可避な事態なのだ。なんどもなんどもくり返し言ってきたが思考の枠組みそのものが拡張されるべきなのだ。自同者が存在しえないほどに。

③『明かしえぬ共同体』が書かれた時代の雰囲気
戦争の重圧の下で書くこと、それは戦争について書くことではなく、戦争の地平の中で、それがあたかも床を分ち合う伴侶でもあるかのようにして(戦争がひとにわずかな場所を、自由の余地を残すものとして)書くことなのである。

 「共同体」の、あるいは「共同体」への、この呼びかけは何ゆえのものなのか、思いつくままに、私たちの時代の歴史を構成していた諸要件を列挙してみよう。まず諸もろのグループ (中でもシュルレアリスト・グループは、愛されもし呪詛されもしたグループの典型である)、そして、未だ存在しない理念のまわりに、あるいは度を越えて存在する主導的人物たちのまわりに形成された多種多様な人の集り。そこには何よりまず、ソビエトの記憶と、すでにファシズムとして現実化していたあるものに対する予感があった。しかしその意味も、成り行きも、既製の概念のわく組みでは把えきれず、それを思考する段になると、事態は低劣で唾棄すべき側面に否応なく還元されるはめに陥るか、あるいは逆に、何やら重大な驚くべきものがそこにあることは予感されながら、それがまともに思考されえないものであるためにそれに対する十分な闘いも組みそこねてしまう、そんな事態を示唆するものだった。(16~17p)

共同性を自同者の組み替えでなそうとしたブランショの嚇々たる意志が述べられている。自同者は不可避に不全感を生み、それを埋めようとして狂乱の共同性へ昇華されるという逆説をブランショもまた経験したのだと思う。

④生の不全感
 バタイユに代って、なぜ「共同体」なのか、という問いをもう一度繰り返してみよう。答えはかなり明確に与えられている、「おのおのの存在者の根底には、不充足の原理がある」(不完全性の原理)と。これが原理であるという点によく注意しよう。原理である、とはすなわちそれがひとりの存在者の可能性を統御し秩序づけるものだということである。従って、この原理としての欠如は補完の必要性を伴わない。存在者は、おのれ自身で満ち足りてはいないが、だからといってひとつの欠けることなき実質を形づくるために他の存在者と結びつこうとするのではない。不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付すことから生じる。そしてこの付疑が果たされるために他者が、あるいはもうひとりの存在者が必要なのである。(18~19p)

共同性ではなくもうひとりの他者が要請されるとブランショは言う。たしかに自同者は根源のつながりの関与的な存在から同一性によってもたらされるのだ。そこから自同者は根源の性の分有者へと拡張されるはずなのだが、ブランショにとってはそうはならなかった。それが歴史であり、依然としてわたしたちはそこに生きている。否定的な共同性、つまり共同体をもたない人びとの共同体を言葉の遊びとして招き寄せている。いったいどうしたことか。生の不全感にみたされた自同者がただ裏返るだけである。かろじて友愛ということで自己と他者をつなごうとする。それがバタイユの体験的な友愛だ。

⑤死が共同体を基礎づける-バタイユの友愛
 では、何にもまして私を根底から問い糾すものは何なのか? 完結したものとしての、あるいは、死に関わるないしは死に向う存在の意識としての、自己自身に対する私の関係ではなく、他人に対する、それも死に瀕し消え去りつつある他人に対する私の現前がそれである。死に瀕して決定的に遠離ってゆこうとする他人の間近に現前し続けること、他人の死を、自分に関わりのある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあってそれ〔共同体〕を開示しつつ、その開口部に向けて私を開くことのできる唯一の別離なのである。ジョルジュ・バタイユは言う、「同胞が死んで行くのに立ち合うとき、生きている者は、もはや自己の外に投げ出されてでなければそれに耐えることができない。」「死にゆく者」の手をとりながら「私」が彼と続ける無言の対話、私はそれを、ただ彼が死ぬのを助けるためにのみ続けるのではない。彼のもっとも本来的な可能性でもあるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼の所有の権能を根底から奪い去ってゆく限りでひとと分かち合うことのできない彼固有の所有に属するとも思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話を続けるのだ。「そうだ、確かに(とはいえいかなる真理に照らして?)きみは死んでゆく。だが、死に瀕してきみはただ遠離ってゆくわけではない。きみはなおここにいる。なぜなら、きみは今、この死ぬということを、あらゆる痛みを受け渡す同意であるかのようにして私に委ねている。そして私はそこで、身を引き裂かれながらそっと身震いし、きみとともにことばを失い、きみの助けなしできみとともに死に瀕し、きみのかわりに死に身を委ねて、きみをも私をも超越したこの贈り物を受けとろうとしているからだ」。それに対してこの答えがある、「私が死んでゆこうというのに、きみを生
きさせる幻影の中で」。それに対してはこの答えがある、「きみが死んでゆくというのに、きみを死なしめる幻影の中で」(『彼方への歩み』)。(28~29p)

とても通俗的なことがブランショのバタイユ理解として述べられている。おい、おい、追い越しえぬ死の先駆性をだしてどうするんだ。使い古された手口ではないか。バタイユの言葉の重量とナンシーの分割という考えのはざまで翻弄されているブランショが顔をのぞかせている。共同性はけっして自己に超越する永遠のなにかではなく、有限なものが有限であると規定された主体がそこに帰属もできず、見返りもないある無償の供与として成り立つ、と言いたくてたまらない。ブランショがナンシーのあざとさに眩惑されている箇所として読むことができる。おっとどっこいとわたしは思う。ニヒリズムの置き換えであり、すり替えなんだよ、この手口は。小理屈をこねくりまわす人たちはこの手品に引っかかると思う。共同性につきものの欺瞞と虚偽を裏返しているだけではないのか。はっきり言ってバタイユとナンシーは互いにふれあうことはないのだ。ブランショはきりきり舞いしながら、つなぎようのない言葉を無理に接合しようとしている。

⑥ブランショが理解するナンシーの無為と分割
ジャン=リュック・ナンシーは言う、「共同体は、不死のあるいは死を超えた上位の生の絆を、諸主体間に織りあげるものではない……。その成立からして共同体とは……、おそらくは間違って成員と呼ばれている人々の死に向けて秩序づけられたものである。」事実「成員」とは、ある契約に従って、あるいは止むをえぬ必要にかられて、あるいはまた血縁や民族さらには人種のつながりを承認することによって結びつけられるような、充足した単位(個人)に送り返されるものである。
死に向けて秩序づけられている、とはいっても共同体は、「その営みに向けて秩序づけられている、という場合と同じようなかたちで死に向けて秩序づけられているわけではない。」共同体は「そこに属する死者たちを、何らかの実体あるいは何らかの主体―祖国、故郷、民族……絶対的ファランステール、あるいは聖体……に変貌させる働きをするのではない。」そのあとに続く数行も重要ではあるが、それをとばしてみると、私にとっては最も決定的と思われる次のような断言にたどりつく、「共同体が他人の死によって顕現されるのは、死がそれ自体、死すべき者たちの共同体だからであり、かれらの不可能な合一だからである。共同体は従って次のような特異な位置を占めている、すなわち共同体は、それ自身の内在性が成立せず、主体としてそこに所属することはできないというそのような不可能性を引き受けている。共同体は、いわば共同体の不可能性を担い、それを刻みつけているのである。…共同体とは、その『成員』に必ずや死ぬという彼らの真実を提示するもの、あるいはその提示そのものにほかならない(不死の者の共同体は存在しないということだ…)。それは、有限性と、有限な存在を基礎づけている見返りのない過剰との提示なのである……。」
 〔ナンシーの〕考察のこの時点には、二つの本質的な特徴がある。(一)共同体は限定された社会の一形態でもなければ、合一による融合を目ざすものでもない、(二)社会的な小単位と違って、共同体は何らかの営みをなすことをおのれに禁じており、いかなる生産的価値をも目的としていない。では、それはいったい何の役に立つのか。何の役にも立ちはしない。ただ、死のさなかにいたるまで他人に対する奉仕を現前させ、そのことによって彼が、孤独に消え去るのではなく、死のさなかで自分が誰かに代補されていると感じ、同時にこうして得ている代補を彼がもうひとりの他者にもたらす、そうした事態が生ずるために役立つといえば役立つだけである。死のさなかのこの交替が合一にとってかわる。(32~33p)

