日々愚案

歩く浄土57:情況論7-辺見庸の痛快

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2015年9月19日未明、戦争法成立。
戦後70年は終わり、すでにわたしたちは新しい戦後を生きている。
一億総玉砕から一億総懺悔の社会への変質よりもはるかに困難な時代を生きることにわたしたちは直面している。ハイパーリアルな剥きだしの生存競争のただなかでわたしたちを衛るものはなにもない。社会の末端はフロイトのエスのように世界の無言の条理にひらかれている。それがわたしたちが生きている現実だ。このシステムのなかでは人はたやすく残骸のように遺棄される。それがわたしたちの当面する日々だ。
こういうことを考えているとき、友人のTさんから安保法案通過後の9月27日に書かれた辺見庸の発言を紹介された

happy birthday to me!クソッタレ!けふは犬と公園へ。三好さんとあふ。黙っていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者に対し、帰れ!コールを繰り返し浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?黙っていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。よしんば彼らがxx派だろうが。。派だろうが、過激派だろうが、警察に(お願いです、彼らを逮捕してください!あの演説をやめさせて下さい!)と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強して出直してこい。古今東西、警察と合体して権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘さすとしずくがかかって人に迷惑かけるから雨合羽、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。官権に守られた権力の絶対安全圏で「ハナ(クソ)サク」でも歌っておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとても喜んでおられるぞ。下痢がおかげさまで治りました、とさ。コール「民主主義って何だあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。かつて、絶対にやるべきときには何もやらず、今ごろになってノコノコ街頭に出てきて、お子ちゃまを神輿に乗せて担いではしゃぎまくるジジババども、この期に及んで、勝っただと!?だれが、何に、どのように勝ったのだ!トウヘンボクめ!お前らのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれ自身も何だかわからなくなって、結局、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。happy birthday to me!クソッタレ!

悪態をつく辺見庸節は痛快で健在。わたしはすぐTさんに返信した。

好きということもないのですが、本屋で船戸与一の本を見つけたら買って読んできました。彼の遺作となる9巻からなる満州国演義シリーズが文庫本になったので2冊よみました。物語は1927年あたりからです。ちょうど宮沢賢治を読んでいたので、時代背景が同一なんだなと感じました。賢治の詩に、「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない/・・・・・/その兎の眼が赤くうるんで/・・・・・・・/草も食べれば小鳥みたいに啼きもする/・・・・・・・/そうしてそれも間に合わない/・・・・・・・・/世界ぜんたい何をやっても間に合わない/・・・・・・・・・/その親愛な近代文明と新たな文明の過渡期の人よ」(筑摩書房『校本宮沢賢治全集』第6巻201p~202p)、というのがあります。それでも日本人は戦争を選んだというあたりの謎です。時代の衝迫感がよく似ています。
安倍の支配思想と反安倍の支配思想がつるんでいると判断しています。一億総玉砕から一億総懺悔への転換より事態は深刻だと思っています。四半世紀前から黒船と戦後が一度にやってくる大変動期と主張してきて、その通りになりました。特別機密保護法から戦争法で一応完結したと思います。
戦後の70年は終わり、新しい戦後をいま生きていると実感しています。もっと深く敗北せよ、地軸が傾くほどに。内包は擬制のただなかを孤絶したおもいを抱いて進撃し続けます。

宮沢賢治を根っこのところで突き動かしたどうしようもない時代の流れの歪んだエネルギーは一億総懺悔のなかでどこに行ってしまったのかとずっと気になっていました。もちろん主観的な意識の襞にある民主主義という建前の理念ではこの場所は見えません。端折って言うと、ハイテクノロジーがアウトソーシングしたのだと思います。そして刈り込まれて行き場を失った生の残余が精神の古代形象として復活しているのではないか。ただ、辺見庸が実体化しているようなグローバル権力と陰惨なテロルとの相克、つまり非対称的な戦争に事の本質があるのではないとぼくは考えています。

