日々愚案

歩く浄土264:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理21/生と死はどこにあるか9

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飛び抜けておもしろい本に出会うことがたまにある。カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』だ。物理学の本質は感情であるなどまるでカルトみたいだが、全然違う。うん、うん、うん、なるほど、なるほど、なるほどね。そんなふうに物理学が対象とする自然を記述できるわけだ。驚きながら深く納得する。
読み手の数だけ読み方があるような物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』はおもしろい。量子論と重力理論を統合する試みのひとつであるループ量子重力理論を主導する一人である。超弦理論と対をなしている。日本語版解説者によると、超ひも理論はヒモになった素粒子が運動する背景に時間や空間が前提として存在しているが、ロヴェッリは時間や空間はループという根源的な要素から組み立てられた二次的なものだと主張する。

生涯を時間をめぐる研究に捧げた63歳のイタリア人のループ量子重力理論の研究者は時間は重層的で多様な層がそれぞれ独立であると主張する。さらに時間や空間が量子のふるまいの近似であると言う。わたしの言葉では対象を観念によって粗視化すると無限小の量子の挙動はそうなるらしい。原題が『時間の順序』であり、2600年前の古代ギリシアの哲学者アナクシロマンドロスの遺された著作の断片「事物は必要に応じて、ほかのものに変わる。そして時間の順序に従って、・・・」に由来する。邦題の『時間は存在しない』とはあきらかに矛盾する。このほうが読者の目をひくからだと思う。しかし内包論にとってタイトルの差異によって、カルロ・ロヴェッリの『時間の順序』は、彼の意図に反して『時間は存在しない』に過不足なく包摂されてしまう。

オノマトペが種族語や民族語にゆきつくことができないのに、いつのまにか種族語や民族語にからめとられ、そのことが意識にとっての自然とされる擬制をどう解すればいいのか。共同主観的現実によって人と人のつながりを編み上げていく必然はなかったにもかかわらず、虚構によって人と人をつなげることが必然であるように外延的な意識は対象を粗視化した。それは同一性にとっては意識の自然であり必然だった。類い稀な天与の才をもつカルロもこの囚われのうちにあるようにみえる。
わたしの世界を了解する概念と物理学者カルロ・ロヴェッリのずれは歴然としているが、わたしからすると、カルロの考えに共感することもある。翻訳の邦題がよくない。『時間は存在しない』はイタリア語の原著では「時間の順序」」となっている。時間の順序と時間は存在しないはまったく違う。物理の対象とする自然には時間は存在しないが、日々を暮らす者にとって時間は存在する。カルロはそう言っている。むろん物理の自然と人間が知覚する生や暮らしは目が眩むほどに隔たっている。思考の慣性の粗視化が違うだけであって、物理的な表象のあらわれと人間であるという出来事は異なった粗視化の位相に存在している。物理の自然と人間としての自然はまったく異なる出来事を生きている。それがカルロのいう対象を粗視化する時間の階層ということだ。

そのことを承知のうえで言うのだが、わたしは自己意識のなかに時間の起源はないと考えている。それが集団的なものであれ個的なものであれ、なぜ意識が生じたのか永遠のなぞである。ここにもまた解けない主題を解けない方法で解こうとする方法的な錯誤がある。大脳生理学やAIを駆使してもなぞが解消されることはない。物理的あるいは生理的矛盾が疎外されて電子ノイズが生まれ、それを観念と名づけても、たんなる電子ノイズにすぎない観念が有意味化される理由がない。意識の発生をめぐってのさまざまな心身相関の試みも、解けない主題を解けない方法で解こうとして自縄呪縛に陥っているように思えてならない。おそらく自己についての自己の意識は人間の歴史のある段階で、生理過程の矛盾にすぎない電子ノイズが観念として疎外され、その電子ノイズが環界によって有意味化されるなかで擬制として仮構されたものだと思う。ベルグソンによく似たカルロ・ロヴェッリの音色のいい時間論もこの範疇に属しているようにみえる。

根源の性の内包的な表出は外延自然が可視化した自己に始原の遅れをともなって内包自然(じねん)として到達する。外延自然が内包自然を了解する始原の遅れのなかに意識の起源があると内包論で考えてきた。この始原の遅れのことを親鸞は他力や横超と名づけた。自己とは無関係に自己の手前から発せられた内包自然(じねん)は自己に遅れてしか知覚できない。外延自然が内包自然(じねん)を了解するずれに意識の起源がある。このずれが時間の本態なのだ。自己の自己についての意識を措定した上で意識の起源を求めても影が影の本体を踏むことができないように、自己についての意識をどのように緻密に外延しても、意識のなぞを、あるいは時間のなぞを解き明かすことはできない。物理学も例外ではない。もっと言えば、エントロピーの法則と内包自然(じねん)のあいだにはいかなる関係もない。

