日々愚案

歩く浄土26

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レヴィナスの、「自我は起源に先立って他者へと結びついている」ということをあらためて考えてみます。自我は他者へとひらかれているということがレヴィナスの本意だと思いますが、この肝心要のところを究竟していません。他者へと結びついている自我のあり方を外延的にしか記述できていないように思うのです。どういうことがレヴィナスの思索のなかで起こったのか。外目にはうかがい知ることのできない微妙な論点の移動があるとわたしは理解しています。おそらくレヴィナスを生涯の師と仰ぐ内田樹には感得できないとてもナイーブなことです。なぜ固有の他者との関係が他者一般(共同性)へと横滑りを起こしてしまったのか。レヴィナスは知りつつ知らないのかもしれない。

この世の共同性と違うあり方を模索した思索家はけっこういます。読んでみましたが、とうてい読むに耐えるものではありませんでした。
ブランショの『明かしえぬ共同体』も、アガンベンの『到来する共同体』も、ナンシーの『複数にして単数の存在』や『無為の共同体』も、リンギスの『何も所有していない者たちの共同体』も、いずれも同一性の戯れにすぎません。かれらは等し並みに現存の共同性を超えるなにかを言いたいのです。それはわかりますが究尽されていません。どうであれこの世のしくみを追従するだけのことです。言葉によってないものをつくるという力がありません。ドゥルーズも果敢に挑戦しましたが貫通しませんでした。かろうじてヴェイユの無人格なものに宿る聖なるものと匿名の領域がデモクラシーとはべつの形態の可能性を示唆しているようにみえます。

存在することの彼方についてレヴィナスはかなりのところまで到達しました。

有責性は他者性の覚知のうちで重大ななにものかを正しく見てとりますが、愛はもっと先まで進みます。それはかけがえのない唯一のものとの関係です。私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけがえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢中になると、他人をかけがえのないものだと思い込むから、というのではありません。だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです。(『暴力と聖性』内田樹訳 125p)

夢中になるから、相手をかけがいのないものと思い込むのは違うというのです。わたしの言い方では、自己のなかに眠っていたつながりが目覚めるからこそ相手がじぶん以上にじぶんのことのようになるのです。人は自然な認識の規定をなす同一性というおおきな罠にかかっています。同一性の認識では性の覚知の先後の関係が逆転するのです。根源の性に宿られるということは信じがたい驚異なのです。そしてそのことが意識されることはまずないと思います。根源の性によぎられるやいなや性は自己の後ろに隠れるのです。そしてあらためて自己から同一性の性に向かっています。それが吉本隆明のいう対幻想の世界です。

レヴィナスは同一性の決定的な転換をかゆいところに手が届くようには究明できませんでした。初期の著作でレヴィナスはつぎのように言っています。

三〇年ほど前に私は『時間と他者』という本を書きましたが、そこでは、私は女性的なものが他者性そのものであると考えていました。(『われわれのあいだで』合田・谷口訳 161p)

他者の知覚は固有のものとして訪れます。かれの言うことをつづけます。

エロスは闘いでも融合でもなく、また、認識でもない。数ある関係のうちで、エロスの占める例外的な位置を承認しなければならない。それは、他者性との関係、神秘との関係、すなわち、未来との関係、すべてがそこにある世界のなかで決してそこにはないものとの関係、すべてがそこにあるときにそこにはあり得ないものとの関係である。そこにはない存在との関係ではなく、他者性の次元そのものとの関係である。可能なるもののすべてが不可能であるところで、もはやできることをなし得ないところで、主体はなお、エロスによって依然として主体であるのだ。愛は、ひとつの可能性ではない。愛は、われわれの主導権〔発意〕に帰すべきものではない。愛には、理由はない。愛は、われわれを満たし〔われわれに侵入し〕、われわれを傷つけるが、しかし、それにもかかわらず、〈我〉が生きながらえるのは、愛のうちにおいてなのである。(『時間と他者』原田佳彦訳 89~90P:ブログの機能的制約上傍点やルビは略)

