日々愚案

歩く浄土49:共同幻想のない世界11-元少年Aの自然

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神戸の事件の元少年Aの手になる『絶歌』をためらいながら読んだ。まずはじめに遺族の父親の本を回収して欲しいという出版社への申し入れの全文を貼りつける。ここに出版をめぐる問題のすべてがある。

加害男性が手記を出すと言うことは、本日の報道で知りました。
彼に大事な子供の命を奪われた遺族としては、以前から、彼がメディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、私たちの思いは完全に無視されてしまいました。何故、このように更に私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できません。
先月、送られてきた彼からの手紙を読んで、彼なりに分析した結果を綴ってもらえたことで、私たちとしては、これ以上はもういいのではないかと考えていました。
しかし、今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、今回の件で良く理解できました。
もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収して欲しいと思っています。(神戸新聞2015年6月10日)

命日には事件のあと遺族にいつも手紙を出していたが、なぜ遺族に無断で出版したのか腑に落ちない。手記には「被害者のご家族の皆様へ」として書き添えられている。かれは最後に「本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした」と書く。

遺族は納得できなかった。「先月、送られてきた彼からの手紙を読んで、彼なりに分析した結果を綴ってもらえたことで、私たちとしては、これ以上はもういいのではないかと考えていました」と父親は書いています。「しかし、今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、今回の件で良く理解できました。もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収して欲しいと思っています」とつづきます。

わたしは、元少年Aは出版の意図があることを遺族に伝え、もし諒解してもらえば、それから出版すればよかったと思います。遺族は事件がふたたび社会化されることを拒んだと思います。少年Aに生きた痕跡をのこさずにこの地上から消えて欲しいと思わないはずがありません。その思いを踏みにじって出版があったことは事実だと思います。
元少年Aは書くことが「僕に残された唯一の自己救済」だったと書いています。ならばなおさら遺族にだけ書きつづければよかったと思います。そこにしか、ありえたかもしれないかれの自己救済の余地はなかったのです。じぶんが為したことにより、この世の一切の地上性を絶たれたかれに残されものが唯一言葉であるということはたしかです。そうであるなら言葉を禁止と侵犯のくびきから解き放つしかないのです。事件を内面化し、内面化された言葉を社会に投擲するという自己同一性のしばりが少年Aに事件を引き起こさせたのです。そういう自覚の兆しはかれにはありません。あらゆる言葉がとどかない遺族に言葉をとどけつづけることにしかかれの生の自己救済はありません。贖罪の重みに耐えかねて遺族に無断で出版したというのが実相だと思います。かれは自己慰撫を自己救済と錯認しています。とても甘い言葉のつくり方だと思います。『絶歌』を読んでそういう印象をもちました。

