日々愚案

歩く浄土47:共同幻想のない世界9-ヨブの受難

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内包論は生活と表現という従来の考え方を拡張しつつあります。わたしがじぶんを生きるという言い方をするとき、それは表現としての生ということを意味しています。余儀なさとしての生があり、そこで内面化されたものを外界に投擲することを表現と考えていないということです。内包論は表現についての態度変更をいつも要請しています。それがわたしの世界にたいする態度です。書物を読み解き、考えたことを文字で記すことと、じぶんを生きるということはまったく掛け値なしに等価です。だからわたしの表現論に知識人と大衆という図式は存在しません。わたしが触ったリアルのふかさとひろがり、それだけが世界です。観察する理性はわたしの表現論には存在しません。その只中でそこをもろとも生きていることが表現です。じぶんを生きるとはそういうことです。

ヨブの受難についてはいつも異物感がありました。手元に旧約聖書が見当たらないので、吉本さんの『ほんとうの考え・うその考え』を参考にします。阪神大震災の頃に吉本さんはこの本を書いています。たしかヨブ記のところは飛ばし読みしました。ヨブを追い詰めていく旧約の神の理不尽さが嫌いで、読む気にならなかったのです。ヨブの受難に信仰の深さを看取するというのはどう考えてもひずんでいます。迫害が加重されるごとにそこに神の真意を読み取り信が深まるというのは不自然です。こういう信のあり方は大嫌いです。ヤハウェなる神の嫉妬深さとバイオレンスは何に起因するのか。ギリシャの神のほうががずっとおおらかです。古事記の神も荒唐無稽でおおらかです。わたしは中東騒乱の根深いところで精神の古代形象が発現されているのではないかと理解しています。精神の先祖返りとも言いえるように思います。ここには信と共同性をめぐるおおきな謎があります。ヨブはこのただなかで苦悶しました。

内包論をすすめるなかでヨブの受難は解決可能だと思うようになりました。前回アップの「歩く浄土」の「バタイユ断章」につなげて言うことができます。表現論としてこのことを考えてみます。

ヘーゲルは原始・未開・野蛮・・・
吉本隆明はアフリカ的→アジア的・・・
と歴史の図像をつくりました。
同一性の記述としてはこういうものかなと思います(いつかマルクスのアジア的生産様式も扱いたいと思っています)。

ヘーゲルや吉本隆明の精神史のたどりかたを包む歴史の概念を構想できると思います。
歴史の初源を原始とするのでもなく、アフリカ的段階とするのでもなく、内包自然を表現論として構想しています。自己の内面を世界に伸張する外延表現(マルクスの資本論はじつにそういうものだった)ではなく、内包自然というものがあるとわたしは実感しています。
世界の無言の条理というとき、わたしはじぶんの体験のことをいつも意識しています。その最中で体験した熱い自然があります。「アキ」は「朔」であるという世界です。わたしの個人的な体験は歴史の概念としても言いうると思うようになりました。
初期人類が自然から離陸して観念というものをもつようになったとき、それは渾然とした名づけようのない激烈な観念のかたまりではなかったかと思います。太古の面々にとって統御できない観念ではなかったでしょうか。たとえて言うのですが、いきなり視界が晴れてなにものかが見え始めたのです。自然という対象とはまだじゅうぶんには分離しえていないそういう時代です。死刑囚陸田真志さんの書簡にもありましたが、そのとき観念することと行為をすることは切り離されていなかったと思います。
このような精神の古代形象をフロイトはエス、バタイユはエロティシズムと名づけたように思います。ユングの集合的無意識もそうです。ある精神の形象をある視線で切り取ればエスになったり、ブードゥー教になったり、祭儀の人身御供や生け贄になったり、あるいは元型となるのだと思います。
ちょうどこのあたりにヨブの受難と旧約の神が位置しているとわたしは考えるようになりました。もっとも苛烈な争闘は性をめぐることではなかったかと推測しています。性の快楽の独り占めです。もちろん性と食も分離できない強度で結合していたと思います。パンが1個しかなかったら人はそれを奪い合うものであるという強度です。
激烈な観念が奔騰するなかにあって、その観念の古代形象を心身一如に封じ込めて制御したのが旧約の神ではないでしょうか。ヤハウェの神の嫉妬深さも暴力性も精神の古代形象の面影が濃厚であるように思います。心身を同一性権力でしばりあげ制圧したのが一神教の神ではないか。そうしないとひとびとを統治できなかったのだと思います。
わたしが体験してきたことも精神の古代形象そのままの世界でした。あるきっかけで一瞬で人はそこに復古することができます。そしてそのときわたしはその渦中で熱い自然にさわりました。

