日々愚案

歩く浄土33:共同幻想論の拡張6

51rq15fR+sL__AC_US200_
    1
親の子であるわたしは家族の一員である。これは自然です。この家族をかりに天然家族と呼んでみる。あるとき未知の他者に惹かれ対をなし、子の親になるのは自然か。血縁からいえばこの親子は自然です。ではもともとは赤の他人である夫婦は自然か。
こうやって順次、そのつど、一対の天然ではない自然をふくみながら家族は連綿としてつづいていきます。家族が連続するごとに一組ずつ未知の他者が組み込まれます。わたしたちはこのことを自然として受容していますが、ほんとうにそうでしょうか。
わたしは血縁を介さないある個人がべつのある個人と出会い対となるのは内包自然だと思います。ここに多くのことが隠れています。わたしは対幻想の本態を内包自然だと考えるようになりました。

あるひとりの個人がべつのある個人と惹かれあいペアをなすときそれは自然ではなく内包自然なのです。それは対という外延表現を自然的な基底とする対幻想よりひろがりと奥行きのある概念です。しかしわたしたちは万余の世代そのことに気づかずに暮らしてきました。
内包論で根源の性や根源の性の分有者や還相の性という概念をつくってきましたが、家族が天然自然か内包自然なのかということについて、わたしのいくつかの概念で、それがどういうことであるのかつなぎ合わせていきます。

個人の実存のなかで根源の性、あるいは根源のつながりが冬眠や休眠している。そのかぎりでその個人がそのことを意識することはふだんはありません。そのようにわたしたちは生きています。ふとある縁(えにし)によってわたしたち個々の実存が破られることがあります。それは間違いなく同一性を超える体験だ。ある縁(えにし)があると、だれもがメビウスの輪になった生を生きることになります。このことは同一性を前提にしたりくつでは説明がつきません。そのとき同一性は破られているのに、わたしたちそのことに気づかずに、同一性の彼方をその刹那ふたたび同一性に封じ込めるのです。そして同一性の彼方の経験があるにも関わらず、互いに個人から性へと向かうのです。この世界のことを吉本隆明は対幻想と規定しました。

なぜ吉本隆明は共同幻想のない世界をつくることができなかったのだろうかとよく考えます。かんたんなことかもしれないのです。吉本隆明の自己幻想も対幻想も同一性に閉じられていたからです。あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという願望をもつことはいいのですが、自己幻想という自然も共同幻想という自然も同一性を基準にするかぎり、ふたつの自然が逆立することや対立や背反することはありません。原理的にできないことを吉本隆明は言っているのです。
吉本隆明が自己を領域として、あるいは対の内包を生きたならば共同幻想論は書かれなくてもよかった。国家は消滅すべきだと力こぶをつくって言わなくても、国家のできない人と人の関係のあり方が可能だったのです。
内包論をていねいに考えていくと、世界はゆるやかな親族のようなものとして輪郭をあらわしてくることになります。それはわたしたちが生きているこの世のしくみでは、自己を領域とする理念によって可能となることのように思います。
吉本隆明の思想を対手とするのか。そんなことはない。生を陽気にすることのない思考の型との戦いだ。わたしはひとりで戦っている。

    2
そこにいてそのなかを生きた好きな言葉があります。数学の本質は情緒にあると言った岡潔です。

 よく人から数学をやって何になるのかと間かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」であって、平生の喜びは甘さが淡く、生甲斐(生命の充実感)である。(『春宵十話』)

この感覚はカザルスとおなじです。岡潔は数学に没入した。そしてそこを生きたのです。こういう感覚は好きです。そしてすごいことを言っています。

 数学において自然数の一とは何であるか、ということを数学は全く知らないのである。のみならず、ここはとうてい手におえないとして、初めから全然不問に付しているのである。数学が取り扱うのは、自然数の全体と同じ性質を持った一つの体系が存在すると仮定しても矛盾しないか、という問題から向うのである。幾何学の点についても同様である。(『春風夏雨』)

