日々愚案

歩く浄土58:内包親族論2-表現はどこまで深くなれるか

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熊本県立美術館で浜田知明さんの展覧会があったので見てきた。浜田知明さんにやどった非凡な天与の才は美術についてなにも知らないものをもぐいとつかむ強い力がある。97歳で現役というのもすごい。図録の前書きに戦争法案に反対であるとはっきり表明されていた。
作品論や作家論には関心がない。このブログで書きたいことはただひとつ。目にしたいくつかの作品に強い印象をうけ、なぜこの作品はつくられたのかということを考えた。すでに戦後70年は潰えたが、その戦後の70年の文学や芸術はなんであったのかという疑問がこの問いのなかに入っている。ひとことでいえば表現はどこまで深くなれるかといういうことだ。表現の根幹を問う力が浜田知明さんの作品にあった。

図録『戦後70年記念 浜田知明さんのすべて』の「ごあいさつ」に戦争法案に反対する言葉が書かれている。

1934年、私は東京美術学校に入学した。上野の桜は満開であり、不忍池のほとりでは、二つのレコード会社が最高音にボリュームを上げ、その周囲では浴衣姿の人々が東京音頭を踊っていた。しかしその平和は長くは続かずやがて二・二六事件が起こり、1937年目支事変が勃発。1939年、学校を卒業した年、私は現役兵として歩兵第13連隊補充隊に入隊し、翌年、華北山西省に派遣された。約4年の作戦警備の後、満期除隊で帰還したが、私の所属した部隊は半年後、黄河を渡って南進を始め、鉄道、船舶により2,000km。洛陽、武漢、衡陽、桂林と苦難の戦闘を続け乍ら、徒歩4,500kmと世界の戦史にも稀な行軍を続けて、ベトナムに到達している。ベトナムではフランス軍の本格的なランソン要塞を攻略。その間には私のかつての多くの戦友が戦死している。私はその後召集されて、伊豆七島の新島の警備についたが、サイパン、硫黄島、新島、東京は一直線上にあり、私が今生きているのは、派遣されたのが新島であり、硫黄島でなかったというだけのことである。
 軍隊では、何時、何処の部隊に配属されたかによって、兵士ぬぬの生死は分かれることになる。戦闘が始まってしまえば兵士それぞれの思想信条に関わらず、相手を殺さなければ自分が殺されるというのが戦場である。自分は絶対に戦争に行かなくて済むというような人たちによって戦争法案が作られ、戦争を知らない世代の人々の間から、最近勇ましい言葉が聞かれるようになった。かつての日本軍の一員であり、理由もなく殺し、辱しめ、なけなしの食糧を奪うなど、中国で日本軍が犯した数々の悪業を見てきた者として、私は常に再び日本が他国と戦火を交えることがないよう祈っている。

浜田知明さんの人となりがつたわってくるところを貼りつける。

軍隊にて
-昭和14年12月1日に熊本歩兵第13連隊に入隊。翌日にはもうここは自分が住む世界ではないと思ったとあります。

 話は聞いてましたから嫌なところだとは思ってたんですけれど、想像にまさる嫌なところでしたね。入隊して初めて父が面会に来た時言ったんです。「早く帰って絵を描きたいから幹部候補生の試験は受けない」って。そうしたら「それはそうだね。じゃ止めとけばいいよ」自分の好きなようにやれって。父は小学校の校長だったんですけど。

-先生はこの戦争の大義名分にも疑問を持ち、実際に目にする戦地での日本軍の実態にも絶望されたんですが、それは表には出せないことですね。

 出せないですよ。反戦的なことを言ったら、銃殺でもされかねないですよ。切り殺されたとしても、殺した方は正当なことをやったということになりますから。

-でも幹部候補生になることを拒否するという行為の根っこは反戦ですね。

 そうですね。幹部候補生に通ると兵隊教育したりしなけりゃならないでしょう。そうすると軍人勅諭みたいなのを言わせなければいけない。それはやりたくない。二年兵になると初年兵を教育しなければいけないんですが、みんな殴るのに僕はなにもしませんでした。自分がさんざん殴られたから殴りたくないでしょう。一度も殴りませんでしたよ。お菓子買っといてやったり。それからひとつは慰安所とかに行かなかったりしたんで、多少変物扱いでしたね。

-それも嫌だったんですか?