「エロスは闘いでも融合でもなく、また、認識でもない」という覚知はただしいと思います。そのとおりです。「すべてがそこにある世界のなかで決してそこにはないものとの関係、すべてがそこにあるときにそこにはあり得ないものとの関係である」とまで言っています。ここも諒解します。「可能なるもののすべてが不可能であるところで、もはやできることをなし得ないところで、主体はなお、エロスによって依然として主体であるのだ」も諒解します。愛は、ひとつの可能性ではない。愛は、われわれの主導権〔発意〕に帰すべきものではない。「愛には、理由はない。愛は、われわれを満たし〔われわれに侵入し〕、われわれを傷つけるが、しかし、それにもかかわらず、〈我〉が生きながらえるのは、愛のうちにおいてなのである」。これもいいです。納得します。引用のセンテンスは矛盾なく順接しています。

 このような(エロス)による他者との関係を、ひとつの挫折として特徴づけることができるだろうか。もし、ありきたりの記述の用語法を採用し、エロティックなものを「把握すること」、「所有すること」、もしくは「認識すること」によって特徴づけようとするのであれば、ひとまずはまた、その答えは然りである。しかし、エロスのうちには、こうしたことやこうしたことの挫折は何ひとつとしてまったくありはしないのだ。他者を所有し、把握し、認識し得るなどというのであれば、それは他者というものではないのだ。所有すること、認識すること、把握することは、力の同義語である。(同前 92P)

ああ。。。レヴィナスは失敗したのだと思います。とつぜん「ひとつの挫折」がでてきます。えっ、です。同一性の彼方を語ろうとして自縄呪縛されています。ここにレヴィナスの思想のすべての謎と未遂があります。その事情はレヴィナスによればつぎのようなことです。挫折は、「もし、ありきたりの記述の用語法を採用し、エロティックなものを『把握すること』、『所有すること』、もしくは『認識すること』によって特徴づけようとするのであれば、ひとまずはまた、その答えは然りである」と。
「しかし、エロスのうちには、こうしたことやこうしたことの挫折は何ひとつとしてまったくありはしないのだ」と語るとき、所有し、把握し、認識しうる他者などというものは他者ではないと言うことが暗黙に寓意されています。ここです。肝心要のところは。レヴィナスが知りつつ知らない、ひとつの作為があります。だれも指摘していないと思います。レヴィナスは私とあなたは切断されているとか離折していると言います。かれが触ったリアルを外延的に記述するかぎり、そうであるとしか言いえないことだと思います。

エロスのうちにはなにひとつとして挫折はありもしないというとき、固有の他者のエロスはさりげなく一般化されています。他者が多者へと嵩上げされているのです。「他者を所有し、把握し、認識し得るなどというのであれば、それは他者というものではないのだ」。エロスは巧妙に他者一般へとすり替えられたのです。そしてその他者は多者なのです。第三者性の問題をレヴィナスは解くことができなかったので、正義の国家を要請したのです。これでは元の木阿弥です。ここはじぶんをたどるようにたどらないとごまかされます。
とてもデリケートなところです。よろしいですか、みなさま。とくとお考え下さい。
レヴィナスは思索家デビューの頃は、固有の他者との縁で生まれるエロスを他者と考えました。わたしの推測では、ひとつの挫折を経て、固有の他者は、他者一般へと置きかえられ、エロスの上位に神の愛を据えて、ひとつの思想へと昇華されています。必要ならかれの翻訳本を読めばその次第がわかります。

レヴィナスが生きた精神風土は日本とは違いますが、レヴィナスのこの主張を日本的自然生成として受容したのが内田樹です。合気道は日本的自然生成の極意についてのスキルだとわたしは理解しています。レヴィナスの気づきの曖昧さの、さらに日本的な変成を内田樹はやっています。おそらくレヴィナスの思想と自身の思想とのずれが意識されることはないと思います。またそのことはいまはどうでもいいこととします。

レヴィナスの秘かな思考のすり替えがなにに由来するのか知るよしもありません。ただレヴィナスの思考の転換をわたしの身に起こったこととしてたどりなおすと韜晦なかれの主張にすきまがあることが見て取れます。
なぜレヴィナスの固有の他者とのエロスは他者一般へと外延され、そこに神の愛を飾りの帽子としてかぶせたのでしょうか。存在の彼方を語りたいのに、存在するとは別の仕方でという存在の在り方を外延表現としてつくってしまったのです。そこにレヴィナスの固有の痛ましさがあり、ヨーロッパの積み増しの知の限定からくる痛ましさがあるように思います。