元少年Aに映った自然を『絶歌』からいくつか選んで内包論から感想を述べます。

①回想された事件当時の少年Aの自然
 中学校の正門に着くと、門の前に自転車を停め、ビニール袋から淳君の頭部を取り出し、さてどこへ置こうかと思案をめぐらせた。
 水色の正門の真ん中がいいか? 白塗りの塀の、中学校の名前の入ったプレートの真下にするか?
 いろいろと悩んだ挙句、僕は門の真ん中に頭部を置き、二、三歩後ろに下がって、どう見えるかを確認した。
 その瞬間、僕の世界から、音が消えた。
 世界は昏睡し、僕だけが独り起きているようだった。
 地面。
 頭部。
 門
 塀。
 塀の向こうに聳える校舎。
 どの要素も、大昔からそうなっていたように、違和感なく調和し、融合している。まるで、一枚の絵画、映画の中のワンシーンのようだった。
 校舎は臆月夜の闇の中へその輪郭を霞ませていた。校舎の正面壁の上部中央に、月桂樹の葉のなかに「中」の文字のあしらわれた校章が取り付けられている。僕にはその校章は、ルドンの描く、あの一ツ眼巨人の眼玉のように映った。
校章から視線を下へ這わせると、正面玄関のガラス扉が見えた。そう、この巨大な一ツ
眼の化け物の口は、幾度となく僕を、弄ぶように呑み込んでは吐き出し、呑み込んではまた吐き出したのだ。この建物は、僕の憎悪の結晶であり、自分を排除し続けた世界の象徴だった。
 だがそういった激しい怒りや憎しみは、今や僕の支配するこの夜の闇に融け出し、きれいに消化された。いま僕を包むこの夜の闇は、思いどおりに世界を描くことのできる僕だけの真っ黒いキャンバスだった。これまでに味わった数多の屈辱も、この夜の闇が、優しく塗り潰した。僕はもう恐れなかった。もはやこの建物のどこにも、僕を脅かす力は潜んでいないように思えた。あれほど僕を脅かした堅牢な一ツ眼の化け物は、今や僕の決壊した精神のダムから怒涛のごとく送る闇の波間に力なくたゆたう幽霊船と化し、その実体を喪っていた。
 校舎南側の壁沿いに二本並んだナツメヤシの葉が、降りかかる月の光屑を撒き散らすように音もなく擦れ合っている。呪誼と祝福はひとつに融け合い、僕の足元の、僕が愛してやまない薄着のその頭部に集約された。自分がもっとも憎んだものと、自分がもっとも愛したものが、ひとつになった。僕の設えた舞台の上で、はち切れんばかりに膨れ上がったこの世界への僕の憎悪と愛情が、今まさに交尾したのだ。
 告白しよう。僕はこの光景を、「美しい」と思った。(『絶歌』97~99p)

少年のAの事件の直後、根源の悪について新聞に書いた記事があります。その記事を貼りつけます。そのとき書いた記事の訂正や変更の必要はいまもない。元少年Aが事件を回想して書いたこの箇所を遺族は読めないと思います。元少年Aと、事件を回想して書かれた言葉のあいだには、おおきなすきまがあります。かれにとってここを書くことも含めて自己救済なのでしょうが、身勝手です。書くことでないことをかれは書いています。もし書くとすれば遺族の諒解を取るべきでした。内面を社会化してひとがつながるというのはまったくの錯誤です。自己救済のための自己慰安しかここにはない。倫理的な批判をしているのではありません。そんな軽いことを言っているのではありません。かれの表現の根柢に関わることです。それがどういうことであるのか、かれにはわからないのです。赤裸々にそのことを記すことが表現ということではないのです。「美しい」という言葉にかれは酔っています。連合赤軍事件の『16の墓標』を書いた永田洋子はあの粛正についてなにも根底的に考えることがありませんでした。おなじことを元少年Aもやっています。贖罪の生を語りながらかれは出来事を内面化した言葉でそのことを社会に放擲しています。ほんとうに考えないといけないことは内面化できないのです。もちろん社会化することもできません。この困難を元少年Aは負っていません。だから遺族が怒るのです。淳君はこういう書かれ方をして酷く殺されたその死をもう一度生きることができるか。おい、甘ったれるなよ。酔いしれたりするなよ。引用①のコメントはむかし新聞に書いた記事で事足ります。事件の実行者である元少年Aは18年経ってもここにすらたどりついていません。