 嫌なんですね。別に、慰安所に行くことは道徳的に間違っているからという意味でとかじやなくて、全く知らない女の人のところに行くっていうことが嫌だったんですね。

-4年間で一度も殴らない、慰安所に行かないというのは倫理観ですか?

 感覚的なものですね。体質的にそういうのは嫌いなんです。

ああ、浜田知明さんはこういうひとだったんだなということがこれだけの文章からでもつたわってくる。インタビューの語り口を読んでいても、この偉大な作家が威張ってないことはよくわかる。作家のとしての立ち位置が凜としている。図録の巻頭にある写真の風貌からもわかる。なによりも浜田知明さんの戦争を忌避する姿勢が鮮明に語られている。それは稀な資質だと思う。

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図録の作品とひとつひとつの作品へのインタビューも読んだ。作品をブログに掲載するわけにはいかないので作品番号をあげて感想を書く。
浜田知明さんの作品に接して表現はどこまで深くなることができるのかということを考えた。どこかでわたしの内包論ともつながるはずだ。
かれの作品は「少年兵哀歌」シリーズで世に知られることになるが、戦争の不条理を告発するという意図で作品が作られたのではないと思う。もっとなにか根源的なことを作家として表現したのではないか思う。対象によぎられて作品を作らされたのではないか。

最下級の兵隊として中国を行軍中にかれは出来事に遭遇した。だれもがよく知っている作品なので作品のタイトルで作品を思い浮かべることができる。
わたしの気になった3つの作品を取りあげる。

①「o-32」忘れえぬ顔A 「o-33」忘れえぬ顔B
-先生が参加された1941年の「中原会戦」の時の出来事だとお聞きした、「忘れえない顔」のAとBですね。どんなことが起きたんですか?

 軍隊では、地図を見たことはないんで、どこだかはわからないんですが。
 ある集落で休憩をとっていた時、戦友2人と段々畑を登っていたら…上のほうに家があり、その家の窓から母親と若い娘がこちらを覗いていたんです。娘の方は顔に鍋の炭を塗っていましたが…、我々を見た時の二人の恐怖の顔は、忘れられません…。
 戦友の一人が「殺そう」と言いました。それは止めましたが、その男は銃を置いて、家の中に入って行きました。…しばらくして、服を整えながら、うすら笑いをしながら戻って来たんです…。その表情で、何が起こったか分かりました。…
 僕は、仲間を殺したくなりました。軍隊の中には、卑劣な人間がいたんです。

-娘というのは、何歳くらいに見えましたか?

17、8歳くらいじやないでしょうか。男がその家を出てきたとき、娘は、窓からこちらをじっと見つめていました。命だけは助かった…というような何とも言えない、さっきとは全く違う表情でした。…(23p)

戦闘の狂気に駆られて蛮行をなすということよりも、こういう戦時の平時における侵略者の無道のほうがもっと嫌な気になる。権力を嵩にきてもっとも卑劣な行為を為した戦友を浜田知明さんは殴り倒し打ち据えるべきなのだ。戦争への嫌悪と美への渇望が「早く帰って絵を描きたいから幹部候補生の試験は受けない」という語りの中にあたかもあざなわれた縄のようのものとして込められている。かれの卓越した表現力と作品のあいだのわずかなすきまが、このときかれのとった曖昧な態度とどこかで通じているのではないか。
絵を早く描きたい浜田知明さんにとって悲痛な出来事は通り過ぎる風景のようなもので、かれはそのとき傍観者であり、俯瞰者であった。なにより事態を座視した。
非命に斃れた伝説のブルースマンだったロバート・ジョンソンにあこがれたキースやミックは師とするブルースマンたちに伍するブルースをつくった。それが浜田知明さんにとってのミロやドガや、・・・・であったかもしれぬ。それはいい。かれは早く絵を描きたかったのだ。しかしかれの所作になにかおおきな疑念がのこる。描くという行為が出来事よりも上位にあったことはたしかだ。そうやって日々の行軍をかれはたんたんとやり過ごしたような気がする。かれのたましいはふるえなかったのか。

