日々愚案

歩く浄土42:共同幻想のない世界4

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吉本隆明の思想を拡張する要となるところをおおまかに述べます。まだだれも考えついていません。このことはわたしによってはじめて言われることです。4半世紀前の吉本さんとの対談のすれ違いや、わたしの生存を貫通した知覚や、三人称のない世界をうまく展開できなくて悶絶した10年余のすべてのことにたいして、勝利だよ、という内心のつぶやきがあります。家族から親族へ、親族から氏族制へ、さらに部族制へと観念が肥大していく外延的な自然に内包自然という概念をはさむと事態は一変します。起源の国家へと至る近親相姦の禁止という要となる概念が蒸発するのです。そして国家はこの知覚においてひらかれます。だれもこのことを言明していません。

以下はいままで何度か取りあげたことのある吉本さんの近親相姦の禁止についての考えで、短いメモをなんどか書いたことありますが、そのたびにすっきりしないものを感じてきました。吉本さんの近親婚の禁止のりくつに伸びやかなものを感じることができません。論理の運び方がどこか窮屈で苦しげです。起源の国家を解明することが優先されていて、結果から過程を説明しているようにみえます。自己意識の外延表現の途をとるかぎり近親相姦の禁止は聖句のようなものになります。家族を外延自然でなぞることの制約がここにあります。
内包自然という概念を挿入するとあっさりすっきりこの難所はたちどころに解決します。べつに近親相姦があってもなくてもそんなことは国家の起源とはなんの関係もないのです。根源の性の分有者という内包自然はそれ自体の領域をもち、そこで綾なす人と人の関係から国家という共同幻想が生まれることはないからです。吉本隆明の全幻想論をまるごと拡張できます。それは国家へと至ることのない世界の創造です。世界のあたらしい知覚でとても善いもののように思います。

〈氏族〉共同体からの個々の〈家族〉共同体の脱落、孤立、内閉こそが、〈氏族〉の〈部族〉への飛躍と、〈近親相姦〉の〈禁止〉を促した、とわたしにはおもわれる。なぜならば〈家族〉共同体の、上位共同体からの孤立は、いわば、意識的に〈性〉的な対象としての〈近親〉の異性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素直に(自然に)従えば、〈家族〉共同体は、崩壊の危機に見舞われただろうからである。ところで、〈家族〉共同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流浪することでもなければ、〈氏族〉共同体の直接のメンバーに転化することでもない。〈家族〉共同体の内部で自閉した対(ペア)に分裂することであり、それ以外の現実的な行き場所はないのである。つまり、〈家族〉の〈自滅〉そのものであり、どこにも、転化の契機をもたないのである。これを免れるためには〈近親相姦〉を自ら〈禁止〉するほかはない。(『書物の解体学』所収「ジョルジュ・バタイユ」)

氏族の共同性も家族の共同性もおなじ意識の平面で語られています。共同性と家族の観念の位相が次元と異にしているということで済む話ではないのです。共同幻想と対幻想がおなじ意識の働きのうえで述べられているということです。
同一性という自然的な規定を暗黙の公理としてうけいれると叙述はこうしかならないという見本です。国家という厄介なものを解体したくて共同幻想論を意図したはずなのに、論理を緻密にすればするほど論理が硬直し筋張ってきます。「マチウ書試論」もそうですが世界を語るときの吉本さんの言葉は暗いです。マチウ書試論から使用頻度の多い言葉を拾ってみます。敵意、憎悪、攻撃、過酷、悲惨、秩序からの重圧、疎外、圧迫、叛逆、被害感、陰惨、迫害、偏執的、倒錯、神経症、欠如、敗残、裏切り、猜疑心、・・・。となっています。
バタイユ論では家族を語るとき、「脱落、孤立、内閉、崩壊、流浪、分裂、自滅」となっています。暗いです。べつに吉本さんの気質ではないとおもいます。吉本さんの思想に負荷されているのはかれ自身も気がつかなかった同一性の重力です。同一性は自己意識の外延表現を不可避とするし、またその意識の範型を強制します。

