日々愚案

歩く浄土14

71ScD5gRleL__SL1200_国家論を内包親族論へ、資本論を贈与論に拡張したくて、ハードな頭の体操をしている最中です。歩く浄土の下ごしらえをしています。前回のブログをアップして、マルクスの資本論の価値形態論を考えていたら、あれ、ホントは商品の謎は解けていないじゃないかということに気がつき、興奮して眠りがきませんでした。フロイトのエスにしても、マルクスの商品の謎にしても、内包の知覚に裏側から触っているだけじゃないか。途方もないことに気づきに面食らっています。

自己の根底に、自己へも、共同性へも還元することのできないそれ自体の領域があります。対幻想とは半分しか重なりません。半分は、はみ出しています。わたしはそれを根源の性と名づけました。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめるということは、この領域をつかみ出すことです。自己が自己であるということは根源の性のうながしや根源の性からの受動性としてあるのです。そこではじめてわたしがわたしである各自性があらわれます。だからA=Aということと、わたしがわたしであるということはまったくべつの出来事です。

フロイトがさわった自然はエスでした。この混沌として沸き立つ釜には、時間も善悪も矛盾律も存在せず、人倫は決壊しています。なんとか自己同一性を保ちながら、フロイトはこの世界を記述しました。詳しくはまた別の機会に書きます。

マルクスは『資本論』の序文で言っています。

起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は、資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら、ここでは、個人は、経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないからである。(岩波書店 向坂訳 16p)

マルクスの『資本論』は商品の分析から叙述されます。第一巻第一遍第一章第一節で、「商品の二要素 使用価値と価値」として始まります。冒頭は人々によってくり返し語られてきました。

資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。(67p)

資本論の価値形態論まで読んだことのある人はたくさんいると思いますが、だいたい途中で挫折し、最後まで読み通した人はあまりいませんね。ましてマルクスの思考の流れをたどった人はほとんどいないように思います。
ヘーゲルは意識の劇が世界だと考えました。意識は世界そのものだと考え、意識を実現することは世界を実現することに等しく、その体現が世界精神であると宣明したのです。朕は法理であると言い切った空海みたいな知性の化け物です。そのヘーゲルの精神現象学でさえ、有論を読めば解りますが、始まりは不明です。まるで無からの宇宙生成を提唱したビレンケンみたいです。
観念的なものは現実的であるというヘーゲルの思想を転倒したのがマルクスの思想だと流布されています。わたしはヘーゲルの始まりの不明をマルクスはそのまま踏襲していると思っています。

第二節「商品に表わされた労働の二重性」は次のように書きだされます。

最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私が始めて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理念があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。(77p)

第三節「価値形態または交換価値」は次のように始まります。

商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦粉等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち、使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純な、もっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。(89~90p)

だれもなしえなかったことを発見したマルクスの自信があふれています。商品の分析をもって論述を始め、貨幣の発生と謎を消失させるというマルクスの言葉には力があり、なんど読んでも格好いいです。凡百の研究者や運動家の言葉とまったくべつものです。
引用の始めと終わりについて一言する。ヘーゲルの観念論をひっくり返したマルクスは人間の意識はその社会的存在の仕方から規定されると言っています。本音でそう思っていたのかどうかはわかりませんが、そう思いたかったのはほんとうだと思います。詩人吉本隆明は異議を申し立てました。存在が意識を決定すると言って、じゃ、意識がなかったらその存在は指摘できないではないか。卓見です。同感します。そのうえでマルクスの使用価値を指示表出へ、交換価値を自己表出として受け継ぎ、言語論と共同幻想論をつくりました。共同幻想論の媒介となる概念が対幻想だったのです。
マルクスの方法意識で貨幣の謎は消失したか。マルクスの歴史への熱い意志が現実に体現できたか。事態はまったく異なるものとして実現しました。人類史的な厄災だったマルクス主義国家の無惨があり、ITを核とする電脳革命はマルクスの思想を一顧だにしません。

