日々愚案

歩く浄土232:アフリカ的段階と内包史19ーヴェイユの自然5

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夭折したヴェイユの生きた自然は晩年の幾冊かの本のなかにある。教師の資格を取ってから労働運動にのめり込んだ時期を初期のヴェイユと呼べば、工員として現場の仕事をし、心身ともにへたり込んだ時期を中期、それ以降を後期のヴェイユの思索と考えてもいいと思う。『自由と社会的抑圧』という初期の論考は凡庸な秀才の手になる研究で後期のヴェイユを予兆させるきらめきはない。わずか10カ月の工員の体験がヴェイユをおおきく変えたように思う。ヴェイユの著作のうち『重力と恩寵』『根をもつこと』『ロンドン論集とさいごの手紙』『神を待ちのぞむ』に思想の濃さが固有のものとしてあらわれている。わたしたちがヴェイユの思想に惹きつけられるものがあるとすれば、この後期の思想のことを指しているのではないか。初期も中期もひとりよがりの凡庸な才しか感じられなかった。僧籍を召し上げられた親鸞が僧にあらず、俗にあらずという思想から浄土門の教義を解体しはじめたのがヴェイユが生を終えた年頃だから、親鸞の生涯とヴェイユのそれを同一視することはできそうもない。ヴェイユが死を生き延びたらどんな思想をつくったのだろうか。内包論ではないかと思っている。ヴェイユの思想を終わりのはじまりとしてすでに鎌倉の時代にヴェイユの思想を先駆けて親鸞は生きたが、それにもかかわらず親鸞の思想につながる独特の思想の深さが晩年のヴェイユにあった。

初期のヴェイユのマルクスの思想やマルクス主義にたいする批判のなかに後期のヴェイユに思想やわたしたちの生きている現在に通じる思索がある。

学説を理解するには、マルクス思想がヘーゲルに端を発することを想起せねばならない。ヘーゲルは宇宙のなかで隠れてはたらく精神の存在を信じ、世界の歴史とはこの世界精神の歴史にほかならず、精神的なものの習いとして世界精神は際限なく完全性をめざす、と信じていた。マルクスはヘーゲル的弁証法を「逆立ちしている」と非難し、「足で立たせる」と主張した。そこで物質を歴史の動因たるべく精神にとって替わらせたわけだが、マルクスはこの代替による修正を手始めとして、精神の本質にほかならぬもの、すなわち最善をめざす絶えざる熱望を物質に帰属させるがごとく、歴史を構想してしまった。この点でマルクスは、資本主義思想の一般的潮流と深く一致する。進歩の原理を精神から事物へと移行させるとは、すなわち「主体と客体との関係の転倒」に哲学的な表現を与えることであり、マルクスはこの転倒にこそ資本主義の本質をみていた。大工業の躍進のおかげで、生産力はある種の宗教を司る神へとなりあがった。歴史の構想を練るにあたり、マルクスは意に反してこの宗教の影響をこうむった。マルクスとの関連で宗教という語は意表をつくだろうか。しかし、人間の意志と、世界内で作用して人間を勝利へと導くとおぼしき神秘的な意志とが、奇しくも合致するという信念、それは宗教的な思考であり、神慮への信仰にほかならない。マルクスの語彙もこのことを証する。「プロレタリアートの歴史的使命」といった類の神秘主義とみまがうばかりの表現を含むからだ。生産力という宗教を楯に、数世代にわたる企業主たちは、いささかの良心の呵責もおぼえず労働者大衆を蹴散らしてきたわけだが、この宗教たるや、社会主義運動の内部でもひとしく抑圧の一要因を構成するものなのだ。なべて宗教は人間を神慮のたんなる道具とする。社会主義もまた、人間を歴史的進歩に、すなわち生産の進歩に奉仕させる。よって、近代ロシアの抑圧者たちがささげた崇敬のせいでマルクスに加えられた冒瀆がなんであるにせよ、マルクス自身も完全に咎なしとはいえない。たしかにマルクスは、自由と平等を求める高邁な熱望のほかに動機をもたなかった。ただし、この熱望も、かれの精神のなかで混在している唯物論的宗教と切り離されてしまうと、マルクスが侮蔑的に空想的社会主義と命名したものに吸収されるほかなくなる。もしもマルクスの仕事がもっと貴重なものを含んでいなかったならば、すくなくとも経済分析は例外としても、すっかり忘却されても支障はなかったろう。(『自由と社会的抑圧』所収「マルクス主義の批判」富原眞弓訳)