同一性が、個人がモナド(心身一如という単子)であること、対の世界が共同性への通路(媒介)であること、国家が不可避であることを要請しているのです。マルクス主義の下部構造決定論にたいして、上部構造(幻想論)の独自性をうちだしたくて、全力で吉本さんは幻想論を、ヘーゲルやフロイトの思想を借りながらつくりました。人間の取りうる観念に筋目を入れ、自己幻想と対幻想と共同幻想があることを示しました。そうやってマルクス主義の平板な世界を押し返そうとしたのです。それが戦中に現人神信仰をもった吉本青年の戦後の落とし前でした。しかしそれは自己意識の外延表現に閉じられた思想の体系です。マルクスの思想がそうであったように。
しかし個人があり、家族があり、国家があることはだれにとっても自明のことでした。ほんとうは、なぜ、個人は国家に絡め取られてしまうのかと問うべきだったと思います。3つの観念の区別と連関を解明しようとすることで、結果として幻想論にしばりをかけがんじがらめにしてしまったのです。自己幻想は共同幻想に逆立する、これを梃子として自立した大衆が国家を消滅に導くということに吉本隆明は思想の命運を賭けたのです。自己幻想はなぜ共同幻想と同期するのかと問えばまだ思想に可能性があったように思います。

同一性という強固な信がある。この信を括弧に入れ、吉本隆明は人間の取りうる観念には三つあると言った。わたしはあるとき自己幻想も対幻想も共同幻想もこの信から派生した観念であることに気がついたのです。自己意識の外延表現としては吉本隆明の考えたことは妥当なものです。吉本隆明の幻想論では、とても大事なものであるが、対幻想は自己幻想と共同幻想のはざまにあって、共同幻想の特殊なものとされ、対幻想の内部でひとは全人格的ではなく部分的にしか登場できないとされています。では、「アキ」が「朔」であること、「朔」が「アキ」であることはどうなるのだろうか。性の自然から疎外された男女の観念を対幻想ということで収まりをつけ、この特殊な観念を媒介として共同幻想がつくられるしくみを共同幻想論として解明しました。それはすでに存在しているものを言葉で追認することでした。

でも1番大事なことが吉本さんの対幻想論から捨象されている気がしてきました。内面化された自己という外延表現で対の世界を語るかぎり対幻想は継ぎ目であり媒介にしかならないのです。吉本さんの考えとは逆にわたしは対幻想のなかでだけひとは全人格的に登場できると考えました。対幻想の拡張型が根源の性の分有者という考えでした。どういうことかわかりにくいとながいあいだ言われてきました。ここには思考のおおきな飛躍と転換があります。わたしは表現についての態度変更を要請しています。

わたしは自己幻想と対幻想と共同幻想という観念のうち対幻想だけが際立って特異だと考えました。かんたんにいうと自己はそれ自体としては空っぽであり、空っぽの集まりである共同性も空虚です。自己幻想が共同幻想と逆立することはなく、自己幻想は共同幻想と同期するだけです。自己幻想の写像されたものが共同幻想であり、共同幻想が収縮したものが自己幻想にすぎないからです。吉本隆明の思想は個人の恣意性を最優遇する思想です。若い詩人の詩を読み込んで、ここにはなにもない、真っ黒に塗られた無だと言ったのです。なにもないと書いている若い詩人はむしろ正直なのです。そのとおりのことですから。自己からはじめようと共同性からはじめようと、どちらも空しいのです。空っぽだからです。こういうことはわかりきったことであるように思えます。

ここはとても肝心なところなのでもう少し言います。わたしの経験では状況が剣呑になると自己は自己の心身一如をいやおうなく実体化します。実体化することで剣呑な事態を避けようとします。そのことに是非はありません。この実体化を先取りしているのが共同幻想です。なんといっても共同幻想はひとびとの生活の経験値です。
ひとは自己を共同幻想に同期することで実体化された自己の生存の危機を回避しようとします。ほぼ例外はないと思います。自己幻想は共同幻想に逆立したくても自己保存の戒律として共同幻想に同期するしかないのです。
自己という心身一如は制度への抵抗の拠点とはなりません。むきだしになった世界の無言の条理のなかで、自己よりももっと善いもの、譲渡不能のもの、わたしの言葉では分有者という生のありかたに、この世の習いで言えば、領域化された自己だけが、空っぽの自己とその寄せ集めである共同幻想を包み込み無化することができると考えました。それがわたしの生存を貫く感覚です。それは期せずして同一性を跨ぎ超すことでもあったのです。