底冷えする事件のただ中で…

 神戸の小学生殺人事件の容疑者として14歳の少年が逮捕されてからひと月が過ぎた。
「ボクは殺しが愉快でたまらない」。何か嫌なものが体の中を電流のように駆け抜け、しだいに頭が底冷えしてくる。この事件のわかりにくさはどこからくるのか。私たちが暗黙に人間というものに抱いているイメージが根こそぎに損なわれてしまうことへの戦慄と戸惑い。それが繰り返し湧きあがってくる、わからない?何故?の由来だと思う。
 ほんとうは、どんな考えを持ってこようとこの事件には歯が立たないし、またこの種の犯罪が起こりうること、そしてそれを阻止しえないことを、私たちはすでに直感している。この無力感が事件の衝撃と動揺の芯にある。もしかするとこの事件に世界の壊れを予感しているのかも知れない。喉元が凍りつくこの事件の昏い衝撃を眼を背けずに直視し、狂気の核心に迫ることができないなら、考えることや表現の一切がパアだ。
 私はこの暗澹とした事件を根底から超える思想はありうると思う。「禁止と侵犯」がきりなく円環するのが私たちの歴史や現実の実相だが、ここには思いもよらぬ盲点がある。「汝殺すなかれ」ではなく、人を殺すということを思いもつかないような存在のあり方を観念の力で創ればいいのだ。途方もない夢には違いないが、私はそれが可能だと思う。
 おそらくこの事件の解釈は大きく二つに分かれると思う。一つはこれは生まれつきのサイコパスによる猟奇事件であって、私たちの日常とは関係のないことだと考えて、狂気を正常から排除することで、事件を始末しようとするやり方だ。生まれつきの異常は脳の回路の異常や多重人格説に結びつけられて説明されるに違いない。
 もう一つある。モノの豊かな社会で生のリアルさを喪失した若者に特有の社会病理と見なす考え方がそれだ。現代社会の抱える空虚さや生の希薄さの原因を、教育の荒廃や、家族の崩壊や、現実と仮想現実の相克のうちに求め、狂気の病巣を抉ろうとする方法だ。
 果たしてこの事件は現代の社会の歪みが生みだしたのだろうか。あるいは人類創生の起源の闇が先祖帰りして再現されたものなのだろうか。サイコな少年の呪的な儀式と呪文はそのために必要だったのだろうか。
 どの切り口にも幾ばくかの真実があり、しかしこれらの誘因をどれだけ集めても決して狂気の核心に迫ることができないという気がしてならない。この事件はたかだかここ数十年の急激な社会の変貌とのからみのみで解けるはずがない。少年の突きつけたものは人間や社会の成り立ちそのものの根本を問い、揺るがす深度を持っている。
「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る少年は書いている。「殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」。私たちの神経を最も逆なでしたのがこの箇所だ。彼の言葉からはまるで内面というものが感じ取れない。とうとうここまで来たのか。社会へ復讐を告げる言葉がその社会と同じ顔つきをしている。つるんとした仮面のような呪詛の言葉はドストエフスキーの『罪と罰』よりはるかにリアルな衝迫力がある。冷たい狂気がモノのように転がっているというべきか。
 あるとき何かをきっかけとして少年の世界が少しずつこの世とずれ始めた。しかしあるところまでは追体験可能な彼の世界がグニャリと歪みこの世からはみだしてしまう。私たちの戦慄と戸惑いはそこで起こる。そのとき彼はすでにこの世にはいない。彼が引き起こした事件が常軌を逸しているだけではない。彼が尋常ではないのだ。それは彼が狂人だということではない。彼は狂人ですらない何者かなのだ。
 殺すなかれという原初の掟も、脳や社会の病理への還元論も、善悪の彼岸に超え出た彼には届かない。なぜなら彼はそこをすでに生きたのだから。彼は人間の埒外にあるが、しかし、まぎれもなく人間である。この事態をどう考えたらいいのか。私たちはどうしようもないジレンマに陥る。
 ここにもう一人、白日の深い闇に堕ちた男がいる。死刑囚ピーウィーという。百名余を惨殺した性的猟奇事件の犯人だ。彼は刑執行の直前に告白する。「うまく説明できればいいんだが、言葉じゃなにも伝わらない。おれのやってきたことを実地にやってみないかぎり、理解することなんかできっこないのだ。たとえばおれがこう言って、あんたらにその意味が分かるだろうか?…、だれもおれにはさわれない」。そして最後の瞬間、改悛のかけらもなく言う。「おれの名前は永遠に生き続けるだろう。連中が善と悪について語りつづけるかぎり」。
 身震いするような言葉だ。同じとは言わないが、誰もサイコな少年にさわれない。神戸の少年殺しは一切の事後的解釈を拒んでいる。この事件は、「殺すなかれ」という規範の絶対の根拠を、個人も社会もそれ自体の内部に持っていないということを裏側からめくってみせた、そういう生々しい出来事なのだ。
 私たちの歴史が培ってきた、自分という存在を自明のこととする存在論の欠陥に事件の発端があるのではないかと私は思っている。彼は自分という存在に強い執着があった。それは声明文のなかに「自分」という意味で「存在」という語を六回使っていることからわかる。しかし「透明な存在」を生きる「ボク」の存在を彼が疑うことはついになかった。彼は存在を自己が所有できると考えた。
 そうではない。存在するという信じがたい驚異は自分が所有するとか社会や現実に還元できるようなこととは全く違う出来事なのだ。彼の自分という存在へのこだわりには徹底して他者が不在である。他者のまなざしが欠落した「ボク」に人は「野菜」としてあらわれた。
 このような存在論の錯誤は、私たちが人類史の起源から抱え込んできたものであり、この錯誤を極限化した場所に、少年の狂気が芽を吹いたのではないか。その意味では、少年の心の風景は、私たちの社会の現実と地続きなのであり、この事件がひとごとではないのは、この一点でしかない。
 人であることのはるかな深みで熱く息づくものがある。〈わたし〉とは自分に先立って他者へと結びつけられている存在のことではないのか。存在の分かちがたさを分けもつことに人間であることの根源的な由来があり、その心映えのあらわれが自己であり他者なのだ。そこにこの世界のどんな深いものより深い豊穣な生の源泉がある。
 もしも私たちが他者を内包する存在を風のように生きることができるなら、そこがこの痛ましい事件から最も遠い場所だ。そしてそこにほんとうの意味で現代の病理や空虚を超えて生を肯定する、空の鳥や野の花が色めき匂い立つ元気の素があると私は思う。足下にある彼方へ!
 私たちは底冷えする事件のただ中でこう夢を語ることもできる。これが希望でなくてなんだろうか。(『夕刊読売』1997年7月28日)