死も生も生きられることはなく、亡霊となってこの世をさまようしかなくなる。死も生も成仏できないのだ、この意識の型では。而してブランショはナンシーの分割とバタイユの供犠を外延的につないでしまう。概念がちぐはぐで、てんでばらばらだと思う。もったいぶって言いまわすのではなく、死は生の彼岸に共同幻想としてあると言えばいい。

⑦ブランショはバタイユの供犠をナンシーの分割へと外延する
供犠とは、ジョルジュ・バタイユが執着する概念だが、この概念の意味は、それがこの語の歴史的宗教的解釈からある無限の要請へと絶えずずれてゆくのでなかったら、見誤られることになるだろう。バタイユは、彼を他者たちへと開き荒々しく彼自身から引き離すものの中で、この無限の要請へと身をさらしているからである。供犠はマダム・エドワルダを貫いているが、そこではそれとはっきり語られてはいない。『宗教の理論』の中で、それはこう表明されている、「供犠に付すこと、それは殺すことではない。投げ出し、与えることなのだ。」アセファルに関わること、それは、おのれを投げ出し、おのれを与えること、すなわち、無限の放棄に見返りもなくおのれを与えること、なのである。それが、共同体を解体しながら基礎づける供蟻である。この供犠は共同体を分配者としての時間に委ねるが、この時間は、共同体とそこに身を捧げる人々にいかなる形の現前の権限をも与えず、彼らを孤独に送り返してしまう。そしてこの孤独も彼らを保護するどころか分散させあるいはそれ自身霧散し、彼らを再び互いに引き合わせることもなければ、一緒にさせることもない。贈与と放棄とはこのようなもので、つまるところ与えるものは何もなく、放棄すべきものも何もない。(42~43p)

ある時代性を負荷された言葉かもしれぬが、わたしにはこういう言葉の弄び方はなじまない。なんとなく言ってみるだけだということが見て取れるからだ。言葉を当事者性の只中から発すること、そしてそれは生きられる言葉でなくてはならない、という痛覚がわたしにはある。観察する理性としてならば世界はいかようにも解釈しうる。でもそんなものは生の現場でなんの役にも立たない。あっという間にしたたかな現実にからめとられる。マダム・エドワルドも無頭人(ドゥルーズの器官なき身体みたいなもの)もわたしにはなんの痛痒もなかった。

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すこしバタイユについて書く。難解なバタイユの著作の中に遺作となった『エロスの涙』という本がある。頭がゆるくなって書かれた本で1年後にかれは亡くなる。論理がゆるいのでとてもわかりやすいのだが、論理がとても太いのである。切れ味がいいと言うことではない。シンプルなだけその分魅力的なのだ。
『エロスの涙』(樋口裕一訳)でバタイユは言う。

私たちがエロティシズムという名で呼び、人間と動物を区別するこの激しい感情の誕生こそが、まぎれもなく先史学の探究によって知識にもたらされるものの本質的相貌なのである。(54p)

エロティシズムの発見によってヒトは人となったというバタイユの思想はじつに太い。出雲神社のあの注連縄みたいだ。自己は空っぽで、空虚な自己の中にどんな観念でも入りうるとわたしは考えてきた。自己に先立つ根源とのつながりによって自己や人間という現象が立ちあがったのだ。同一性的な生のあり方のなかで、このエロティシズムだけが自己や共同性にたいして特異な位相をもっているという驚きがわたしの内包論である。そのことをバタイユは発見したのだと思う。1897年生まれのひとだからその時代の人たちからずいぶん顰蹙を買ったのではないか。変態おっさんとかじじいとか言われたに違いない。だから気後れしてポルノ小説『マダム・エドワルド』を別名義で書いた。この小説については「歩く浄土46」で書いたのでくり返さない。祭り上げられた女性は精神のありようは少しヘンだったかもしれないがいまならありきたりだと思う。それぐらいは時代が変わるということかもしれない。

「エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である」という太い直感をかれは表現した。セックスの快感で小さな死をくり返して最終的な死に至るとバタイユは考えたが、じゅうぶんに考え尽くしたとは言いがたく、言葉のあちこちに隙間がある。ここにある隙間が、あるいは死の非連続を連続へと転化させるエロティシズムのあいまいさが、かれがアーメン小僧であったことへの郷愁や、ソ連への色目になってあらわれた。わたしが若い頃でもソ連への媚や幻想はすでになかったので、そのあたりは実感できない。
エロティシズムの発見はバタイユにとってフロイトのエスのようなものとしてあらわれた。どういう思想であれ時代から思想は囲繞されるということなのか。内在を外在として触るというやり方だ。

理性の「末端」は理性を超えるものであり、それゆえ、理性の「目的」は理性を超越することと矛盾しないという事実、その事実にこそ、理性の限界があるのだ。(『エロスの涙』45p)

たしかにそうだ。だから理性の限界はあたらしい言葉で語られるほかない。バタイユは存在を外側から内在的に触っている。みな言葉をつくる手つきがおなじなのだ。そういう意味ではバタイユもまた外延表現の思想家だったと言える。かれを襲った出来事を外側からなぞるのは観察する理性の特技だが、バタイユは発見の驚きを内在的に触ろうしたことにおいて思想家だった。

『エロティシズム』(樋口裕一訳)の冒頭でバタイユは書く。

 この作品は二部から成っている。第二部では、エロティシズムという角度から眺めた人間生活のさまざまな面を、統一的な見地から系統的に述べた。
 第二部には、独立した論文を集めたが、そこでも私が取り組んだのは同じ問題である。全体の統一は否定すべくもあるまい。二つの部とも、問題とされているのは同じ追求なのである。第一部の諸章と独立した各種の論文とは、戦時から最近にかけて、同時に追求されたのである。もっとも、こうしたやり方には欠点がある。私は無駄な繰返しを避けることができなかった。とくに第二部で扱われたテーマを、私は時として、第一部で別の形で繰返した。こうしたやり方も、それが作品の総体的な外観にふさわしければ、それほど不都合はあるまいという気がしたのである。この作品では、個別的な問題はつねに総体的な問題を含んでいるのである。或る意味では、この書物は、違った見地からたえず繰返される、人間生活の概観ということにもなるであろう。

 このような概観に目を奪われていた私にとって、何よりも大事なことに思われたのは、私の青春期につきまとわれていたイメージ、すなわち神のイメージを、一つの総体的な展望のなかに再発見し得るかどうかということであった。もちろん、私は青年時代の信仰にもどるつもりはない。しかし私たちが住んでいるこの見棄てられた世界において、人間の情熱は一つの目的しか持っていないのである。私たちがそこに近づく道は多種多様である。この目的には、じつに多種多様な面がある。しかし私たちがそれらの面に意味があると思うのは、それらが深いところで統一されているのに気がつく場合のみである。
 この作品においては、キリスト教の衝動とエロティックな生命の衝動とが、同じ一つのものとして発露しているという事実を強調しておこう。(6~7p)

キリスト教とエロティックな衝動がおなじひとつのものとして発露されているという事実はバタイユの発見である。おなじことにわたしもむかし気づいた。神という超越ぬきに存在を語る困難にハイデガーも遭遇した。この領域はだれがどのようにやろうと困難だと思う。

つづいてバタイユは言う。

ともあれ、この郷愁は、すべての人間にエロティシズムの三つの形式を強制する。
 この三つの形式、すなわち肉体のエロティシズム、心情のエロティシズム、最後に神聖なエロティシズムについて、私は順次に語って行きたい。そして語ることによって、この三つの形式の中でいつも問題になっているのが、存在の孤独と非連続性とを、一つの深い連続性の意識に代えることだということを示したいのである。(23p)