そのむかし岡潔とおなじことに気づきました。以下むかし書いた文章を貼りつけます。
コピペを飛ばして読んでもあとの文章とつながります。

:::::::::::::::::::::::
苦海と空虚はある事態の別様のあらわれではないか。主観的に苦海にあるビンラディンはともかく、アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』でいう「凡庸な悪」とおなじものがブッシュの阿呆面のなかにある。自己が空っぽに感じられ、生が無意味なものかのようにあらわれる事態のことをニヒリズムと呼んでみる。言い換えると人々は数千年の凄まじい歴史の果てに空虚という境涯を手にしたことになる。あるいは内面と社会が矛盾してあらわれるとしたら、それは〈じぶん〉という一人称のつくりかたが狭いからだというのが内包論が考えようとしていることだ。たしかに、貧困や不遇や社会的失敗というルサンチマンが観念の起源ではない。しかしどうじにこれらのいずれにも還元不能な「自分の中には何も無いという発見」に観念の起源があるのでもない。存在と存在者、あるいは無意識と自我という意識の範型を根拠とするかぎり、自同律を反復しようと反発しようと、生が根柢でかかえる不全感からはまぬがれえぬということが重大事なのだ。
ヘーゲルは「有論」で言う。

純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜならそれは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである。

はじめにおいてわれわれが持っている無規定なものは、直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ。われわれはそれを感覚することも、直観することも、表象することもできない。それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれははじめをなすのである。

しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、まったく媒介なしに存在しているような純粋な有ではなくなってしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、全くの無規定性であるからこそ、それは無なのであり、・言いあらわしえないものなのであり、それと無との区別はたんなる意向に過ぎないのである。

補遺
有と無の区別は、区別があるはずだという区別にすぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、まだ定立されていない。区別と言うからには、そこには二つのものがあって、各々他方にはないひとつの規定を持たなければならない。ところが有はまったく無規定のものにすぎず、無もおなじである。したがって両者の区別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、まったく抽象的な区別であって、同時になんら区別でないものであるその他すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のものがある。例えば二つの異った類という場合には、類が両者に共通のものである。これに反して有と無の場合には、これら二つの規定はいずれも同じように土台を持たないのであるから、その区別には土台がなく、したがってそれはなんら区別ではない。

もし有と無とはしかしどちらも思想であるから、思想が両者に共通なものではないか、と言う人があるとすれば、その人は、有は特殊な、規定された思想ではなく、全く無規定な、それゆえに無から区別することのできないような思想であることをみのがしているのである。―次に人はまた有を絶対の豊かさ、無を絶対の貧しさとして表象するであろう。しかしわれわれが全世界をみて、すべてはあると言い、それ以上何も言わないとすれば、われわれはあらゆる規定されたものを看過ごしているのであって、われわれは絶対の充実ではなく絶対の空虚を持つにすぎない。同じことは、単なる有としての神の定義についても言える。このような定義が正しいとすれば、神は無であるという仏教徒の定義も同様に正しい。仏教徒はこの原理をつきつめて、人間は自己を絶滅することによって神となると主張している。(『小論理学』上・いずれも松村一人訳)

それにしてもヘーゲルが祝詞みたいな『小論理学』を、はじまりの不明というほかない、言語の彼方にある豊穣な混沌から立ちあげたことには驚かされる。どんな思想も思想であるかぎり、例外なく起源の闇を抱え込んでいる。逆にいえば、無明のおののきを懐深くにもたないようなものを思想とは呼ばない。「有論」もそのようなものとしてある。

ヘーゲルは「有論」がもつ豊穣な混沌を「同一性」に閉じこめた。ヘーゲルがつめきらずにのこした近代の逆理がマルクスにもひきつがれる。マルクス主義が人類史の規模の厄災を招いたのは、マルクスの思想の必然であり、ヘーゲルの思想の帰結だという気がする。マルクスの思想の真意を根本から組み替えること。内包存在論はそれをめざしている。