②少年院を出てから事件を回想する少年Aにやどった自然
 山地悠紀夫は僕のひとつ歳下で、僕が事件を起こした三年後に、自分の母親を金属バットで殴り殺し、少年院に収容された。初犯は十六歳だった。在院中、明らかに他の少年たちとは異質な山地の精神的特性を嘆ぎ取った少年院スタッフの配慮で、山地は精神科医の診察を受け、「広汎性発達障害(自閉症・高機能自閉症・アスベルガー症候群を含む)の疑い」という診断を下された。
 山地は二〇〇三年十月、二十歳で少年院を仮退院する。この時、少年院で山地を診察した精神科医は、山地の抱える障害の深刻さを危惧し、外部の医療機関宛てに紹介状を書いて山地に渡し、どこでも構わないから自分で精神科を受診するようにとアドバイスした。だが結局、山地が自分から精神科医を受診することはなかった。
 十一歳で父親を病気で亡くし、十六歳で母親を手にかけ、身元引受人のいなかった山地は更生保護施設に入り、パチンコ店に住み込みで就職するが、どの職場でも人間関係をうまく構築できずに店を転々とする。やがて知人の紹介で、パチスロ機の不正操作で出玉を獲得する「ゴト師」のメンバーに加わり、いいように使われることになる。

 山地はゴト師の世界でも上手く周囲に馴染めず、グループのリーダーと諍いを起こし、ゴト師メンバーがアジトとして使用していたマンションの一室を飛び出して野宿生活を送る。その三日後、二〇〇五年十一月十七日、山地は自分が身を寄せていたマンションの別のフロアに住む二人の女性をナイフで襲い、暴行して金品を奪った挙げ句、部屋に火を放って逃走した。いわゆる「大阪姉妹刺殺事件」である。少年院を仮退院してからわずか二年後の犯行だった。
 二〇〇九年七月二十八日。大阪拘置所で山地悠紀夫の死刑が執行される。享年二十五歳だった。
 僕が彼に何か引っ掛かるものを感じたのは、犯した罪の内容や少年時代の殺人のためではない。一審で死刑判決を受けたあと、彼が弁護士に宛てて書いた手紙に、胸が締め付けられたからだ。

私の考えは、変わりがありません。
「上告・上訴は取り下げます。」
この意志は変える事がありません。
判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるのか私は知りませんが、私が今思う事はただ一つ、「私は生まれて来るべきではなかった」という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「生」そのものが、あるべきではなかった、と思っております。
いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません。
 さようなら。(池谷孝司『死刑でいいです』)