②「初年兵哀歌(風景)1952
-この作品の原画になった《戦地でのスケッチ(中原会戦一関家溝にて)》というチリ紙に描かれたデッサンがあります。

 これは中原会戦のとき、私の部隊は予備隊でしたから、わりとこの作戦では激しい戦闘はやっていないんですが、歩くことは歩かせられましたね。来る目も来る日も歩きまして。私の場合見たままを描くというのではなくて、適当に自分流に変えて作るわけです。ところがこれ一枚は実際に見た風景なんです。行軍していたとき、部落の外にあったんです。あとで展覧会をやりました時に、私と同じ年代の方で、戦地に行かれている人が見にこられて、「こんなの自分も幾つも見た」と怒ってましたけれど。

-普通だったら正視に耐えない光景で、これを見せる力というのは底知れないと思うんですが、同じ死体でもこの角度で描くというのは。

 これは妊娠していてお腹が大きかったんだろうと思うんです。ただ死体というのは時間が経つとガスでお腹がパンパンに膨れるんですが。ただこの絵は人体デッサンがまずいんです。実際に見たときも通りすがりで、あとで思い出してスケッチしたわけですから。

-黒い人体に対して、何もない荒涼とした荒れ地の描写が対照的ですし、地平線に去っていく兵隊の後ろ姿も印象的です。この作品の与える衝撃は、さまざまな意味で大きいと思いますが、女の人から何か言われたことありませんか?

 いや、特に。でも子供は痛かったろうなあと言いますよ。うちの麻理子がまだ小さいときでしたが。絵というのを、裸婦を描いたり静物とか風景画とか思っている人は、なんて奴だと思うかも知れない。

-戦後55年経った今(インタビュー当時)、時代の象徴みたいなものを探すと、この作品はそれにあたるかもしれないですね。

 どうも、代表作みたいになると困るんですが。(42p)

陵辱をうけ殺戮された女性が荒涼とした大地に、仰向きに伏し、両足を広げられ、棒を突き立てられて倒れている。無残な屍体として。
なぜこの作品をかれはつくったのか。それがわからなくてずっと気になっている。
この作品をどうしてかれはつくることができたのか。この作品をつくることでかれはなにを言おうとしたのか。それがわからない。
かれの表現意識と作品の対象のあいだにはすきまがあるような気がする。行軍中に遭遇した出来事に暗澹とした気持ちになったことは間違いない。非命に斃れた死者に強いインパクトをうけた。戦争につきものの数ある不条理のひとつだといえば言える。
そのときかれは観察する理性(観る人)という絵描きの視線に待避することで出来事の根源にあるものを回避したとわたしは思った。あるいは索敵中の行軍を不意打ちした光景だったかもしれぬ。ともかくそのことはかれの記憶に焼きついた。ここには明確な芸術の未遂がある。
なにがきっかけだったのかはわからぬが、観た人の創作意欲は出来事を作品として昇華した。わたしは問う。この作品はどれほどの深さをもつのか。この作品の対象はオブジェではない。この女性も酷い目に遭うまでは生きていた。この女性にも日々があったのだ。この女性はこの作品をみてなにを感じるだろうか。無惨な死を迎えたが、殺された甲斐があったというだろうか(おい、学芸員、この問いに答えろよ)。この作品をみて笑うだろうか。この作品とはいったいなんなのだ。さまざまな問いが沸き立つ。なぜ浜田知明さんはこの作品をつくったのか。絵描きの観察する理性によって出来事を内面化し風景にしたかったのだろうか。そうではあるまい。わたしはこの作品は作品として未然であると思う。

わたしの表現意識を揺らしてみる。もしも見知らぬ他者を内包的な表現意識からみればどうなるだろうか、と。陵辱され無惨に殺された一人の女性は、あたかも喩としての内包的な親族としてあらわれるのではないだろうか。そのとき対象を作品にすることができるか。できない。それは言葉や作品として書かれることではないからだ。
浜田知明さんは創造の行為ということに於いて無意識に外延的な権力を行使することで出来事を回避しているようにわたしには思えた。
もしもそれが決定的な出来事であったとするなら、かれはこの作品を外化しなかったと思う。作品としてつくることができる程度の衝撃しかかれはうけなかったのだと思う。絵描きという視線で対象に向かうことは権力である。そして世間ではそれを芸術として賛美する。芸術もまたひとつの簒奪である。芸術は対象からなにかを奪うという行為ぬきには成り立たない。かれはそのことに自覚的でありえたか。その果てにわたしたちの戦後70年がある。政治や経済が混乱しゆくえを見失っているだけではない。文学や芸術というものも同一性と戯れることにおいてすでにじゅうぶんに壊れているのだ。

