日々愚案

歩く浄土34:共同幻想論の拡張7

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    1
夜、ニール・ヤングを聴いていると、胸が張り裂けそうになることがある。そういうことないですか。

わたしの内包や内包自然に谷川俊太郎はさわっている。「まわらぬ舌で初めてあなたが『ふたり』と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた」(「ふたり」詩集『女へ』)「誰も名づけることは出来ない/あなたの名はあなた」(「名」同前)

『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一)でもおなじことが言われている。

「いま重大なことに気がついた」
「今度はなに?」窓の外を見ていた彼女は、億劫そうに振り向いた。
「アキの誕生日は十二月十七日だろう」
「朔ちゃんの誕生日は十二月二十四日ね」
「ということは、ぼくがこの世に生まれてからアキがいなかったことは、これまで一秒だってないんだ」
「そうなるかな」
「ぼくが生まれてきた世界は、アキのいる世界だったんだ」
 彼女は困ったように眉を寄せた。
「ぼくにとってアキのいない世界はまったくの未知で、そんなものが存在するのかどうかさえわからない」
「大丈夫よ。わたしがいなくなっても世界はありつづけるわ」
「わたしは朔ちゃんが生まれるまで待ってたのよ」やがてアキが穏やかな声で言った。
「朔ちゃんのいない世界で、一人で待ってたのよ」
「たった一週間だろう。ぼくはいったいあとどのくらい、アキのいない世界で生きていかなければならないと思う?」
「時間の長さは、そんなに問題かしら」彼女は大人びた口調で言った。「わたしが朔ちゃんと一緒にいた時間は、短かったけどすごく幸せだった。これ以上の幸せは考えられないってくらい。きっと世界中の誰よりも幸せだったと思うの。いまこの瞬間だって……だからもう充分だわ。いつか二人で話したでしょう、いまここにあるものは、わたしが死んだあとも永遠にありつづけるのよ」(153~155p)

「いまここにあるものは、わたしが死んだあとも永遠にありつづける」とはつぎのことだ。

「わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、彼女は言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからもありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」
「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。
「ええ、そう」 アキは領いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」(129p)

「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
 ぼくは力なく首を振った。
「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」
「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけ口にすると、
「待ってる」 アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」
「わかってる」
「またわたしを見つけてね」
「すぐに見つけるさ」(160p)

アキがいう「なんだか、ここがもう天国」。「いつも一緒」。これ、内包の感覚です。歩く浄土です。個人の内面に起こっていることとはまったく違います。それ自体としての領域です。この世の倣いではすぐに同一性が回収して内面化されますけど。
内面化された観念をわたしたちは対幻想と呼んでいます。内包の知覚は対幻想とは違います。それ自体です。谷川俊太郎の「あなたの夢の中に立っていた」のはだれか。「私」ではない。この内包の感覚を同一性で刻むことができますか。できません。原理的にできません。そういうことをながく言ってきました。

    2
内包論からマルクスの言葉を読み解きます。ズレに愕然とします。

人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質かが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間に対するもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されてる。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係になかに示されているのである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』129~130p:傍点と独語は略)

男性の女性にたいする関係と人間の人間にたいする関係は次元が違います。個人としての人間の自然にたいする関係も、性の関係とはまったく違います。
だから吉本さんは自己幻想と対幻想と共同幻想をつくったのでしたが、吉本さんの対幻想も自己と共同性の媒介として扱われています。マルクスの考えも吉本さんの考えも内包論とちぐはぐです。ふたりともモダンです。

吉本隆明は「マルクス伝」で言います。

 ここでとりあげる人物は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。(吉本隆明全集撰4『思想家』329p)

偉大なマルクスも市井の人の生の価値もおなじだと断言する吉本隆明の言葉は小気味よくていまでも好きです。そのとおりだからです。問題はその先にあります。

 たとえばこういう文句がある。

 人間の普遍性は実践的には(〈自然〉や〈社会〉への働きかけという意味では―註)まさに、(一)直接的生活手段である自然についても、また(二)彼の生活活動の材料、対象、道具である自然についても、全自然を彼の非有機的肉体とするという、その普遍性のなかにあらわれる。

 死は、個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、またそれらの統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきものである。

いずれも、『経済学と哲学とにかんする手稿』にある言葉だ。人間の普遍的な性格が、自然との関係でどうかんがえられるか、個人としての人間が、生誕しそして死ぬというかたちでしか繰返されないのに、人間の類(人類)という概念がなぜなりたつのかを、鮮やかに、だが〈自然〉と〈死〉とに偏執したかたちで徹底的に云いきっている。ここにマルクスの(自然〉哲学の根源がよく象徴されている。(同前 290~291p)

エイ!エイ!オー!と言いたくなります。すきまだらけの言葉です。マルクスも吉本隆明も個人と共同性(類生活)を扱う手法や息づかいがおなじです。国家がなくなっても家族はなくなりません。なぜなら家族という自然にそのつど未知の内包自然を繰りこむことで家族が更新されるからです。家族が永続することは自然ではなく内包自然に根拠があります。内包自然は根源の性がくびれた一対の分有者です。外延論の世界(つまりこの世)では領域としての自己になります。内包自然という性はマルクスや吉本隆明の性とは次元の異なる地平まで到達しつつあります。いやすでにあたらしい表現の場所をつくっていると言うべきか。

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