日々愚案

歩く浄土44:共同幻想のない世界6

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昨日の夜、母の入所しているホームからの帰りのバスのなかで内田樹さんのツイートを読んだ。2015年5月28日の分。
かれの言っていることに留保ぬきに共感と同意をする。16年前に書かれた文章ですがいまでもそのまま通用します。とてもいい文章だと思います。
内田樹さんのこの文章を読む前日にもうひとつ、あっと思うツイートがありました。
それはつぎのようなものです。

『マルクス再論』2400字えくり。白水社の「白水社の本棚」という雑誌への寄稿です。「その名においてふるわれた暴力とそれを弾圧するためにふるわれた暴力の総和において、マルクス主義に及ぶ社会理論は存在しない」という観点からのマルクス主義論です。

なぜマルクス主義は「あんなに人を怒らせるのか?」それが僕の関心です。なぜことマルクス主義がからむと、賛否いずれの立場でも、人は隣人を告発し、家族を罵倒し、友人の死刑執行命令に署名できるようになるのでしょう?僕は「そんなこと」したくない。だから、興味があるのです。

たしかにそうだと思いました。マルクス主義の名においてふるわれた暴力とそれを弾圧するためにふるわれた暴力の総和は人類史の規模での厄災です。左翼の名においてなぜ人はあれほど怒り、弾圧の大義によってなぜあれほどの無道と非道をなしうるのか。友人を妻を夫を親を子を恋人を密告したのか。深い人倫の謎がある。この謎は依然として解かれていない。民主主義はこの謎をひらくことができるか。

以下は国旗国歌についての内田樹さんの考えです。全文をコピペします。

国旗国歌についての私の基本的な立場はむかしから変わっていません。16年前に書いたものをそのまま採録しておきます。http://blog.tatsuru.com/  こういうものを力をつかって上から他人に強制しようとする人間が僕は大嫌いです。

国旗国歌について

国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。
その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。
今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。
このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。
ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。
こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。
私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。
いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。
私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。
正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。
しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。
小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」
私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。
国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。
現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。
国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。

内田樹さんが言っていることはぜんぶまるごと諒解できるので発言の内部には立ち入らない。その必要がないほどかれの言うことがわかるから。

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かれの主張することをわたしはどう考えてきたか。内田樹さんが感受していることをわたしはじぶんの内側に向けました。おまえはどうする? ずっとそう考えて生きてきた。自己の内面化ということではない。わたしの体験したことは内面化不能でした。どうじに社会化することもできないものとしてあった。一言でいうと、この社会は、禁止と侵犯に閉じられているのです。禁止という規範はかならず侵犯されます。善を説けば、善を敷衍すればそれが一見どれだけ効率のわるいやりかたであろうと、生も社会も善へと漸近するという信憑が民主主義のやり方です。そうやってわたしたちの社会はすこしずつ善き方向へ変容してきました。このシステムの下では悪いのは制度であり、制度の不備を改善すれば生は善きものに向かうと確信を抱いて民主主義はがんばりました。

侵犯をした者には相応の罰が付与される。それが法という公共的な一般意志です。
禁止と侵犯は意識の流れとしてまったく同型であり、私性それ自体のなかに善きものはないということは苛烈な体験を生き延びたわたしの体験的な公理です。
世界は遅れてわたしの体験についてきています。むきだしになった世界の無言の条理。その生存競争の時代にあって民主主義の理念は途方にくれています。わたしは民主主義の理念を根底から拡張するしかないと現状を判断しています。世界の地政学的な変化もあります。護憲を金科玉条のものとして掲げても無意味です。
兵頭正俊さんはこの国の現状を奴隷から家畜の時代への劣化として嘲笑しています。かれの理念は間違っている。稀代のアホである戦争をしたいだけの安倍晋三の悪政になぜひとびとは反対しないのかとしびれをきらして兵頭正俊さんは国民に悪態をつく。家畜はなかろうぜ。この酷い状況からひとびとがまるごと脱出するのは無理だとわたしは主張してきました。気づいた者から制度を脱出するしかないと思います。

先日、知らない俳優さんが大腸がんで亡くなりました。抗がん剤で最後の最後まで闘ったらしいです。間違いなく抗がん剤によって苦しんだあげく死期を早めたのです。病院医療に人間の尊厳はない。おまかせにした方が楽ですが、じぶんの生き死にはじぶんで決めるしかないのです。おなじことが政治にも言えます。個々に生き延びるしかないのです。病院医療の合法的な殺人は今に始まったことではない。先端科学のよりいっそうの進展という虚偽はビッグサイエンスになるほど昂進します。やがてわたしたちの心身は一片に至るまで商品化されます。死の尊厳そのものまで商品になるのです。それは不可避です。中東のイスラム国の無道も電脳社会が推進する世界の地殻変動からの煽りとしてあります。安倍の非道もそのひとつです。

スターリニズムもファシズムも人々の私的な存在のありように淵源があるのです。この私性を共同的に表現した政治がスターリニズムやファシズムです。私性と共同性は同根なのです。八紘一宇や一億総玉砕の精神を経験したことはないが、中国の毛沢東の文化革命時に目をキラキラさせながら毛沢東選集を掲げていた者らを知っています。毛沢東の考えは嫌いでした。その者らはそれがなにかであるようにかれらの生を生きてきたのだなと若い頃思いました。わたしはそういうことはできなかった。革命ごっこをする奴らが大嫌いだった。唾棄していました。