ヘーゲルの混沌とした豊穣な「有論」を〔根源の性〕でたどりなおし、内包存在を主体とする存在論をつくりうるなら、近代が発見した自己同一性の弁証はひらかれる。それはマルクスや吉本の社会思想を転回することになる。対の内包を分有するとき、一方に〈あなた〉が、他方に〈わたし〉があらわれる。内包存在を世界の主体とする内包存在論ではそう考える。そうすると、ヘーゲルの「有」の根底には対の内包が存在することになる。しかしヘーゲルはそこまで行かなかった。分有されたそれぞれの自己を、否定を媒介に自己関係として伸縮した精妙煩瑣な意識の総体を世界と考えた。

そうではない。対の内包があるから「有」が存在し、事後的に自己同一性が現象するのだ。おそらくヘーゲルは「有」と内包存在についての機微(弁証)を知らなかった。だからヘーゲルの「同一性」は起源を訪ね、暗黙のうちに混沌とした無規定な「有」を要請することになる。神という観念を持ち出さずに自己同一性の起源を探りあてようとするなら、フロイトが自我の探索の果てに混沌と沸き立つエスを見いだしたように、あたかもエスに相当する「有」をそこに想定せざるをえないからだ。しかしほんとうは逆ではないのか。
「有」を自己同一性という概念まで抽象化すれば、「同一性」は観念の自働性で止めようもなく行くところまで行く。ヘーゲルの絶対精神とはそういうものだ。ヘーゲルは論理学のはじめに「有論」を据え、フロイトは精神分析学の礎にエスを導入し、自己同一性や自我で世界を遡及的に記述した。
たとえば、数学では、直線を二点間を結ぶ最短距離によって定義する。すると、直線という最短距離によって直線を定義するという矛盾が生じる。定義されるものが定義の文言にふくまれてしまうのだ。同じことをヘーゲルも踏襲する。

本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である。

同一性はまず、われわれが先に有としてもっていたものと同じであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である。・・・人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。

したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別するものである。(同前)

「観念性としての有」が「同一性」であり、それは「自然一般および動物から区別」される自己意識によって措定されるというのが、ヘーゲルの認識の根本のかまえだ。なぜ、「純粋な有」がはじまりをなすのか。明晰なヘーゲルの不明が「有論」にある。直観することも、表象することもできない、直接的な無規定とヘーゲルが呼ぶ「有」のあいまいさが、のちに、ニーチェが世にひろめたニヒリズムとしてあまねくゆきわたることになる。
ヘーゲルも、彼に追随する者も、彼を批判する者も、約めると「自」を実有の根拠とみなす思考の型においてかわるところはない。そうではなくて、性という超越を分有する出来事として、男や女が(生理の性も含め)事後的に分節されるのである。どんな指示性によっても語りえない、ほかならぬこの〈わたし〉は、いかなる機縁によってあらわれいでたのか、このことだけが真に考えるにあたいする。
あるものとそのものとの関係は、近代起源の意識の粗野な形式においては同一であるのに、「わたし」があたかも一個の他者であるかのように「わたし」と自己関係する。ひとは数学のように存在しているのではない。またそこに近代と、近代がつくった現代の累層する歴史の制約がある。

近代はヘーゲルに象徴されるから世界は「同一性」によって睥睨され統べられる。賢いヘーゲルは知っていた。いかなる意味でもA=Aということは、ひとのふるまいや、ふるまいが収蔵された世界や歴史にとってはありえない。だから、「同一性」が自体にたいしてもつぶれを、区別・差異・対立なる概念で刻み、それらを括る「移行」という概念で修復しようと試みた(まさに、フロイトの自我・超自我・エスとそれらを貫くリビドーという概念がこれに対応する)。彼はそれができると考えた。ヘーゲルの弁証法とはそういうものだ。人間精神がおのずと内蔵する観念の見えない動きにヘーゲルは論理の筋目をいれた。而して彼の長い足は二〇〇年を一跨ぎにした。