③「31 初年兵哀歌-風景(一隅)」
-建物の側に死体が転がる情景です。土壁と地面の表現がものすごくて、何も言うことはないくらいなんですが。

 えらくうまくいっちゃったんです。ほとんど徹夜で作ったんです。一日で。第2回目のフォルム画廊での個展が始まる前の日でした。アクアチントは松ヤニの粉末を鋼板に振りかけて、普通は幾度か腐食を繰り返しながら濃淡をつくるんですが、この作品だけは計算どおりというか一度でうまくいった。
 この場面はそっくりそのままではないんですが、実際に見た風景に近いんです。中国の民家の前に死体が転がっていて、胸の傷口からウジがいっぱい出ていた。

-板の戸にもたれているのがそうですね。この絵では他に首とか死体を加えてあって、それはフィクションですね?

 はい。左側事前に転がっているのは子供です。膨らんだお腹を出した。

-アクアチントのムラが出す土壁や地面の質感表現は完壁ですね。それと人体への光の当たり方の美しさ。この作品はどこの美術館の学芸員も絶賛しますね。ただ、テーマとしては陰惨なこういう画面なのに、救われているのはモノクロームの画面だからでしょうか?
 これを油絵でやるとロマン派みたいになっちゃうんです。油で措いたことがあるんですが、どうも何か大袈裟になって面白くない。やっぱり白黒で小さい画面でやった方が詩に近くなるような気がするんです。油絵だとあまりにも散文的になるようで。

-この絵の美しさはゴヤに勝ってると思うんです。(55p) 

人体への光の当たり方の美しさを称揚するインタビュアーの言葉の使い回しに口先だけの文化の臭いを感じて吐き気がする。業界用語ではないか。なぜ死体が美しいのか。インタビュアーは死者を冒涜している。作品のすばらしさを礼賛する学芸員はそのことに気づかない。それほどに鈍感だということだ。いったいなぜ浜田知明さんのこの作品が作品なのか。そのことをこそ容赦なく問うべきなのだ。
もう一度言う。なぜこれが芸術なのか。なにか決定的な欠落がある。線の鮮やかさや形や色取りが卓越していることは作品をみればすぐわかる。余人の追随を許さぬ卓越した技巧の持ち主であることも察することができる。天与の才によって対象のもつ強さによぎられて作品がつくられたこともわかる。

しかし、とわたしは思う。固有の体験は内面化も社会化もできないから固有の出来事だといえるのではないか。ひとはやすやすとここを越境して文学や芸術を為し、語る。多様な表現意識があり、揺れ動く表現意識がそのつどある。文学も芸術もその一瞬を切り取り抽象化する。作家の表現意識は内面の権力を行使することで間違った一般化、社会化を実現する。
誤解されるのでもう一度言う。出来事の固有性は内面化も社会化もできないのだ。できるという妄想によって文学や芸術の作品行為が成り立っている。さらに踏み込めば作家の表現意識がすでに社会化されており、しかるのちに間違った一般化が内面化されて表出されているのだ。だれもがこの迷妄に深く囚われている。わたしは意識のこの公準を自己意識の外延表現と言ってきた。そこに未知の表現はなにひとつない。あるのは巧みさを競うスキルだけである。

わたしたちが生きているこの社会はいつも末端は世界の無言の条理にひらかれていて、文学や芸術の表現意識がまったく歯が立たない領域として厳然として存在している。
ヴェイユは匿名の領域、親鸞は悪人正機による他力を言葉としてのこしたが、表現意識と言葉のあいだにすきまがない。この違いはどこからくるのか。
もう一度ヴェイユの言葉を引く。

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(『ロンドン論集と最後の手紙』「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

ヴェイユは数千年にわたって輝かしい結果を歴史にのこすある領域のことを「人格の表出」にすぎないといっている。刮目せよ。驚倒することが言われているのだ。だれがこういうことを言ったか。ヴェイユの匿名の領域は正確に親鸞の他力に対応している。ヴェイユのいう第一級のものがおかれている、本質的に名をもたない、その匿名の領域こそが文学や芸術の絶えざる源泉なのだ。その余は自意識の戯れにすぎない。表現が深くなるとはどういうことか。表現かひらかれるとはどういうことか。浜田知明さんの作品をみてそのことをしきりに考えた。