じつは船戸与一の死にさいして辺見庸が追悼文を書いていた。今夏偶然目にした。十数年前に辺見庸の本を読んで感想を書いたことがある。内容証明付の封書で果たし合いの申し入れをやり不発に終わった。そのころ辺見庸は脳梗塞で病に伏した。
今春亡くなった船戸与一の死について「完全無虚飾人」という短文を寄せていた。貼りつける。

 きょうび、であるよりは、でないほうがよっぽどむずかしい。船戸与一はでない男だった。ある日、ボソッと言った。「ぼくは善悪でものをかんがえないし、ニッポン賛歌を歌う余地がない。その気もない」。死ぬまでそれをとおした。正史と燦爛たる光にはかんしんをしめさなかった。外史と惨憺たる敗者に、ことのほか敏感だった。いっしょに酒を飲んでいるとずいぶん楽だった。しゃべらなくてすむから。黙ってじっくりとのめた。お互いに敗戦直前の一九四四年生まれであることを、話はしなかったが、たしょうは意識していた。ろくでもない年に生まれてしまったことを。ろくでもない年に生まれたものは、かっこうをつけてもしょうがないことを知っていた。かれは、これみよがしではなかった。ことさらに「正義」をかたりはしなかった。はったりがなかった。知るかぎり、かれはこの世でもっともわざとらしくないひとだった。わざとらしさには堪えられなかったのだろう。わざとらしくすまいという、わざとらしささえなかった。おそらくかれは、ひとという恥の根茎に感づいていた。船戸与一は身まかった。時宜にかなっているのかもしれぬ。わたしはこれみよがしの、ただわざとらしいだけの夜にとりのこされた。(へんみ・よう=作家 2015/04/25日経朝刊)

民主義の使い回しを啓蒙する反安倍のコールより辺見庸の発言の方がはるかに正直だといえる。辺見庸が言うことはその通りだと思う。しかし宮沢賢治を読み進めていてわたしは宮沢賢治を突き動かした表現意識の謎に触れたいという気がしてならない。文芸批評家の小林秀雄はかつての大戦について言っている。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何も後悔もしていない。大事変が終わった時には、かならずもしかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものにたいする人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無智と野心から起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和21年2月号)

小林秀雄の言う「歴史の必然」とはわたしの概念では自己意識の外延表現としては、と言うことになる。自己意識の外延表現に閉じられた歴史ではそうなるというほかない。内省と遡行という意識の呼吸法から見ればたしかに「もっと恐しいもの」だ。だれもがこの地点でどうどうめぐりをする。そして「利巧な奴はたんと反省」したふりをしておなじことをくり返す。いまもなにも変わらない。

フーコーはもっと慎重に誠実にこの問いに答えている。国家というものに向かわずにはおれない巨大な渇望としてこの謎を語っている。それは依然として謎なのだ。

 吉本さんのお仕事の簡単な紹介と著作リストを拝見しますと、その中でいわば個人幻想と国家の間題などが語られています。また、いまも話されましたが、国家形成の母胎としての共同の意志についても書物を著しておられる。これは、私にとっても大そう興味深い間題です。私は今年、国家の形成をめぐって講義を行なっており、その講義の中で、西欧の十六世紀から十七世紀にいたる一時期の国家目的の実現手段の基盤といいますか、いわゆる国是というものが、どのようにでき上がってくるかという過程を分析しておりますが、それには、単に経済的な諸関係だの、制度的な諸関係だの、また文化的諸関係といったようなものの、そうしたものの分析だけでは、どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました。そこにはぜひとも国家というものに向わずにはいられぬような巨大な渇望というものが存在していて、まあこれは国家への欲望といいますか、それをいま問題となった言葉を使っていい直しますと、国家への意志と言い替えたほうがいいかもしれませんが、明らかにそういうようなものが間題とされざるをえないのです。
 国家の成立に関しては、それは決して専制君主のような人物や、上位の階級にある人間が、裏からそれをあやつったとかいうことではなく、どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなものがあったとしかいいようがないのです。そのようなことを十分に感じ取っているので、特にきょうは吉本さんがおっしゃったことに多くの有益な指摘を発見しえたし、また意志論という視点から国家を論じておられる吉本さんのほかのお仕事がどんなものかを是非とも知りたくなりました。(『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ』所収「世界認識の方法」蓮實重彦訳 211p)

