日々愚案

歩く浄土51:情況論2

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佐々木俊尚の『21世紀の自由論』を読みはじめですぐ気づいたことがある。かれはこの本の冒頭からリベラルな論客を激しく論難する。その一人として内田樹も標的にされていた。ああ、この光景はかつて見たことがある。読みながらすぐそう思った。時代はここまで後退しているのか。反政府を標榜する進歩派の文化人が一刀両断されている。痛快であるには違いないのだが、待てよと思う。この国の消費社会が興隆していく勢いのなかでおなじようなことが喧伝されたのだ。いまは格差社会へまっしぐらだから、格差社会に見合った理念が提唱される。わたしたちの生は変貌する社会の関数にすぎないというわけだ。

『21世紀の自由論』はネット社会が生存を保証するというネットワーク共同体を称揚する自己開発セミナーの類いの本ととらえるととてもわかりやすい。反政府の言動は反政府という立ち位置しか語っていなくてどこにも哲学がないと佐々木俊尚は主張する。その主張は簡明である。
「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらをあなたは選びますかと問いかけているのだ。明快な踏み絵を佐々木俊尚は迫っている。ネット社会に寄生し善と悪のダークゾーンを生きるのが、21世紀の「優しいリアリズム」というわけだ。この理念はリベラルな立ち位置を欺瞞であると激しく論難する。
もちろんこの主張は実感としてうそです。リベラルという仮象が崩壊することで弱肉強食という世界の無言の条理が全景化しているのが現代の現在性です。
言い換えれば、生存が脅かされたうえに自由も制約されるというのがわたしたちが当面している現実です。優しいリアリズムとはまた面妖なことを言うものだという率直な感想がある。

外延世界の変貌に身の丈を合わせて生きていくしかないといういつもの説明が説かれる。啓蒙されるよりはやく人はすでに変貌した世界に身の丈を合わせて渡世している。わたしの内包論からすれば、リベラルも、優しいリアリズムも、ともにおなじだけ欺瞞です。擬制を撃っているにすぎないのです。それぞれがそれぞれの建前という立ち位置だけを語っているだけなのだ。現実は遙かにリアルです。リベラルであれ優しいリアリズムであれ、睥睨する者が治者の視線で衆生にいつもの善き生を教導する。うんざりするよな。
生は例外なくごつごつしているのものでときどきふとふわっとする。リベラルな理念も優しいリアリズムも生の実相の触れることはない。つるんとした世界解釈など知ったことかだ。

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佐々木俊尚の提唱する優しいリアリズムの声音はかつて聞いたことがある。おなじことが意匠をあらたにしてくり返されている。この思考の特徴は仮想敵をあらかじめ想定することにある。1980年代に竹田青嗣は理想を唱えることは「羊のロマン主義である」と論難しました。理想は暴虐をもたらすから、この社会のルールとモラルを考え直そうではないかと呼びかけた。とても喉越しがよいので知識を愛好する人にそれなりの影響力を持ちました。若者の騒乱が内ゲバ殺人や連合赤軍による「同士粛清」や東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件を経て一気に消滅したことが背景としてある。
いまあるこの現実から始めようというのが竹田青嗣や加藤典洋らの主張でした。かれらは国家という共同幻想から狂気の共同幻想を抜きとり、善き共同幻想をルールという一般性としてこの世に敷衍していこうと言ったのです。若者の惹起した擾乱は民主主義の思想を敷衍化することとして結実したのです。わたしは民主主義の理念を唱えることはやがて過激派として扱われることになるだろうとことあるごとに主張してきました。この思想の流れの末裔として内田樹がいます。かつて竹田らが「羊のロマン主義」として論難したことが、佐々木俊尚によってリベラリズムの「マイノリティ憑依」として批判されます。断定的でかなり感情的な言説です。