わたしはエロティシズムの三つの形式において、バタイユの考えたこととは異なって、じつは死という共同幻想ではなく、生を発明したのだと思う。それを可能とするのが内包自然で、その内包自然のまんなかに還相の性があり、そこにおいて「存在の孤独と非連続性」はなめらかにつながることになる。かれは生涯、生を充たすものを探しつづけた。それがバタイユにとってエロティシズムだったわけだが、心情のエロティシズムと神聖なエロティシズムを外延的につないだ。そのときの媒介が喩としてのマダム・エドワルドで、そこにおいて奇矯な女性は聖なるものとして可視化されている。やり損なったな、とバタイユは気づいたのだろうか。

青年時代に信仰をもっていたが、そこにもどるつもりはない、とバタイユは言う。しばらく前に「歩く浄土」でバタイユについて少し書き、もの足りない気がしていた。エロティシズムの三つの形式のうち、心情のエロティシズムと神聖なエロティシズムは深いところでどういうふうに統一できるか。バタイユはマダム・エドワルドで女性を神聖化し、つまり実体化することでこの困難を可視化してしまったように思える。だからバタイユの言葉の紡ぎ方が、バタイユにとっての内在を空間的に、ということは外在的に語っているようにわたしに感じられたのだと思う。
わたしは生の不全感と、不全感に先立つ超越がひとつの深い連続性に転化するには、外延論としては領域としての自己を、内包論としては内包自然を想定するよりほかに途はないように思う。ここで世界はゆるりと反転する。心情のエロティシズムを還相の性で包み、内包自然に棲まえばよかった。自同者よりずっといいぞ。
ブランショの『明かしえぬ共同体』をよんでもいっこうにすっきりしなかったのは、ブランショが解けない方法で、解けない主題を解こうとしているからだった。それはバタイユにおいてもくり返された。ブランショさん、どうする。

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さあ、どうする。
ブランショが『明かしえぬ共同体』でよく引きあいに出す、根源の問いをずらすのが好きなナンシーについて少し。
生の有限性を無限ではなく生の有限性である共同性へと差し戻すのがかれの哲学だと言える。共同性の意味化を消して、共同性の価値を裏返すことで、マルクス主義や共同性にまつわる迷妄を解こうとした。臨在する死が共同性を引きよせるとナンシーは言う。
弁舌のあざとさがある。自己意識の無限性は内包のきりのなさの表現としてあるにもかかわらず、かれは自己意識に先立つ根源とのつながりを可視化し実体化することで、自己や共同性を有限なものへと限定する。なにか機能主義的な匂いがしないか。死はひとりでは成就しない、死を看取る者がいて、死は成就するという俗見をかれは導く。この死の臨在が共同性なのだとナンシーは言っている。かれが心臓移植を経て生きているという事実が分有ということをもっともらしく見せる。医療の進歩によって生が延長されるということはそれ自体である。ドナーとレシピエントは匿名においてしかつながらない。しかし他者の死によってナンシーは生を延長できている。しかしいずれにしてもお迎えが来るのであって、その不可避性は毫も揺るぐことはない。

①分有とは次のような事態に対応している、すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。とはいえそれは、あたかも共同体が弁証法のモードや合一のモードに則って私にとって代わるような別の主体であるかのように、共同体においてあるいは共同体によって再び投じられた私の実存ではない。共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であり、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である。言いかえれば、無限で絶対的な共同体と比較して限定された共同体ということではなく、有限性の共同体なのである。なぜなら、有限性こそが共同体的「であり」、それ以外の何ものも共同体的ではないからである。(『無為の共同体』西谷修・安原伸一朗訳  50p)

②ナンシーの身体の現場
 わたし(誰?「わたし」だって? まさにそれが問題、古くからの問題だ。この発話の主体とは何なのか? 発話内容の主語にとってはつねによそ者であって、その主語にとって避けがたく侵入者であるような、しかしまた必然的にその駆動力であり、シフターあるいは芯であるような)―わたしが他人の心臓を受け容れてから、やがて一〇年になろうとしている。(『侵入者』7p)

②臓器提供を奨励する目的で、ドナーとレシピエントの間の連帯意識とか、友愛とかがおおいに強調された。そしてこの贈与が、人間(この語の二つの意味において) にとっての基本的義務になったというのは疑いえないことだし、それが血液型の不適合という以外の何の限定もなく(とりわけ、性的、あるいは人種的な限定はなく、そのためわたしの心臓は黒人女性のものであるかもしれない) 生/死が分かち合われるネットワーク、生が死と接合され、通い合うことのできないものが通い合うネットワークというものの可能性を、万人の間に設定したということも疑いえない。
 とはいえ、すぐに、よそ者としての他者が顕在化してくる。女性だとか、黒人だとか、若者だとか、バスク人だとかでなく、免疫学的な他者、置き換えられないのに置き換えられてしまった他者だ。その他者の顕在化が「拒絶反応」と呼ばれる。わたしの免疫システムが他者のそれを拒絶するのだ (ということは、「わたし」には二つのシステム、二つの免疫上のアイデンティティがあるということだ)。(同前 26~27p)

③そのうえガンがやってくる。悪性リンパ腫だ。わたしはまったく気づかなかったのだが、ガンになるかもしれないということは(もちろん必ずというわけではなく、罷るのはごく少数の移植患者だ)、シクロスポリンに印刷された注意書に書いてあった。原因は免疫力の低下だ。ガンは、侵入者のおあつらえ向きで、ねじけた、始末の悪いイメージのようなものだ。自分自身のよそ者になって、自分自身が自分をよそ者にする。なんと言ったらよいのか(だが、ガンという現象が外発的なものなのか内発的なものなのかは、まだ
議論されているところだ)。
 ここでもまた、別のやり方で治療は暴力的な侵入を必要とする。化学療法や放射線療法で相当量の外来物を混入させるのだ。悪性リンパ腫が体をむしばみ疲弊させるのと同時に、治療が体を攻撃し、いろいろなしかたで苦しめる―苦痛というのは、侵入とその拒絶との関係なのだ。そして苦痛を和らげるためのモルヒネさえも、ほかの苦痛を、思考力低下とか錯乱のかたちで引き起こす。(同前 34~35p)

先進医療は錯綜しゆくえが定まっていない。移植医療はやがて再生医療が代替するようになるだろうし、そうすればナンシーの問いの立て方も変化する。ブランショはナンシーの問いかけに真剣に応答しようとした。治療の選択肢をめぐってそのつど態度表明が迫られることはあるにしても、大半は医療の領域の出来事であって、生の有限性や固有性とは異なるとわたしは思っている。心臓移植を受け入れながら医学や医療を根柢的に批判する姿勢はナンシーにはまったくといっていいほどない。なにを選ぶかは面々の計らいだとしても医療に隷属する生しかかれにはないようにわたしにはみえる。それはとてもつまらぬことだ。

こうやってナンシーを襲った出来事を西谷修が解説する。『ハーモニー』の世界が現前する。なにか新しい生が始まりつつあるのだろうか。

①西谷修の解説―〈分有〉の思考の運命
 通常ならこの語は、複数の人びとが何かを分割して分け合うとか、ひとつのものを分有するとか、分かち合うといったことを意味するが、ナンシーはそれを、人びと(主体たち)の行為としてではなく、〈分割〉という非人称の(つまり誰にも属さない)出来事という観点から捉え、この出来事によって分割されたもの同士が、分離され個別化されながらも同時にそのことによって不可分に結ばれる、という関係の局面を強調する。その関係が、〈分割〉あるいは〈接触〉によって自己へと送り返される複数の存在の輪郭の端緒となる。人間の共同性というのは、個人から出発して、個を超える何らかの実体として構想されるものではなく、そのような〈分割〉によって個々の主体がそれぞれ自己へと送り返されることで構成されるという事態のうちに、〈分有〉という形ですでに起こっているということだ。(『侵入者』 63~64p)

