日々愚案

歩く浄土53:情況論4

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集団的衛権の行使を可能とする安全保障関連法案が7月16日午後、衆議院本会議で可決。戦後の70年は瓦解した。憲法改正の国民投票を国民に問うこともせず、朕(オカルト安倍)は国家なりと憲法に超越する権力を行使することで、この国にいっそうの格差をもたらし、この国を戦争に巻き込むことになるのは必至である。わたしはもとより国民の大多数が反対だと承知している。米国への面従腹背からさらなる隷従へとこの国はひた走る。戦争法案のどこをみても戦争の大義はみあたらない。いまや国体は米国の国益であり、超国籍企業の利益である。

一昨年1月から片山恭一さんと緊急討議を行ってきた。特別機密保護法案が国会を通過したことに危機を感じてそれをきっかけに対談はいまもつづく。昨年一年は「ことばの始まる場所」、今年は

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として対話を続けている。わたしの安倍晋三への批判はこの中で述べている。これからも批判を続ける。

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わたしは当面するむきだしの生存競争の下で、この国をめぐって二つの力が相克していると基本的な認識をしている。ひとつは圧倒的な猛威を振るうグローバリゼーションという立ち向かうものを薙ぎ倒していく力。この力はハイテクノロジーと結合している。電脳社会は資金資本主義を本旨としています。あたるところ敵なしの圧倒的な力です。この強大な力に世界は翻弄されています。安倍晋三は愛国主義を自称しながら弱肉強食資本主義の流れに与しています。矛盾していることに気づく知力は安倍の狂気にはありません。たとえそれが米国の手のひらの上で踊るものであっても、戦争のできる国になることが独立国であるというゆがんだ願望です。

この世界の地殻変動にたいして佐々木俊尚は自覚的です。戦争法案の可決を冷ややかに見ていることと思います。『レイヤー化する世界』でも『21世紀の自由論』でも超国籍企業によって国民国家と民主主義が解体することは不可避だと言っています。
グローバルな力によって国家という共同幻想が外部から非関税障壁としてなし崩しにされることは皮肉と言うほかありません。世界はそのように動いていきます。国際情勢と地政学の変化によってグローバルテロリズムを避けることはできないので、集団的自衛権は是とされ、自由を制限しても生存は保証されるべきだというのがかれの意見です。
むきだしの生存競争の世界は自由を制限し、生存も保証されないというのが現実です。佐々木俊尚の願望は現実とは矛盾しています。ネットワーク共同体でそのほころびを繕うことはできないとわたしは判断しています。

集団的自衛権を肯定するへりくつをファンに語らせています。2015年7月15日の分です。

佐々木俊尚の21世紀の自由論一章をのんびりと読了。自分の中の各勢力の立ち位置を再確認出来た感じ。ただ、今ギャーギャー騒いでるのはあれ、リベラルじゃないぞと言いたいなぁ。彼等はリベラルを僭称してるというのが持論。
あと、Twitterで有名な某センセ達が次々登場するのがツボったw

安保法案を「戦争法案」と呼ぶレッテル貼りもあまりに低レベルです。
「戦争は悪いことだから反対」という誰でも言える一般論で自分を正義の側に置き、戦争を抑止するための具体的な検討をしている人に「戦争をしたがっている人」と真逆の邪悪レッテル貼りをするのは二重の意味で欺瞞では

とてもグロテスクな意見だと思います。このツイートを読んで嫌な気分になった。なんの含蓄もない。2ちゃんねると同質のものを感じます。ファンに語らせるという手法は卑怯です。かれのリベラルな思想の立ち位置の批判はこの程度なのです。

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そこでSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracys)の若者たちの動き。ネットで動画を見聞するとすぐわかることがある。60年安保とも全共闘とも違う。さわやかです。行動綱領はつぎのように書かれている。「私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます」。なるほど内田樹が駆けつけて40年ぶりに歓呼の声をうけマイクを手に演説するわけだ。なんだかあという日常から、行動者へと変わるなかで、かれらはとても楽しいと思う。そういうときがわたしにもたしかにあった。
少し長くなりますが彼らの主張を貼りつける。

 SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。

私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します。

日本の政治状況は悪化し続けています。2014年には特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認などが強行され、憲法の理念が空洞化しつつあります。貧困や少子高齢化の問題も深刻で、新たな生活保障の枠組みが求められています。緊張を強める東アジアの安定化も大きな課題です。今年7月には集団的自衛権等の安保法整備がされ、来年の参議院選挙以降自民党は改憲を現実のものとしようとしています。私たちは、この1年がこの国の行方を左右する非常に重要な期間であると認識しています。