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カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』のおおまかな感想をまず言ってみる。たとえばパソコンのキーボードの上に手を置いて、椅子に座っているとする。そのとき机の上を流れる時間と床の上に置かれた足を流れる時間を比較すると、足元の時間のほうが机の上よりゆっくり時間が流れる。インターネットで数十万出せば買ってそのずれを正確に計測することができる。所変われば時間も変わる。このように書き始められている。冒頭の数頁を読んで驚倒する。面白い。なぜ物体は落下するか。思考の慣性はその物体を地球が引っ張っているからだと言う。万有引力の法則だ。ロヴェッリは思考の慣性を書き換える。地球の表面では物体はごく自然に時間がゆっくり経過するほうに向けて動く。じっとしていると時間はさっさと流れ、動いていると時間がゆっくり流れる。だから躓いたら転倒する。
時間の矢についても多くを割いているが、ホーキングの大きな影響をうけて、時間に方向がないことをエントロピーから説明する。このあたりになると心当たりがある。カルロはいったん時間が過去から現在を経て未来へと流れるという根強い思考の慣性を徹底的に解体し、プランク時間とプランク長の極微の量子の世界では時間が消え、消えた時間がどのようにして起源をもつことになるか出来事として語る構成になっている。

この本には不思議とニヒリズムの匂いがなく、最終章では時間の根源を自己の物語に求めている。物理の本質は感情にあるという言い方からはすぐに数学の本質は情緒にあると言った岡潔を想起する。時間は流れないという考えは、大森荘藏の時は流れぬと、論拠は違うがよく似ている。一言でいえばカルロはかれが対象とする物理の世界に表現論を導入した。これは稀有な出来事だ。物理学の分野の三木成夫みたいで、とてもユニークな思索者だと思う。

30年近く前に、アインシュタインとホーキングの自然について書いたことがある。その延長としてカルロ・ロヴェッリの考えの感想を言いたくて、引用しようとしたらあまりに長すぎるので、ごく一部を貼りつけ、『時間は存在しない』に接続する。なにを問題とし、それをどう考えようとしているのか、貼りつけた文章から少しは見えてくるのではないか。以下の引用とコメントは『内包表現論序説』所収「自然論」による。

ホーキングは宇宙の始まりが不可避的に抱えこむ特異点問題をつぎのようにして切りぬけようとした。所謂、宇宙の無境界仮説だ。

<古典的な一般相対論では、不確定性原理をとり入れていないので、宇宙の初期状態は密度無限大の点になります。そのような特異点において、宇宙の境界条件がどうあるべきかを決定するのは、きわめて困難なことです。しかし、量子力学を考慮に入れると、特異点が消え、空間と時間が一緒になって、境界も端もない閉じた四次元の表面を形づくるという可能性が出てきます。これは地球の表面のようなものですが、次元が二つ余分にあります。このことは、宇宙が完全に自己完結的で、境界条件を必要としなかったということを意味します。無限の過去における状態を指定する必要もなく、物理法則が通用しなくなる特異点も存在しないのです。宇宙の境界条件は、宇宙に境界がないということである、と言ってもよいでしょう。・・・このように、相対論は、時間と空間を時空というものに結びつけたとはいえ、完全に統一したわけではありません。時間はまだ独立した存在であり、線のようなものです。間もなく、どうすれば時間と空間を完全に統一して、時間から線のような性質を取り上げることができるのか、お話しいたしましょう。(略) 時間と空間を完全に統一するのに、量子論を使うことができるかもしれないと私たちが気づいたのは、たかだか十五年前のことです。これはつまり、時間が一次元的で線のような振る舞いをすることを取り除くことができるという意味です。>(『ホーキングの最新宇宙論』監訳・佐藤勝彦)

<佐藤文隆の「消える時間」を自然科学に拠って特異な時間の理念でおきかえようとしているのが、ホーキングの時間の始まりについての「無境界仮説」といわれるものである。アインシュタインの古典相対論では宇宙の始まりで密度と時空の曲率が無限大となって自然科学の言葉が意味をつくれなくなってしまう。この時空の特異点をホーキングは数学モデルを駆使して解こうとする。ぼくにはそれは数学の記号でかかれた詩のような気がする。ホーキングの「宇宙の境界条件は、境界がないということである」とはなんのことなのか。そこにホーキングの何が込められているのか。