②西谷修の解説―死はひとりでは完結しない
そのために〈わたし〉はつねに〈と共にある〉存在なのである。人間存在のあり方について考えるとき、ひとは〈人間〉ないしは〈存在〉といった一般的概念から出発したり、あるいは意識としてすでに個別化された主体から出発したりする。そしてその二つの観点は、「類と個」あるいは「個と全体」の弁証法によって統合されるものでもある。けれどもその場合、類も個もあらかじめあるまとまりないしは単位として想定されている。だがナンシーはそのような単位をあらかじめ想定しない。〈触れる〉という出来事が、個別化を、〈と共にある〉という状況のもとで目覚めさせるのだ。その〈触れる〉の次元がナンシーの思考の開く場面である。
 ナンシーはこの〈分有〉の概念を今世紀世界の「共同体への要請」の挫折のなかで考えた。「共同体への要請」とは、あらゆる「裏切り」にもかかわらず無数の人びとを共産主義へと促したものであり、あるいは多くの人びとをファシズムへと追いやったもの、そしてハイデガーの存在論を「民族の命運」へと結びつけさせたものである。ハイデガーの言うように人間がその成り立ちからして共同存在であるにしても、その共同性はいかなる実体的存在にあるのでもなく、また何らかの共同体を目指す企てによって成就されるのでもなく、在るものをそれぞれ単独に分かつ〈分割〉として、あるいは〈分割〉の〈分有〉として、つねにすでに起こっており、個々の人間が個々の人間であるということがすでに〈と共に在ること〉、すなわち共存在なのだというのである。
 その〈と共に在る〉の様相を、ナンシーは他人の死に臨在するという体験に引きつけて語っている。誰もが知っているように、人は自分の死を体験することはできない。けれどもまた人に代わって死ぬこともできない。死は、死にゆく誰かに立ち会うことで、永遠に届かぬものとして体験されるだけだ。そのとき人は、死んでゆく人に同一化することによってではなく、死ぬのはけっして自分ではないという突き放されるような事実によって、自分の〈有限性〉に送り返される。(同前 65~66p)

③西谷修の解説―人間の公共化を肯定すること
近代における「人間」の形成とは何より、自律した個人の世界の形成だった。そのとき「人間」とは、まず個々の人間の具体的存在のことであり、必ずしも現実的な人類の全体を指してはいなかった。だが「人間」の理念は世界の一体化とともにしだいに現実化し、その中で個人の輪郭は徐々に薄くなり非人称化してゆき、その非人称性を糾合した誰でもない「全体」が、やがて「人間」を代表するようになる。そして今では何より「人間」とは、現実となったこの全体としての人間のことなのだ。その誰でもない「人間」を、非人称的な公共性が代表する。個人の手を離れた死が帰属するのも、テクノロジーの解放する資材がそのために役立つとされる「人間」も、実はこの誰でもない「人間」つまり公共性なのだ。(同前 110p)

そして個はもはや単独で完結するものではなく、人間が基本的に複合存在であって、個的な人間の同一性とは単一不変の本質として保証されたものではなく、むしろ複合性によって可変なものとしていつでも組織し直されるということを肯定しなければならない。「私」とは誰でもない、その誰でもないことにおいて初めてこの「私」の複合の生があるのだ、とさえ言う必要があるだろう。そのとき死の非人称性も生存の非人称性も、ただ理念としての「人間」に回収されるばかりでなく、その「人間」の概念と現実に新しい内実を与えてゆく積極的な条件となるだろう。( 114~115p)

いったいいつ近代が始まり、いったいいつ勝手に近代が終わったのだと言いたくなる。そういう民主義的身体の公共化がとくとくと痛みもなく語られている。完璧なグローバリゼーションの勝利だなと思う。西谷修が主張するそのことをグローバル権力が日夜実現しつつあるのだ。なにを言うか、この唐変木。眺め降ろしの睥睨する視線。ちょっとだけ顔をしかめながら新しい時代の到来を語る、いったいお前は何者だ。
いまだけ、金だけ、自分だけというのが同一性権力がもっとも好むものだ。それは同一性によって可視化することと実体化することができるからだ。時代の趨勢がこうなることは遙か以前からわかりきったことだった。臓器移植が可能となるように脳死が作られたことは事実だし、新鮮な臓器でなけれれば移植できないハーバード脳死委員会で決められた。そこで語られる生はつぎのようなものだった。
「われわれの第一の目的は不可逆的昏睡を死の新たな判定基準として定義することである。この定義が必要とされる理由は二つある。(一)蘇生手段及び生命維持手段の改善によって、絶望的なほど損傷を受けた人びとの生命を救おうとする努力がますます増大した。これらの努力も、ときには部分的にしか功を奏せず、その結果、心臓は動いているが、脳が不可逆的に損傷を受けた患者が出るようになった。知性を永久に失った患者、その家族、病院、及びこれらの昏睡状態にある患者によって必要な病院のベッドをふさがれている他の患者にもたらされる負担は甚大である。(二)死の定義の時代遅れの基準によって移植用臓器の獲得に関する論争が生じるおそれがある。」(「脳死の定義を検討するためのハーバード大学臨時委員会」)

このおぞましい考えと新しい倫理を強固に唱えたピーター・シンガーの主張はおそろしいまでに同期する。ピーター・シンガーは「人格だけが生存権をもつ」と唱えた。人格の表出にすぎない偉大な事績の遙か彼方にこれらの領域と深淵でもって隔てられた匿名の領域が存在すると叫んだヴェイユとの決定的な違い。かれピーター・シンガーは『生と死の倫理』(1989年刊)で言う。「考えてみてほしい―教育を受けること、人間関係を培うこと、家庭生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄すること、休日の計画を立てること。したがって、・・・・人格だけが生存権をもつ」と言えるのだ。ピーターは脳に障害をもった子を持つ親は出生前診断を受けなかったことによって責めを負うべきであり、たとえばダウン症の子は出生後速やかに死に至る法的措置を講ずるべきであるとグロテスクな倫理を言い張った。
おなじことを熱力学者のエイドリアン・ベジャンも言う。生への衝動は流れを最適化するようにできている。生物・無生物を問わず万物は流れを最適化するように変化する。それが進化史だと。「同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る。」(『流れとかたち』2013年刊)ここまで直裁にはグローバルエリートでも口幅ったくて言わないかもしれない。こういう時代の趨勢と要請のなかにナンシーの生存もある。

西谷よ、「死の非人称性も生存の非人称性」がなぜ公共性のなかにさらされる必要があるのだ。そのどこが新しいのか。お前の痛みはどこにあるのか。すべてが学級会ごっこで生きてきた文化人の戯言ではないか。書いていてアホくさくなってくる。お前が言うことなど、電脳社会の同一性権力がとうにやっていることだ。グローバル権力はやがて真心を商品にするだろう。世界はかぎりなく同一性に同期するように流れていく。その収斂の過程とおぞましさにどうやって抗するというのか。バタイユやブランショにいろいろと文句を言ったきたが、かれらは観察する理性や言説という権力の圏域から全力をあげて脱出しようとし抗命してきた。またナンシーは先端医療によって生きながらえていることを途惑いながら生きている。それだけはたしかなことだとわたしは思う。それでもナンシーは該当者性と当事者性を惑乱して生き、該当者性から生を理念化しているようにみえる。ほんとうはもっと自然なことではないのか。それは内包自然としてある。
ショパンのノクターンのno20とno21をピレリの演奏で聴くとしんと深くなり、キースの新作をノリノリで聴いていると、気持ちがやわらかくなる。音って〔ことば〕なんだと思う。


    1
一木一草、自然のひとつひとつに神が宿るのはアニミズムだと言われてきた。自然にたいするどくとくの感受がないと成り立たない。さまざまな自然が、ある機縁によぎられて、自然を分有することで、それぞれが神となる。もちろん神は仏でもかまわない。山川草木悉有仏性。これは日本的な情緒で、知識ではなく、この島嶼の国に固有の生得的なものともいえる。親鸞も一休さんも芭蕉も宮沢賢治も、そしてわたしたちもそのことを自然に感得している。ある精神の風土としてふかく根づいている。わたしもまたそうであり、そのなかを生きている。万葉集で詠われた詩歌のおおらかさとたおやかさは、意識しなくてもわたしのなかにいまも息づいている。詩歌をつくらなくてもわかるのだ。この心性は理屈ではない。埴輪や土偶や縄文の火炎土器。叙情と叙景。そういうものとして天皇制的な心性というものがあるように思う。
自然を分有するという心性を、東洋や西欧に先立つ根源の一元で巻き上げ、根源の性を分有したらわたしたちの固有の生はもっとひろがるのではないかというのが内包論だとも言える。