しかし考えてもみよ。なぜはじめに「同一性」なのか。「同一性」がなぜ普遍的で根源的なのか。ヘーゲルにあっても根源の事象は幽霊のように忽然とあらわれる。意識の平行線公理に比喩され、ゆるぎなくみえるヘーゲルの「同一性」という概念の根柢にあるはじまりの不明は無視できない。ヘーゲルがいうように、有が「言いあらわしえないもの」であり観念としての有が同一性だとしたら、なぜ「言いあらわしえないもの」が自己意識としての同一性を措定できるのか。おかしいではないか。

ヘーゲルの論理は逆立ちしている。だから同一性が陰伏する謎が、いまニヒリズムとしてあまねく生きられる。はっは。存在論の拡張が断じて現実や歴史の分析に先行する。そうでないとしたら、わたしたちは冷え冷えした空虚をかかえて際限もなく内省と遡行を繰り返すだろう。そして時折、神戸の少年Aみたいな事件に遭遇しては喉元を凍らせる。ニヒリズムからモノのような狂気までほんの紙一重だ。もしかするとすでにそこを生きはじめているのかもしれない。点と外延の思想はそういう戦慄を不可避とする。存在論は思弁ではなく肌が粟立つほどなまなましいことなのだ。思考にとってこれ以上のリアルがどこにあるか。

わたしがヘーゲルの自己同一性を拡張する。太初に、ヘーゲルが直接的な無規定と名づけた「純粋な有」を立ちあげる内包する〈気〉のたわみが存在する。内包存在がくびれて分有された存在を事後的に自己意識が「有」とかたどるのだ。自己意識ではつかむことのできない「有」の興りとそのしくみを、ヘーゲルは直観することも表象することもできない。だからヘーゲルはそのありようを、もっとも直接的な無規定であるというしかなかった。自己意識によって「有」にふれることはできないからだ。

内包存在によってヘーゲルの「有」は拡張され、途方もない転回を遂げる。西欧近代の巨大な才能たちは、「有」を点と外延で縁取ったものを「存在」とみなし、「存在」をかたどるものを「同一性」と呼び、「存在」と「同一性」の彼我を往還するものを「意識」と名づけた。わたしは、それなしでは「有」が「有」として現象しえない、ヘーゲルの「有」よりもはるかに根源的な〈気〉が存在すると考えた。

世界をよく感じ、徹底して考えつめると、ヘーゲルが手つかずに不明のまま遺した、あるということにまつわる明晰がもつ弛みに気がつく。思想にとって決定的なのは、「存在」でも「同一性」でもなく、それらが内包存在に順伏するということなのだ。全くの思考の未知がここにある。内包が外延化された以降の「存在」や「同一性」についての精緻な記述はヘーゲルでも、ヘーゲルを受けたハイデガーでも、意識の第一次の自然表現としては、おおむね妥当なものであるといってよい。わたしたちの思考の慣性は外延表現にあるから、近代を超えようと意欲した現代が、「同一性」の弛みを「差異性」に拠る解体表現によって巻き返そうとしたのは、カラスになぜ鳴くの、と訊くようなものだった。勝手でしょ、とポスト・モダンは考えた。嗚呼。

しかしいずれにせよ大文字の「同一性」が意識の線状性として見え隠れしていることに変わりはない。問題は「同一性」か「差異性」か、ではなく「同一性」の拡張なのだ。あるものとそのものは、厳密には内包の関係にあって同一ではない。あるものを往相とすれば、そのものは還相としてあるものに関係する。あるものがめくれて他なるものとメビウスの環をなすから、ひるがえって、あるものはそのものに重複する。それが本然であり道理だ。わたしは外延する意識にとってはかなり変な、しかし内包する意識にとっては自然(じねん)を語っている。たしかな手応えがわたしにある。近代がかたどった現代は、存在論の拡張においておのずと拓かれる。近代の天才も、彼らを模倣する者も、思想のこの機微を知らない。