「マイノリティ憑依」の弊害について佐々木俊尚はつぎのように言う。

 ベ平連の小田氏は、「日本人は単なる戦争の被害者ではなく、被害者であるのと同時に加害者でもある」と宣言した。ところが「七・七告発」のショックが強すぎたのか、この思想は過剰に走ってしまい、こうなったのだ。
 「日本人は戦争の被害者ではなく、純然たる戦争の加害者である」
 小田氏は、この過刺さを体験している。広島の集会でお年寄りの女性が被爆体験を話していたところ、ある若者がことばをさえぎってこう言ったのだという。
 「あなたの体験のことはもうみんなが知っていることだ。そんなことより問題は、あなたが自分も加害者だったという事実をどれだけ認識しているかだ」
 この過剰な加害者意識は、実に危険である。なぜか。
 加害者であり被害者でもあるという二重性は、共感を呼ぶ。「戦争には行きたくなかったが、国を守るためと言い聞かせて戦場に行った。そして敵軍の兵士を殺してしまった」というのは、とても苦しい立場だ。こういう人を単純に「人殺し」と批判できないだろう。どうしようもない宿命を思いやり、ともにその境遇を悲しむような共鳴を感じるだろう。いつでも私たちはこの人と同じ立場になるかもしれない。そういう想像力も働く。つねに私たちは「入れ替え可能」なのだということを、思い知らされる。
 しかし「被害者であり、加害者でもある」から、「被害者」だけを取り払ったらどうなるか。単純な計算だ。「加害者」だけが残り、加害者なら非難されて当然ということになる。これは他人を、加害者として断罪し続けてもかまわないという論理に陥っていく。
 学生運動の末期には、この過剰な論理がとぎすまされてさらに過剰になった。
 日本は豊かで平和であり、学生運動の運動家たちも豊かな国の豊かな若者だ。しかしその日本人は在日などのアジアの人民を抑圧する側に立っている。だとすれば日本を批判する権利があるのは、そういう弱者たちだけだ。だったら豊かな日本の若者たちは、弱者の視点から日本を見て、弱者の視点で日本を批判すればいいのだ、と。
 私は二〇一二年の『「当事者」の時代』という本で、この立ち位置を「マイノリティ憑依」と呼んだ。マイノリティ(少数派)に乗り移り、勝手に代弁することによって、日本社会を容易に非難できるようになる。非常に気楽な立ち位置を確保できてしまう、そういう落とし穴だ。
 戦後繁栄していた日本社会の内側には、サラリーマンや専業主婦、ふつうの若者たちがいる。自分が内側の人間だと意識すると、「これほど繁栄している日本社会でどう革命を起こすのか?」という問いへの回答はない。しかしマイノリティ憑依し、社会の外側に視点を持てば、「日本はマイノリティへの加害者だ」と社会の内側を強く非難できるようになる。
 社会の外側から、内部を撃つ。これは非難のツールとしてとても便利だ。そしてこの手法は、一九七〇年代以降に学生運動からさまざまな市民運動やマスメディアに拡散していき、日本の「リベラル」、当時は革新とか進歩派と言われた勢力の中心的な考え方になっていく。
 テレビのニュース番組で、司会者が「庶民にとっては困った問題ですよね」と言う。彼の言っているのは現実には存在しない、「幻想の庶民」だ。
 福島第一原発事故で、反原発運動の主張。「福島の子供たちが放射能に侵されている」「福島の子供たちがガンにかかっている」「奇形児が増えている」。それらは現実の福島県民ではなく、彼らの勝手な思い込みの中の「幻想の福島の子供」だ。
 彼らは社会の外側の幻想の存在に自分を託して、外側から社会を批判することによって、絶対的な立ち位置を確保し、高みから社会を見下ろしている。これは最強だ。
 もちろん、高度経済成長末期の成長し安定している社会では、この見方はそれなりに妥当性はあった。社会の内側にいる人間には自分たちの社会の問題は見えにくいからだ。しかしそういうものの見方を続けてしまうと、いずれ視点を外側に固定してしまうことになる。これは非常に危険だ。(『21世紀の自由論』57~60p)

引用を貼りつけながらうんざりする。佐々木俊尚は当事者ということを該当者の意味で使用している。私の理念では当事者は該当者ということを含みもつが当事者性を該当者性という意味では使っていない。出来事の当事者ということは該当者よりもはるかにふかい概念だと思っている。理念の上で批判されている竹田青嗣も佐々木俊尚から論難されるほどアホなことは言っていない。竹田青嗣は立場や資格を絶対化することはやめようときっぱり言った。

「政治的プラトニズム」は、政治的に絶対正義を要求する考え方です。絶対正義主義は、他者のためになることこそよいことだという「絶対他者主義」と、いちばん弱い人間の立場に立つべきだという「絶対弱者主義」が柱になっている。この考え方は、世の中のひどい矛盾から出発して、まずある種絶対的なかたちで理想状態を設定する。この発想をとると、たいてい「絶対平等主義」に近づきます。だから、それはまた絶対弱者主義を含む。(『「正義・戦争・国家論」』竹田青嗣の発言 43p)

 たとえば、その象徴的な例が差別の問題で、日本の反差別運動の基本の考え方は、マルクス主義の運動からつながっている。(中略)・・・・いまは、多文化主義というか、文化やエスニシティの多様性を認めよというポスト・モダニズム的差別論に変わってきている。だけど実は、差別が社会の支配構造と結びついているというマルクス主義な発想の基本は、いまの多くの差別論の中でそれほど変わっていないんです。
 つまり、いま反差別の運動は、たいてい対抗主義のかたちをとっているということです。その目標は、差別する集団(マジョリティ)と差別される集団(マイノリティ)の支配―被支配の関係を対等に、あるいは逆転することにある。この運動の方向では、どうしても集団を固定的にみて、相互の浸透性を認めないことになる。たとえば在日朝鮮人しゃかいでは、同化はよくない、あくまで自分たちの民族性を強く守って、マジョリティとしての日本の支配的な市民社会に対抗する、という発想になるわけです。運動の倫理性という点でも、やはり絶対的正義や弱者主義になる。つまり、差別されている人間は出きるだけ自分たちのエスニシティを守って、弱者の立場からマジョリティの社会の欺瞞を告発し、社会が変革されるまでとことん闘うべきだ、という発想です。それから、マジョリティに属する人間は、支配し差別する側としての自分の存在をよく意識し、差別されている人たちのためにできるかぎりのことをすべきだ、ということになります。(同 66p)