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もういちどこのブログのはじめに戻ります。なにがレヴィナスの思想の未遂だったのでしょうか。他者へと結びついている自我は、奥行きのある自己として現成するということがレヴィナスにはわからなかったし、そこを言いうる言葉をかれがもちえなかったということです。同一性という生の自然な基底から流れ下る外延的な世界に生きていても、なにかのきっかけがあると、自己は領域としてあらわれるのです。この事態は明瞭に同一性を超えています。未知の対象を観念によってとらえ、そのことを認識にとっての自然とし、さらに未知の対象に向かうという観念の遠隔対象性ではつかむことのできない出来事があることにヨーロッパの知性は無防備です。親鸞の愚者の思想は西欧的な文脈では理解不能です。

わたしは時間を超えた思想の先進性が親鸞の言葉にあると思います。親鸞の言葉を手がかりに内包論をすすめてきました。明確にヨーロッパ的な知の限定というものがあるのです。レヴィナスもまたその囚われのうちにあって、そのしばりを破ることはできなかったのです。自己が領域であるということは自己同一性の合理では説明がつきません。だからこそ、これから迎えるハイパーリアルな生存競争の只中にあっても、なお生きられる広大で深い未知がそこにあるとわたしは考えています。
わたしは、レヴィナスと違って、他者と結びついた自我のことを分有者と呼んでいます。人であることの根底にはだれであれ、気づく気づかぬになんの関わりもなく、根源のつながりが埋めこまれています。そこをうまくつかみだすことがレヴィナスにはできなかったということです。

根源のつながりの分有者には往き道と還り道の性があるということにレヴィナスが気づいていればレヴィナスの思想はまったく違ったものになりえていたと思います。往き道の性は往相の性ということですが、往相の性は「所有」をめぐる性です。パスカルの言葉を引用してレヴィナスは言います。「『そこはおれが日向たぼっこする場所だ』。この言葉のうちに全地上における簒奪の始まりと縮図がある」(パスカル『パンセ』)。
固有の他者とのエロスは「挫折」するといいながら、そのすぐあとのセンテンスで、「挫折」はなにひとつないと文意を逆接しています。この逆接のうちに、レヴィナスはエロスを固有のものから普遍性へと回収してしまいました。その手口はありきたりのものです。親鸞ならば悶絶のど真ん中で、それは煩悩だと言います。愚者ほど浄土に近いという思想は、知に知を積み重ねるという合理の世界の圏域にはないものです。ヨーロッパの思想や知は、なにものをも知によってねじ伏せるという剛胆なものですが、その膨大な知の積み重ねのどこにも還り途の知がありません。どれほど知の集積をやっても知の帰り道がないのです。

知に往相廻向と還相廻向があるように、性にも往相と還相があります。根源の性によぎられて分有者は生まれますが、自己へも共同性へも還帰しえない性は、分有者に内属する還相の性だとわたしは理解しています。還相の性は自己ではなく、共同性でもありません。それ自体です。ここを基点に自己と共同性を包み込むというのが内包論がめざしていることです。

わたしはいま外延論というわたしたちの生に深く根ざした思考の限界を超えつつあることを実感しています。わたしにとって、レヴィ・ストロースやフロイトやユングの成した事績も、マルクスの資本論も、吉本隆明の幻想論の全円性も、すでに偉大な資料としての意味しかもっていません。自己意識の外延表現として一括りにできるからです。わたしの触っている世界の感触からは、自己意識の外延表現は、生をいつもなにかへの過程として順延するものとして映っています。そうではなく、喰い,寝て,念ずる生の原像を還相の性で生きればいつでも歩く浄土が姿をあらわすのです。わたしはそこに決定的な知の転換があると思います。

柳田国男の「遠野物語」を下敷きにして吉本隆明は共同幻想論をつくりました。おなじように吉本隆明の共同幻想論を下敷きにして還相国家論を内包親族論として書くことも、マルクスの資本論を参照しながら、内包贈与論を描くこともできます。外延論の拡張は内包論において可能なことのように思えます。

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