内田樹さんが言っている世界をわたしはほぼ一瞬で通過しました。それほどわたしの体験は過酷でした。かれが大嫌いなことはわたしにとって面々の計らいにて候だったのです。民主主義を未完のプロジェクトと称揚する余裕はわたしにはありませでした。わたしは熾烈な争闘を内面化することも社会化することもできなかったのです。遺棄された残骸のようにして考えることを考えました。ただそのことだけを気が遠くなるほどながく考えてきました。ふと気づくといい歳になっています。

なぜひとは内田樹の大嫌いなあり方で生きることができるのだろうか。わたしは私性の空隙とそれを寄せ集めた共同性の理念がリンクしているからだと考えました。ひと言でいうことができます。私性が共同性と同期するような生存のあり方しかまだわたしたちがつくりえていないのです。
民主主義」という理念は長いあいだのひとびとの生活の知恵が凝縮された、これまでのところわたしたちがつくりえた最上の作品であることはじゅうぶん諒解しています。しかし民主主義の理念もわたしたちのべつの生存の可能性への過渡としてある、とわたしは考えています。自己についてのあたらしい知覚をつくることができれば民主主義は拡張できます。
フランス市民革命で自由・平等・友愛(博愛)という理念が敷設されました。この偉大な理念はわたしたちの世界にたちまちひろがりました。明治のご一新にもおおきな影響を与えていました。マルクスの思想もこの理念ぬきにはありえなかったと思います。
さまざまな試練をくぐり抜けて自由・平等・友愛(博愛)という理念には偉大と空隙が共存していることがしだいに露呈してきたと思います。そこにある矛盾が現代の現在性として蔓延しています。r>gでもいい、中東の戦乱でもいい、グローバルな圧力と国内の同調圧力でもいい。一目瞭然です。為政者たちは理念の不備をなんとか再定義し再編成するでしょうが、理念のなかにある空隙や矛盾を繕うことはできないはずです。

ここもひと言で言えます。自由・平等・友愛(博愛)は個々の実存を実体化したところに付与されました。個人が自由であることと平等であることは不可侵であると言えます。利己の自由と平等は微妙な関係になります。私性としては自由と平等はおおいにけっこうなことです。他者への配慮としては平等はいらぬことかもしれません。
そして友愛(博愛)となると自己の陶冶と他者への配慮は我欲からは猛烈に背反することとしてあらわれます。片寄らない富の分配などいらぬお節介となる。個人の自由・平等と友愛(博愛)は次元が違うのです。
この世のしくみでは建て前と本音は分裂します。文化・民族・宗教以前の精神の古代形象がここにあります。どの国でもおなじです。背に腹はかえられないとして私性が優先します。モナドである個々の実存はひとつながりの全体としては矛盾するものとしてあらわれます。それは生存の余儀なさや制約であり、事の是非はありません。このことが無言の条理としてあらわれているのが現代の現在性であるとわたしは理解しています。

思わず深みに足を踏み入れそうです。西欧近代発祥の理念、ここでは自由と平等と友愛としますが、よく考えると、とても不思議なことが言われているのです。なぜ人は法の精神の下で平等なのか。個人に内属する自由とはなにか。なぜ他者との友愛が成り立つのか。近代以前は神という超越、全一者が仲立ちすることで人は地上性はともかく個人の実存は理念としては水平だったように思います。近代は神という超越を切断することで興隆しました。神という超越は死んだのです。では自由や平等や友愛はなにによって根拠づけることができるのか。できないというのが近代であり、現代であり、現在です。端的に自由も平等も博愛も無根拠です。根拠はどこにもない。自由も平等もそれ自体の理念は空無です。

なぜ人の個別の生存が自由であり、平等なのか。民主主義という思想はこの問いに答えることはできないと思います。わたしは自然科学もひとつの擬制であると考えています。もちろんそのうえに構築された生もニヒリズムのひとつにすぎません。なんの根拠もないのです。しかし、同一性をかたどって流れた神や仏という超越が死んでも、内包は生きています。わたしは神という超越よりシンプルで深い情動を内包の性と名づけています。ここではじめて野の花、空の鳥が可能となるように思うのです。同一性の遙か彼方の内包自然。彼方は、いつも、いま、ここ、です。わたしたちひとりひとりの生に内属する無限小のものとして、意志や計らいを超えて、それはあります。

わたしは不可侵・不可被侵という満月の思想がすきです。当事者性そのものの生がここにあります。建前としてならば民主主義の理念としても言いえますが、本音で不可侵・不可被侵を生きるには、理念を語るそのひとのありかたが変わるしかありません。苦界の衆生を語らず、ひたすらじぶんを生きるとはそういうことです。この世のしくみの習いでは自己を領域として生きるということです。自由・平等・友愛(博愛)は領域としての自己のなかにスポンと入ります。即ち、自己の陶冶と他者への配慮がひとつながりの全体としてここにおいて現成します。

おなじことですが、共同幻想の彼方は、共同幻想を拡張した共同幻想のない世界において実現されます。内田樹さんのああいう奴らは大嫌いだという16年前のブログの文章を読み、おおいに共感を感じながら、こういうことを考えました。

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