ホーキングのいうことに船酔いしながら何度もイメージでつかまえようとして「三つの空間方向と虚時間の方向とがまるまったかたちで出会うことになります」というところでハッとしドキッとした。たしかに「それらは、地球の表面のように、閉じた面をかたちづく」ることになるな。ここまできてやっと自分が何にひっかかっているのかわかってきた。時間のもつ線分性をまるめる可能性をさがしてきたのだった。アインシュタインの着想した相対論が時空のからまった紐をほどき、ほどけた時空の紐をホーキングがまるめてしまった。すごい! もうれつな観念の飛躍だと思う。それが確定した理論かどうか、そんなことはどうでもいい。時間をまるめて境界のない始まりを自然科学思想が着想したことに驚く。

ホーキングは、なぜ「虚時間」を「私たちの住む宇宙をかたちづくる何か」であると言い切るのか。あるいは宇宙の経歴を記述するにあたってなぜ「虚時間や、時空がまるまって閉じているという考えに基づくものであることにかなり強い確信」が持てるのか。ホーキングとは何者か。この問いがわたしを船酔いさせる。初期宇宙の特異点を時空をまるめることで解消し、宇宙の始まりと終わりを円還させる彼の数学モデルが、じつは彼自身の姿にほかならないとしたらどうなる? おそらくそういうことのような気がする。ホーキングは自身の特異点を解くほかなかった。「いま・ここ」の離接をつなぐには時間のもつ線分性にケリをつけるしかない。それには時空をまるめてループにすればいい、宇宙には始まりもなければ終わりもない、わたしの想像のうちにあるホーキングはそう考えたにちがいない。アインシュタインがほどいた時空の紐を自分の生存の輪郭に沿ってまるめられるか、それがホーキングの「昨日の明日」を可能にするギリギリの表現のような気がする。もっときわどい言い方をするなら、時間についてのあるイメージがホーキングのなかにまず先にあって、数学モデルがあとからついてきたとさえいえそうな気がしてくる。そこを感じとれなかったらホーキングが挑戦する不敵なうまみをそこねてしまう。そうではないか。>

カルロ・ロヴェッリもたびたび取りあげる時間の矢についてホーキングはつぎのように発言している。

<時間とともに無秩序、つまりエントロピーが増加することは、いわゆる〝時間の矢〟の一例です。時間の矢は時間に方向を与え、過去と未来を区別するものです。第一に、熱力学的な時間の矢があります。これは無秩序、つまりエントロピーが増加する時間の方向を与えます。第二に、心理的な時間の矢があります。これは、私たちが感じる時間の経過方向です。過去は憶えているが未来は憶えていない、という時間の方向を与えます。第三に、宇宙論的な時間の矢があります。収縮ではなく、宇宙が膨張する時間の方向を与えます私の主張は、心理的な時間の矢は熱力学的な時間の矢で決定されており、これら二つの時間の矢は、いつも同じ方向を向いているということです。もし、宇宙に無境界仮説を当てはめると、二つの時間の矢は同じ方向を向いてはいないかもしれませんが、宇宙論的な時間の矢と関係づけられます。しかしながら、二つの時間の矢が宇宙論的な時間の矢に一致しているときにだけ、「なぜ無秩序は宇宙が膨張する時間と同じ方向に増加するのか」と問いかける知的生物が現われるのだと主張したいのです。>(『ホーキングの最新宇宙論』監訳佐藤勝彦)

ホーキングの時間の矢について昔つぎのように考えた。

<ホーキングが提起した三つの時間の矢についてのいちばん破綻のない意見はつぎのようなものになろう。心理的な時間の矢とは人間の思考の型そのものといってよいのだが、人間が〈考える〉ということは、大脳の生理過程がつくる時間の流れとのなんらかのズレに基づいてあらわれるものであるにはちがいない。もちろんこれだけではなんにもいったことにはならないが、はずれてはいない。また人間の脳を構成する原子や分子、有機化合物という物質は宇宙の膨張期につくられたものであることもはっきりしている。そうすると当然のこととして論理は次のようにはこばれる。宇宙に存在する物質のふるまいが熱力学の法則に合致するのなら、人間の脳を構成する有機化合物もまたエントロピーの法則にしたがうことになるにちがいない。人間のもつ観念の作用も脳の生理過程に基礎づけられるわけだから、脳の生理過程とのなんらかのズレによって生じる〈考える〉という人間の観念の作用が熱力学の時間の矢に沿うことになるのは必然である。つまり人間の心理的な時間の矢は宇宙論的な時間の矢と同じ方向をもつことになる。人間の思考が昨日を記憶し明日を憶えていないのはそのためである、と。けれどこの見解は論理としてあぶなっかしさがないぶんだけ心がおどらない。むしろホーキングが「無境界仮説」でみちびいた「虚時間」が表現する微妙なふくみが消えてしまうような気がする。

