日々愚案

歩く浄土238:アフリカ的段階と内包史25ー「マチウ書試論」再考4

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思想家としての吉本隆明がそのなかにいてそこを生きたこととはなにか。生涯、吉本隆明は大衆の原像を内在的に生きた。「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます」から離れて生きることはいちどもなかった。晩年は大衆の原像というイメージよりは徹頭徹尾大衆を基盤とした理念をつくることに心血を注いだ。そこで普遍化された理念のことを無効性の観念と呼んでいる。戦後二回目の転向をして消費社会の総体のヴィジョンをつかもうとして、吉本隆明は必死だった。消費社会の未知にたいして猛然と躍りかかり全力をあげて対象化しようとした。消費社会にたいする好悪などどうでもいい。歴史の無意識のうちに眠っていた大衆が具体的に労働者という理念を押し分けて迫り上がったきたと吉本隆明は情況を判断した。吉本隆明の思想にシンパシーを感じている読者の大半を切り捨て、苛烈に思索する。理念化された労働者を超えて大衆が消費主体として登場しているではないか。それは吉本隆明にとっておおきな驚きだった。わたしとの対談のなかで「具体的な大衆っていうものを基盤にして、『共同幻想論』でやったと同じ考え方をやろうというふうに考えて、それが、たぶん『ハイ・イメージ論』の基礎にあります」と言っている。もうこれ、まるきり大衆になった気分で、全身没入して「もしも党派の理念であるにもかかわらず、党派でない存在のほうが上位にあるんだというふうにかんがえている党派の理念があったとしたら、握手することができるような気がします。そうじゃないかぎり、いくら近くまでいったとしてもどうしても握手することはできないとぼくはおもいます。これはまたおなじで、労働者という概念と一般大衆という概念とがあったばあいに、労働者という概念より一般大衆という概念のほうが上位にあるんだという観点がなかったら、もはやだめな段階にきたとおもうわけです」(『<信>の構造2』)と言う。ものすごくわかりにくいし、曲解される。吉本隆明は言いたくてたまらない。「なぜ無効なる観念が、逸脱として、いちばん本質的なのかといえば、逸脱でないものと、ハーモニーがあるといいましょうか。ある共鳴性、一致性があるからなんだろうなとはおもいます。ごく自然に知の輪郭と、生活の輪郭とが一致した逸脱のなさと、〈無効性の観念〉とは、そこでなら共鳴を生じるでしょう」(『ハイ・エディプス論』)ここでふと吉本隆明の思想について鮎川信夫が触れたところを思いだした。かれはつぎのように言っていた。「大多数の人々にとっては、『人類の平等』は、総論とか概論とかで時たま見かける空疎な観念語にすぎないであろう。ところが、彼にあっては、それがほとんど体験的な熱い真実になっているのである」(鮎川信夫「確認のための解註」『詩の読解』所収)とてもうまい言い方だと思う。その鮎川がつぎのようにも言っている。「狭い入口から入って、狭い通路をくぐりぬけ、やっと出口にたどりついたと思ったら、そこが入口だったというのでは、ちょっと救いがない。論理が貫徹しているだけに、その救いのなさは空恐ろしくさえある。(略)倫理的としかいいようがない、その〈思い込み〉によって、論理の幅がいちじるしく狭くなっている」(吉本隆明vs鮎川信夫「存在への遡行」:鮎川信夫発言)鮎川信夫は吉本隆明の思考の特徴を言い当てている。非知への渇望が吉本隆明の生の基質としてあった。知は逸脱であり、おれは逸脱するより気ままに生きていたい。ここに吉本隆明のいつわりない生存感覚がある。

 そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、その想定のなかに何があるのかといえば、ほんとうは生活という概念よりも、〈生存〉という概念のほうがいいように思います。つまり、ある人間が死んでなくて生きて生活しているばあいの最小条件といいますか、その中からいろんなものを全部排除してしまって、ともかく〈生存〉だけはしていて、それはまさに〈生存〉しないことと対応しているとかんがえられるものです。そういう原点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日食べて明日食べて、そして今日欲望し明日煩悩し、という次元で理解するよりも、むしろ〈生存〉の最小条件を保持しているもの、というところでかんがえられると思います。だからそれは、まさに生活しないことと対応するよりも、〈生存〉しないことと対応していると云ったほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけたのではありませんが、最小限度、〈生存〉しているばあいに、それはだれにでも普遍的にある状態ということになります。〈生存〉しているかぎりはだれにでもある状態という意味合いまでいけば、その重さはすごく重いという考え方が、ぼくにはあると思います。それは、自力以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みたいな原点になると思います。
 それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、全き生命をうるということにおいては万人平等であるという、わりあい宗教的な考え方にたいしても、〈生存〉ということと〈生存〉しないという概念は、すこしちがうような気がします。ぼくは、〈生存〉という概念を、人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物それ自体であるというところでかんがえていて、それにたいして、〈生存〉そのものを再び概念に、反省的に取り出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え方は、ぼくにはないように思います。まったく物質的になくなっちゃうというところが行き止まりのような気がします。(『最後の親鸞』所収「歎異鈔の現代的意味」)

生存しないことと対応する生存の最小与件を包括する理念のことを吉本隆明は無効性の観念と呼んでいる。そこでなら自然に知の輪郭と生活の輪郭が一致したハーモニーが生じると吉本隆明は言う。なんとしてでもおれは市民主義の理念の彼方に行きたい。マルクスが富の公平な分配のしくみをつくることで歴史を人間の真の自然史にしたかったように、吉本隆明は逸脱でない人びとの生の営みを自然史に還元したくてならなかった。それはかれ自身の願望でもあった。わたしは吉本隆明の生存しないことと対応する生存の最小与件は特異な概念だと思う。死ねば死にきり、自然は水際立っているという言葉がすきだと吉本隆明は言っているが、おなじ言葉の響きがある。ひとりで完結する関係をふくんでいない概念だ。「歩く浄土126」で取りあげたことに引きよせて言うなら、石原吉郎のラーゲリ体験を撥ねつけるありかたに厭なものを感じる。「ものすごくあの人は、反感を持ってたんですよね。詩のおしゃべりに行ったとき一緒になったことがあって、ここにいたって口なんかきかないわけです。そっぽを向いてものすごく反感を持っていたんですね。その反感は、たぶんぼくがそういうふうなことを書いたからだとおもいます。そのときに、おまえがどうしてわかるもんか、この体験がわかるかみたいなことがあるから、そこの問題は、ぼくはあるようにおもうんです。ぼくは、あなたの内包表現論のなかで出てくる石原さんの見方、扱い方をみてると、やっぱりあなたは外界を失っているところにとても惹かれているんだなと受けとれました」。吉本さん、まるでちがう、それはあなたの問題なんだよ。
石原吉郎が体験を漂白することができず、言葉の膝を抱えてうずくまっていることをそのまま了解することだよ。おまえがどうしてわかるか、などという表層の出来事ではない。おまえには国家や政治についての考察がないではないか。こういう撥ねつけかたをすることで吉本隆明はなにか大事なことを生き損ねている。それは生存の最小与件に追い込まれた生と生存しないこととも対応している。「ぎゅうの目」に遭うと、まず主体が剥落する。つづいて形容詞が脱落する。雨が降り風が吹くように非人称の動詞が支配する世界だ。体験的にそう思う。「人間の体験のなかには、よしんばそれが共同の体験であっても、絶対に共有できない部分があり、その部分を確認することだけが、かろうじて〈私が生きた〉という実感につながる。そして、その実感を逆に私自身に確認させること。〈私の〉詩が私にできることは、それだけである。〈詩に何ができるか〉を一般的に問う場は、私には欠けており、欠けたままである」(「三つのあとがき」・『石原吉郎詩集』)出来事は内面化できないと石原吉郎は言っているだけなのだ。いろいろ大変だったのですね。それだけのことだ。吉本さん、なぜそのひとことが言えない、それはあなたの問題なのだよ。生存の最小与件に追い込まれて選別されて、死ねば死にきりか。まったく物質的になくなればそこが行き止まりか。なにかが損なわれている。ひとりで引きうけふたりとしてひらくということに生の本来性がある。吉本隆明の生死の概念はとても身勝手なものだとわたしは思う。そういう吉本隆明にとっても親鸞の他力が迫真の力で迫っていた。