 自由競争の社会は、競争原理が大きくなりすぎると、当然いろんな矛盾がでてくる。資源の問題、環境の問題、それから南北の富の格差の問題が決定的に重要で、これはもちろんよく考えて克服しないといけない。ただ、古い考え方の文脈で行くと、いまの資本主義社会では、みんな欲望の虜になって、自分のことばかり考えている。お金の亡者になって、心の豊かさを失っている。だから、そういう傾向に対して批判的になっていかなければいけない、という言い方になる。またそこから、資本主義的な欲望や自我が諸悪の根源で、素朴で、競争のない生活が豊でよい生活なんだ、という発想が出てくる。それは絵に描いた理想主義、いわば羊のロマン主義です。そういう文脈では、どこまでいっても現実的展望がもてないので、結局は絶望的になったりニヒリズムに落ち込んだりする。つまり、そこには理想は残るけれど、思想は枯れはて死んでしまうんですね。(同 159p)

竹田青嗣は思想の源泉をフッサールから得ている。リベラリズムと一括りにすることはできない。かれはかれの体験からかれの思想を語っていることはたしかです。すくなくとも竹田青嗣はじぶんの言葉の由来を語っています。フッサールは数学者から出発し現象学の理念をつくりましたが、数学の延長に哲学を構想しただけで表現の理念がありません。そこは不満です。『幾何学の起源』をよめばすぐわかります。
リベラルを一括して批判する佐々木俊尚の言論は典型的新聞記者の文体でどこにも表現にあたるものがみえない。自民党が小林よしのりを赤と呼ぶのとどこが違いますか。

リベラルという立ち位置を嫌悪する佐々木俊尚の背景には幼少時の体験があると思う。

佐々木俊尚(前編)「人との『絆』を幼いころに経験しなかった自分にとって、人間関係を築く事は恐れでもあった」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40227
佐々木俊尚(後編)「『無償の愛の交換ができない』からこそ、居心地の良さを希求して、適応する」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40229

もうひとつはリベラリズムではグローバリゼーションの猛烈な圧力に抗し得ないという世界の現状認識があります。竹田青嗣も早い時期に言葉の立ち位置について語っていますが、この国が安定期にあるという前提の上でつくられた言説です。この言説は消費社会の興隆する時期の言葉です。竹田青嗣の言葉の情景はとてものどかです。
世界が激しく転変している危機感において佐々木俊尚とわたしの切迫感は一致します。

①そういう中でやってきたのが、「第三の産業革命」と呼ばれる情報革命である。情報革命の本質は、内側と外側の壁を破壊し、すべてをフラットにして富を分散させていくことだ。これは近代社会の基盤を根底からひっくり返そうとしている、大きな変化である。

②グローバルに情報やモノの流通が可能になったことで、世界中で仕事を増やし、世界中で富をつくり出す。平均すれば富は増加している。しかしこれまで欧米や日本に集中していた富をフラットに分散し、これまで貧しかった途上国や貧困地域に富を移動させている。これこそがグローバリゼーションのおこなっていることである。

③この分散は、最終的にグローバル基盤がアジアやアフリカのすべてを呑み込み、地球上のすべてをフラットにしたところで完結するだろう。収入は世界的に平準化され、そのときに「外部」は消滅し、すべてが内部となり、ヨーロッパの優位性は完全に消滅するのだ。(『21世紀の自由論』 118~120p)

わたしの理解では佐々木俊尚は世界を外延的に把握しています。電脳社会はハイテクノロジーを中核的な概念として生命工学や金融工学と結合します。その暴威にわたしたちの日々は曝されている。漂流していると言ってもいい。実感的にそれは間違いないことだ。前回のブログでとりあげた伊勢﨑賢治の国連PKO活動にしても、佐々木俊尚にしても世界を空間化している。どちらの言説にも当事者性に根ざした表現の膨らみはない。それはないものねだりだ。
ここは『21世紀の自由論』の批評の核心をなすところです。伊勢﨑賢治さんは『本当の戦争のお話しをしよう』のなかでつぎのように言っています。それは佐々木俊尚がリベラリズムにたいする嫌悪の核心をなすところでもある。

