日々愚案

歩く浄土36:共同幻想論の拡張9

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グローバリゼーションによって民主主義が国境を越えて猛烈に拡大していると現状を判断しています。民主主義は経済力を基盤とします。強い経済力をもつ勢力が弱い経済力の勢力を駆逐します。わたしたちの知る民主主義とはそういうものです。大勢を統治するシステムとして、それは国民国家でも超国籍企業でもいいのですが、強者が弱者を平定します。このとき理念としての民主主義はこの圧力の前に無力です。わたしたちはそのことを日々の実感として生きています。政府を批判する者らから、国民は安倍の悪政になぜ異議申し立てをしないのかと本音が漏れます。この考えは徹底してダメだと思います。彼らは民主主義の危機を役割人間という立場から、痛くも痒くもないところから、社会的な発言をします。見飽きた光景です。

大半の人は目先の実利でしか動きません。複雑なことを考えるのは面倒だからです。自己保存の戒律としてそれがいちばんわかりやすいからです。生の不安がど真ん中にあります。反政府を睥睨する者らの安易な口先の批判で現実は変わらないということを皮膚感覚で知っています。小手先のやり方ではなにも変わりません。電脳社会という産業革命の只中にあっても。人類史という規模の思考の転換が要請されている、わたしはそう考えています。

世界はカオスに支配されている、善は幻想で、人類は天然の構造物であり、なんの意味もない。というのは違う、ということを内包論は主張してきました。内包論をわたしは実利として考えています。実利のある思想として。人々が生きているこの世の実利よりもはるかに強力だと思っています。

わたしたちの知る民主主義は勝者のシステムです。社会が安定的に収益を産むことを前提としたトリクルダウンのシステムです。民主主義において未完であるのは人間という概念の未達でありその脆さです。回収することのできない自己という特異点を残したまま自己というものを衆へ回収するシステムが民主主義です。このことをめぐってはこの国で消費社会が興隆するとき、ルールとモラルや、私性優先か、公共性優先かとしてお節介な論争がありました。政治と文学をめぐる論争もすべてこの範疇にあります。いうまでもなく国内の中流はあっというまに没落し、国民国家はグローバルな勢力から全面的に改変されつつあります。それがTPPです。ときどき覗く孫崎享が「TPPは経済・社会活動のほぼ全てを網羅。ISD条項で国家主権を侵す内容を含みながら内容を何故、国民に非公開で、合意?。国民に知られたら困るから」(2015年5月6日)とツイートしていました。その通りだと思います。

コストパフォーマンスのよい収益を図ることと民主主義は矛盾しません。民主主義は勝者の統治のシステムです。国民国家やそこでの商慣行はグローバリストからみると営業の効率と収益からは非関税障壁となります。国民国家の経済力も文化力も電脳社会の利便さに対抗できません。いま進行しつつある世界の全面的な再編成をわたしたちの手持ちの理念で迎え撃つことはできない。若者はつべこべいわずTPP後をすでに生きてます。文化言説は時代錯誤をしています。文化言説もまた非関税障害です。
ユニクロの柳井正というオーナーの唱える同一労働・同一賃金は民主主義と矛盾しません。国家の枠を取っ払ったところでは同一労働・同一賃金は開明的ですらあります。国家という風土のなかで培われたふくざつな商取引の慣行はグローバリストにとって邪魔です。世界に自由な競争のしくみを導入することは不正なことだろうか。竹中平蔵が正規雇用をなくしてすべて非正規雇用にすればいいという考えは間違っているのだろうか。

電脳社会が世界をフラット化するのは不可避です。できあいの理念で反対しても勝ち目はありません。いまはまだその一端を見ることしかできないが、ある雄大な試み、いくつもの時代にまたがる言葉の大事業を考えています。それは同一性を超えるOSをつくるということです。内包論はそれをめざしている。
身の回りのことをふり返ってもグーグルやアマゾンをよく利用します。パソコンのディスプレイの両横にスピーカーを置いてユチュブで好きな曲をPCラジオのようにいつも聴いています。CDプレーヤーを使うことはまったくなくなりました。CDも一度リッピングすると再生できます。便利です。
佐々木俊尚さんのレイヤーの世界はどんどん実現していきます。善悪も好悪の余地もないのです。新しい自然がすごい勢いでできつつあります。その自然に沿って生も再編成されます。もちろん人権の理念も改訂されます。この流れは不可避です。ここであたらしい自然は天然自然に対置された人工的自然のことです。このながれは人々の生の貧血を加速することになります。考えることがあるとすれば、天然自然でも人工的自然でもなく内包自然をつくることです。