親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の知をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。なぜならば〈無智〉を荷っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから、じぶんではどんな〈はからい〉ももたない。かれは浄土に近づくために、絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって、究極の境涯でなければならない。しかし〈無智〉を荷った人々は、宗教がかんがえるほど宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極のところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。そのとき〈無智〉を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなければならない。最後の親鸞はその課題を強いられたようにおもわれる。(決定版『親鸞』)

とても美しい親鸞論だと思う。わたしの理解する最期の親鸞は仏の言葉を解体し、すでに仏は第三者ではなく、仏が親鸞であり、親鸞が仏であると領域化されていた。親鸞は楕円体のようにして領域として存在していたということだ。阿弥陀仏にかたちがないと言う親鸞にとって、仏はあまりに近すぎて可視化できない他者としてあった。親鸞はひとりでいてもふたりだった。その身上を自然法爾と名づけている。吉本隆明にとって親鸞を理解することと、他力を語る自身の境涯は、分裂していた。親鸞の他力は仏との合一であるが、無効性の観念による逸脱でないものとの合一は此岸に訪れることはなく彼岸にしかなかった。親鸞は煩悩にまみれ、極悪深重の身を重ね、悪人正機をつかんだが、吉本隆明はオウムサリン事件を契機に、人を殺すごとに浄土に近づくと、親鸞理解を変えたと発言した。意識をきりなく外延して、つくられる無意識を生に外挿し、母型論という意識の祖型を準拠に、アフリカ的段階を構想したが、どこまでいっても孤独な貌をしていたと思う。最期の親鸞は一人称を二人称として生きていた。親鸞は一人称のありかたをつくりかえて、浄土教の教義を解体した。自力廻向と還相廻向は無関係である。そのように吉本隆明も自身の他力を語ればよかったが、還相廻向を理解することはできても、そのなかにいてそこを生きることはなかった。領域としての親鸞は、変わるだけ変わって変わらない自然法爾の世界を生きた。なぜ吉本隆明は一人称という思考の慣性をつくりかえることができなかったのか。吉本隆明の天皇体験が浅かったことに由来するのではないかと思う。体験もまた面々のはからいだから、体験の軽重を比較しているのではない。天皇体験を内省して書かれた「マチウ書試論」の「関係の絶対性」は「転向論」で社会総体のヴィジョンをつかみそこねたことから起こる思考転換だと抽出された。わたしは吉本隆明のこの思考の過程のすべてが線型的であると述べてきた。べつの言い方をすると、世界を自力廻向で表現してきたと言うことだ。天皇体験で観念的な死を生き、オウム擁護でもういちど生死を賭けた。いずれもいずれも体験が浅い。「麻原彰晃の『生死を超える』という本の、輪廻転生について述べている部分を読みますと、自分はイメージで受精の段階まで遡れる、さらに受精以前の前世や、来世にも行けると言っているわけです。その修行の過程を、はっきり体験的に表現しています。僕が自分なりに、科学と宗教を同じくする実験の方法を考えたときに、唯一ヒントになったのが麻原彰晃なんです」「麻原が言っていることは、今は宗教としか呼べないものですが、例えば遺伝子生物学が発展していけば、科学と宗教が同じものになるかもしれない。遺伝子を主体に考えれば、遺伝子は親から子へと伝わるんですから、前世も来世も存在すると言えます」「しかし、無意識と幻覚の間の関係を考えていけば、宗教でいう前世・来世に対する、精神科学的な理解は成り立ち得るのではないでしょうか。つまり、フロイトのいう無意識をさらに範囲を拡げて考えると、宗教によって幻覚をつくり出すという現象を科学的に解釈できるのではないでしょうか」(『宗教論争』吉本隆明vs小川国夫)こんな理解のどこに豊穣な生の未知があるか。願望として親鸞の他力を語ることと、他力を生きることは千里の隔たりがある。吉本隆明はじぶんに固有の他力を表現すべきだった。意識の特異点としてあるはじまりの不明は意識の解像度をどれほど精妙にしても、あるいは意識に無意識を接合しても、表現の特異点が解消されることはない。ひとりでいてもふたりであることのなかにだけ人間の意識の起源がある。