 こうして民衆にとって、いつ襲ってくるかわからないゲリラの恐怖に怯える時代が始まります。だけど、政府は何もしてくれない。
 僕が暮らしていたマケニもそういう状態でした。そこで市会議員の僕は、議会で、ある提案をします。自警団をつくることです。警察署長が全面的に賛成してくれて、満場一致で賛同されました。すぐに勇気ある屈強な若者が20名ぐらい名乗り出てくれた。警棒や槍、本当に撃てるかどうかわからない旧式の猟銃などで気勢をあげ始めます。
 僕は資金援助を申し出た。民間警備会社を雇う金にくらべたら、微々たるものです。タダで良いメシがたらふく食えると噂を聞いて、どんどん志願者が増え、100人くらいになったでしょうか。町ぐるみの自警団の誕生です。
 マケニ自警団は、僕の家と事務所を優先して巡回し、家族を守りたい僕にとっても心強いし、一般市民の評判も上々。言い出しっぺの僕は非常に鼻が高かったのですが、だんだん自警団の行き過ぎた行動が目につくようになるのです。
 ゲリラが町を狙うときには、まず、一般人のふりをした偵察要員を送り込んでくるんだ。だから、自警団は、路線バスのターミナルで乗降客一人ひとりの身体検査を始めました。見ない顔がいると、「どこから来たんだ」と尋問する。始めはそれだけで済んでいたのに、隣の町でゲリラを拘束したとか噂が立つと、切羽詰まってくる。尋問した相手がちょっとでも抵抗すると、暴力を使うようになり、みんなでボコボコにするようなリンチ事件も起こるようになってしまった。警察も見て見ぬ振りです。
 そうこうしているうち、ついに人を殺してしまった。それもボコボコにしたあと、後ろ手に縛り、どつきながら町を行進するのです。「RUFだ。ゲリラのスパイだ」とはやし立てながら。捕まった彼は、もうヨレヨレで声を上げるカも残っていないようだった。
 僕は、ちょうどそこを自動車で通りかかったのですが、僕の現地人運転手は(すごく気だての良い優しい奴でした)急停車し、車から飛び降り、その容疑者を殴り始めたのです。笑いながら。そして、群衆が大きくなると、自警団のメンバーは、用意しておいた古タイヤを彼の背の高さまでかぶせて灯油をまき、それに火をつけて焼き殺してしまいました……。僕は、車内でじっと静観していただけです。僕が直接目撃したのはこれだけでしたが、この「タイヤ焼き」は町のひとつの流行になってしまいました。(『本当の戦争のお話しをしよう』178~182p)

僕がつくった学校の生徒が、虐殺する側の兵士に
 武装解除のときに遭遇したゲリラ兵士のなかで、いちばん多かったのは君たちの年代かな。18歳は年長のほうだった。16歳ぐらいの子供兵は、たぶん10歳前後でリクルートされ、そのあいだ、親や家族もなく教育も受けず、ただ略奪すること、殺すこと、女の子をレイプすることしかやっていない。これにくらべると、日本でどんなチンピラを見ても可愛くてしようがないわけです。
 こいつらと交渉なんて、ほんと、今、考えるとバカらしく恐ろしかった……。彼ら、朝から麻薬をやっているんだ。僕らは完全武装した国連平和維持軍を伴って現場に向かいますが、交渉するときは丸腰の非武装で彼らの陣地に入っていく。僕がよく行ったのは、内戦が始まって以来、反政府ゲリラ組織の本部になった僕の第二の故郷、生後4カ月でこの地を踏んだ僕の長男が育ち、僕が議員を務めたマケニという町です。
 当時、RUFのトップは停戦合意にサインしていましたが、トップの合意に反発する部隊もいて、散発的な戦闘があちこちで起きていた。町は荒れ果て、昔の僕の知人たちも、ほとんどが殺され、もしくは難民になった。幹部がねぐらにするために占拠した高級住宅だけが(僕が家族と住んでいた家も)そのまま残っていました。
 現場の事実上の総指揮をとっていたのが、RUFの首脳のなかでは一番若い、20代のイッサ・セセイという若者です。この家のまわりには、ほとんどチビッコギャングと形容したほうがいい少年兵たちが大勢たむろし、うつろな目をして銃口を向けてくる。そういうやつらを刺激しないように、そろそろとすり抜けて彼の部屋に近づく。
 そして、「この次に会うときは、僕らが来るときだけでいいから、銃を家の外に置こうよ」とか言って、非武装の交渉の場を少しずつ作ってゆくのです。いくら平和のためとはいえ、あんなこと、二度とやりたくない!(同前 308~309p)

「ゲリラのスパイ」と目される男がタイヤに灯油をかけ焼き殺される場面を「僕は、車内でじっと静観していただけです」としゃべり、麻薬で切れた連中のなかに割って入り、武装解除の仲介をしたことを想起し「あんなこと、二度とやりたくない!」と伊勢﨑賢治は言います。「静観」も「二度とやりたくない!」も内面を社会化して語られています。ほんとうは言葉にならないはずなのです。わたしたちの知る自己意識の用語法では内面を実体化することでしか出来事を語ることができないのです。実体化ということは空間化です。出来事は空間化しないと対他性をもちえません。それが文学や芸術というものです。しかしほんとうはこの意識の範型は自己と共同性に閉じられているのです。つまり内面は空間化し実体化することでしか可視のものとならないのです。わたしが出来事は内面化することも社会化することもできないというのはそういうことです。
少年時にレヴィ=ストロースは決定的な体験をし未開民族の婚姻や親族の関係を代数的構造をして定式化しました。かれにとって出来事はヒューマニズムで語ることができなかったからだと思います。だからかれはヨーロッパ起源ではない新しい知を渉猟したのだと思います。もっと包括的な人倫をかれは追い求めました。人倫のかけらもないものが構造主義という数学です。レヴィ=ストロースの知の偏愛が少しわかるようになった気がします。そのかれにして出来事を空間化したのです。空間化することでしか可視化できないからです。ここにわたしたちの知にとっての未然がひろがっています。
レヴィ=ストロースも中沢新一も、竹田青嗣も佐々木俊尚もみな失敗しています。
このあたりのことを内包論から述べます。
ヴェイユはなにがここにあるか彼女の言葉で手にしていたように思います。とても大事なことをヴェイユは言っています。