〔追補〕
むかし齋藤秀三郎さんの展覧会の案内文を書き、言葉で展覧会に参加した。そのとき書いた文章を貼りつける。

齋藤秀三郎さんの世界-なお生き延びること

一枚の絵画を以て国家(と資本のシステム)を超えることができるか。齋藤秀三郎さんの作品を垣間見てふと法外なことを考えた。いつの頃からか、稀な例外を除き、文学や思想だけでなく美術もまた思考や想像力を停止させるためだけに飽くことなく生産されている。全てが予定調和の制度に包囲された世界で、もはや自己表現とは増殖する自己権力の称謂そのものに他ならない。

 なぜこのような事態が招来されたのか、齋藤さんの作品を導きの糸として、かなりよく分かるようになった。内部に渦巻く名状しがたい衝迫を外部へと汲み出す表現の行為が出口を失い、たたらを踏んでいるからだ。現代の文学や芸術のこの在りようは表現者の意図に反して国家と資本のシステムを綾取るものとして機能している。この袋小路を破ることの困難さに実作者はだれもが絶句した。而して輾転反側した挙げ句、自然への融即に安息を見出すというのがこの国では成熟と見做される。そうではあるまい。
 文学や芸術が個人の内面の露出であるというのは近代が創案し、流布し、人々が信じた、大きな罠ではないか。制度を包越することができず内面が社会化されているかぎり、現代芸術は、比喩として言えば、それがいかに洗練されたものだとしてもプロレタリア文芸の逆倒した完成体であるといってよい。作品の全面的な社会化があり、家畜の群のような作品が私たちの眼前に晒されている。政治を軽侮し、社会を嫌悪するにも関わらず社会作品となって出現する皮肉な逆理がここにある。これが赤裸々な現代美術の現状なのだ。意図的な挑発であるから、美術を実作する諸氏よ大いに反感をもたれよ。むろん文芸であっても事態は全く異なるところはない。

 いっそ作品の向こう側へと突き抜け、表現を他者に略取されよ。そこにだけ表現の余白がある。またそれよりほかに芸術行為の価値というものなど、もともとあるはずがなかった。斉藤さんは作品によって芸術に抜きがたく染みついている根深い信仰の根底的な態度の変更を迫っている。既存の芸術がぐるんと転回するこの地平で、作品が作家の表現意識のメタファであるという安易な理解や、美術の鑑賞者が作品から受ける芸術的感動という凡庸なる心性が消滅する。
 制度が戦慄し、脅威を覚えないようなものは行為の本質的な意味において思想でも芸術でもないのだ。国家や資本の堅固な条理がやがて到来する芸術に震撼され、歓喜のあまり激しく胴震いして融解する光景を見果てぬ夢のように遠望する。そのために自己表現を放下すること。私たちの奇妙な生を同一性に監禁するかぎりどうあがいても、自然が自然に非ざる異物を生み出してしまうゴルディアスの結び目をほどくことはできない。封印の前で立ち止まる芸術は政治の異称である。複数の主体を一人称とする表現が成らぬかぎり、芸術は制度という権力であり続けることを止めないだろう。そして強い者が勝ち誇るこの世の習いが変わることも断じてない。

 50年余に渡る美術活動を通じ、作品を描くものの姿勢を絶えず愚直に問い続けてきた齋藤さんの眼裏からこの疑念が消えたことはないと思う。気の遠くなる永い時間、がらんどうの生の奇妙さに彼は耐えてきた。齋藤さんの魂を搾り出すような作品群から私は途方もない示唆を受け取った。この個展を一区切りとし実作者としての絶頂期の勢いに駆られ、生涯の最期に、この世ならざるものを実現しようと、齋藤さんは〈歩く浄土〉を美術として現成するに違いない。おそらく飄々としながら虎視眈々とそのことを狙っている。そこには、すでにして芸術に非ず俗に非ずと刻印された、もはや芸術とさえ呼べない、かすかな表現の痕跡が遺されているような気がしてならない。このとき一枚の絵画は他者の生存を手段へと貶めることなく、国家(と資本のシステム)のくびきを軽々と超えるだろう。
(☆齋藤秀三郎展-案内文)