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一人称の思考の慣性の延長にはどんな未知もない。一人称と国家や貨幣は不即不離であり、一人称は国家と貨幣を必然とする。マルクスが往相の過程の貨幣のしくみを解明したが、交換が贈与になることはないように、吉本隆明が往相の国家のしくみを解明しても、国家から降りることはできない。自力廻向をどれほど精密にしても還相廻向に到達することはない。吉本隆明が麻原彰晃に肩入れしたようなことは強いAIが早晩実現してくれる。それは必至だ。一人称を、外延意識の一人称と二人称をふくみもつ領域としての自己とするとき、世界はまったく未知の可能性としてあらわれる。

この数千年もおなじ形で繰り返されてきた心理学的な構図にはどんな永続的な意味があるのか? それをはじめて経験的に発見して記録したマルコ的な世界の心理学にはどんな永続性があるのか? この構図はたぶん現実の秩序に背反するもののあいだでも背反されるもののあいだでも変りはない。共同の意志が明確で強い〈結合〉の既判力と直接性があるところでは普遍性をもっている。この背反とどす黒い憎悪の起源は、人間が本質的に自己に背反するものとして動物からじぶんを区別したというところにはなかった。人間はその関係としての他者とのあいだに自己自身にも他者にも自由にならない共同の観念をつくりあげてしまい、個人の意志的な志向にたいして共同の意志として働いてしまうところにこそ、この心理学の起源があったというべきかもしれない。さまざまな宗教的なまた道徳的な緩和法のなかにはこの視線は欠けている。けれど生々しい体験は息づいている。(『論註と喩』所収「喩としてのマルコ伝」)

だがあらゆる太古の原始的な共同体は人間の自然的な自由の公約数として造りあげられたはずだ。かれらは生存に必要なかぎりで、必要な範囲でだけ共同の管理に採取物をゆだね、その他については自然的な自由を享受したかもしれぬ。この自然的な共同体は、共同体の相互のあいだに第三の共同体をつくりあげる必要がおこったときに人々の桎梏になりはじめる。人々はじぶんたちが合意でつくった共同体が独立した意志のようにじぷんたちに桎梏をふりまくのを体験した。そのとき〈罪)をおぼえさせられた。そして〈罪)をおぼえたものたちは次第に、共同体の意志や、その保護から離脱していった。どこまで落ちこぼれて行けたのか。その態様はさまざまであったとしても、共同意志から落ちこぼれた者たちのあいだに、さらに利害と意志の対立がおこったときに、相互のあいだから第三の落ちこぼれが生みだされていった。そこまでは〈罪〉の深さの意識はとどいたことは疑いない。共同体の意志を規範として意識しなければならなかった度合と質において〈罪〉の意識の度合と質とは決定された。アジア的な共同体においては、第三の落ちこぼれの度合があまりに深くはげしかったので、共同体の意志は規範として底辺まで届かないほどであった。あるはあいは自然的な共同体のうえに第三の共同意志が聳えたって重層された。(同前)

このふたつの引用からすぐわかることがある。いずれの引用の中身も高度な共同体の存在を前提としている。練りあげられた親族組織があり、外部に共同体が位置している。黙契や因習や掟によって生は囲繞されている。こういうモダンな共同性や掟の支配する世界を論じてもなにも新しい知見が出てくることはない。若い吉本隆明が書いた「マチウ書試論」の世界もそうだ。原始キリスト教団そのものがモダンなのだ。そのモダンを現代のモダンで批評してモダンな知見が積みあげられる。
トッドの『家族システムの起源』は精神の古代形象がどういうものであるかの手がかりを与えてくれた。トッドは初期人類の最初の家族の構造は核家族であると言う。伝統的なモデルでは、社会の発展は、複雑だった家族構造がシンプルになっていき、個人というものが登場し、家族構造が個人中心になり、もっと自由になり、もっと進歩するということになっているが、グローバル化の夢は一致に向かう夢であり、思想的には美しいが幻想にすぎない。人類は分岐、分散していく。それが家族構造の力学だということを発言している。初期人類が核家族であったという知見には意表をつかれた。初期人類は比較的ちいさなバンドで生きていたということになる。そうすると先史時代の精神の古代形象はわたしたちと変わりない身体の体制のまわりに数家族の核家族が集まった心象風景を想定できることになる。ユヴァルも顔見知りの集団の数は上限で150人であると明確に言っている。
トッドの気づきを表現の喩としていってみる。
「はじまりの不明のはじまり。食と性が分有されたということ。深雪の凍原で一緒に暖をとり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を怖れおののきながら一緒に食べ、いつも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された。ここに意識の起源があり、ここに表現としての精神の古代形象のはじまりがある。内包というささやかな贈りものは同一性によって引き裂かれているようにみえる。そうではない。リトル・トリーのおじいさんが、今生はなかなかよかった、来世はもっといいだろう、また会おうな、と孫に言葉を託す。その心ばえ。内包の面影がここにもある。生の原像を還相の性として生きるとき、生は内包の贈りものとしていつも生きられる。そのことを歴史としてつくることも可能だ。なぜならば内包がいつもわたしたちのなかにきりのない善きものとして存在しているからである。他者をじぶんのうちに認める内包という情動が世界をつくった。自己に先立つ根源とのつながりのなかに生の豊穣さがある。それが身が心をかぎる自己同一性のほんとうの起源なのだ。生の玄妙さを享受しようとして自己という認識のかたちが招来された。自己という現象は根源の性を味わい尽くそうとして誕生した。この認識によって自己のありかたも歴史のありかたも根柢から拡張されることになる」(『喩としての内包的な親族』あとがき)