 あまりにも完壁に自己完結し、完膚なきまでに世界を峻拒している。他者が入り込む隙など微塵もない。まるで、事件当時の自分を見ているような気がした。
 山地は逮捕後、いっさい後悔や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとのたまっていた。僕には彼が、ひとりでも多くの人に憎まれよう憎まれようと、必死にモンスターを演じているように見えた。誰にも傷つけられないように、自分のまともさや弱さを覆い隠し、過剰に露悪的になっているその姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。
 山地はどこに行ってもゴミのように扱われ、害虫のように駆除され、見世物小屋のフリークスのようにゲラゲラ嗤われてきたのだろう。彼は彼なりに必死に適応しようと努力したのではないだろうか。〝魚が陸で生きるため″の努力を。
 山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に触知する種類のものだ。
 あの微笑み……。
 あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。(前掲書 230~235p)

死刑を執行された山地悠紀夫にふれたこの箇所にはハッとした。芥川龍之介は生まれてきてすみませんと言ったけど、「私は生まれて来るべきではなかった」という言い方は新鮮だった。「『生』そのものが、あるべきではなかった」ということも。山地悠紀夫が逮捕時に見せた微笑みを「あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった」と形容する元少年Aの気づきに胸が衝かれた。わたしはどういう生であれ生まれてきて丸儲けということを言いたくて考えることを考えている。なぜ生まれてこなかった方がよいのか。なぜ生そのものがあるべきではなかったのか。正常を基準としそこから外れる者を異常とする精神科医の診断も山地悠紀夫の感得も錯誤である。
正常と異常を分かつ診断基準にひとびとの生活の知恵が凝縮されていることは認める。そこに余儀なさや制約があることも認める。自己を実有の根拠とするかぎり元少年Aや山地悠紀夫の根源悪はこの世から排除される。しかしほんとうは人倫の根拠が問われているのだ。わかるか、元少年A。残忍になっていくこの国のかたちをみていると善悪未生の精神の古代形象というものが復活しているという気になる。この倒錯のうちに元少年Aも囚われている。手記を読みながら随所に通俗知が紛れこんでいてやりきれない気分になる。この本は売れるだろうがほんとうに読むべき人にはとどかない。それでも生をまるごと消去したい元少年Aの胸裡にうそはない。うそを自覚できないというのがかれの自然なのだ。

③創作に出会った少年Aの自己同一性という美しい自然
 僕のやり方は、五ミリ方眼紙にフリーハンドで展開図を描き、デザインカッターで切り抜いて、アロンアルファや細かく切ったセロテープでくっつけながら立体物を造形する。最初は簡単なものしかできなかったが、徐々に上達し、複雑な形状の作品も作れるようになった。ミケランジェロのピエタや中宮寺の弥勤菩薩像を簡略化してペーパークラフトで再現したり、ナメクジや胎児、天使像などを作った。凝りに凝ってしまうため、ピンポン球サイズの作品をひとつ完成させるのに一、二か月はかかった。
 天使像は特にお気に入りのモチーフで、連作で何体も制作した。髪の毛や睫毛など細部に至るまで徹底的に作り込んだ。おおよその形が出来上がると、最後にT字カミソリの刃を抜き取って、細かな部分をほんの少し削って修正する。この仕上げの作業が、鳥肌が立つほど気持ちよかった。何日も何日もかけて、僕の手の中に、天使の聖らかな姿が立ち現れる。
 会社に入って一年目の冬休みの前日、自身のペーパークラフト作品の中ではいちばん完成度の高い天使像ができた。部屋の電気を消し、カーテンを開け、月光の照明だけでしばらく紙の天使像と対時した。急に風に当たりたくなり、僕は天使像をウエストポーチに入れ、外に出た。酒盛りでもしているのか、寮の部屋のあちこちから賑やかな笑い声が漏れていた。
 寮の敷地を出て、コンビニの前を通った時、会社の若い連中が四人、缶ビールを飲みながらたむろしていた。彼らの前を通り過ぎ、よくひとりで物思いに耽っていた近所の公園へ行き、ベンチに座った。ウエストポーチから取り出した小さな天使像を掌に載せ、月明かりの下で三百六十度くるくるまわしながら、つぶさに眺めた。糸のように細く細く切った紙を幾重にも貼りつけて表した天使の髪に触れ、その小さな眼や鼻や口を、小指の先でそっと撫でた。
 いくぶん青みがかった冬の満月が高く昇り、月の光も凍ってしまいそうな寒い夜だった。つららのような月光が、僕を貫いていた。(前掲書 241~242p)