 集団を構成する諸単位のひとつひとつの中には、集団がおかしてはならないなにかがある、ということを集団に説明するのはむだなことである。まず、集団とは、虚構によるのでなければ、「だれか」というような人間的存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、存在しない。集団に向かって語りかけるというようなことは作りごとである。さらに、もし集団が「だれか」というようなものであるなら、集団は、自分以外のものは尊敬しようとしない「だれか」になるであろう。
 その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中へ突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。あるいは、集団的なもののもつ危険は、人格の側の危険の、見せかけの、見る人の眼をあざむきやすい様相に外ならないのかもしれない。
 人格は聖なるものである、ということを集団に言うことが無益であるとしたら、人格に向かって、人格そのものが聖なるものであると言うこともまた無益である。人格は、言われたことを信じることはできない。人格は自分自らを聖なるものだとは感じていない。人格が自らを聖なるものと感じないようにしむける原因はなにかといえば、それは人格が事実において聖なるものでないからである。
 ある人びとがいて、その人びとの良心が別な証言を行なっているのに、外ならぬかれらの人格はかれらに聖なるもののある確かな観念をあたえ、その確かな観念を一般化することによってあらゆる人格には聖なるものがあると結論するとしたら、かれらは二重の錯覚の中に存在していることになる。
 かれらが感じているもの、それは正真正銘の聖なるものの観念ではなく、集団的なものが作りだす、聖なるもののいつわりの模造品にすぎない。かれらが自分たち自身の人格について、聖なるものの観念を体験しているとすれば、それは、人格が社会的な重要視(人格には社会的な重要視があつまる)によって、集団の威信とかかわりをもつからである。かくして、間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている。
 このような間違った一般化が、ある高潔な動機から発したものであるとしても、この一般化には十分な効力がないので、匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである。しかし、かれらがこのことを理解する機会をもつのは困難なことである。なぜなら、かれらはそのような機会に接することがないからである。
 人間にあって、人格とは、寒さにふるえ、隠れ家と暖を追い求める、苦悩するあるものなのである。
 どのように待ちのぞんでいようとも、そのあるものが社会的に重要視され暖かくつつまれているような人びとには、このことはわからない。(勁草書房刊『ロンドン論集と最後の手紙』15~16p 原文にある傍点はブログの制約で略)

ヴェイユは神にも自我にも還元できない原的ななにかに気づいていたのではないかとわたしは理解しています。匿名の領域からヴェイユは「間違った一般化」を批判しています。この批判は根源的なものです。おなじことを宮沢賢治も感得していたように思います。神や仏という超越にも自己にも共同性にも自然にも還元できない領域がある。それはわたしたちの知る文学や芸術と、共同性に関わる政治という意識の在り方とはべつのものである。ヴェイユも宮沢賢治も夭折した。性についてのじかの記述はない。それはヴェイユや宮沢賢治が性についてうぶということを意味しない。往相の性のかなたをかれらは凝視ししていたように思えます。
もう少し踏み込んでみる。わたしたちは譲渡不能の固有の生をヴェイユのいう「間違った一般化」によってしか語り得ないということなのです。「間違った一般化」を担保する理念が法の下における自由や平等ということです。もちろん偉大な観念の飛躍です。けっして空疎なものではない。しかしこの偉大な理念にも賞味期限が迫ってあらたな観念の飛躍が要請されているということ、それが現在です。西欧近代発祥の理念では生の固有さを埋めることができない。それが現在の世界の混乱をもたらしている根因です。

    3
リベラリズムにとことん佐々木俊尚はケチをつけます。異様な情熱です。

①リベラリズムという哲学は、この「普遍的なもの」を前提にしている。人はみな自由だけれど、無節操に自由ではない。いま目の前にあるケーキをたらふく食べ、自由気ままにスマホのゲームに興じることもできるけれども、そういう自由はほんものの自由ではない。それは自由ではなく、欲望に忠実なだけだ。本当の自由というのは、欲望のままに生きることではなく、理性的に人生を選びとることである。そしてそういう選択ができるためには、人間は普遍へと向かう理性がなければならない。
 しかしそのような理性的な人間というのは、哲学的な思考の中で生まれた空想にすぎないのであって、現実にいるわけではない。(。(『21世紀の自由論』 111p)

②まず第一に、リベラリズムは全員の自由を実現するために、富が必要だ。税金をたくさん集め、手厚い福祉をおこなって、すべての人が豊かに暮らせるようにするという政策をとる。しかしこの政策を維持するためには、分配するための富が充分になければならない。しかし「第三の産業革命」で富が世界に分散していっている中で、日本をはじめとした先進国の富は、相対的に少なくなっている。つまり分配される富が足りなくなってきているのだ。これは社会保障を充実させるリベラリズム政策を成立しにくくする。
 しかしそれ以上に問題なのは、リベラリズムという政治哲学の根幹、成り立つための根拠そのものが揺らいでいることだ。これが第二の問題である。前にも書いたように、リベラリズムは普遍があることを前提にしている。しかしグローバリゼーションによる分散とフラット化は、「中心」という概念を成立させなくする。垂直から水平へと世界の構造が変化することにより、中心は消滅し、社会は多層化していく。水平な領域ではなく、垂直な多層が意味を持つようになる。つまりこの中心の消滅は、ヨーロッパが中心の「普遍」という概念の崩壊を意味している。普遍が崩壊すれば、リベラルの「自由」を実現するもともとのバックグラウンドがなくなってしまうことになるのだ。(同前 122~123p)