思考の歴史というようなものを考えると、わたしたちが近代と名づけている時代に大きな転換点があることがわかる。それは、〈じぶん〉という出来事を「わたし」が所有するということとしてあらわれた。その規範的表現が、たとえば、法の下における万人の平等という観念だ。わたしの考えでは、人間・社会・大衆・自己といった一群の観念の出現は人類史の規模での革命であったと思う。自己が「わたし」によって領有されることの信念の表明に近代の偉大さがあり、同時にこのなかに超えがたい背理がひそんでいる。

もちろん、即自と対自、あるいは利己的な行為と利他的な行為の対立と背反は、対象的な意識としてはよく知られていることだから、この矛盾を解こうとさまざまな考えが試みられた。文学や批評、マルクス主義の実践もそのひとつである。すでに滅んだ社会主義思想もそうだが、どんな考え(思想)であれ、それらの考えは、〈じぶん〉が「わたし」に等しいという自己同一性をそのよりどころとしている。これは疑いえない事実だと思う。またそのことによって現代の豊饒と奇形的な繁栄がもたらされた。

自己同一性原理とは、あるものがそのものに等しいことを梃子の原理とする存在の形式である。現代に照らしていえば、その内面的表現が空虚として、社会的な表現が消費資本主義としてあらわれ、両者は互いに鏡像関係にある。この自己保存系の思想を拡張することに思想のダイナミズムがあり、生きられる可能な世界のすべてがある。

たとえば、フロイトの自我と無意識の関係も、ハイデガーの存在者と存在の関係も、おなじ意識の呼吸法によって縁取られている。まずはじめに、自我が無意識へ、存在者が存在へ写像され、しかるのちに無意識が自我を、存在が存在者を措定するように思想がかたどられる。このありさまは高金利にあえぐサラ金の債務者に似ている。いくら返済しても元金が減らないのだ。もとより元金が空虚に比喩される。

マルクスも例外ではなかった。せっかく人間の自然本性を男性の女性に対する関係のなかに洞察したマルクスの思想の原石は絶え間ない抽象化の過程で、類的共同存在へと至る豊饒さを捨象し、関係的存在をそのまま価値形態論にもっていくことができなかった。同一性の経済的理念化として『資本論』は不朽の名作となった。

奇妙なことにそうやってつくられた思想は、ある根源の事態の事後的な解釈として妥当するにすぎないにもかかわらず、そのことをぬぐい去り、やがて逆立ちして、存在そのものや、出来事の根源自体を指し示しうる権能をもつと主張するようになる。この思考の型をもって近代を定義できるといってもよい。吉本隆明の思想の核心をなす自己幻想と共同幻想の「逆立」論も、意識の線形性において同じ轍を踏んでいる。わたしは、この表現の型を自己意識の外延表現と呼び、外延表現を拡張した内包存在とその分有者がとりもつしなりやたわみのあらわれを内包表現と名づけてきた。内包は外延の拡張としてある。

自己同一性が内包存在という主体のかたわれだということは、〈わたし〉の根源が〈あなた〉であり、〈あなた〉の根源は〈わたし〉であることに発祥する。あるものが他なるものに重ならないなら、なぜ、あるものがそのものに等しいということがおころうか!「自」がかまえをほどくその度合いにおうじて「他」がそのなかに陥入し、ふいに自・他が反転する。この事態のことを内包と呼ぶ。わたしはこの驚異をそのまま主体とする存在論が可能だと思う。(『Guan02』173~179p:webの制約上、傍点とふりがなは略。読みやすいように適宜改行)
:::::::::::::::::::::::