いまなぜ天皇制を論じるのか。わたしは戦後の生まれなので天皇の現人神信仰はない。推古天皇以来の偉大な王であった昭和天皇も象徴となった以降しか知らない。若い頃は無関心で特別機密保護法の制定でこの国のゆくえがあやしくなり始めた頃からそれとなく気にかかったきた。たとえばつぎのような言葉を目にしたとき。えっ、とか、あれっ、とか思った。

中沢 天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
内田  今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。
周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
中沢 なさっていることがいちいちご立派です。
平川 今回、祈祷をなさっていたっていうんでしょ?
内田 お仕事ですからね。
平川 ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
内田 震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
中沢 そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
平川 そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
内田 まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。(『大津波と原発』内田×中沢新一×平川克美)

内田 「震災が起きても、なんで掠奪が起きないのか」ってよく言われるけど、海外と日本で一番事情が違うのは天皇がいるってことだよね。
高橋 うん。これは大政奉還するしかないんじゃないの。
内田 いや、ジョークじゃなくて、大きなスパンで今の日本の政治構造を改善しようとしたら、それくらいのスケールにもっていかないと話が見えてこないよ。「革命」とか「大政奉還」とか。それくらい大きな枠組をとって考えないと、どこに向かうべきか、わからないよ。
高橋 もっともリアルな革命は、そっちだよね。
内田 ほんとに「議論の結果、大政を奉還しようという結論になりました」って言っても 、おおかたの日本人は文句言わないよ。
 ― 今の高橋・内田言語を、SIGHT言語に翻訳しますと
内田 (笑)いや、このまま載っけてよ。
 ― 載せるけどさ、要するに天皇という存在は、人格的なありようと、国家の本来的な ありようが、統一的に実現していて。だから、統治者としての理想を実現せざるを得ないというポジションが、もうシステムとしてでき上がってるわけだよね。
内田 そうそう。
高橋 なにより、リベラルだからね。
― そうだね。だから、そういう装置によって、政治的な権力者を作っていかないと、日本というシステムそのもののOSの書き換えは不可能かもしれない。ということを、おっしゃっているわけですね。(『SIGHT』2011 VOL.49 内田樹×高橋源一郎)

ブログですでに使った記事の使い回しだけど、コピペしていて、なにこれ、となる。なにか不意打ちされた気になる。戦前の日本人をすべて巻き込んだ日中-太平洋戦争の狂気。無道と非道と無惨。その中心に朕は国家なりの昭和天皇がいた。臣民は残骸のように遺棄され、頭目は一切の戦争責任を問われずのうのうとおめおめと生き延びた。今回の戦争法でわかったこと。天皇制と民主主義はとても相性がよいということ。枕詞として述べられる「陛下」。日本のリベラルを象徴として天皇家があるので理想の統治を天皇親政でやるために大政奉還せよと中沢新一、平川克美、高橋源一郎、内田樹がちゃらちゃら弁舌する。めまいがしてきた。天皇制の有効な活用法。民主主義も天皇制もせっかくあるんだから、うまいこと使いまわせばいい。凜とするものも一陣の涼風の爽やかさもない。なんなんだ、これは。時候の挨拶として語られた天皇制のメリット。わたしはこういう言説のあり方はよくないと思う。

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国家に君臨した偉大な王であった昭和天皇の息子として生まれた平成天皇は生涯を父親の罪を償いつつ生きた。ああ、おれももっと違うことをやりたかったと思わなかったはずがない。深く同情する。
2.26事件のとき、将兵の叛乱の報に接した昭和天皇は、朕が近衛兵を率いて鎮圧する、と言ったらしい。このとき昭和天皇は武将である。ならば無条件降伏を受諾したときになぜ腹を掻っ捌かなかったのか。とうぜん問いとして成り立ちうる。

平成天皇夫婦にはバイオレンスなものはかけらもなく温厚な印象がある。いまの天皇家はひとえに皇后美智子さんの人としての魅力によって成り立っているとながいあいだ思ってきた。1988年第26回国際児童図書評議会にあてたメッセージからそれを探ってみる。むかし新聞紙上でよんで強い印象があったことを憶えている。便利なんだな、グーグルって。あいまい検索してもすぐヒットした。読みながら、どこかエンデに似ているなと思った。このメッセージで彼女は小さい頃の読書体験を語る。とてもいい風が吹いている。

①読書の根っこ
私は,多くの方々と同じく,今日まで本から多くの恩恵を受けてまいりました。子供の頃は遊びの一環として子供の本を楽しみ,成人してからは大人の本を,そして数は多くはないのですが,ひき続き子供の本を楽しんでいます。結婚後三人の子供に恵まれ,かつて愛読した児童文学を,再び子供と共に読み返す喜びを与えられると共に,新しい時代の児童文学を知る喜びも与えられたことは,誠に幸運なことでした。

もし子供を持たなかったなら,私は赤ずきんやアルプスのハイジ,モーグリ少年の住んだジャングルについては知っていても,森の中で動物たちと隠れん坊をするエッツの男の子とも,レオ・レオーニの「あおくん」や「きいろちゃん」とも巡り会うことは出来なかったかもしれないし,バートンの「ちいさいおうち」の歴史を知ることもなかったかもしれません。

児童文学と平和とは,必ずしも直線的に結びついているものではないでしょう。又,云うまでもなく一冊,又は数冊の本が,平和への扉を開ける鍵であるというようなことも,あり得ません。今日,この席で,もし私に出来ることが何かあるとすれば,それは自分の子供時代の読書経験をふり返り,自分の中に,その後の自分の考え方,感じ方の「芽」になるようなものを残したと思われる何冊かの本を思い出し,それにつきお話をしてみることではないかと思います。そして,わずかであれ,それを今大会の主題である,「平和」という脈絡の中に置いて考えてみることができればと願っています。

②でんでん虫の話
まだ小さな子供であった時に,一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。・・・・・・そのでんでん虫は,ある日突然,自分の背中の殻に,悲しみが一杯つまっていることに気付き,友達を訪(たず)ね,もう生きていけないのではないか,と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は,それはあなただけではない,私の背中の殻にも,悲しみは一杯つまっている,と答えます。小さなでんでん虫は,別の友達,又別の友達と訪ねて行き,同じことを話すのですが,どの友達からも返って来る答は同じでした。そして,でんでん虫はやっと,悲しみは誰でも持っているのだ,ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は,このでんでん虫が,もうなげくのをやめたところで終っています。

③日本の神話
教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に,たまに父が東京から持ってきてくれる本は,どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので,惜しみ惜しみ読みました。そのような中の1冊に,今,題を覚えていないのですが,子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は,どちらも8世紀に記された2冊の本,古事記と日本書紀に記されていますから,恐らくはそうした本から,子供向けに再話されたものだったのでしょう。・・・・・・・・・・・私は,自分が子供であったためか,民族の子供時代のようなこの太古の物語を,大変面白く読みました。今思うのですが,一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じられます。・・・・・・・・・・父がくれた神話伝説の本は,私に,個々の家族以外にも,民族の共通の祖先があることを教えたという意味で,私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは,時に子供に安定の根を与え,時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。もっとも,この時の根っこは,かすかに自分の帰属を知ったという程のもので,それ以後,これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の,ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。又,これはずっと後になって認識したことなのですが,この本は,日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に,児童文学が生まれる力強い原型です。

父のくれた古代の物語の中で,一つ忘れられない話がありました。

年代の確定出来ない,6世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は,父天皇の命を受け,遠隔の反乱の地に赴いては,これを平定して凱旋するのですが,あたかもその皇子の力を恐れているかのように,天皇は新たな任務を命じ,皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き,皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中,海が荒れ,皇子の船は航路を閉ざされます。この時,付き添っていた后,弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は,自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので,皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい,と云い入水し,皇子の船を目的地に向かわせます。この時,弟橘は,美しい別れの歌を歌います。

さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

このしばらく前,建(たける)と弟橘(おとたちばな)とは,広い枯れ野を通っていた時に,敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ,燃える火に追われて逃げまどい,九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は,「あの時,燃えさかる火の中で,私の安否を気遣って下さった君よ」という,危急の折に皇子の示した,優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。

悲しい「いけにえ」の物語は,それまでも幾つかは知っていました。しかし,この物語の犠牲は,少し違っていました。弟橘の言動には,何と表現したらよいか,建と任務を分かち合うような,どこか意志的なものが感じられ,弟橘の歌は――私は今,それが子供向けに現代語に直されていたのか,原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが――あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を,進んで自らに受け入れながら,恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,感銘という以上に,強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも,愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,不思議な経験であったと思います。

この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。

古代ではない現代に,海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。ですから,人身御供(ひとみごくう)というそのことを,私が恐れるはずはありません。しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖(いふ)であったように思います。
なんと宮内庁のHPにログがあった。皇后美智子さんの読書体験の根っこが響きよく語られている。読書によって根っこがつくられ、それが喜びになり、それはやがて想像力とともに翼になると言うのです。だから彼女は言います。「この世界名作選を編集する時,作品を選ぶ苦心と共に,日本語の訳の苦心があった,と山本有三はその序文に記しています。既刊の翻訳に全て目を通し,カルル・ブッセの「山のあなた」の詩をのぞく,全ての作品は,悉く新たな訳者に依頼して新訳を得,又,同じ訳者の場合にも,更に良い訳を得るために加筆を求めたといいます。/私がこの本を読んだ頃,日本は既に英語を敵国語とし,その教育を禁止していました。戦場におもむく学徒の携帯する本にも,さまざまな制約があったと後に聞きました。子供の私自身,英米は敵だとはっきりと思っておりました。フロストやブレイクの詩も,もしこうした国の詩人の詩だと意識していたら,何らかの偏見を持って読んでいたかも知れません。/世界情勢の不安定であった1930年代,40年代に,子供達のために,広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは,当時これらの本を手にすることの出来た日本の子供達にとり,幸いなことでした。この本を作った人々は,子供達が,まず美しいものにふれ,又,人間の悲しみ喜びに深く触れつつ,さまざまに物を思って過ごしてほしいと願ってくれたのでしょう。因(ちな)みにこの名作選の最初の数頁には,日本や世界の絵画,彫刻の写真が ,黒白ではありますが載っていました。/当時私はまだ幼く,こうした編集者の願いを,どれだけ十分に受けとめていたかは分かりません。しかし,少なくとも,国が戦っていたあの暗い日々のさ中に,これらの本は国境による区別なく,人々の生きる姿そのものを私にかいま見させ,自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。」

むかし読んだことのある皇后美智子さんの文章を読み返して、あらためて言葉の音色がいいなと感じた。結婚して以降に体験したさまざまな思いもこの文章に込められているように思う。なぜ平成天皇夫婦がペシャワール会の中村哲や石牟礼道子さんをを愛好するのかがわかるような気がした。彼女にとってほんとうのことは宮内庁のHPには掲載されないだろうし、そのことを彼女が自覚しているかどうかもわからない。ただ不思議に石牟礼道子さんとの邂逅がとても自然なことのように思えた。

    3
皇后美智子さんと作家の石牟礼道子さんとの巡り会いについてのルポがあった。ツタヤで目にして購入したものだ。「g2」というムック本で書き手は高山文彦。嫌悪する書き手だが二人の出会いについて詳しいので、なりゆきの記録として使うことにした。
昨年この資料をつくったときはそれほど自覚的ではなかったが、一昨年の特定機密保護法から今秋の戦争法成立に至る過程でこのメモは状況を照らしているように思えたので、掲載する。先の取りあげた愚劣四人衆(中沢新一、平川克美、高橋源一郎、内田樹)の天皇の言挙げよりはふたりのみちこさんの距離は近いと思う。ムック本からのスキャナ読み込みデータを貼りつける。天皇制的民主主義というわたしの造語になにか状況的な意味があると思うからだ。

異例の天皇の言葉
 一〇月二七日の午後、私は東京から石牟礼さんの居室に電話をしてみたが、いつまで鳴らしても出なかった。両陛下を出迎えるためにきっと水俣に行っておられるのだな、と思ったが、リハビリ病院に入院しておられたのである。
 翌日の新聞には、両陛下が水俣病患者とその家族で構成される「語り部の会」の人たちと水俣病資料館で会い、異例の長い言葉を天皇がかけられたことが報じられた。そして、石牟礼さんが皇后に「水俣にお出でくださるときは、ぜひ胎児性水俣病の人たちに会っていただきたい」という内容の手紙を皇后に書き送っていたことも伝えられ、その願いどおり両陛下が急遽予定を追加し、胎児性水俣病患者二人に会ったことが報じられた。胎児性というのは、母親のおなかのなかにいたときにメチル水銀に汚染され、生まれながらにきびしい障害を負った人たちのことである。
 こうした行動をみると、両陛下の真情が伝わってきそうだ。
 水俣病患者で「語り部の会」会長の緒方正実氏から、自分と自分の家族の苦しみの歴史を語り聞かされた直後、異例に長い天皇の言葉は発せられた。

 どうもありがとうございました。ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かってすすんでいけることを願っています。

「真実に生きることができる社会……なんて、天皇もいいことをお話しなさったじゃないか」石牟礼さんの病室で、先生はそのようにおっしゃる。
 できたばかりのリハビリ病院は、広くて明るい。個室にはいっている石牟礼さんは、米満さんの手を借りて、どこかへのメッセージを録音し終えたところだった。「西のミチコと東のミチコが会いました」と、サービス精神もたっぷりに、石牟礼さんは言うのだった。

東京での面会
 鶴見和子をしのぶ山百合忌がひらかれたのは、七月、東京お茶の水の山の上ホテルであった。石牟礼さんは、色川大吉を団長とする不知火海総合学術調査団の一員として鶴見さんが水俣を訪れて以来、長く親交を結んできた。美智子皇后と鶴見さんのつながりはどのようなことかわからないが、とにかくその会で石牟礼さんは皇后の隣りに席を用意され、会が終わるまで二時間、親しく会話を交わすことになつた。
「あんな知的な女性に会ったのは、はじめてです。とてもお優しくて、そして美しい方でした。こぎやんか女性をお嫁さんにもらわれた天皇さんは、偉かです」
 石牟礼さんの目は、私の目を見ていた。薬の副作用のせいか、リズムをとるように上半身を左右に揺らしながら、いつものような調子で話すのだが、「あなた、ちょっと揺れがひどいねえ。入院まえにもどったみたいじゃないですか。医者はわかっとるの?」と、先生が心配そうな声で、米満さんを見る。
「薬はさっき飲んだんですが、夕方になると薬がたまってきて、こうして(揺れが)出るとじやなかですかね」と、米満さんはこたえる。

皇后に送られた俳句
東京へは当然、米満さんが同行した。
 この年の二月に『石牟礼道子全集』(藤原書店)全一七巻が完結し、それを記念して東京でイベントがひらかれることになっていた。石牟礼さんを囲む昼食会も予定されていて、私も出席するつもりでいたのに、ドクターストップがかかり、楽しみにしていた上京を石牟礼さんは断念せねばならなかった。そうした体調にもかかわらず、山百合忌に出席したということは、よほど皇后との面会を楽しみにしていたのだろう。
 皇后には、東京で会うまえに一度、会ったあとに一度、石牟礼さんは便りを出している。前者は、ある人になにか皇后に手紙を出したらどぅかとすすめられ、水俣病患者、とくに胎児性患者に会ってほしいと書きたかったらしい。しかし皇太子妃の祖父の問題があるし、直訴状のようなかっこうになってしまうので憚られた。「なかなか書けないな」と思案に暮れた石牟礼さんが、「句を送ります」と言って紙にしるしたのが、以前つくつた一旬であった。