できあがったペーパークラフトの作品を月光にかざしてみるときに気持ちのいい風が吹いていて、この光景は好きだ。ここを書いているときかれは内面にこだわることもなく、内面を社会化していることもない。作品をみている作者がいるだけだ。美しい同一性の自然と呼びたい。エンデの『モモ』に似ていると思った。ここまでくることができたらかれの浄土は歩くのではないか。
親鸞の歎異抄。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。 そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」。 親鸞は地獄でけっこうと自己救済などとうに放棄していた。一切の通俗を捨てよ。悪人正機を本気で考えよ。

 溶接工時代は小説を読むことに没頭したが、会社を辞めてからは、自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた。記憶の墓地を掘り返し、過去の遺骨をひとつひとつ丁寧に拾い集め、繋ぎ合わせ、組み立て、朧に立ち現れたその骨格に、これまでに覚えた言葉で丹念に肉付けしていった。法医学者が白骨死体から生前の姿を再現するように、僕は自分の喪われた人生に、その抜け殻のような人生に、言葉でもう一度息を吹き込みたかった。そうすることでしか〝生きる〟ことができなかった。僕にとって「書く」ことは、自分で自分の存在を確認し、自らの生を取り戻す作業だった。最初は断片的なシーンを短い文章でケータイに打ち込んでいたが、次第に堰をきったように言葉が溢れ出し、ケータイの小さな画面では間に合わなくなり、パソコンを使って本格的に書き始めた。
 振り返ると、プレス工時代はアクセサリーデザイン、建設会社に居た頃はペーパークラフト、流浪生活を送った頃はコラージュと、一定のサイクルで興味の対象は切り替わったが、僕は常に、何かを〝創る″ことに夢中だった。僕にとってものを創り表現することは生理現象だった。当時は意識しなかったが、もしかすると僕は、クリエイションによる自己回復を絶えず志向し、試みていたのかもしれない。何かを創り、表現することで、必死に自分で自分を治そうとしたのかもしれない。そうして僕が最後に行き着いた治療法が文章だった。もはや僕には言葉しか残らなかった。
 仏師が仏を彫るように、言葉の鑿で自己の物語を一彫り一彫り、地道にコツコツ削り出しながら、僕はあるひとつの問いを頭の中で反芻し続けた。
 ―なぜ人を殺してはいけないのか?―
 これは、僕が事件を起こした年の夏に、某ニュース番組の中で企画された視聴者参加型の討論会で、十代の男の子が発した問いだった。番組のゲストに呼ばれた作家やコメンテーターは、誰ひとりこの問いに答えられなかった。
 大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのです
か?」と問われたら、ただこうとしか言えない。
「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」(前掲書 280~282p)

元少年Aが言葉と出会う場所をかれ自身が書いているところだ。なぜ人を殺してはいけないのかということをかれは通俗の言葉でしか言いえていない。禁止はいつも侵犯されるものだ。侵犯があるから禁止もある。どうどうめぐりだ。そこをかれはどうどうめぐりしている。禁止のない世界を言葉でつくればいいだけではないのか。なぜそう考えないのかと苛立つ。ここから元少年Aは一気に通俗だけで善と悪を語り始めます。かれの自己救済という考えは身勝手です。そしてそのぶん世間ではウケます。しかし語られるその全体が虚偽です。