③ここから自由をめぐる逆説的な状況が派生する。ヨーロッパの 「普遍的なもの」は、前にも書いたように近代科学によっても支えられている。科学は世界のすべてを分析し、すべての存在の意味を分析的にとらえ、客観的に評価する。しかしこのような科学による普遍は、こういう考え方を生んでしまう。「科学的な分析によっておこなわれる絶対的な評価の世界では、評価されない人間というのは、客観的な能力に乏しい人間である」。こういう認識がつねに「普遍的なもの」の中に隠されているがゆえに、リベラリズムはどんなに自由と平等を叫んでも、「その理念や普遍についていけない私はどうすればいいんですか?」という苦悩を生んでしまうのだ。
 そうであるとすれば、リベラリズムの人が言う「すべての人を助けなければならない」という平等思想は、しょせんは「上から目線」である。客観的な能力が劣っている人がいることを認めた上で、「でも包摂してあげなければいけない」という上から目線である。(同前 132p)

東京書籍の高校生用教科書の副読本みたいなことを佐々木俊尚は言っています。佐々木俊尚に自由とはなにかということを根本的に考えた気配はない。「理性的な人間というのは、哲学的な思考の中で生まれた空想にすぎないのであって、現実にいるわけではない」というのは上から目線ではないのか。身が心をかぎり、心が身をかぎる生存の仕方がこの世のしくみを堅固なものとしてつくってきた。理性的な理念が空虚であることは認める。それ自体としてそこにはなにもないからだ。
なぜ人は自由で平等なのか。なぜ人は他者への配慮という視線によぎられるのか。一度でも考えたことがあるのか。ないだろう佐々木俊尚さん。根源の性を分有するということにおいて人は自由で平等であるということだ。だから他者への配慮が自然(じねん)と生じる。西欧近代由来の理念を否定するのではなく拡張すること。ここに蓋をしてネットワーク共同体を語っても空疎だ。佐々木俊尚の理念は外延的思考そのものだとわたしは思う。そこに生きることの未知も豊穣さもない、そのことは断言できる。観念の自然過程としてわたしたちの社会は利便性と快適性を実現することができるだろう。

佐々木俊尚が問いかける「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選ぶのかという究極の選択は虚妄そのものであるとわたしは思います。むきだしの生存競争が自由を制約し生存を脅かすのは自明だからです。日々の実感としてそれはあります。この問いを投げかけるとき佐々木俊尚は世界を睥睨する上から目線そのものになり、かれが嫌悪するリベラリズムの欺瞞とおなじ顔つきをしています。どうしてそのことがわからない。

    4
かれは現場論としてつぎのように書いています。

 普遍的な理念が崩壊している中では、「理念として正しいかどうか」ということを前提にした議論は意味がない。最上位に求めるべきは理念ではなく、生存や豊かさの維持というような具体的な目標である。

 その可能性を考慮すれば、日本は単独で中国と向き合うべきではなく、アメリカや東南アジア諸国と軍事的な連携を強めておく必要がある。だから集団的自衛権を容認し、備えをしておくのは当然のことだ。軍事大国になる必要はないが、軍事力は重要だ。(同前 172p~173)

テロに対峙することや、一国平和主義ではなく積極的平和主義を採用すること。集団的安全保障。これらはいずれもヨーロッパの理念にもとづいて構築された世界秩序である。この理念にもとづいて国際社会のパワーゲームが展開されている以上は、ヨーロッパがつくった歴史観から逸脱することはできない。それは国際秩序からの離脱になってしまうからである。
 その世界では、徹底的にリアルな身も蓋もない戦略が必要になってくる。「普遍的なもの」が消滅していく世界では、近代のはじめに思想家トマス・ホップズが人間の自然状態として考えた「万人の万人に対する闘争」状態が再起する。(同前 175~176p)

理想を追求することは「羊のロマン主義」でも「マイノリティ憑依」でもない。かくあれぞかしということがなければ歴史も生も虚妄である。現場に身の丈を合わすことは余儀なさとしてだれもがすでに生きている。それは理念ではない。それ自体だ。竹田青嗣の言説もそうだったし、リベラルを激しく批判する佐々木俊尚もそうだが、仮想の敵を設定しその理念を批判することで自分の立つ瀬をつくっている。言葉が言葉それ自体として自存できないから、転変する世間の風潮に思考の丈を合わせていくしかないのだ。わたしはこういう理念を唾棄する。冷たいリアリズムから優しいリアリズムへと越境していくネットワーク共同体という理念は欺瞞そのものだとわたしは思います。
こういう現状認識に基づき佐々木俊尚はさらにつぎのように言葉を畳みかける。

 国際秩序が多様化していく中で、どのように国際秩序を維持しながら、どう生存をはかっていくのかというリアリズム的な戦略が、いまの日本には強く求められているのだ。リアリズムにおいては、「反戦か、軍備か」といった選択肢は意味をなさなくなる。生存のためには、軍事力をちらつかせ桐喝することも選択肢のひとつとしてありうるからだ。時には小規模な軍事介入の必要性も、当然のように議論されることになる。(同前 178~179p)