いまこそ、若い世代こそが政治の問題を真剣に考え、現実的なヴィジョンを打ち出さなければなりません。私たちは、日本の自由民主主義の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます。そして何より、この社会に生きるすべての人が、この問題提起を真剣に受け止め、思考し、行動することを願います。私たち一人ひとりの行動こそが、日本の自由と民主主義を守る盾となるはずです。

私たちは、立憲主義を尊重する政治を求めます。立憲主義とは、私たちの自由や権利を保障する憲法に基づいて政治を行う考え方です。国家権力の暴走によって個人の自由や権利が奪われることがないように、憲法によって政府の権力を制限する考え方でもあります。立憲主義は、自由で民主的な近代国家に不可欠な要素です。日本をふくめ、多くの民主主義国家の憲法はこの立憲主義に基づいています。

現政権は、この立憲主義に基づく日本国憲法のあり方を根本的に否定する政治を行っています。たとえば、2013年12月の特定秘密保護法の強行採決や、2014年の解釈改憲による集団的自衛権の行使容認があります。さらに2012年に発表された自民党の改憲草案は、個人の自由や権利よりも公の秩序や義務を強く打ち出すものです。自民党の憲法ヴィジョンは、個人の自由や権利を守るために国家権力を制限する立憲主義の考え方とは、真逆の性格を持っています。

もちろん、私たちは憲法改正それ自体を否定するつもりはありません。セクシュアル・マイノリティ、生きることの多様性など、現在、ますます多くの社会問題が浮き彫りになっています。こうした問題についての憲法の改正は、おおいに議論され、実践されるべきであると私たちは考えます。

戦後70年間、私たちの自由や権利を守ってきた日本国憲法の歴史と伝統は、決して軽いものではありません。私たちは、立憲主義を根本的に否定する現政権、および自民党の改憲草案に反対します。そして私たちは、日本国憲法の理念と実践を守る立場から、立憲主義に基づいた政治、つまり個人の自由や権利を尊重する政治を支持します。

私たちは、持続可能で健全な成長と公正な分配によって、人々の生活を保障する政治を求めます。派遣村、就職難、ワーキングプアなど、現在の日本はかつてない貧困のなかにあります。グローバル化や脱工業化社会のなかで、他先進国に比して国民の福祉の多くを企業・家族に委ねていた日本の生活保障システムは、抜本的な改革が迫られています。

現政権は、格差拡大と雇用の不安定化を促進し、中間層・貧困層を切り捨てた、いびつな成長戦略を実行しています。アベノミクスの結果、一部の富裕層の所得は増えたものの、中間層の所得は減りました。社会保障の分野では、生活保護などセーフティ・ネットの切り下げ、介護保険サービスの削減などが行われています。雇用についても、非正規雇用の拡大に加え、今後は派遣労働を永続化させかねない労働者派遣法の改正も目指しています。加えて、2017年の4月には消費税が10%に引き上げられる予定です。

社会保障を中心とした再分配システムが再建されないまま消費税増税が行われれば、格差拡大はますます進行します。いま求められているのは、国家による、社会保障の充実と安定雇用の回復を通じた人々の生活の保障です。過酷な業務や残業代の出ない長時間労働によって、働く人々の生活を脅かすブラック企業の問題も、近年問題とされています。政府には、労働者の生活を保障するためにこうした企業を規制していく責任があります。長期的にみれば、安定した社会保障や雇用保障の実現は国民の生活を守るだけでなく、健全な経済成長をもたらす基盤ともなるはずです。

私たちが望むのは、格差の拡大と弱者の切り捨てに支えられたブラックな資本主義ではなく、豊かな国民生活の実現を通じた、健全で公正かつ持続可能な成長に基づく日本社会です。私たちは、多くの国民の生活を破壊しかねない現政権の経済政策に反対します。そして、公正な分配と健全な成長政略を尊重する政治を支持します。

私たちは、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます。現在、日本と近隣諸国との領土問題・歴史認識問題が深刻化しています。平和憲法を持ち、唯一の被爆国でもある日本は、その平和の理念を現実的なヴィジョンとともに発信し、北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです。私たちは、こうした国際社会への貢献こそが、最も日本の安全に寄与すると考えています。