④元少年Aがいる自己救済の場所
歩いて十分ほどのところに公園がある。公園に入り、藤棚の屋根の下のベンチに腰掛けた。しばらくすると、自分と同年代くらいの夫婦が、赤ん坊をベビーカーに乗せて公園に入ってきた。
 公園の真ん中の芝生の陽だまりにべビーカーをとめ、灰色と紺色のハイカラーのワンピースに日除けの白いキャスケットを被った母親が、赤ん坊を抱き上げた。
 若い母親は、赤ん坊を腕の中で軽く上下に揺すりながら、右へ左へそっと上体をひねり、この穏やかで美しい世界と、産まれたての真新しい生命とを、優しく触れ合わせていた。
 僕は想い浮かべてみた。赤ん坊は、何ていう名前なんだろう。あの父親は、母親に、どんな言葉でプロポーズしたのだろう。その子が産まれた時、母親は、いちばん最初に何と声をかけたのだろう。
 自分には、そんなことを想い浮かべる資格なんてない。そう思って、すぐにやめた。
 母親の頬に小さな手を伸ばす赤ん坊の、嬉しそうにはしゃぐ姿。母親の、幸せそうな微笑み。傍らで二人を見守る、短髪に銀縁メガネをかけた、背が高く清潔で実直そうな父親の、優しい笑顔。そこへ密集する光は、沖天に輝く太陽に少しも依存していなかった。光は自生していた。その光は何ものにも依らず、光の一粒一粒が、さらに小さな光を無数に排卵し、アメーバのように片時も休まず無限に分裂と増殖を繰り返しながら、この三人を包む柔らかな春の空気に一分の隙もなく溶け染み入っていた。その光景を見て、
 ―自分が奪ったものはこれなんだ―
 と思った。それは、「何でもない光景」だった。でも、他の何ものにも代えがたい、人間が生きることの意味が全て詰まった、とてもとても尊い光景だった。
 自分が被害者の方たちから奪い去ってしまった、「何でもない光景」を、僕は目撃し、体感した。自分が、そこにいてはならない汚らわしいもののように感じた。僕はベンチを立ち、公園の出口へ向かい、うっかり足を踏み入れてしまった陽なたの世界から、逃げるように立ち去った。(前掲書 284~285p)

事件当時の僕は、自分や他人が、生きていることも、死んでいくことも、「生きる」「死ぬ」という、匂いも感触もない言葉として、記号として、どこかバーチヤルなものとして認識していたように思います。しかし、人間が「生きる」ということは、決して無色無臭の「言葉」や「記号」などではなく、見ることも、嗅ぐことも、触ることもできる、温かく、柔らかく、優しく、尊く、気高く、美しく、絶対に傷つけてはならない、かけがえのない、この上なく愛おしいものなのだと、実社会での生活で経験したさまざまな痛みをとおして、肌に直接触れるように感じ取るようになりました。人と関わり、触れ合う中で、「生きている」というのは、もうそれだけで、他の何ものにも替えがたい奇跡であると実感するようになりました。
 自分は生きている。
 その事実にただただ感謝する時、自分がかつて、淳君や彩花さんから「生きる」ことを奪ってしまったという事実に、打ちのめされます。自分自身が「生きたい」と願うようになって初めて、僕は人が「生きる」 ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解し始めました。そうして、淳君や彩花さんがどれほど「生きたい」と願っていたか、どれほど悔しい思いをされたのかを、深く考えるようになりました。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対時し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの 「生きる道」 でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません。(前掲書 291~294p)

ここは元少年Aが自身の生(たましい)の再生を吐露したところで、手記のクライマックスにあたります。赤ん坊を抱き上げるお母さんと傍らにいるお父さんは太陽の光に依存するのではなく、それ自体として輝き自生していたと元少年Aは書いています。じつにその通りです。その光は何ものにも拠らず増殖して親子を包んでいる。「自分が奪ったものはこれなんだ」と覚知します。とてもいい感じです。でもうそです。演技するのがかれの習性です。宮沢賢治が「マリヴロンと少女」で書いた「すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします」と、手記で書かれた「自生する光」は、まるでべつものです。かれは自分が手にできなかったものを非望として、こう書けば自分が癒やされるということを知って書いています。かれのこの書き方はかれが唾棄した世間と密通しています。まるごと虚偽です。人を殺すのが楽しいと言った少年Aはなぜこの覚知に至ったのか。医療少年院を退所して実社会で生活するなかでさまざまな痛みから人としての正覚をえたとかれは言っていますが、それはうそだと思います。この程度のことで生もたましいも再生されません。まるっきり通俗です。