 いま日本にはグローバリゼーションという極めつけの論理が押し寄せ、「情」をどこで確保すればいいのかがわからなくなっている。この結果、一方には強い論理があって論理だけで押し通す世界と、ひたすら「情」に頼り切り、ノスタルジーや自分の皮膚感覚だけを根拠に非論理的な言説を打ち出す世界に二分されてしまっている。前者がリバタリアニズムの強者の論理だとすれば、後者は根拠なく「国民を戦地に行かせるな」「改憲反対」と繰り返す日本の「リベラル」だ。(同前 184~185p)

 この不安は日本人も同じだ。昭和の時代には、正社員として企業で働き、定年退職して退職金をたっぷりともらい、日々の生活資金は年金をあてて貯金はなにかの時のために崩さず置いておくという高齢者のロールモデルがあった。子や孫にも囲まれて安楽な老後を送るのを夢見ることができたのだ。
 しかしそんなロールモデルはもはや消え去った。非正規雇用で退職金など一銭ももらえず、国民年金もわずかな金額で、一生結婚しないままで子供も家族もいないという老後が、リアルな現実になってきている。
「老後に悲惨な日に遭うと思うのだったら、若いうちに貯蓄や投資をしておくべきだ」
「最初からそうなるのはわかっていたはずで、自業自得」というのは、冷たいリアリズムである。しかし逆に、「年金は決して破綻しない」という弁解も幻想であり、「だからこそ収入増を目指そう」という自己啓発本がまき散らされるのもやはりまぼろLでしかない。
 そのような自己責任論や根拠なき幻想はいったん取り払おう。
 この先にあるリアルな現実は、誰もが「死ぬまで働く」ということだ。実際、日本でもアメリカでも、ファストフード店や清掃の仕事などに高齢者を積極的に採用するような動きがここにきて現れてきている。
 このリアルな近未来を変えられないのだとすれば、生活資金が不足し、将来の不安を抱えながら、人々がそれでもどう楽しく老後を送ることができるのか。そういうロールモデルを社会の中でつくり上げていくことが必要だ。ファストフード店で働いていても、積極的に社会に参加し、笑顔を絶やさず、おだやかな接客で客とコミュニケーションし、多くの人とつながる。そういう老後が送れるような仕組みを金銭の面でも、精神的な面でもつくり、包摂していく。それが優しいリアリズムである。(同前 188~189p)

 優しいリアリズムを牽引する政治の主体は、もはや民主主義である必要はないのかもしれない。中国やシンガポール、そして戦後日本の自民党一党支配を振り返ってみれば、専制政治こそが社会を豊かにし、ある程度の平等を担保するというアジア的な仕組みが存在してきた。このありようを否定することは、もはやできない。(同前 191~192p)

すごいなあ。冷たいなあ。竹中平蔵もユニクロの柳井も安倍もおなじことを言っている。この理念のどこが優しいリアリズムなのか。「ファストフード店で働いていても、積極的に社会に参加し、笑顔を絶やさず、おだやかな接客で客とコミュニケーションし、多くの人とつながる」だと。おまえが率先垂範しろよ。衆生に優しい上から目線のリベラルのあのいやらしさといったいどこか違うのか。欺瞞そのものだと思う。かれのこの理念をすばらしいと思う若者やおっさんやおばさんはわたしにとって縁なき衆生である。もの書き文化人特有の卑しさがここにある。ああ気色悪い。

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そしてかれの誇るネットワーク共同体の登場です。

 ビジネスの世界では、「リーン」ということばが使われるようになっている。「細くひきしまった」というような意味の英語だが、長期的で巨大な計画ではなく、機動力を活かして軽快に事業を進めていくような考え方をリーンと呼んでいる。まず構想を考え、それをもとに事業の計画を立て、結果から学びを得ながら迅速に計画を組み直していく。うまくいかなかったらすぐに方向転換か、我慢しながら維持するかという戦略を練る。(同前 181p)

これはかれのビジネス体験からきている考えだと思う。新聞の事件記者からアスキーへと転身し、幾ばくかのスキルを身につけたかれの体験からきているように思います。もともとが新聞記者の文体で表現を新聞記事でしか考えたことのない人がビジネスマンを経てさらに表現がやせ細っているように感じます。どこにも表現のうねりはありません。実務人のさわやかさのかけらもないとわたしは思います。

 この新しいメディア空間の中に生まれてくる新しい共同体を、従来の中心のある共同体とは区別して、「ネットワーク共同体」と呼ぼう。
 ネットワーク共同体には、中心がない。内側と外側を分ける壁もない。歴史や伝統の幻想をまとわず、「いまここにあるもの」として同時的につねに偏在している。そして行動を起こす人は、必ず巻き込まれ、全員が当事者になる。行動も発言も何もしなければ、自動的に「巻き込み」から外れ、非当事者化していく。
 人と人の関係は固定化されず、つねに組み替えられる。中心はないから、線上には縦横の権力構造は生まれにくい。権力を持っているのは、縦横ではなく「高さ」で下にあるグローバル基盤である。網の目の平面には権力は生まれないのだ。(同前 207~208p)