「熱力学的な時間の矢と心理的な時間の矢とが一致すると観測されるのは、知的生物が膨張期にしか存在できないため」とホーキングがいうのはなぜか。またそれはどういうことを指すのか。人間の観念作用の土台である脳の生理はエントロピーの法則にしたがい、また人間の身体のホメオスタシスも取りいれた食物の生体内化学反応によってエネルギーを発散するといえるのだが、このプロセスは熱力学の法則とはなんら矛盾しない。そして宇宙の膨張期にだけそのようなことが可能である、ホーキングはこういっていることになる。ホーキングの論理では心理的な時間の矢と、熱力学的な時間の矢はセットになって存在する。ここにホーキングの「無境界仮説」のスリリングなきわどさがある。宇宙論的な時間の矢と心理的な時間の矢や熱力学の時間の矢は一義的には対応しないことも考えられうるというホーキングの「無境界の境界条件」は衝撃的なことを仮説する。「宇宙の収縮期には心理的時間の矢は逆転する」というのだ。

そこでは明日がくるごとにおぼろになっていく世界があらわれる。なんだか悪い冗談のような気がする。昨日と明日が入れかわる、明日のような昨日があって、昨日のような明日が、明日がくるごとにおぼろになる、いや、それはこの世界で起こっていることによく似ていないか。それはともかく、ホーキング自身が講演で自分の考えが変わってきたことを認めている。ホーキングの「時間の矢」を理解する最大の困難がここにある。もちろんホーキングもふくめてまだ誰もうまくイメージ化に成功していない。こんな荒唐無稽なことを賢い数学の言葉が語りはじめたことが驚きで、それが表現の可能性なのだとわたしは感じている。そしてここからはわたしが勝手に空想するのだが、この衝撃的な仮説はホーキングの成功したブラックホールの蒸発理論の延長からきているのではないという気がする。それはホーキングの宇宙の記述をささえる数学モデルよりも、もっとふかい、ホーキングも知らない由来からうながされた何かのような気がする。ホーキングの生のたわみやしなりの表現として「無境界仮説」や「虚時間」を感じるほうが波瀾も躍動も夢もある。表現の比喩としてみれば、ホーキングの宇宙の始まりについての「無境界の境界条件」が流動的で確定していないぶんだけ比喩の余地があると考えてもさしつかえない。彼が量子重力理論で果敢に挑戦する「明日の昨日」は、キリスト教の精神風土に吹いた特異な風、ニーチェの永劫回帰だという気がした。知らないうちにホーキングに吹いた風を感じられたら、もうそれで充分だ。>

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ペンローズからホーキングへ、ホーキングからカルロ・ロヴェッリへと、量子重力理論は深化しつつある。むしろアインシュタインの思想が量子力学の進化のなかに呑み込まれつつあるようにさえみえる。ホーキングのためらいがちな時間の矢はカルノのゆるぎないエントロピーの思想によって強靱なものとなっている。エントロピーを認識の中核に置くと物理学が対象とする世界はどのように粗視化できるか。エントロピーと粗視化がこの本の中心命題だと言ってもいい。ユヴァルの『サピエンス全史』以来の刺激的な『時間は存在しない』をこのように要約することができる。まずこの本の中からとても好きな部分をスキャンして貼りつける。世界は出来事の重層的な重なりであるというカルノの野性の思考が息づいている。ふたつある。

<物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。>(98p)

<旧約聖書「ヨブ記」のヨブは、「日が満ちて」死んだ。じつにすばらしい表現だ。わたしもまた、「日が満ちた」と感じるときを迎えたい。そしてこの生涯という短いサイクルを、微笑みで締めくくりたい。それでも、生を楽しむことはできる。今まで通り、水面に映る月を愛で、愛する女性とのキスを楽しみ、すべてに意味を与えてくれるその女性の存在を喜ぶ。これまで通り、自宅での冬の日曜の午後を楽しむ。ソファに寝転がって紙に記号や式を書き散らし、わたしたちを取り巻く何千もの謎のなかの小さな謎をまた一つ捕まえられたら、と夢見るのだ。この金杯にあふれんばかりの生-優しくも敵対的で、澄み切っていながら計り知れず、予測不可能な生Iを今まで通り楽しめると思うと嬉しい。とはいえわたしは、すでにこの杯のほろ苦い中身を十分味わってきたのだが。今かりに天使がやってきて、「カルロ、もう時間だよ」といったなら、この文を書き終えるまで待ってくれ、といったりはすまい。天使を見上げてただ微笑み、その後に従おう。>(200~201p)