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4半世紀まえはドラゴンボールに勢いがありました。親子の会話におおいに貢献しました。バブル経済とバブル言説をはさんで10年間怒濤の進撃をしたのです。
そしていまは『進撃の巨人』です。時代を象徴しています。
日本人の民度が低いと侮蔑の眼差しを向けるひとたちは選挙権の行使を強制すべきだし、選挙に行かないなら選挙権を召し上がるべきだと言います。バカか、と思います。いい歳になっても学級会をやっています。こいつらは安倍晋三、柳井正、竹中平蔵なみに鈍感です。わたしはこういう奴らには与しません。

それで『進撃の巨人』。この物語を作っているのは作者でも編集者でもなく、この時代です。イスラム国もネオコンも登場人物のひとりです。イスラム国のカリフ制という擬制とそれを鎮圧する勢力も同一性という基本ソフトの上を走るアプリのひとつです。電脳社会をハイテクノロジーと金融工学に象徴させるとすれば、負け組の勝ち組への総反乱が『進撃の巨人』の基本イデーです。物語は大団円を迎えることができるか。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』は暗い結末でした。ここを超えることができるか。固唾を飲んでみています。
たくさんの好きなマンガがある。吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』『BANANA FISH』『海街diary』(ぜんぶ凄いです)も、井上雄彦の『スラムダンク』も『バガボンド』も、中村光の『聖☆おにいさん』も、二ノ宮和子の『のだめカンタービレ』も、石塚真一の『岳』も、ああ、書き切れない。みんないいです、凄くいいです。坂口尚の『石の花』なんか読まないと損です。と書いてきて小説で生きているうちに読まないと損するよ、というの、少ないです。

好きなたくさんのマンガのなかで『進撃の巨人』は異質です。シリアスなんです。岩明均の『寄生獸』とも違います。『ヒストリエ』もいいですね。ここまできたら諸星大二郎。先史時代の息吹を知りたいと思ったら『西遊妖猿伝』。凄すぎます。
諫山創の作画は異様で人目を惹きます。それだけではないのです。ストーリーがガチで真面目なのです。マンガの大河革命小説です。松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」のような狂おしさがあります。それにしてもあの巨人ヘンです。

ミカサの回想の場面。
ミカサは小さい頃に両親を惨殺され誘拐されます。幽閉されているところに道に迷ったエレンが訪ねます。犯人とのやり合いがあるのですが、首を絞められたエレンは、身が竦んでどうしていいかわからず逡巡するミカサに言います。

戦え!!戦うんだよ!!
戦わなければ勝てない・・・

長い物語の筋はおおかた忘れましたが、不思議にこの台詞は覚えている。気持ちの悪い巨人の挙動と、エレンたちが発するそのときどきの凜乎とした言葉。これが多くの読者を引きよせる魅力の源のような気がします。巨人は科学の精密化と細分化が生んだ現代のフランケンシュタイン、奇形児ということになりそうです。これはわたしたちの生きている現在そのものの象徴ではないか。

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吉本隆明の『共同幻想論』のなかにある「対幻想論」を読み返してあらためて凄い思索力だなと感嘆しました。なぜこの透徹した思想が生まれたのか。無条件降伏を受諾し敗戦後を生きた吉本隆明に、総力戦の歪みのエネルギーの応力として生まれたように思う。いま読んでも驚きます。凄い思想です。日中・太平洋戦争の惨禍の歪みへの反力として吉本隆明の社会思想が産出されたわけですが、戦後の擬制を撃つことに執心するあまり、かれに内在した生の不全感と社会を総体においてつかもうとするかれの衝迫感はしだいに乖離していきます。消費社会に勢いがあるとき若者の風俗がおおきくかわりました。そのころはわたしも若造でした。このころ吉本隆明は性についてつぎのように発言しています。

 僕は無意識のうちに、まずはじめに原型があると考えていて、それがどうにもモデルが存在する余地がなくなってしまったと言われれば、原型が先にあったんだが、いまはもう壊れていく段階に入ってしまったんだという考えをしてしまいます。
 規範を設けることが意味がないんだということなんでしょうが、原型が通用しないで壊れてしまうある過程に入ったんだという理解のしかたをすると思います。そうすることで、壊れ方自体も、どっかではちゃんと押えて分かっていけるという幻想が、ぼくのなかにあります。
 これは一種の論理癖といいましょうか。そういうものにかかわってくると思います。それからどうなるかは決めることもできない、という問題かもしれません。これは壊れていく過程のどこかに位置づけられることができるのではないでしょうか。
 エロスの問題でも、対幻想の持続ということについては、もはや壊れる段階にきていてどうしようもないんじゃないか。でも、どう壊れていくかを追跡するのは可能ではないかという観点をとります。(「エロス・死・権力」『オルガン4』竹田青嗣との対談での吉本隆明発言より)