内包自然はわたしのなかではありありとした生の知覚です。生のリアルです。
生の原像を還相の性として生きるとき、ヨブの受難も、カリフ制の錯誤も、ボコハラムの残虐も消失します。それはわたしの体験的な確信です。あらゆる言葉のとどかない彼方のリアルによぎられたことは事実です。たとえそれが無限小のものであっても、そこが無限の可能性を秘めた場所であるとわたしは思っています。それはたしかに、ある、というしかないのです。

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『ほんとうの考え・うその考え』にある「ヨブの主張」を読み終えました。旧約のヨブ記を読んでいることを前提にヨブ記の感想を書きます。ヨブ記はその時代をそこで生きた人の神と信仰をめぐる物語です。
吉本さんの「ヨブの主張」という講演記録から3箇所引用します。だいたいの流れがたどれると思います。そして3箇所の引用に内包論から感想を述べます。

ヨブはオリエントの地で幸福な暮らしをしていて旧約の神から意地の悪い試練をくり返し受けます。かれとかれの一族の暮らしは破壊されます。どれほど神の意志に沿っても神はかれをどんどん際限なく追い込んでいきます。

そこでヨブは神を呪詛します。ここを引用①とします。ヨブの呪いの呻きに神が答えます。この引用②は吉本さんのヨブと神への批評も含めます。そして引用③は吉本さんが考えたヨブ記の続編です。

①わたしの一族をあなたは圧倒し
わたしを絞り上げられます。(16章)

神がわたしを餌食として、怒りを表されたので
敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。(16章)

神は悪を行う者にわたしを引き渡し
神に逆らう者の手に任せられた。(16章)

目は苦悩にかすみ
手足はどれも影のようだ。
正しい人よ、これに驚け。
罪のない人よ
神を無視する者に対して奮い立て。(17章)

それならば、知れ。
神がわたしに非道なふるまいをし
わたしの周囲に砦を巡らしていることを。(19章)

神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。(19章)

親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。(19章)

憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
神の手がわたしに触れたのだ。
あなたたちはわたしの友ではないか。
なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
わたしを追い詰めるのか。
肉を打つだけでは足りないのか。(19章)(『ほんとうの考え・うその考え』所収「ヨブの主張」149~154p)

②この地上に大地を据えたのはわたしだ。朝日や曙に役割を指示したのもわたしだ。おまえは海の湧き出るところまで行き着き、深い緑を巡ったことがあるか。死の門をつくったのもわたしだし、死の闇の門を見たのもわたしだ。光がどこにあるかを指し示せるのもわたしだ。雪がどこから降ってくるか、霞がどこから落ちてくるかを知っているし、それをさせているのもわたしだ。風がどの道を通って吹くのか、豪雨がどういう水路をつくるか、稲妻がどうやって落ちてくるかもわたしのなせる業だ。すばるとかオリオンとか銀河をつくったのもわたしだ。天の法則もわたしがつくった。洪水をおこすのも、鳥たちを囀らせるのもわたしだ。おまえはそういうことができるか、できないだろう。動物から植物まで全部、全能者であるじぶんがこしらえたのだ。おまえは全能者と言い争うが、引き下がる気があるのか。神を責め立てる者よ、答えるがいい。(38-39章)