フーコーもこの謎を国家へ向かう巨大な渇望や大きな愛と形容することで外延的な表現意識のまわりをぐるぐる回っている。吉本隆明の思想もおなじ轍を踏んだ。わたしはもっとやわらかい未知としての言葉があると思っている。内包の思考を貫通させることができれば、言葉のその場所で歴史はくるりと反転する。
内田樹の「夜明けは近い。若者だけが唯一の希望だ」という虚偽も、高橋源一郎の「ぼくらの民主主義なんだぜ」という退廃も、民主主義しか言うことがないのかとそのことに唾棄する辺見庸の悪態も、小林秀雄の居直りも、フーコーの思想も、吉本隆明も思想も、同一性を前提とした主観的な意識の襞でしか世界を構想し得ていない。そういう意味では思想としてはまったく同型である。この思想の型で現実や世界をなぞるかぎり敗北は必至である。グローバルな自己同一性権力のすさまじさに太刀打ちできるはずがない。
このあたりについては片山さんのWEB配信連載「気になる言葉たち」の「生権力」(1-4)http://www.aspect.jp/business/?ext=に詳しい。ぜひご一読を。ここをめぐって片山さんとずっと討議してきた。
猛烈な自己同一性権力に抗し、その外延権力を包み込みうる言葉が、存在しないことの不可能性として存在するという確信によってこの討議は支えられている。はじまりがあって終わることのない渦として、しだいに深まりゆく渦として、この討議はつづけられる。

わたしたちは素足で地面に立ち、吹きさらしの風に晒され、新しい戦後を生きる。わたしたちを衛るものはなにもない。いやそうではない。内包自然がある。抗しがたくみえるグローバルな自己同一性権力も内包自然に手をつけることは原理的にできない。
わたしたちの心身はその一片に至るまで商品化されるだろう。生はビッグサイエンスや精密科学に絡め取られ、新しい生権力に囲繞され、新しい時代の奇怪で倒錯した真理によってこれまで以上に生が絞り上げられる。グローバルな権力によって薙ぎ倒されたわたしたちの生はそこで再編成され、その準則に逍遙として身の丈を合わせていく。凄まじい荒廃ではないか。各自がじぶんの生の現場で声を挙げること。それは民主主義のコールをすることではない。身体を貫く生権力を生の現場でねじ伏せること。わたしは内包自然で自然を拡張しつつある。身体という天然自然は電脳社会のハイテクノロジーによって同一性を公準に、人工自然で置きかえられることになるだろう。心と体の一片にいたるまで。自己意識の外延表現の必然としてそれはある。みずからそこに突進していく準則をなめらかなものとするシステムが新しい民主主義と呼ばれることになるだろう。もはやそこに生の固有性はない。固有な生でさえも同一性によってあてがわれるのだ。

内包をおのずからしからしむという内包自然はネイチャーやサイエンスではなく表現である。領域としての自己にはこころがふたつあるから、還相の性の分有者のいちばん奥まったところにある還相の性は同一性の彼方の出来事である。この内包自然を、どうしてグローバルな自己同一性権力が刈り込み収奪することができるのか。内包自然を同一性が対象とし把持することは原理的にできない。そういうものとして内包論がある。ここに世界を組みかえ拡張する機縁があるとわたしは考えている。

「歩く浄土56」最後の数行を再掲する。

根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある。

世界恐慌を前にした「世界ぜんたい何をやっても間に合わない」という宮沢賢治の切迫感も、小林秀雄の居直りも、フーコーの言う国家に突進する巨大な渇望も、辺見庸の激しい否定性も、すべて同一性の為せる業であり、ここをていねにひらくことで、この世のあり方も、わたしたち一人ひとりのありようもくるりと反転し拡張されることになる。それは楽しい夢ではないか。

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