 祈るべき天とおもえど天の病む

 これに、皇后が皇太子を産んだときのことをイメージして、女人が赤ん坊を抱いている絵を添えた。
女官から「天」とは陛下のことでございましょぅかとの問いかけがあったらしいが、もとよりそんな意味はこめていない。皇后に手渡されたかどうか定かではないが、のちの皇后の態度で、きっと読んでもらえたのだろうと石牟礼さんも米満さんも確信した。
 ともあれ、むかしの戦争の時代なら不敬ととられてもおかしくはないこのような旬を送る人は、やはり異能というべきであろう。
 山百合忌の席で、隣りに座る皇后から、「今度、水俣に行きます」と告げられた石牟礼さんは、熊本にもどってから手紙を書き送った。その内容を、米満さんがほぼ正確に記憶していた。
 〈水俣では、胎児性水俣病の人たちにぜひお会いください。この人たちは、もう大人になりまして、多少見かけは変っておりますが、表情はまだ少年少女です。生まれながら、ひと口もものを言えぬ人たちです。歴史を語れる人たちは、とっくに死んでしまいました。いまでも発病する人があちこちにおります。ものも言えぬ人たちの心の声を察してあげてください〉
 そして終わりに、つぎの一旬を添えた。

 毒死列島身悶えしつつ野辺の花

 両陛下が水俣を訪問するのは、水俣病患者の慰問ひとつが目的ではない。「全国豊かな海づくり大会」というのが水俣でひらかれ、それに出席するのがメインであった。せっかく行くのであれば、水俣病慰霊碑への献花と患者たちとの面会を果たしたいと、両陛下がつよく希望したのだという。

二人のミチコが語ったこと
 東京の山の上ホテルには、前日いりして一泊したという。山百合忌は正午からひらかれる。朝食のパンがおいしくて、でもたくさんあって食べきれないので、「もったいないからお昼に食べましょう」と石牟礼さんは言ったが、昼は昼で食事が用意されている。それなら熊本にもって帰って夕食にしましょうと、米満さんはクロワッサンをいくつかホテルの人に包んでもらった。
 むかし石牟礼さんは、山の上ホテルで缶詰めになったことがあるらしい。「なんのときだったろうか……。『椿の海の記』……じゃない。あれの姉妹篇がある……。『あやとりの記』のときでしたかね」
 二人は本館のツインルームに前日から泊まっていた。窓の外は明治大学の建物。あらかじめ皇后の隣りに座ることが決まっていたので、車椅子で行くわけにはいかないだろう、と石牟礼さんは気をつかった。「あの椅子じゃ腰の位置が高かとこにくるけん、皇后さまを上から見下ろしてしまう」
 とはいえ、石牟礼さんは肘掛けつきの椅子でないと横に倒れてしまう。どうしたものかと思っていると、部屋にちょうどよい高さの藤の椅子があるので、「これがよかっちゃないですか。これにその座布団を敷いて……」 と、米満さんは石牟礼さんがいま敷いている低反発の座布団を指して言い、ホテルの人に頼んで会場に運んでもらうことにした。
 広間でひらかれた山百合忌では、皇后の左側に座った。生命誌研究家の中村桂子、静岡県知事の川勝平太の挨拶につづいて、石牟礼さんが皇后の隣りに座ったままスピーチをした。ところが、この直前までなにを話していいものやらと思い悩んでいた彼女は、『言葉果つるところ』(二人の対話集、藤原書店刊)のあとがきに鶴見さんとのあれこれが書いてあるので、それを土台にしてお話しになったらどうかと米満さんにアドバイスされ、本をもって来ていた。それをそのまま、つかえつかえしながら朗読をはじめてしまったので、約束の五分間のスピーチが四〇分にもなってしまった。
 以下、米満公美子の話―。
 「私は中腰で本を支え、マイクを石牟礼さんに向けていました。そうしたらいつまでも朗読が終わらないので、最後のほうではとうとう足が疲れてきて、ちょっとすみません、とことわって、本から手を放し、体勢を変えようとしたんです。そしたらそのとき、隣りから美智子さまがさっと手を出され、本に添えてくださいました。
 私が足の位置を変えてから一〇秒はなかったと思いますけれど、その間ずっと添えてくださって……。美智子さまはそれまでも石牟礼さんのほうにずっと体を向けて、目をお離しになりませんでしたから、とっさにそういうことができたんですね。もちろん私は体勢が整うと、ありがとうございました、と申しあげて、かわっていただいたんですが。
 石牟礼さんのスピーチのあとは休憩にはいる予定でした。でも時間が押せ押せになってしまって、休憩はなしになり、すぐに会食に移りました。すると美智子さまが石牟礼さんの肘掛けに手を伸ばされ、『もう少しそばに寄りましょう』と、石牟礼さんの椅子を引き寄せようとなさるんです。朗読のあいだ私がお二人のあいだにはいっていたので、ちょつと席が離れていたんですね。自分で引こうとなさるものだから、私がボーイさんを呼んで、石牟礼さんの席を美智子さまのほうへ動かしてもらったんですが、そんなふうになんでも自分でなさろうとするので、びつくりしたんですよ。
 会食はバイキング方式でした。お二人のテーブルにだけは給仕の方がつかれて、あれやこれやとお料理の皿をもって来てくださるんです。私は石牟礼さんの隣りのテーブルでしたので―石牟礼さんがよく見える位置に座らせてもらっていたんですが―、『これ、おいしいですよ』と言って、美智子さまが料理をとりわけてくださっていました。サンドイッチとか、お寿司とか。『ご不自由なことがあったら、なんでも言ってくださいね』と、お声掛けをされて、ずっとお世話をしてくださったんです。私はそのようすを隣りのテーブルから眺めながら、しっかりご飯をいただきました。もう全部、皇后さまにお預けして」

皇后と目があったとき
 一〇月二八日午後、石牟礼さんは入院先のリハビリ病院を急遽出て、熊本空港へ両陛下を見送りに行った。自分が願っていた胎児性患者との面会を果たしてくれたと知って、直接声をかけられないとわかっていても、二人の姿を拝み、礼を述べたかったのだ。
 たくさんの人びとが、空港につめかけていた。浪床記者が空港ビルの社長を知っており、電話をして、石牟礼さんが見送りに行くと告げた。それで着いてみると、ロビーの入口のあたりで幾人かの警官にガードされ、少しだけ特別に彼女専用のスペースがつくられた。 両陛下の車が着いたとき、
「立たせてください」と、石牟礼さんは米満さんに頼み、立ちあがらせてもらった。それからどうなったかというと、浪床記者の記事に、
〈美智子さまは石牟礼さんの姿を見つけて一瞬歩み寄ろうとされたが、警備の関係から近寄ることはできず、何度も振り向いておじぎをしながら、階段を上っていかれた〉(二〇一三年一〇月二九日朝刊)
とある。
 ―空港で皇后と目と目があったとき、どんな言葉が浮かんできたんですか。
「たいへん悩んでいた」
 ―というのは?
 「お出迎えに行けなかったんです。それで、すべての行事を終えてお帰りになるときこそは、お礼を申しあげたいと思っていたんですよ。だけど、お疲れになつておられるだろうから、あえてお声をかけまいと思っていたんです。でも、空港に来られる時間が迫ってくると、せめて目だけでもあわせられたらよかばってん、と思っていました」
 ―米満さん、そのときのことを教えてください。
 「もともと石牟礼さんは、両陛下が来られる前日に水俣へ行ってお出迎えがしたい、と言っていたんです。でも水俣の家で一泊するには、お蒲団のほか日常のことを私が事前に行って準備しておかなきやいけない。ホテルにも介護の設備がありませんから、とても一泊で水俣は無理です、と私が言ったんです。
 そのまえに皇后さまに出した手紙のなかで、いま自分は入院中で、お出迎えに行きたいのだけれども、それもかないません、ということを善かれていたんですね。それで胎児性患者の人たちと両陛下が会われたとき、彼らにつき添っていた施設長の加藤タケ子さんに、石牟礼さんにくれぐれもお体を大事になさいますようお伝えください、という伝言を皇后さまがされたそうなんです。ですから、まさか石牟礼さんが見送りに来るとは思いもしなかったところに、石牟礼さんの姿を見つけて、とてもびつくりした表情をなさっていました」
 ―見送りに行きたいと石牟礼さんが言いだしたのは?
 「前日の夕方でした。お見送りに行っても、たくさんの人がいるだろうから、目と目をあわせることもできないかもしれませんよ、と言ったんですが、それでもいいから行きたい、と」