 このように神はヨブに、天然自然をどこまでも動かせるのはじぶんだということを言うわけです。
 ぼくらがもし「ヨブ記」を、ヨブを中心にして読むとすれば、この神の言葉はとてもつまらなくみえます。なにも答えていないじゃないか。じぶんは天然自然を全部動かせる全能者だぞという自慢をしているだけで、ヨブの苦悩にたいしてすこしも答えていないじゃないかともおもえるわけです。これにたいしてヨブは、人間的倫理としてはもう極度の苦悩と惨めさのなかに陥れられ、そこからぎりぎりの言葉を神にたいして吐いています。それは呪いになったり抗議になったりしていますが、その呪いとか抗議のもっている深い倫理性は、たいへん優れたものだと受けとれます。ヨブを中心にして読めばそうなります。 しかし、ちがう読み方をすれば、これは天然自然を統一的なところにもっていったところで出てくる神の概念であって、天然自然とほとんどおなじことを意味しているんじゃないかということになります。これは天然自然ですから、なんら人間の倫理に従うわけでもなんでもないわけで、また答えるわけでもない。そういう神を信じていたユダヤ教の終末期において、自然がこうしたとか、神がこうしたんだというようなことに、人間的倫理のほうが優位なんだということをどこまで主張できるのか。そういう意味の信仰のあり方が、たぶんユダヤの歴史のなかで出てきたのだとおもいます。ヨブはそれを象徴する人物の一人だというふうにかんがえれば、たいへんかんがえやすいとおもいます。それが新約聖書の主人公のところへもっと凝縮したかたちで出てくるんだと解釈すれば、解釈できるんじゃないでしょうか。(同前155~158p)

③わたしが書きなおすとすれば、〈自然〉と〈倫理〉の問答をもうすこしつづけるよう
にします。そして神とヨブの和解が成り立っても成り立たなくてもどちらでもいいんですが、神の言葉は、天然自然の表層現象を言っているだけじゃなくて、だんだん〈深さ〉をもつようなところまで内向していき、ヨブの言葉は、死と苦悩と、一時的な不幸からしか出てこない言葉ですが、その普遍性のある言葉をどこまで拡大することができるか、その方向にむかっていく。そういうところを継ぎ足したいわけです。
 それは同時にじぶんにとっていまとても主要な問題なんです。〈普遍宗教〉あるいは〈普遍倫理〉が出てくる段階が現在の段階だとぼくにはおもえるからです。〈普遍宗教〉の考え方がどういうふうに成り立つかがいまのいちばんの関心事で、そこへもっていくようになおすとおもいます。それには天然自然が科学的な自然観の方に行って終わってしまうところを、天然自然観に〈深さ〉という概念は与えられないかという問題と、苦しみとか、虐待されたとか、貧しかったとか、物質的に不如意だったとかというところから生まれてきた〈欠如〉を基にした倫理を、もうすこし欠如がなくても倫理が成り立つところへもっていきたいわけです。神の言葉でいえば〈深さ〉という概念、ヨブの言葉でいえば〈広さ〉という概念といったらおかしいですが、〈普遍性〉といったらいいでしょうか、狭い倫理から広い普遍性のある倫理性の言葉にもっていくのがさしあたってつけ加えたいところだとおもいます。(同前176~178p)

引用③から入ります。吉本さんのヨブ記の読解はさすがだと思います。とても切り口が鮮やかです。わたしにはむかしからヨブは生まれるのがはやすぎたイエスという印象がありました。吉本さんが指摘しているとおりだと思います。旧約聖書から新約聖書の転換点にヨブは位置していたのだと思う。しかし旧約の信から新約の信へと転位はしても信そのもののかたちは変わっていません。吉本さんの願望からははずれますが、この世界の変貌からして天然自然が深さをもつことはありえないと思います。また未開から解明へと歴史は変化するという観察する理性が普遍性のある倫理を手にすることもないとわたしは考えています。あらたに編成されつつあるグローバルな同一性権力によって吉本さんの非望はすべて呑み込まれてしまうと思います。旧約の理不尽な神とグローバルな権力はおなじ面構えをしています。意匠を変えただけで同一物です。わたしの知るかぎり内包論はこの制約を拡張することができると考えます。