むかしの文章の骨子の変更はありませんが、ただ一点当事うまく言えていないことがあります。それは「あるものを往相とすれば、そのものは還相としてあるものに関係する。あるものがめくれて他なるものとメビウスの環をなすから、ひるがえって、あるものはそのものに重複する。それが本然であり道理だ」というところです。そのころは、あるものと他なるもののあいだに根源の一人称(根源の性)をおくときはじめて事後的にあるものがそのものとして立ちあらわれるという言い方をしていました。内包論をすすめようとしてもこの考え方では三人称は不可避につくられます。ここを突破しようともがきにもがいて悶絶し内包は行きづまりました。
曰く言いがたいことを言おうとしてそのなにかを実体化する思考の習性に落ちこむのです。レヴィ=ストロースも生涯を決定づけた体験を未開種族の観察で開きたくておなじ過ちを犯しました。中沢新一の対称性という概念もおなじです。自己に先立つある感覚を空間化しています。晩年の吉本隆明も渾身の力を込めて帰りがけの視線で理念としてある大衆を実現しようとして失敗したのです。だれがやろうと極めて困難です。

    3
おなじことに岡潔も気づき、そこをうまくはいえていません。webで見つけた幻の「岡潔講演録」からそこを取りあげます。

①人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。

で、本当は第2の心のあることを知らないのを西洋人と云い、ほのかにでも知っているのを東洋人と云っているのです。それが定義になる訳ですね。特に日本人は第2の心のあることが非常によくわかる。もし、西洋かぶれさえしてなかったら、心が第1の心だけしかない等と、そう云うはずがないと云うことが直ぐにわかる。

その他芭蕉は、秋風はもの云わぬ児も涙にて、と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。このもの悲しいと云うのは私がもの悲しいんじゃないでしょう。つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。自からもの悲しいんでしょう。又、もの悲しいと意識しないでしょう。直下にもの悲しいんでしょう。だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね。時雨が降れば懐しい。この懐しいも又第2の心が直下にわかるんですね。(「一滴の涙」1970年5月1日 於:市民大学仙台校)

岡潔がここで言っていることは内包の面影です。べつに東洋と西洋の違いがあるわけではない。かれは東洋は西欧より優れているといいたいのでこういう言い方をしているだけだと了解すればいいと思います。岡潔の愛国主義や日本民族の賛美は飾りの言葉です。しかしかれはヘーゲルとおなじくはじまりの不明があることにたしかに気づいています。

こんな風に、私、それを情緒と呼んでいますが、日本人は自然や人の世の情緒の中に住んでいる。そしてそこで時々喜怒哀楽し、意欲するし、理性するだけですね。住んでいるのはむしろ、自然や人の世と云いますが、自然や人の世の情緒の中に住んでるでしょう。

情緒とは私の入れられないもの、感情ではありません。感覚でもありません。例えば秋風がもの悲しい。それから時雨が懐しい、例えば、友と二人いると自ずから心が満たされる。こう云うの皆情緒ですね。“むかわずば淋しむかえば笑まりけり桜よ春のわが思い妻”と云うのも情緒です。

こんな風に、第2の心のあることがよくわかります。一番よくわかるでしょう。日本人は情緒の中に住んでいるから。情緒は第2の心の中のものだから。

「自然科学は間違っている」という講演録も印象的です。かれは言っています。

②物質さえわかれば全てわかるという考え方、間違ってますが、これを物質主義といいます。また肉体とその機能とが自分であると、そういいましたね。肉体とその機能とが自分であるというのも間違いですね。まあ間違ってるとはっきり言えないまでも、自然科学の間違いから来てるということでしょう。これを個人主義というのです。

肉体とその機能とが自分であるというのが個人主義、物質がわかれば皆わかると思うのが物質主義。どうも物質主義、個人主義が間違った思想の基だと、そう思います。(「自然科学は間違っている」)