この認識の前提には吉本さんが若い頃、三角関係に呻吟して生死を賭けたという体験があります。消費社会が勃興するなかで、若い世代の性の意識が三角関係とか、ひとりに決めるとかそういうことが希薄になり、多角関係をもつようになったという感受があります。すでに吉本隆明は性を俯瞰しています。そのことに強い違和感をもちました。若い人達の対のゆらぎを吉本さんは感じ取れなくなっていたのです。外側から触っているのです。わたしは対幻想が自身にたいして表現をなしたと考えた。
六本木のインク・スティックで原マスミのライブをみたことがあります。びっくりしました、こんな男性がいることに。パソコンに眠っているむかし書いた文章を貼りつけます。

 1985年5月に始めて原マスミのステージをみた。
 そのときの感じた不思議な不思議な感覚は鮮やかにのこっている。ぼくのまわりのどこにも原マスミのような男はいなかった。ぼくはロックが激しく好きなので、この手の音に接することはあまりないけど、ぼくにとって原マスミのライブは不思議で新鮮な衝撃だった。いまも原マスミの音に触れたときの感覚はうまく言葉にならない。

 歌詞だけでは原マスミの雰囲気はつたわらない。レコードの音でもつたわらない。ライブで体験しないと、ホント不思議な不思議な、なんともいえない原マスミを包んでいる情感は感じられない。
 原マスミの音はぼくが感じる〈性〉にいちばんピッタリくる気がする。でもどうしても音と歌詞が切り離せない。もちろんここにどんな〈性〉の普遍性もないとおもう。そんなものは必要ない。
 ぼくが原マスミのパフォーマンス、表現することに、〈性〉を感じるということのどこにも嘘はない。吉本ばななさんが原マスミの大ファンということわかる気がするな。こんなひとが生きているということがぼくにはとても不思議だった。
 ぼくがここで感じた〈性〉は吉本さんのいう〈性〉とまるでちがう。そのことが言いたいのだ。
 原マスミが〔君の長い髪の毛を通り抜けていく/その風のいきさきが/あの不思議の国だと聞いたから/ボクもできるだけやさしく、/できるだけそっとやさしく、/君の髪の毛を撫でてみる。//君は、石鹸の泡の中から生まれ出たアフロディーダだ。/ケガレの書き順を知らないんだね/花言葉しか知らないんだね/〕(「ズットじっと」)〔抱いてやらなきゃふるえるほそいその肩、/また ゆうべみたいにしようよ/ボクを 「グニャグニャ」にして/青白くひかるその足腰 君 天使にそっくり 天使にそっくり〕(「天使にそっくり」)と唄うことはけっして生理としての「男」を意味していない。このことがわかるということはすごく肝腎なとこだとおもう。「ボク」と「君」が関係していることが性なのだ。原マスミの音をぼくはそう感じた。

 この〈性〉の感じ方は、吉本さんが「ハイ・エディプス論」でいう男性や女性の規定とずいぶん違います。

フロイトの影響が強いんですが、女性が養うのはもっと限定していうと授乳するということでしょう。食べることのなかに授乳という体験がはいっている。それがまず人の最初の体現だといえます。女性は、その期間だけは-授乳の期間、つまり「養う」ということの一等最初の体験というところでは-、男性だといえますね。つまり、片方は養わなければ乳児は死んでしまいますし、また、この部屋から向こうの部屋にいくことでも乳児はできない。それもまた女性が連れていかなければならない。つまり、おおよそ食べ物もその他も含めて、生命ということにたいして女性はその時期男性的です。授乳期における母親は心理的にいえば男性的になっている。逆に、授乳されるところから、女性がはじまるといえば、そのときの女の乳児は女の乳児です。男の乳児も心理的には女の乳児です。女の乳児は生理的にも女の乳児、心理的にも女の乳児です。その体験がちがいます。また母親としての女性からはじまるとすれば、授乳期の子供との関係では母親は女性ではなくて心理的には男性で、その時期に女性は両性を具有する短い―一年未満でしょうけれど―体験をしちゃいます。そこは女性の特殊性で、男性とちがうところでしょう。