未開から解明へという意識の流れにはあることが暗黙のうちに前提とされています。合理的な知性はしだいに迷妄的な俗知からほどかれていくという臆見です。この臆見は迷妄です。
ある時代に生まれ、その時代を生きた人が,時代とのあいだでとりもつ迷妄の度合いは、いつの時代も変わらないとわたしは考えています。未知の事象を観念の遠隔対象性で既知の自然とし、その既知を認識にとっての自然とすることでさらなる未知を解読しようとします。だからヨブを苛み、いたぶる全一者が自慢するさまざまな事象は現在からみると、なにをおまえはたわけたことをいいよるのか、ということになります。
しかし現在を有限な限定されたあり方で生きているわたしたちと、この時代とのあいだの迷妄の関係はヨブが生きた時代と少しも変わりはないのです。
わたしたちのこの宇宙をつくる物質は、観測された宇宙の膨張する速度からするとわずか5%未満です。暗黒物質も暗黒エネルギーもその正体はいまのところまったく未知です。宇宙論の最前線では多次元宇宙や多元宇宙が真剣に論じられています。
あるいはテロリストの早期発見と殲滅もがんの早期発見早期治療もおなじ発想法が取られています。テロリストを殺害標的としてドローンがテロリストを特異的に排除するとされます。標的はテロリストですが周辺の住民を不可避に巻き添えにします。がん細胞だけを特異的に死滅させる分子標的薬は周辺の細胞を傷つけます。テロリストの殺害とがん細胞の死滅はだれもが推奨します。ひとびとはこぞって進んでこの流れのなかに入ります。これは迷妄そのものというほかありません。ヨブが生きた時代となにも変わらないのです。

神の酷い仕打ちにさらされて苦悶し悶絶したヨブの生と、この時代を生きているわたしたちひとりひとりの生の在り方はなにも変わりません。なにひとつ変わらないのです。わたしたちは所与の生をそのつど有限なものとして時代に囲繞され生きるほかありません。そのただなかを生きるほかないのです。だからヨブを襲った不条理はまたわたしたちの生とおなじものです。なにひとつ違いはない。わたしたちはなにかへの過程として生きているのではない。歴史がなにかへの過渡であるとしたらそんなものはいらない。信の共同性をひらけばいつもそのつどヨブはわたしである。時代を超えて隔たりを超えてヨブはわたしである。気が遠くなるほどの時空を超え、ヨブが手にしたかった浄土は神ぬきに、信の共同性を経ることなく可能です。信の共同性がないからこそ可能なのです。浄土はいつも歩いています。内包史と内包親族論ではそう考えることができます。

コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    おはようございます。「わたしが触ったリアルのふかさとひろがり、それだけが世界です。観察する理性はわたしの表現論には存在しません。その只中でそこをもろとも生きていることが表現です。じぶんを生きるとはそういうことです。」、という現場性を当事者として生きて生活することと「総表現者」としての「内包論」の〈ことば〉(表現)は、等価であるのです。ここにメタフィジカルな表現が、まさにフィジカルな生きた身体からの表現で、切実な生身の血を流すことでもあることが伝わってきます。
    では、さらにその表現には〈反等価〉のかけがえのなさはあるのでしょうか。もちろん、あります。
    「わたしたちはなにかへの過程として生きているのではない。歴史がなにかへの過渡であるとしたらそんなものはいらない。信の共同性をひらけばいつもそのつどヨブはわたしである。時代を超えて隔たりを超えてヨブはわたしである。気が遠くなるほどの時空を超え、ヨブが手にしたかった浄土は神ぬきに、信の共同性を経ることなく可能です。信の共同性がないからこそ可能なのです。浄土はいつも歩いています。」、まさに〈信の共同性を経ることなく可能です〉ということは、生きて生活する当事者性のなにを意味するのだろうか。まさに各々が生きて生活することが持っている〈反等価〉性なのである。ここに普遍性のかけらがうまれないことがあるだろうか。まさに、この生活する当事者の「普遍性」こそが、反等価が反転した等価ではないだろうか。反等価が等価になり、等価が反等価そのもののかけがえのなさが「総表現者」(内包論そのものが)であるということなのです。だから、簡単に読みとばすことができない深さが表現されつづける生成する〈ことば〉に潜んでいるのです。小生には、そのようにせまってくる〈ことば〉を、小生なりに感じる〈ことば〉として読ませてもらい、小生の現場性を生きる問題として「内包論」は、表現されてあるのです。面々が面々の読み方をせまられるのは、その表現の〈ことば〉に強さを感じ、総表現の意味するところが、人類史のもつ根源からの〈ことば〉だからなのです。小生は、そのように読ませてもらっています。

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