③西洋人は心のあることを知らないと云ってよいんです。心理学や大脳生理学が対象としているような、自我というものを中心に動いている極浅い心は知っています。しかし、それ以上深い心というもののあることを知らんのです。東洋の大先達はその心というもののあることをよく知っていて、それについていろいろ教えてくれているんです。心というものについては、我々随分教えてもらっているわけなんですけど、明治以後西洋の云うことを聞いて、東洋自身を忘れてしまっていますから、心というもののことは忘れてしまっているんです。終戦後特にそれがはなはだしい。

仏教は特に詳しく心について云っているんですが、仏教は大宇宙の中心は心であると云っています。大宇宙の中心は心であるから、それで自然はよく調和がとれているのだ。個々別々になってはいないのは、心が中心にあって主宰しているからだ。その心の一部を分かち与えられて、生物はみなそれを持っている。それが生物の主宰性である。生物が一個の生物で有り得るのは、心が根底にあって主宰しているからだ。

心の最も基本的な働きは、2つの心が融合することが出来ることである。人の中心は心だから、心が合一すると、その度合いに応じて人の心がわかる。また、自然の中心も心だから、それと合一すると、その程度に応じて、自然というものがわかる。総て本当にわかるのは、腑に落ちるというふうなはっきりしたわかり方は、心が合一することによって達せられる。心の中心には時間も空間も無い。時間、空間を超越している。(「2つの心」)

④われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうは自然があるかどうかはわからない。自然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範疇(はんちゅう)ではできないのです。

 自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性の世界だけでは証明できないのです。数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。

 数学は知性の世界だけに存在しえないということが、4千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少くとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。

 最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない2つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。

 じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。

 そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの2つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。矛盾がないかもしれないけれども、そんな数学は、自分はやる気になれないとしか思わない。そういうことは、はじめからわかっているはずのことなんですが、その実例が出てはじめて、わかった。

 矛盾がないということを説得するためには感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。(「新潮」1965年10月号)

引用④で岡潔が言う「どうしても矛盾するとしか思えない2つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出た」ということはゲーデルの不完全性定理とポール・コーエンのゲーデルへの反証を指している。数学は混乱したのです。なにやっているかわからなくなり一斉に数学の知性は場の量子論という物理空間に研究の場を移動しました。数学基礎論学者の倉田令二郞さんからそのあたりのことをわかいころよく聞きました。岡潔は現代数学は冬の枯れ野である、わたしが春の息吹をつくる、以下の定理を見よと、論文を書きました。まだ一部しか解読されていません。

⑤この、第2の心の世界ですが、二つの第2の心は二つとも云える、一つとも云える。
不一不二と云うんです。不一不二と云ったら二つとは云えない一つとも云えないのですが、この自然と自分とは不一不二、他人と自分とも不一不二、こう云う風。

この第2の心の世界はその要素である第2の心は二つの第2の心が不一不二だと云うのだから数学の使えない世界です。又この世界には自分もなければ、この小さな自分ですよ、五尺の体と云う自分もなければ、空間もなければ時間もない。時はあります。現在、過去、未来、皆あります。それで時の性質、過去の性質、時は過ぎ行くと云う性質はあります。しかし時間と云う量はありません。そんな風ですね。自分もなければ空間もなければ時間もない。その上数学が使えない。

そんな風に不一不二だから目覚めた人はこんな風になる。

花を見れば花が笑みかけているかと思い、鳥を聞けば鳥が話しかけているかと思い、人が喜んで居れば嬉しく、人が悲しんで居れば悲しく、人の為に働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない。こんな風です。(「一滴の涙」)