貨幣の謎はいっこうに解消されません。なぜマルクスのかくあれぞかしという意志は歴史によって反故にされたのでしょうか。
ヘーゲルと似てマルクスの思想にもいったんその論理の枠組みに入り込むと強靱な類推と対応の魔力にからみとられ、その外に出ることが困難です。それくらい論理の一貫性があります。その論理のマジックと関係なく現実は生成変化しています。現実はマルクスの思想のもつ牧歌性よりはるかに業が深いのです。マルクスは人間の我執や我欲について表現ができていないとわたしは考えました。前提を変えたいと思ったのです。マルクスは徹底してモダンな思考の持ち主です。これでは世界の無言の条理に歯が立ちません。偉大なマルクスも生を監禁する同一性の罠にひっかかっています。

なぜ商品は貨幣の形態を取り、さらに資本へと至ったのか。商品の交換も貨幣の出現も資本の蓄積も、自己の外延性を前提とした心身一如の表現なのです。外延論理がたどる必然の道行きについて見事に説明はされています。そしてマルクスがやりえたことはそれだけです。万国の労働者は団結したか。そのやり方では、つまり内面を社会化しても、人と人はつながらないのです。自己を実体化した欲望がどうであったかはすでにわたしたちの知るところです。その真っ只中をわたしたちは生きています。マルクスの資本主義の死は空念仏でした。マルクスは来たるべき世界を予告しました。そうはなりませんでした。マルクスの思想とマルクス主義はべつものなのか。吉本隆明がそう思いたかったことは諒解できます。わたしは、マルクスの思想に不明があり、マルクスの思想の未遂がそこに深々と横たわっていると思います。

マルクスが考えた価値形態論は、商品の使用価値と交換価値の二重性を指摘しながら、人間の生を自然史的過程に解消しようとあせるあまり空転し、その根底にある人間の自己自身に対する矛盾や対立や背反を隠蔽するものとして機能しています。それはマルクスの人間という現象の理解が浅かったことに起因します。世界の無言の条理は外延論理で歯が立つほどやわではなかったということです。商品も貨幣も資本も自己矛盾と他者への敵対的関係をもっとも強烈に外化しただけなのです。他者を自己の生存の手段とする思考を拡張できずに、モダンな自己を前提に外延化された思想が、社会の死と転生を予見したマルクスの思想だと思っています。マルクスも1と3(類生活)のあいだに根源の1を置くことがなかったのです。

あらゆる社会に共通な生産一般が、商品形態という特殊な形で、労働力の商品化を通して剰余価値を生み出す資本主義的な生産様式であることは、理屈としては可能ですが、未知の現実をつくりだす力がありませんでした。発端として措定された商品の内部のしくみやうねりを解明するものではなかったのです。
商品→貨幣→資本への転化は外延表現の自然な生成変化をなぞっているだけです。貨幣の謎はぜんぜん解けていません。技術に媒介されながら外界に身体を延長したのです。それに見合って心もよりモダンなものへと変容を遂げました。それこそ自然史的な過程そのものです。マルクスの資本論にも観念の折り返し方や観念の帰り道がありません。商品経済は未知の生の様式にとって少しも必然的なものではないのです。内包存在の外からきたのです。それがわたしたちの知る人類史ということです。

フロイトはエスを、沸き立つ混沌とした釜に比喩しました。エスは、「人格の暗い、近寄りがたい部分」であり、そこには人倫も矛盾律も時間もないと言いました。世界の無言の条理そのものです。ヘーゲルもそうですが、いったんマルクスやフロイトの思考の枠組みを受けいれると、その表現のうねりは圧倒的で、どこにも抜け道はないように見えます。それほど思考の論理は強靱で緻密にできています。余人の追随を許さぬものとしてあります。
ただ、かれらの思考している外延表現という公理の前提を変えれば、かれらの世界はまったくべつものとしてあらわれてきます。わたしの考えている内包論から見ると、かれらはほとんどなにも言っていないにひとしいのです。それほど論述が曖昧で粗雑なのです。ヘーゲル、マルクス、フロイトと親鸞が座談会やったらどんな話になるかと妄想します。年長者だから言わせてもらうなら、おまえら、ちとまじめすぎる。言葉が立っとらんよ。エスを生きた親鸞が圧勝するような気がします。

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