現政権は2年以内の憲法改正を掲げるとともに、集団的自衛権の行使容認、武器輸出政策の緩和、日米新ガイドライン改定など、これまでの安全保障政策の大幅な転換を進めています。しかし、たとえば中国は政治体制こそ日本と大きく異なるものの、重要な経済的パートナーであり、いたずらに緊張関係を煽るべきではありません。さらに靖国参拝については、東アジアからの懸念はもちろん、アメリカ国務省も「失望した」とコメントするなど、外交関係を悪化させています。こうした外交・安全保障政策は、国際連合を中心とした戦争違法化の流れに逆行するものであり、日本に対する国際社会からの信頼を失うきっかけになりかねません。

長期的かつ現実的な日本の安全保障の確保のためには、緊張緩和や信頼醸成措置の制度化への粘り強い努力が不可欠です。たとえば、「唯一の被爆国」として核軍縮/廃絶へ向けた世界的な動きのイニシアチブをとることや、環境問題や開発援助、災害支援といった非軍事的な国際協力の推進が考えられます。歴史認識については、当事国と相互の認識を共有することが必要です。

先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。私たちは、対話と協調に基づく平和的かつ現実的な外交・安全保障政策を求めます。

リベラル勢力の結集にむけて

私たちは、現政権の政治に対抗するために、立憲主義、生活保障、平和外交といったリベラルな価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます。この野党結集は、市民の政治参加を促し、機能不全が嘆かれて久しい代表制を活性化させる、新しい政治文化を創出する試みです。

たとえば、前回の衆議院選挙では、自民党の得票率は有権者全体の2割程度だったにもかかわらず、8割の議席を占めるという結果となりました。野党に投じられた票の総数は、実は自民党に投じられた票の数よりも多かったことになります。つまり、野党勢力の協力次第では、今後の政治状況をリベラルなものに変えていける可能性は十分にあるということです。

現政権に対抗するための野党の結集は、残念ながらまだ現実のものとなっていません。沖縄での2014年の国政選挙では、辺野古基地反対を掲げる革新政党が政治協力をした結果、全ての小選挙区で自民党が勝つ事はありませんでした。私たちはこの結果に学ばなければなりません。

SEALDsは特定の政党を支持するわけではありません。しかし、次回の選挙までに、立憲主義や再分配、理念的な外交政策を掲げる、包括的なリベラル勢力の受け皿が誕生することを強く求めます。これは自由で民主的な日本を守るための緊急の要請であり、現実主義的な政治対抗の提案です。

行動綱領では特定の政党を支持しないが現実的な対抗政治を提案するとある。一読して言葉が薄いなと感じます。動画では可愛い女の子が戦争反対の音頭を取っていました。課題満載、総花的です。SEALDsのメッセージからは若者の日々の顔が見えてきません。できないことが優等生的に羅列されていて雨宮処凛みたい。。。
じぶんの体験をふり返っても、発語された言葉と表出の意識は乖離してまったくべつものです。そのことを自戒しても言葉の密度感や切迫感がないような気がします。
民主義を未完のプロジェクトとみなし、自由と民主主義の伝統を尊重しながらさまざまな課題の現実的な解決をめざそうではないかと呼びかけている。このようなつるんとした言葉では言いあらわしようがないということが現在ではないのか。

政治的な主張である限り運動の高揚と停滞と後退期がそこにある。やっと若者が安倍晋三にノンを突きつけ始めたばかりで杳として行方はしれない。ただそれでもひとつだけ明言できることがある。成り行きがどうであれ、かれらには国家とグローバリゼーションについての考察が欠けていると思う。それは発語というよりは感性である。わたしにはどこにも突出した感性のうねりはないようにみえる。SEALDsのメッセージを一読してそういう印象をもった。あながち外れてはいないはずだ。運動の高揚期から敗走期の全過程を体験して、運動からの去り方は面々の計らいであるが、意思を貫くものは一握りである。そしてそこにしかこの世界を超えていく可能性がないということは先験的であるとわたしは思っています。逆説というしかないのですが、つながらないということにしか、この世のしくみが革まるきっかけはありません。

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内田樹の「大衆の変遷」は名文だと思う。吉本隆明の思想を論じながら、思想が期間限定だという考えを述べている。肉感的で情感がありじつにいい文章だ。

「大衆」の変遷
私自身は高校生のときから大学院生の頃まで吉本隆明の忠実な読者だったが、その後、しだいに疎遠になり、埴谷雄高との「コム・デ・ギャルソン論争」を機に読まなくなった。その消息については別のところに書いたのでもう繰り返さない。たぶんその頃、吉本がそれまで政治評論において切り札として使っていた「大衆」という言葉に不意にリアリティを感じられなくなってしまったからだろうと思う。それは吉本のせいではない。彼がその代弁者を任じていた、貧しくはあるが生活者としての知恵と自己規律を備えていた「大衆」なるものが、バブル経済の予兆の中でしだいに変容し、ついには物欲と自己肥大で膨れあがった奇怪なマッスに変貌してしまったことに私自身がうんざりしたからである。マッスに思想はないし、むろん代弁者も要さない。そんな仕事は電通とマガジンハウスに任せておけばいい。私はそんな尖った気分で吉本の「大衆論」に背を向けてしまった。

