日々愚案

歩く浄土41:共同幻想のない世界3

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『世界の中心で、愛をさけぶ』で、いまわのきわのアキが「ここからいなくなっても、いつもいっしょにいるから」と言う。このときアキは朔であり、朔はアキである。アキのなかにはふたつのこころがある。朔のなかにもふたつのこころがある。
自己が領域である、あるいは領域としての自己とはそういうことだ。こころが身をかぎり、身がこころをかぎるという心身一如という生命形態をもったひとに宿った不思議。ふいに、ここがどこかになっていく。わたしはこの驚異を根源の性によぎられた分有者と名づけてきた。根源のつながりはだれのなかにもあるもので、縁(えにし)によっていきなり立ちあがる。まるで宇宙のインフレーションのように時空をこえて一気にふくれてしまう。そしてそのとき解放された潜熱によってビックバンが起こる。それ以降はわたしたちの知る性の歴史だ。

自然な基底として自己をつくり、内面化された自己がもうひとりの他者とあやなす世界をわたしたちは対幻想と呼んでいますが、この観念のあり方は制約だと内包論では考えます。自己同一性は内包自然が制約されてあらわれたものにすぎないのです。対幻想の本然は内包自然にあります。内包自然という知覚を基にすると対幻想は根源の性の分有者へと拡張されます。この領域はそれ自体であり、自己幻想と共同幻想の継ぎ目ではありません。いまでもひとびとは個人がべつの個人と性を媒介にしてつくる観念の世界を対幻想とみなしています。なぜこのような観念をわたしたちはかたどってきたのだろうか。おそらく初期人類の観念の立ちあげ方に淵源があるようにわたしは思います。

自己というあらわれもまたながい歴史の産物で、それほどたしかなものではないのです。わたしがわたしであることを内面化して他者と出会うのではない。それは同一性のなせる技です。わたしがわたしでありながら、つまりアキは朔だから、そのままじかに性なのだ。根源の性、あるいは根源のつながりといってもおなじですが、その根源の性の分有者が〔わたし〕ということの本然なのです。離接していても〔いま〕と〔ここ〕は分有されます。自己を領域として考えると、領域としての自己から間違いなくそのことは言いえます。
アキはそのままにそっくり朔だから、この世の三人称の関係はアキにとってあたかも二人称の関係のようにあらわれます。するとこの関係のあり方のなかのどこにも三人称(共同幻想)の存在する余地はありません。同一性の彼方の出来事が事実として存在します。わたしは思考の転換を要請しているのです。

わずか800年前ですから、ながい人類史からはつい最近のことですが、ひとりの革命者がこの国にあらわれました。思想を宗教のかたちでしか述べることのできないそういう時代です。
親鸞は苦界の衆生を前にして言いました。この世に悲痛なことはいくらでもある。この世は地獄かもしれぬ。だがな、と親鸞はそのただなかで言った。この世で生きるのが辛いと思っている者たちよ、あなたがたは「われら」なのだ。イエスも言った。貧しきものは幸いである、と。親鸞はただひとびとに言葉を投げかけただけである。親鸞の説法を聞いたとてなにが変わるわけでもない。親鸞はこの世のしばりは相対的なものであることを、浄土の言葉を使っていうしかなかった。
戦乱も疫病(現在ならがんか)も飢餓も、なくなる兆しのかけらもないそんな時代です。それでも浄土はただちに顕現すると親鸞は言う。どういうことなのか。
〔ことば〕はこの世のしくみを変容するのだ。それだけではない。〔ことば〕をよく写しとったつよい言葉は生きられる現実をつくる力があるのです。親鸞の言葉は竪の秩序をよこざまに破る還相廻向の言葉として言われている。親鸞の言葉が身にしみるとき、ここがどこかになっていく。そのことを親鸞は心の底から愉しんでいた。親鸞の言葉はずっしり軽い。

読者よ、心せられよ。わたしは個人の主観や我執や業の深さを自然へと融即することを勧めているのではない。自然へと融即することでこころの平安がえられることもある。いのちが共鳴りして輝くこともあるだろう。読者よ、しかと心せられよ。そういうことではないのだ。内面の劇を自然に同期してえられる安らぎがなにほどのものか。いらぬ。わたしの内包はもっとひりひりじんじんしている。

親鸞の言う仏心と衆生のあいだがらは、衆生ひとりひとりに、たとえば仏心と親鸞のつながりが、不可分不可同でかつ不可逆であることの驚きを伝えるものである。この極悪深重で煩悩のかたまりである親鸞をひたすらに見つめこの親鸞を救うてくださる。これが慈悲である。このとき親鸞の煩悩はなんの関係もない。それはすでに救われているというまったくの受動性で他力なのだ。その驚きが自然法爾なのだ。わたしに根づいている感覚なので深く諒解します。

親鸞が人々と語らうとき言葉は、「まわらぬ舌で初めてあなたが『ふたり』と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた(谷川俊太郎「ふたり」)、そのようなものとしてあったのだ。ここがどこかになっていく不思議な心ばえをひとびとにもたらした。わたしは親鸞の思想のさらなる拡張を目論んでいる。

宮沢賢治にも親鸞と似た感覚があった。

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。わたくしは、さういうきれいなたべものやきものをすきです。これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。(宮沢賢治『「注文の多い料理店」序』)

宮沢賢治は〔ことば〕を言葉によって生きたひとだと思います。この「序」はなんど読み返してもすきです。宮沢賢治が語る言葉はかれ自身も世の中もみな包み込んでしまっています。そしてどこにも残身がありません。言葉に欺瞞とすきまがないのです。かれはかれがつくる言葉そのものに成りきっています。そのなかにいてそこを生きている。断じてレイヤーではありません。かれそのものです。
わたしは吉本隆明さんの往相の知はつまらぬという考えと、吉本さん自身はうまく使いこなすことができませんでしたが、世界視線という言葉はいまでもすきです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、かれのなかにも世界視線という知覚があったことがわかります。石牟礼道子さんの『苦界浄土』の共鳴りの世界と一見よく似ていますが、宮沢賢治の世界とはまったくべつものです。

アキと朔というひとりの分有者に宿ったふたつの心性がどういうものであるかの探索をつづけます。共同幻想のない世界をめざして「歩く浄土」の旅はまだまだつづきます。

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