侍従を通じての伝言
 はじめ彼女たちは、二階のカフェで待機させられた。あらかじめエレベーターの上り口のあたりをしめされて、時間が来たら呼ぶのでここに来てください、ここからだと人口からまっすぐにはいって来られるので、きっと両陛下からも見えやすいだろう、と指示されて。
 そこにはロープで警戒線が張られていたが、人が殺到してくる可能性は高かった。すると警察官が何人かでガードしてくれ、寄ってくる人たちを制止した。両陛下を乗せた辛が到着するのが見えた。
「立ちたい、と石牟礼さんが言うんです」
と、米満さんが話を継ぐ。
「人口からはいって来られた両陛下は、両側につめかけた人たちに手を振りながら歩いて来られる。そして、美智子さまが石牟礼さんに気づかれたんです。そのときの眼差しというか……、あれは視線じゃないです。眼差しですよね(と、ちらりと石牟礼さんをふり返って)。その眼差しがぴたりと石牟礼さんと合って、美智子さまの足が止まったんですね。そして、陛下になにか耳打ちをされた。聞こえていないのでそれは私の想像ですが、『石牟礼さんが来られていますよ』 と、おっしゃったような感じで……。陛下もこちらを、ふり向かれました。そして石牟礼さんに向かって、すっと頭を下げられたんです。『皇后から聞いていますよ』というふうに。
 もう、数秒間、お二人とも足を止められて、美智子さまは石牟礼さんをじっと見つめて、その数秒間にお二人のあいだでは会話ができていたと思うんです。そしてエレベーターを上って行かれました。
 すると、まもなく若い侍従さんが下りてこられて、『皇后さまからの伝言です。ちょっと、誰もいないところに移動してください』 とおっしゃる。ロビーの奥に移ったところで、石牟礼さんに耳打ちするようにして、伝言を告げられました。『お見送りに来てくださって、ありがとう。そして、これからも体に気をつけてお過ごしください』と。あれがご公務でなければ、皇后さまも近づいてきて、いろいろと話をなさりたかったんでしょうけど……」
 「あんな若い侍従さんがおられるんですね」と、石牟礼さんが言う。
 「侍従というのは、どぎゃんしてならるるもんでしょうか」

石牟礼道子が問いかけるもの
患者たちが両陛下に面会する日の午前一一時、そのなかのひとりから石牟礼さんに電話がかかってきた。相手は「語り部の会」会長の緒方正実氏で、たかぶる感情を押し殺したような声で、きょうの午後、両陛下にお会いします、と彼は言い、水俣市民や石牟礼さんの思いを背負って行ってきます、と告げた。すると石牟礼さんから、このような返答があった。
 「天皇陛下に伝えとってもらえませんか。ヒラメの稚魚を放流して、そのヒラメは水俣病にならんでしょうかね、と」
 緒方氏は絶句したと、のちに私が会いに行ったとき話してくれた。
 「深い、深い、問いかけでした。水俣は両陛下をお迎えしてお祭り騒ぎだというのに、じつと石牟礼さんは原点から目を離さないでおられる。重たいものを私は感じました。それで石牟礼さんにこう言ったんです。両陛下に言えるか言えないかわかりませんが、いまの石牟礼さんの言葉を胸に刻んでお会いします、と。実際、忘れませんでしたね、お会いしているときも」
 彼もまた、「許した」人であった。稿を改めて、氏のことをはじめ、故川本輝夫さんの長男愛一郎氏、胎児性患者の加賀田清子さん、金子雄二氏、そして胎児性患者の生活支援をする社会福祉法人さかえの杜「ほっとはうす」の施設長加藤タケ子さんから聞いたことを、詳しく書いてみたいと思う。両陛下に会った五人である。
 世界は、人類は、もう取り返しのつかないところまで来てしまったという絶望が、石牟礼さんにはある。
 皇后もじつは、そうなのかも知れぬ。それで、まさか見送りに来てくれるとは思いもしなかった人が、車椅子から立ちあがっているのを見て、思わず足を止め、歩みだそうとしたのかも知れぬ。(文中一部敬称略)高山文彦

私欲ではなく無私の言葉で邂逅した日本的自然生成のひとつの見事な達成だと思う。そのことになんの外連味もない。皇后美智子さんが語る神話と水俣を語る石牟礼道子さんの共鳴りの小説世界が融即する。あるいはアニミズムの洗練された形態である天皇制が石牟礼道子さんの原初のアニミズムと融合している場所と比喩すればいいのか。おそらくどんなイデオロギーからなされるどんな批判の言説も無効だと思う。批判すればするほど天に唾するようなものでわが身が細っていくことになる。いずれにしても朕が国家であることを可能とする精神の原型は同一性の外延的な表現の囚われのうちにある。この精神の古代形象は万世一系と天皇の赤子を旨とする。わたしはその精神がまるごとモダンであると言ってきた。わたしはふたりの邂逅も閉じたひとつの錯誤であると思う。
グローバルな勢力による惑星規模の社会革命を津波のような天変地異とみなしてやりすごそうとするわたしたちの心性が喚起される。それが天皇制的民主主義とわたしが呼ぶところのものだ。グローバリゼーションの重力を天皇制的な心性がこの猛烈な風圧を緩衝するものとして招き寄せられているとわたしは感じている。象徴天皇制と民主主義はきわめて相性がいいのだ。むしろ象徴天皇制によって民主主義という擬制が支えられているといってもよい。

イデオロギーではない天皇制批判を書こうとした。国家をつくらない関係が可能なら、朕が国家なりも、象徴天皇制も内包自然に嵌入してなくなることになる。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり」(『歎異抄』)とはっきり言い切っている。
有情のよってつながるものを「世々生々の父母兄弟なり」というとき、それは親鸞のあずかり知らぬことではあるが、他力から喚起された内包的な表出としてなされている。謂わば存在しないことの不可能性が存在すると背理として言われているのだ。宗教という共同幻想が外延的な表現から信を抜いて、信を超えて、内包的に表現された。それは意識の逆理としてしか言いえない。それが内包自然だ。
わたしは親鸞の「みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」を信を通さない、わが仲間よ、という呼びかけだと理解している。そこに「世々生々の父母兄弟なり」という言葉の深さがある。父母孝行は考えたことがない親鸞が、有情を通じて仲間たちが可能になるのだと。そういうふうにわたしは親鸞の思想を読み込んだ。だいいち浄土教の信を解体した親鸞が信の共同性を呼びかけるはずがないし、我執の妄念もすでになかった。では、自我という信でもなく、閉じた共同体の信でもないとしたらそれはなにか?

わたしはこの場所を喩としての内包的な関係、喩としての家族と呼ぶことにした。それは存在しないことの不可能性としてたしかに存在する。ただ自己意識の用語法では逆説的にしか表現できない。その不如意を親鸞は横超とか他力とか悪人正機という思想で語ったのだと思う。内包自然という言葉の場所をつくるとすこしだけ親鸞の他力という思想がひろがるような気がしている。おそらく親鸞はそのじぶんのありようを極悪深重で、悪人正機といったに違いない。還相の性が可能だから、それぞれの根源の性の分有者は還相の性を核として連結し、喩としての内包的な親族となる。この機微を親鸞はなんというだろうか。

不在の神(匿名の領域)に向かって祈ったヴェイユも、親鸞の「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」も、宮沢賢治の「業の花」や「世界ぜんたい何をやっても間に合わない」も、三人称の相手にわれらなりと呼びかけた。有情をもってつながるものはみな世々生々の父母兄弟であると。それは信ではなくもっとやわらかい言葉である。かれらはともに内包自然に棲まっていた。その場所をわたしは喩としての内包的な関係、喩としての内包親族と呼ぶ。外延と内包はつねに転換されている。どんな外延史にも内包が無限小のものとしてひそんでいる。少しずつその輪郭を明らかにしていきたいと思う。

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