内田樹が言うことは実感としてわかります。おなじことをわたしも感じていたからです。この時期の吉本隆明の態度は一貫していた。世の中について発言するときは重層的な非決定で望むという思想の流儀です。この考えの上で『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』が書かれました。かれ自身が思想の大転換をしたと発言しています。わたしは内田樹と違い1990年に吉本隆明と対談するときまでは吉本隆明の思想の後追いをしました。吉本隆明の「世界視線」の可能性に賭けたのです。そのことについてはたくさん文章を書いてきたのでここではくり返さない。

戦争が終わったとき、「大日本帝国臣民」の名において戦争の責任を引き受けると宣言したものはいなかった。戦争指導部の人々でさえ、開戦は自分の本意ではなかったという見苦しい言い訳を口にした。あの戦争には主体がなかった。戦争の主体がいないのだから、敗戦の責任者がいるはずもない。当然にも「私が帝国の統治システムの瑕疵や政策決定プロセスの欠陥について自己検証し、戦後の日本のあるべき政体を設計する」と名乗りうる戦後日本の再建主体もいるはずがない。「一億総懺悔」とはそのことである。
戦前の日本をあたかも汚物のように、悪夢のように組織的に切り捨て、忘却して、戦後の言説空間に滑り込んだ知識人たちに対して、吉本隆明はあくまで「大日本帝国臣民としての戦争責任の取り方」にこだわった。むろん、このようなスタンスでの異議申し立てをなしたのは吉本ひとりではない。大岡昇平も鶴見俊輔も江藤淳も、それぞれのしかたで「戦前に遺した半身」を戦後の我が身に縫合するという困難な仕事に取り組んだと私は思っている。
吉本の思想的オリジナリティは「日本国民」対「大日本帝国臣民」という時間軸上の(出会うことのなかったものたちの)対立を、現代における「知識人」対「大衆」の(いま出会いつつあるものたちの)対立に「ずらして」みせたことにある。
「誰が真の大衆の代弁者なのか?」という問いが切迫した政治的問いとなるのは、そのような文脈においてである。それは言い換えると(吉本自身はついに口にしなかったが)、「誰が大日本帝国臣民の日常的経験と日本国民の日常的経験を架橋し、二つの声域で同時に語ることができるか?」という問いだったからである。60年安保闘争の思想的賭け金はまさにそこにあったと私は思う。

吉本隆明の思想の特徴を見事に取りだしています。吉本隆明の発言は内田樹にとって斬新なものだったと内田樹が書いている。

60年代に吉本隆明は「大衆の原像」というつよい喚起力を持つ言葉を携えて登場した。そして、戦前からの左翼運動が一度として疑ったことのない「革命的前衛が同伴知識人を従えて大衆を領導する」という古典的な政治革命の図式を転倒させてみせた。それはたしかに足が震えるような衝撃だった。

内田樹の言うように吉本隆明の思想は肉体をもち生を根こそぎさらうような体験でした。本を読んで知識を積み増すということとは異なった生の体験です。内田樹にとってもそうだったことを知ってよく似ているという感じをもちました。思想というものの圧倒的な存在感を、その空前絶後性を体験したのです。
でも重層的な非決定以降の吉本隆明の思想にある距離感も感じていました。そのことをたしかめたかったので対談という暴挙にでたのです。わたしはその対談で、吉本隆明さんの重層的な非決定という思想にたいして、奥行きのある点という考えを述べました。のちにそのことを内包論の続稿として展開することになったのです。
消費社会が興隆するなかで思想の生きる余地がなくなり思想を領域化することに吉本隆明は思想の命運を賭けたのです。重層的非決定以前の吉本隆明の思想の方法は、自分にとって切実なことは他者にとっても切実であるに違いないという臆断を表現の公理としていました。それが当時の若者にとってとてつもなく魅力的だったのです。わたしもそのありかたに惹きつけられたひとりでした。