敗戦後の日本は西欧かぶれ、米国かぶれだとする恩讐が岡潔にあります。直情的な日本礼賛をやっていますが、それはどうでもいいのです。
かれの言う、ふたつの心、ひとつは理性で、もうひとつは情緒ということは諒解できます。この情緒を数学は扱えないというのは面白いです。なぜなら数学者は1のなんであるかを知らないからと言い放っています。その通りです。
「肉体とその機能とが自分であるというのが個人主義」というのもよくわかります。自己を実有の根拠とするところからこの世のしくみは成り立っています。岡潔が理性と呼んでいるものは同一性と同義だと理解します。理性によって成り立つ同一性よりはるかに大きい情緒があると言いつのり、日本的自然に融即します。1という情緒は3という共同性へと円環します。これは天意自然なりということだから時の支配者の心をくすぐります。今西錦司も梅棹忠夫も井筒俊彦もみな同じです。見事な東洋回帰です。
もっとおおきな時間の幅を表現としてとればよかったのです。東洋も西欧もないはるかな太古へ。東洋も西欧もともにモダンです。

モダンということは出来事を空間的に配置する視線です。岡潔は不一不二を西欧の理性を俯瞰する東洋的な覚知から行使しています。この覚知は自己のあり方を共同性へと回収します。水俣病の事件の関与者であることを看板にしていのちの輝きと共鳴りの世界を歌いあげる石牟礼道子さんが平成天皇の奥さんと出会っている場所もここです。
それにしても、大森庄藏さんも、木村敏さんも、池田晶子さんも、井筒俊彦さんも、岡潔さんも道元の正法眼蔵に回帰します。わたしには道元の宗教思想は煩悩解脱をめざす技術でニヒリズムの一形式であるようにみえます。覚者のほかに仏なしとする境涯の必然のように思えます。他者が不在です。
わたしの知りえた範囲ではシモーヌ・ヴェイユの匿名の領域と親鸞の他力だけはこの欺瞞に自覚的であったのではないかと思います。不一不二という不可分・不可同の考えにはなにかまだ未然があるのではないか。
帰りがけの視線で大衆という理念の実現をめざした吉本さんの思想も最後は大衆という自然に融即したようにみえます。

わたしは内包の面影をもっと遙か先まで突きぬけさせようとしています。そこに文化・民族・宗教の違いを超えたやわらかい世界があります。根源のつながりと内包の分有者の関係に不可逆という徹底した受動性があるような気がします。そこまでいかないと同一性の影を消すことはできないと思っています。

    4
三木成夫が自分の子どもについて語っています。味わい深い三木成夫の遠の感得です。

 五月晴れの庭でひとりでドロをこねています。ゆっくりゆっくり・・・。その眼差しはなにか遠い彼方に向けられている。なにを造るというでもなく・・・小さな手の皮膚で感触をためしているのでしょうか、ただひねもすといった感じなのですね。もう顔から服から泥だらけ・・・。そのうち姉がやって来て世話をやきます。手を洗いなさいといってジョロで水をかけてやる。するとちゃんと手を出す。そして顔もふいてもらう。しかしそうされながら眼差しはいぜんとして「遠」をさまよっている。いわゆる、われに返るということがないのですね。夢のまた夢とはこのことでしょうか。(中略)私たちにとって、もの思う人類の誕生は永遠のテーマですが、この三歳の世界に、その問題のすべてが秘められているように思われてならないのですね・・・。(『内臓のはたらきと子どものこころ』)

ここ、好きです。ここには権力の匂いがありません。

娘に子どもが生まれてもうすぐ7ヶ月です。生まれてきて気持ちいいという感じよ。生きてるのが楽しいって毎日声だしてる。娘から送られてきた動画がおもしろかった。鏡に映ったじぶんをみて、なにこれって顔してる。だれ、これって、顔を鏡にくっつけたりからだをゆすったりして不思議がっています。根源のつながりをそのまま生きてる感じです。なんど見ても笑えます。
文化・民族・宗教以前の自他未生の生を驚きながら生きてます。やがて自我が同一性からつくられます。それは生存の自然な基底です。しかし、この同一性は事後的なあり方です。ひとがこの根源のつながりを生きていることは自己が輪郭をもっても少しも変わりません。ひとはいつも固有の他者とのつながりのうちに生きています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です