核心は男女の対意識の醒めたまなざしや淡白で多角的な分散というあらわれのうちに、実現された(されつつある)男女の対意識の高度な表出性をみることが可能だということである。指示表象に撹乱され、男女の対関係が「壊れる段階」に入ったと考える理由ははどこにもない。単一か分散かになんの核心もない。単一であれ分散であれそれらを高度な表出性のうちに実現する対の内包像というものが現実に可能だということにドキンとすべきなのだ。醒めたまなざしや淡白で多角的な対の関係意識という指示表象はじつは外側から表層をなでているにすぎないのであって、ひとたびその表層を内在化しうる視線を可視化すれば、そこはまた熱をもった核である。この核にはあらたな男女の関係の表出性が崩芽であれ熱くながれているのだ。ぼくはそれをじかに感じる。やっと現在がそれを可能にしつつある。

社会の高度化と変容に吉本隆明の思想は対応できなくなっていた。わたしは当事そう考えたのです。意識を外延化するのではなく自己も社会もまるごと内包化すればよかったのだと思います。そうすればかれのイメージ論はふくらんだはずです。そうしないかぎり生は貧血し、生の不全感をのこしたまま社会をつかもうとしても思想は痩せます。俯瞰する権力にしかなりません。吉本さんの思想の根っこにはニヒリズムがありました。そのなかにいてその信を解体する言葉を吉本さんはついにみいだすことができませんでした。もし吉本さんにその言葉があったらその言葉の場所から豊穣なイメージで社会を語ることができたのです。

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吉本さんは、イメージ論で「転向」した頃に対の原型が壊れる段階に入ったと語りましたが、ドゥルーズ=ガタリはn個の性を主張しました。平板でつまらない考えです。

一つの性が存在するのでもなければ、二つの性が存在するのでさえもない、そうではなくて『n個の性』が存在するのだ。

愛をかわすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもない。そうではなくて何千何万になることなのだ。(『アンチ・オイディプス』)

ドゥルーズが『情動の思考』を出した頃に書いた文章はいまも好きですが、ここで言われていることは読み返しながら恥ずかしいです。言葉が浮いています。個人を社会化するとこうなるという典型です。ガタリの俗物性からきているのではないかと思います。ドゥルーズが『情動の思考』で語っていることはいいです。ドゥルーズの性の感覚は好きです。

愛とはむしろ、この個の心を〈自我〉に仕立てあげるものである。与えられるべき、また得られるべき何かとなり、愛すること、また愛されることを欲するのは、まさにこの自我なのである。自我とは〔意味、意義を求めるところに現れる〕一つの寓意であり、像であり、〈主体〉であって、真の関係ではない。自我は関係ではない。それは一つの反映であり、主体をつくるあの小さな閃き、あの眼に浮かぶ勝ち誇った閃きにほかならないのだ(《あのいやらしい小さな秘密》と、ときにロレンスは言っていた)。太陽を崇拝したロレンスだが、それでも彼は草葉の上にきらめく太陽の閃きだけでは関係はつくれないと語っている。彼はそこから絵画や音楽に対する一つの見解をひきだしたのだった。個をなしているのは関係であり、自我ではないのだ。おのれをひとつの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他のさまざまな流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること。希少性さえ、涸渇さえ一つの流れなのであり、死でさえも一つの流れとなりうる。「性的」といい「象徴的」というのも(実際〔ロレンスにとって〕これは同じことである)、まさにそうした生の流れの中の生、流れとして生以外の何ものも意味していない。自己のもつ譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。このすぐれて流動的な、うち震える部分をこそ獲得しなければならないのだ。

(略)

この生きて流れている、流れが結び合う世界を私たちは抽象して、主語〔主体〕、目的語〔対象〕、述語、論理的諸関係からなる、生気を欠いた複製の世界をつくりあげた。私たちはそうやって審判〔判断〕のシステムを抽出してきたのだった。問題は社会と自然、人工的と自然的とを対立させることにあるのではない。人為かどうかなど大したことではない。自然の生身の関わり合いがただの論理的関係に翻訳され、象徴がただのイメージに、流れがただの線分に翻訳されるそのたびに、また生きたやりとりがただの「主-客」の関係に切り抜かれるそのたびに、世界は死ぬのだと、私たちは言わなければならないだろう。そしてそのたびに衆の心、集団の心もまた、民衆の自我のうちにせよ、専制君主の自我のうちにせよ、一個の〈自我〉のうちに閉じ込められてしまうのであると。(『情動の思考』(52~55p)