大衆とは、政体の変遷にも、知識やイデオロギーの盛衰にもかかわりなく、その生活者としての揺るがぬ身体実感と経験知に基づいて「その日常的な精神体験の世界に、意味をあたえられるまで掘り下げる」(「日本ファシストの原像」、『吉本隆明全集6』、199頁)ことのできるもののことである。そのような大衆しか「戦争体験と責任の問題に対処できる」主体たりえない。「この方法だけが、庶民を、イデオローグや、イデオローグの部分社会にたいして優位にたたしめ、自立させる唯一の道である」(同書、199頁)。吉本はそう書いた。
たしかに、そう書かれると「大衆」というのは歴史的条件の変化にかかわらず相貌を変えることのない超歴史的「常数」のようなものだと私たちは思ってしまう。けれども、それはやはり違う。吉本のいう「大衆」もまた歴史的形成物であることに変わりはないのである。「戦争体験と責任の問題に対処できる」主体たりうるような「大衆」はある種の歴史的条件が整ったことによって登場し、その歴史的条件が失われたときに消失してゆく。
吉本は大日本帝国臣民という仮想的な立ち位置から戦後思想を撃つというトリッキーな戦術によって一時期圧倒的な思想的アドバンテージを確保した。しかし、吉本のアドバンテージもまた歴史的条件によって規定されたものである以上、時間の経過とともに消失してゆくのはやむを得ないことであった。日本人のほとんどが「大日本帝国臣民である生活者」たちの相貌についての記憶を失った1980年代に、日本人は吉本隆明の「大衆」という言葉が何を指示しているのかしだいにわからなくなった。そのとき吉本隆明の政治思想の批評性がその例外的な「切っ先」の鋭さを失ってしまったとしても、それは歴史の自然過程という他ない。

内田樹のいうように思想もまた期間限定であり、賞味期限があるということにおいて、それが過ぎることも歴史の自然過程であると言えるのかもしれない。しかしそのことはそのまま内田樹の考えにも差し戻される。民主主義もまた歴史の普遍ではなく、あるときに生成し消滅する期間限定の思想ではないのか。すでに民主主義はじゅうぶんほつれており、民主主義が擬制であることを前提にして、民主義を越境するなにかとの相関において民主主義を語らないかぎり、現実を保守するものとしかならないと。そうではないですか、内田さん。吉本隆明の思想が過ぎたものであるとすれば、内田樹の民主主義を未完のプロジェクトとみなす思想の立ち位置も超歴史的「常数」のようなものと錯認されることになる。そうではないでしょうか、内田さん。

わたしは内田樹の考えと違う考えが可能だと思う。思想が自己意識の外延表現のかたちをとるかぎり、思想は生成変化する社会の関数にしかならない。そうであるとすれば思想はつねに未然であり、歴史の自然過程として過ぎていくことになる。外延表現をなぞるかぎり内田樹の見解は正論であり、どうじにいつもその思想は過ぎてゆく。民主主義という擬制の国民であることと、到来し現前する世界の無言の条理というハイパーリアルな生存とのほつれをつくろう言葉を考究することは、また内田樹自身の思想的な課題ではないのか。

わたしには内田樹自身もこの解きがたい問いを解いているようには思えません。かれの言葉をもう一度たどってみる。「貧しくはあるが生活者としての知恵と自己規律を備えていた『大衆』なるものが、バブル経済の予兆の中でしだいに変容し、ついには物欲と自己肥大で膨れあがった奇怪なマッスに変貌してしまったことに私自身がうんざりしたからである」と内田樹が語るときの「大衆」と、「果たして大衆は無言であることを通じて何を言おうとしているのか」というときの「大衆」は、なぜ二重化してあらわれるのか。なぜ物欲にまみれた自己肥大と大衆の沈黙の有意味性は分裂してあらわれるのか。光は粒子でありかつ波であるという量子力学の観測者問題と同じ現象がいつも大衆という概念につきまとう。それはなぜか。

ヴェイユの言葉を借りれば、吉本隆明であれ、内田樹であれ、大衆という概念について間違った一般化をしているからだと思う。つまり外延表現では大衆という理念は間違った一般化しかできないということだ。大衆という理念は外延表現の途につくかぎり、互いに、たえざる、矛盾と対立と背反する現象として登場するということである。自己を実有の根拠とするイデオロギーでこの二重性を解くことはできないと内包論では考えています。内包論では自己を領域だと考えます。この領域としての自己の下では、自己は自己であるとどうじに〔あなた〕という二人称であるから、大衆という三人称は上書きされて消えてしまい、あたかも互いの関係が二人称であるようにあらわれます。それは存在がひらかれ三人称を包んでしまうからです。この機微は内包論でしか語ることができません。
戦争法案は国会で可決されましたが、この世のしくみがどうであろうが、内包論では、わたしたちは固有の生を、風のように、音のように、生きることができます。

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