齋藤秀三郎展-不安なキャベツたち-/2008年3月20日~25日/福岡アジア美術館8F

 わたしたちが生きているこの現実は、さかしらごとで変わるほど手軽ではなく、まして博学さや才能で歯が立つほどやわでもない。そういうものの手の内は知り尽くしている。衆の一人として生きる才覚も度量も持ち合わせぬ、知に寄生する者らの小癪な文化言説より、現実ははるかに懐が深いものだ。生身を晒して生きるとき、現実は空恐ろしくもあり、また味わい深いものとしてもあらわれる。

 わたしは常に両義的なものとしてあらわれる現実の堅固を才知によって否定するのではなく、ことばのおのずからなる力でなびかせてみようとおもう。現実の鉄面皮にとって小賢しい物言いなど刺身のツマみたいなものにすぎない。そんなものはたちどころにしたたかな現実に絡めとられ、制度のなかに回収される。
 いったいみずからを一箇の修羅として生きることもなく、詭弁と欺瞞で固められたしゃらくさい能書きごときで世界をつかむことができるなどというのは、かんがえることの怖さを生きたことのない、身の程知らずのものたちの分不相応な思い上がりというものだ。堕ちよ、生きよ。

 じぶんを貫いて言わずにおれぬこと、語らずにはおれぬこと、かんがえずにはおれぬことだけが、現実に亀裂を走らせ、ここをどこかにする。この世が革まる機縁は存在のこういうあり方のなかにしかない。面妖な現実が、このとき一瞬怯み、満面の笑みを見せるのだ。世界の無言の条理が、じぶんもできるものならばそうありたいと相好を崩し、堅く閉ざした鎧戸をひらくのがここだ。表現の器量とはそのほかではない。

 わたしはほかならぬじぶんに固有のこだわりの、語ろうとして語りえぬことを究尽することで、すでにして同一性の彼方にあることばを現出させたいのだ。生きる勇気がわいてくる自己の陶冶がそこにある。ここにおいて自己の陶冶がおのずと他者への配慮を現成する。そのときわたしは匿名のだれでもないものとして世界を手にする。そしてそれだけが普遍的な世界論たりうるのだとわたしはおもう。
(★齋藤秀三郎展-言葉による参加)

内包ということば

 わたしは、人や歴史の始まりにおいてありえたけれどもついになかった存在の彼方を、悠遠の時空を超え、言葉の力で現にあらしめることができると考えるから、無力感のただなかで「テロと空爆のない世界」について書く。いつもすでにその上に立っている、天意をつきぬけた、あたかも重力の法則を覆すことにも似た驚異が、存在の内包世界にふいに湧出する。それは狂おしい戦慄だが、そこには無差別の自爆テロも、やられたからやりかえすという復讐も存在しない。修羅の巷であっても世界は可能性に充ちている。唯一そこが苦界と空虚があろうとしてもありえない生の可能性の源泉だ。

 世界も言葉も一切合切が背骨を喪い、善悪の彼岸にただ在るように在る。その空っぽの〈在る〉が背後から一閃される。名づけようもなく、名づけるほかない彼方からの不意打ちと襲来。世界の底が抜けるその理不尽なまでの熱さ。絶望する気息が、非望の極みでたわみにたわんでふいに天啓のように訪れるなにかとしてしか、言葉ではないにそれに触れることはできない。それは無限小の出来事であり、伝わらないというかたちでしか伝わることがない。じぶんを生きることからしかはじまらないなにかだ。

 問題は断じて、汚れた政治と内面の自由との対立ということではない。ひとえにこの矛盾や背反は、〈わたし〉が〈ある〉ということの制約から派生しているのだ。考えることや表現するということの決定的な転回がここにある。根源の一人称が〈じぶん〉に驚き、おのずとはじけてかたちとして宿ったのが〈ことば〉なのだ。〈ことば〉がすでにして同一性の彼方にあるというのはこういうことだ。自己表現ではなく、内包表現だとわたしがいうのはこの意味である。〈ことば〉というたましいのふるえが、音もなく降りつむ雪のように内包自然となってこの大地に舞い降りる。
(☆齋藤秀三郎展-言葉による参加)

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