おなじことをドゥルーズは『フーコー』でも言っています。

あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは〈一つ〉を二分することではなく、〈他者〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ。それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。

ヘーゲルの思考法を離脱してよくここまでくることができたなと思います。レヴィナスとおなじようにドゥルーズも〔わたし〕と〔あなた〕が離接していると言います。それは〔わたし〕と〔あなた〕が不一不二(不可分・不可同)ということです。よくわかります。しかし、「私が、私を他者の分身として生きる」という考えでは、自我の根を抜くことも、「衆」への融即を拒むこともできません。かならず「流れ」は内面化し、反力で「流れ」は社会化されます。領域としての自己はそれ自体であって、「何千何万」という意識の外延化とは次元が違います。サルトルは息を引き取る前に「私は人民を信じている」と言ったそうです。愚かなことです。
自我が自身を他者の分身として生きることで開かれることはありません。ドゥルーズの「衆の心」や「集団の心」は共同幻想ということになりますが、他者の分身として生きる自己も結局は「衆の心」や「集団の心」と同期します。ヘーゲルの思想にたいするカウンターとしてドゥルーズの思想があることはよく理解できますが、言葉が立っていません。根源のつながりの分有者と、「私が、私を他者の分身として生きる」ということはまったく違う出来事です。そのことがドゥルーズにはわかりませんでした。ドゥルーズの差異という概念では同一性の根を抜くことはできないのです。

吉本隆明は擬制に巣くう馬鹿者どもを撃つのに忙しくてじぶんのなかの虚ろをそれ自体としてつかみだすことがありませんでした。いちども同一性を疑うことはなかったのではないかと思います。思考は西欧的で情緒は日本的だったように思えます。世界の無言の条理が現前するもっと剥きだしの世界を生きれば気がついたかもしれない。親鸞の他力は見事です。吉本隆明さんは生涯、親鸞の思想を追跡し、理解しようとしましたが、他力をうまくつかめなかった。
ドゥルーズは同一性の謎に挑み、同一性の枠組みを崩せなくて、疲れて果てたように見えます。それぞれの未然を内包は引き継ぎ拡張しつつあります。いまわたしは同一性の淵源にさわっています。吉本隆明の思想にもドゥルーズの思想にも、あとひとつなにかが足らなかったのです。わたしが考える同一性の彼方はあまりにシンプルなことで知性とは関係ないのです。知性ではなく知覚です。

自己を陶冶することは自己愛ではない。他者を配慮することは人権ではない。自己の陶冶と他者への配慮が傾かない、権力のない生のありようは、内包で可能です。なぜ可能か。消費社会が全面化しようと超格差社会が現前しようと、たましいの深さと総量は不変だからです。内包は内面化することも社会化することもできません。消費によって使いべりすることも、報酬によって減価することもありません。自己という内面と社会を包むもの。根源の性と分有者。外延表現でいえば「領域としての自己」。この知覚は内面とも社会とも次元の違うことです。だから社会がどうなろうと、わたしたちの生は可能性そのものとして開かれています。歩く浄土は、いつも、いま、ここに、あります。

〔追補〕

なぜ無効なる観念が、逸脱として、いちばん本質的なのかといえば、逸脱でないものと、ハーモニーがあるといいましょうか。ある共鳴性、一致性があるからなんだろうなとはおもいます。ごく自然に知の輪郭と、生活の輪郭とが一致した逸脱のなさと、〈無効性の観念〉とは、そこでなら共鳴を生じるでしょう。(『<信>の構造2』)

シモーヌ・ヴェイユの考え方があります。ヴェイユは、神を信じるというのは、神を信じないことよりも下位にあるという考え方だとおもいます。(同前)

無効なる観念に執着する吉本隆明がいて、ヴェイユの考えは、神を信じるというのは、神を信じないことよりも下位にあると述べています。奇怪な観念です。ここでの吉本隆明の考えのわかりにくさは、問題の核心をつかめなくてかれ自身がどうどう巡りをしているところから発せられた言葉だと理解しています。吉本さんはかなり混乱しているように見えます。吉本隆明の思想の方法では決して解けない思想上の問題を解けない方法で解いているようで痛々しくなります。少しも概念の輪郭が見えてきません。言葉に言葉を重畳しているだけです。じぶんでしゃべりながら手応えがなかったと思います。虚しいのではなかったか。

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