ここで吉本さんのバタイユ論の家族についての考察に立ち入ります。同一性を暗黙の公理としてつくられた対の関係はそれ自体としての領域をもっています。3つの観念のうちの1つが対の世界ということではないのです。対の世界の本然は内包自然なのです。同一性に封じ込めた性を自然な基底としそこから疎外された観念が吉本さんが言うところの対幻想となります。とても窮屈な世界です。根源の性の分有者というふたつのこころをもつ存在のありようは、存在するやいなや同一性に絡み取られ単子の自己へと収縮します。そこで内面化された自己がもうひとりの他者へと向かい対幻想の世界をつくると語られてきました。わたしは違うと思いました。

氏族制が外延的に拡大すると、もともとは内包自然であった対の世界は所与の自然へと転化します。吉本隆明の対幻想論はこの所与の自然の内側で語られています。外延的に拡大した家族は親族をなし、氏族制へと至ります。所与の自然としては自然な展開です。息を引き取る間際の「アキ」をまず母親が見守ります。つぎに「朔」が「会ってやって」と「アキ」の母親から言われて「アキ」の間近に導かれます。まだ「アキ」と「朔」は夫婦ではないので、事の次第としてはそうなります。「アキ」と母親は血のつながった家族です。「アキ」と「朔」はバガボンドどうしです。もともとは赤の他人です。でも「アキ」と「朔」の関係は「アキ」の実の親子より深いと思います。漂泊者どうしが親子より濃くなるのです。これって不思議です。血のつながった家族より、赤の他人が親子より深くなるのです。家族から親族へ、親族から氏族への転化と互いに漂泊者であった「アキ」と「朔」の関係はまったく次元が違います。わたしは「アキ」と「朔」の存在の仕方を内包自然と名づけています。
「アキ」と「朔」が家族をなしたとして親子や兄妹のあいだで近親相姦の禁止という観念は観念それ自体が存在しません。禁止と侵犯は同一性からやってきます。経済の下部構造が人間の意識のありようを決定するという信はもちろん虚偽です。おなじように兄弟姉妹のあいだの自然的な性関係をともなわない性的親和感というものも、いかにもありそうな虚偽です。そう形容するものがあるとしてもそのことと近親相姦の禁止とはなんの関係もありません。いかにもありそうなウソです。根源の性の分有者に禁止と侵犯という観念はないのです。

わかりやすくするためにひとつの例をもってきます。
バランスのとれたカロリー制限食という医学の考えがあります。閉じた信の体系で間違っていますがその信の内部にいるかぎり医師も患者もその信がゆらぐことはありません。この閉じた信をいくら実践しても高血糖の患者の病態がよくなることはありません。徐々に進行して悪化します。この過程は不可避です。そこで前提を疑ってみます。
カロリー制限食とは炭水化物とタンパク質と脂質のバランスのとれた食事のことを指しています。必須タンパク質も必須脂肪酸も必須ミネラルも必須ビタミンもあります。では必須炭水化物はあるでしょうか。ないです。食後血糖を上げるのは炭水化物のみです。炭水化物を控えめにすると、即座に高血糖は改善します。これは生理学的な事実で論争の余地はありません。

公理のひとつから炭水化物という栄養素を抜くことで病態は即座に改善するのです。おなじことが近親相姦の禁止という、それをあることにするという公理です。個人がいて、対や家族をなし、やがて国家ができるという意識の流れから、近親相姦の禁止というものをぬきとってもなんのさしつかえもないのです。近親婚の禁止という理念があろうがなかろうが国家はできたのです。外延化される自己の延長態が国家であるというだけです。徹底的に、ただそれだけのことです。
つまり外延的な自己があればその群れは国家を不可避とします。自己は反国家の根拠とはなりえません。自己は共同性に同期するようにできているのです。自己は共同性の、共同性は自己の似姿です。同一性が自己のあり方と共同性にしばりをかけているのです。根源の性の分有者は自己へも共同性へも還元できません。だからこそここに可能性があります。

分有者という内包自然はたちまちのうちに同一性の罠にかかり、内包自然という対の関係は外延的な所与の自然へと転化します。それにも関わらず家族が永続するということは、所与の自然である家族に、順次生として内包自然が絶えず繰りこまれるからです。内包自然→外延自然→内包自然として世代交代するのです。分有者という内包自然に同一性をひらくすべての可能性があると思います。
吉本隆明の息苦しくて暗い家族は内包自然があるのでなんの心配もありません。じつにシンプルなことです。わたしは自覚的に分有者をこの世の外延的な習いにしたがって領域化された自己と呼ぶことにしています。内包って、とても気持ちいいです。

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