精神の古代形象としてある情動を内包論ではつぎのように考えた。

「ふたたび内包と外延を往還しながら悶絶したことにもどる。こんぐらがった意識がほどけてしまうとあっけない。なんでこんなことがわからなかったのかという具合。意識のしばりとはそういうものだと思う。根源の性の分有者ということについていくつかの錯認があった。根源の性を『あいだ』として空間化することはできない。ひとであることの根源が〔性〕であるということをいまはそう考えている。自己という現象の奥まったところにある根源の性は無限小のものとしてだれのなかにも内挿されているのだ。また根源の性の分有者という知覚は機縁によってのみ起こるということ。それはまったくの受動性であり、内包的表現意識による他力といってもよい(親鸞の他力とはわずかに違う)。分有者を空間化すると往相の性としてあらわれる。つまり、根源の性の分有者は同一性のしばりをうけるが、分有者という内包的な表現意識のいちばん奥まったところには還相の性があるということ。この知覚は外延論理の世界では領域としての自己としてあらわれることになる。このとき外延論の世界での三人称の関係は共同性ではなく、喩としていうのだが、あたかもゆるやかな親族のようなものとして主観的な意識の襞を超えて現象することになる。根源の性の分有者は還相の性ということにおいて〔わたし〕が〔わたし〕でありながら〔あなた〕でありうる唯一の場所であるとわたしは思う。ひとが根源において〔性〕であるとはそういうことだ。内包自然の真ん中にひっそりと還相の性があり、外延表現では空間化できないという意味において、幻想の共同性である民主主義を跨ぎ超す契機がここにあるとわたしは思う。このあたりの機微をこっそりヴェイユに耳打ちしたかった。わたしはヴェイユの見果てぬ夢を歩く浄土として生きている。「ある一つの秩序に、それを超越する秩序を対比させる場合、超越するほうの秩序は、無限に小さなもののかたちでしか、超越されるほうの秩序のなかに挿入されえない」(「重力と恩寵」)わたしが構想する喩としてのゆるやかな親族構造のようなものもまた無限に小さなかたちで秩序のなかに挿入される。根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある」(『性と精神の古代形象』あとがき)

自己と共同性の矛盾や対立や背反がなぜ生まれたのか。心身のモナドがそれを要請したからだとわたしは考えた。一人称のつくりかたが思考の慣性を呼び込み、それを同一性が統覚することでおおきな自然は文明の外在史として、ちいさな自然は精神の内在史として疎外された。この認識の枠組みのなかで原始キリスト教団もそれぞれの宗教の教団も、国家も貨幣も存在しつづけている。一人称のつくりかたを変えることで、三人称として疎外された意識の諸形態は領域としての自己に上書きされて、喩としての内包的な親族となる。交換はおのずからなる贈与へと転換する。内包論によって自己のありかたも共同性のありかたも根本的に変化する。存在の複相性を往還すると、モダンな人類史とはべつの人間の関係のありかたが立ちあがる。精神の内在性が必然とした共同性のくびきは内包世界のなかにまるごと陥入することになる。「マチウ書試論」の「関係の絶対性」を根本から組み替える。(この稿つづく)

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