 ネットワーク共同体には、中心がない。内側と外側を分ける壁もない。歴史や伝統の幻想をまとわず、「いまここにあるもの」として同時的につねに偏在している。そして行動を起こす人は、必ず巻き込まれ、全員が当事者になる。行動も発言も何もしなければ、自動的に「巻き込み」から外れ、非当事者化していく。
 人と人の関係は固定化されず、つねに組み替えられる。中心はないから、線上には縦横の権力構造は生まれにくい。権力を持っているのは、縦横ではなく「高さ」で下にあるグローバル基盤である。網の目の平面には権力は生まれないのだ。(同前 208p)

 リベラリズムが終焉を迎えた後のネットワーク共同体では、高位に理想はない。そのかわりに縦横の平面が無限に広がり、その中を人々は流動する。かつての農村や企業社会のような古い形式の共同体はもはや存在しないから、そういう共同体に自分を縛り付けておくことはできない。高みを目指して成長し、立派なお金持ちになることをめざすのではなく、水平に移動し続ける世界である。
 上にあがることは困難だが、下にさがる心配は少なく、縦横にはつねに移動する世界。
 つまり自分が今いる場所は決して固定されず、いつ流動するのかもわからない。望んで流動することも可能だが、望まなくても気づいていれば流動している可能性もある。網の目によってつねに社会とは接続されているが、居場所は点々と変わっていくかもしれないのだ。ここでは「安定」と「移動」が矛盾なく同居している。そういう三次元の世界である。(同前 215~216P)

 ネットワーク共同体という三次元の空間では、普遍の理想が消滅し、上への自由は存在しない。しかしネットワーク化された世界では、ネットワークこそが社会への接続を保証するものとなり、下に落ちる心配は減り、下への自由も薄れる。従来の上下の自由は意味をなさなくなるのだ。
 そのかわりにネットワーク共同体では、縦横の自由がやってくる。これは従来の上下の自由とはまったく異なる、漂白的な自由である。望むと望まざるとにかかわらず、縦横の移動を強制される自由である。近代の自由ではないが、別の自由ではあるという「非自由」なのだ。この縦横の自由の世界では、私たちは常に誰かと繋がり続けるからだ。どちらかといえば、安楽な宿命として私たちはそれを甘んじて受け入れるようになるだろう。(同前 222~223p)

ここまでスキャナで読み取り間違い字を直し貼りつけながらなにか不毛感があります。世界の構造が激しく変貌し、国民国家もそのもとでのリベラルな理念も大幅に書き換えられることになるだろうという予測では佐々木俊尚の考えとわたしの認識はずれません。それほどの大変動期にあることをかなり前から実感していました。しかしむきだしの生存競争の現前化のひらきかたがわたしと佐々木俊尚では多いにずれます。それがなんであるか腑に落ちるように納得したかったのでながいブログを書いているわけです。その日に考えたことを推敲せずにアップするということを原則にしているので、ベタな文章です。

佐々木俊尚とわたしの考えでどこが違うのかということはとてもかんたんです。
ネットワーク共同体での人と人のつながりは、実有の根拠とされる自己をあらかじめ実体として前提としたうえで種々の属性を空間化し、レイヤーで切り取り改めて時間化する認知のしくみです。佐々木俊尚の考えはハイテクノロジーを可能とする同一性原理ときわめて相性がいいのです。同一性をなぞっているだけだからです。そこに生の豊穣さはない。断言として言えます。
同一性によって自己を可視化(空間化)し、まるとごとの生を断片化することでつながるだけです。もちろんハイテクノロジーによってわたしたちの自然感性が変容することは不可避です。それはテクノロジーの進展によっていつの時代も起こったことです。太古の面々が火を使用し始めたとき、太陽が沈んでも闇は照らされ明るくなりました。その時代のハイテクノロジーです。当初はヴァーチャルだったと思います。すぐに自然な感性として受容されたはずです。だからIT技術によって人が瞬時につながることをなにかであると錯覚することはできる。しかしそこにあるのは予定調和の起伏のない平坦な世界でしかないようにわたしには思えます。
技術の革新がもたらすものは観念の自然過程の生成物であっていつもそれ自体です。そこになんら価値はありません。観念はどうあっても遠隔対象性にそってより精密になります。そのことは不可避です。テクノロジーはいつも生成の途上にあるのです。

佐々木俊尚は世界の変貌に合わせてこの世のしくみを受容せよと迫っているだけです。オカルト安倍の積極的平和主義とまったくおなじ貌つきです。新自由主義の弱肉強食の経済理念そのものです。こんなことを言うとおまえはアカだというのでしょうか。それはないぜ。佐々木俊尚のネットワーク共同体は世界の自然生成を追認しているだけだ。そこにはどんな思想も、思想のかけらもない。
リベラルが建前だけの虚妄なら、優しいリアリズムもおなじだけ虚妄だと思います。わたしはひとであることは、そしてそこに懸けられる生はもっと善いものだと思います。たしかに、いま、ここにそれはない。わたしはそれが、ここに、いま、ないから生まれてきて丸儲けの思想をつくりたいのです。いつでも、ただちに歩く浄土は可能です。それは佐々木俊尚が考えてみたこともない、自己を領域として生きるときに可能となります。

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