Aくん、きみは書きながらじぶんが書いたことにうっとりしているね。きみにはわかっているはずです。元少年Aよ、こう書けば殺害を実行したじぶんが癒やされるときみは意識している。そのストーリーに沿って言葉が割りつけられているだけだ。言葉による自己救済も、自分には言葉しかのこされていないときみが書くこともバーチヤルだ。野菜のように他者を切り刻んだ殺害の実行者であることに痛みを感じていることは理解する。きみはそのことに耐えきれなくなっただけだ。少年Aよ。きみはそのことに気づいているか。きみの苦しみは往き道の贖罪にすぎない。きみが自分のなしたことを帰り道で語るならば物語の通俗性とはちがう言葉になる。そんなにきみは世間に受けいれられたいのか。きみはきみの書いた言葉によって癒やされるのか。少年Aよ、きみはきみの書いた虚偽の言葉をほんとうだと思うことで、きちんと考えるしかないことを意識的に避けている。わかるか。

なぜ人を殺してはいけないのか。もっと考えろ。やってはいけないということをひとはやるものだ。禁止があればひとはかならず禁止を侵犯する。むかしからそれが世の習いだ。遺族にはきみの欺瞞は透けて見えていると思う。きみが自己救済されるのは、人と人との関係において殺すということを思いつかない、その言葉をきみがつくるときだと思う。なぜひとを殺してはいけないのかと問いを立てるかぎり、きみは殺害の実行者であることを内面化し、そこで内面化できたことを社会に投擲するだろう。そんなものは言葉ではない。その意識のありようがきみを殺害の実行者へと追い込み、生煮えの自己救済をきみに語らせているのだ。少年Aも元少年Aも依然としてまだおなじ世界にいます。ついでに言えば、きみが「生きたい」と思うのなら、きみは元少年Aではなく実名でこの世を生きるべきだと思います。そこにしかきみの浄土はありません。帰りがけの言葉できみの浄土を手にして欲しいと思います。

往相の生としてはかれは修羅を生きるしかないと思う。往相の生で元少年Aが遺族と出会うことはありえない。遺族も、かれも、引き裂かれた生をいきるしかない。わたしはわたしの体験をなぞりながら、しかし、もしも、と思う。かれがもうひとつの自然に触ることができたら、切り裂かれたままに元少年Aは出来事とつながることができる。わたしはそう思います。そのことはだれにも見えません。それでいいのです。禁止と侵犯のない世界。わたしは内包自然でなら元少年Aは根源悪の痕跡を残さずに消すことができると思うのです。

〔追記〕
このブログを書き上げたときに6月10日に遺族の母親が神戸新聞に寄せたコメントを見つけたので全文を貼りつけます。

 神戸連続児童殺傷事件の加害男性が手記を出版するとのことを、今日の朝、新聞社からの電話で知り驚いています。
 何事にも順序というものがあり、本来なら当事者である私たち遺族や被害者が最初に知るべき重要な事柄が、このように間接的な形で知らされたことは非常に残念に思います。
 もちろん、私の手元には現時点で手記も手紙も届いてはいません。
 情報によると、手記には「精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、ついに誰にも打ち明けることができず、20年もの間心の金庫にしまい込んできた」と自身の精神状況を振り返るところや、罪と向き合う姿がつづられているようです。

 「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」というのが加害男性自身の出版の動機だとすれば、贖罪(しょくざい)とは少し違う気がします。自分の物語を自分の言葉で書きたかったのなら、日記のような形で記し自分の手元に残せば済む話です。
 毎年、彩花の命日に届く加害男性からの手紙を読むたびに、「年に1度のイベントのような手紙ではなく、事件や彩花に関して湧き上がってきた思いを、その都度文字に残して、メモ書きでもいいから書きためたものを送ってほしい」とメディアを通して何度も発信したメッセージが届いていなかったのかと思うと複雑な気持ちになります。何のために手記を出版したのかという彼の本当の動機が知りたいです。(神戸新聞NEXT 6月10日配信)

 

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