理論物理の研究者のだれがこんなことを言うだろうか。対象を感情の高まりのなかで考究すること。ペンローズにもこの傾向がある。ペンローズに言及しながら、時間の原始的な形態についても触れている。

<時間と空間について考え続けている科学者のなかでももっとも明敏な人物であるロジャー・ペンローズは、相対性理論はわたしたちが経験する時間の流れと両立しないわけではないが、時間の流れを語るには相対性理論だけでは不十分と思われる、という結論に達した。そして、相対性理論に欠けているのは、量子の相互作用で起きることの記述なのだろうと示唆している。>(137p)

<ある相互作用によって粒子の位置が具体化すると、粒子の状態が変わる。また、速度が具体化する場合も、粒子の状態が変わる。しかも、速度が具体化してから位置が具体化したときの状態の変化は、その逆の順序で具体化したときの状態の変化と異なる。つまり順序が問題で、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測ったときとは違う状態に変化するのだ。
これを、量子変数の「非可換性」という。なぜなら位置と速度の順序は「交換できない」からで、順序を換えると、ただではすまなくなる。この非可換性は、量子力学の特徴となる現象の一つであり、それによって二つの物理変数が確定する際の順序が決まり、その結果、時間の芽が生まれる。物理的な変数の確定は孤立した行為ではなく相互作用であって、これらの相互作用の結果はその順序によって定まる。そしてその順序が、時間的な順序の原始形態なのである。>(137~138p)

なぜ粒子の位置と速度は交換できないのか。カルロは観測者問題に批判的だが、原始的な時間の淵源となる非可換性を同一律が拘束するのであって、物理学が対象とする問題ではない。ある前提をカルロの思考は暗黙の公理としている。私たちは常にただひとつの瞬間に存在しているのであって、ふたつの瞬間に存在することはできない。岡潔はひとりのなかにふたつの心があることを数学で表現しようと果敢に挑み、表現できずに生涯を終えた。カルノの言うことは外延的な意識のありようでは真理だが、存在の複相性からは相対的な出来事となる。

またこの本はユヴァルの認識の骨格とほとんどおなじ認識の躯体をもっている。ユヴァルの共同主観的現実と虚構にたいして、カルロの集団的譫妄と個人の譫妄。あまりの類似性に驚く。

<わたしたちの思考はそれ自体のもろさの餌食になるだけでなく、思考の基となっている原理の強い制約を受けている。数百年もあれば世界は変わり、悪魔と天使と魔女の世界が、原子と電磁波の世界になる。幻覚性のキノコが数グラムもあれば、目の前の現実はまるごと溶け去って、まったく別の形で再構成される。統合失調症の深刻な症状に悩む友達とともに過ごして、意思を疎通させようと何週間か悪戦苦闘をしてみれば、譫妄(せんもう)という芝居がかった巨大な装置にも世界を演出する力があることがわかる。しかもその譫妄と自分たちの巨大な集団的譫妄-わたしたちが社会的精神的生活の基礎とし、この世界を理解する際の基盤としているもの-を区別する証拠を見つけることは難しい。>(204~205p)

ニュートンが西欧近代のあたらしい自然の概念をつくり、アインシュタインがその自然を革命し、一方でボーアらによって量子力学が勃興した。その後、新奇なアイデアが咲き乱れ、量子重力理論のつばぜり合いが続いている。もはや時間や空間でさえも量子重力理論の属躰と化している。カルロは言う。

<このようなタイプの理論(ループ量子重力理論のこと-森崎注)では、時間と空間はもはやこの世界の入れ物でも一般的な形態でもなくなる。時間や空間そのものが、時間や空間のことなど知りもしない量子力学の近似なのだ。存在するのは、出来事と関係だけ。これが、基本的な物理学における時間のない世界なのである。>(127p)

時空を量子力学のシミュラークルとみなすカルロが理論物理の核心を衝くので、内包論の枢要な概念を申し述べる。レヴィナスの言葉を借用する。

<自分を他なるものとみなす私の他性が詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかでもないこの他性が〈同〉の戯れでしかないからだ。自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一態様なのである。>(『全体性と無限』合田正人訳)

「存在するのは、出来事と関係だけ」という物理学の物語もまた同一性の戯れではないだろうか。(『時間は存在しない』の感想はまだつづく)

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