ヴェイユのマルクスの思想の受け取り方とわたしのそれはまるでちがう。わたしたちの時代ではマルクスの思想の神通力はすでに地に堕ちて、時代の指針となるものではなかった。すでに過ぎた思想だった。すくなくともわたしにはいちどもマルクスの思想の威光が及んだことはない。ヴェイユにとってマルクスの思想の重力から逃れ出ることは困難を極めたのではないかと思う。ヴェイユより後発の思想家であるフーコーや吉本隆明はマルクスの思想の神通力を相対化するのにものすごい思考を費やした。フーコーの『言葉と物』や吉本隆明の『共同幻想論』はそういうものとして存在している。

25歳のヴェイユは「悪は、はるかに深く、はるかに広く根をめぐらせ」ているので「すべてを問いなおす覚悟」でこの論考を書いている。わたしも内包論を考えはじめたときヴェイユの気づきに気づいていた。肝心なところだから貼りつける。

通常ひとびとは存在は自己が所有する出来事だと思っている。こういう臆見が人類の歴史をかたちづくってきた。ヘーゲルの「段階」という歴史の概念も、人間の社会の発展を自然史的過程と考えるマルクスの考えも、この臆見はすでに前提として繰り込まれていて、自己という存在の一義性が疑われたことはなかった。もちろんひとびとがこういった存在のありようを受け入れたことには充分な根拠がある。そのいわれを解かずにただ指摘するだけでは存在概念の拡張はありえない。この点に関して三木成夫の著作からいくらかの示唆を受けた。「いまのここ」に「かつてのかなた」の「面影」を感得し、生を情感ぶかく包みこむというのが三木成夫の表現のいちばんの特徴で、彼は天与の直感によって、生きているということを自然に還元して考える最良の思想を見せてくれた。内から湧きあがる広大な無償の気のうねりを、湧きあがるエネルギーのおもむくままに、解剖学の言葉でリクツをつけてみた、それが彼の自然学だ。吉本隆明が三木成夫の「初期論」的方法をマルクスになぞらえたがるのも無理はない。それほどの圧倒的な力が彼の言葉にはある。ところで、生物の基本的な体制を「食」と「性」の双極性において見るというのが三木成夫の基本的な考えだが、私は、「食」と「性」の双極性を、あらためて対の内包という〔性〕で結びなおした霊長類が人間と呼ばれるものではないかと考えた。そこにおいてはじめて人間に固有なものが現象する。三木成夫に宿った天与のうねりがイメージする〈融〉の世界や螺旋になった〈流〉の世界を、対の内包という性を主体とする存在概念において結びなおしたら人間はもっと良いものになる気がしてならない。「いまのここ」に「かつてのかなた」を感得しても、「いまのここ」は「かつてのかなた」をいやおうなくはみだしまう。それが生きるということなのだから。つまり人間は「食」において動物と連なり「性」において断続し、ここにおいて言語が起源を成している。ここを少し敷衍する。歴史の近代が発見するとどうじに隠蔽した罠にはまっているという点で、ヘーゲルもマルクスも吉本隆明も同じ轍を踏んでいるといえる。ヘーゲルにとって意識は世界そのものだから、意識を実現することは世界を実現することに等しく、その体現が世界精神であると考えた。それが私たちの知るヘーゲルの意志論だ。揶揄するわけではないが、ヘーゲルにとって可愛いのはきっとじぶんだけだったのだと思う。マルクスは自然哲学ではそうは考えなかった。彼は思想の根柢に関係を据えた。男性の女性に対する関係のなかに人間の由縁である自然的な本質を洞察し、その精緻な外延化の総体を意志論を手放さずに表現した。「個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならない」(『資本論』)という確信を貫き、間然するところのない『資本論』という作品を創った。思想はいつも誤読される。しかしマルクスの思想の布教者がひき起こした人類史的な厄災の大半はすでに過ぎたといってよい。(『Guan02』)

なんとしてでもヴェイユはあの戦争期を生き延び、不在の神を終わりの始まりとする思考を持続し、内包論まで来るべきだった。ヘーゲルの世界精神は西欧の宗教であり、ヘーゲルの思想を転倒させてプロレタリアートの歴史的使命を『資本論』で唱えたマルクスの思想も宗教であり、マルクスの思想をひとつの極とすれば、もうひとつの幻想論が可能だと考え、大衆の原像を礎にした吉本隆明の思想も宗教である。いずれの思想も共同幻想からの還り道がない。だから相対的な善と相対的な悪が相克する世界史しか描けていない。「悪は、はるかに深く、はるかに広く根をめぐらせ」ている。この生存感覚はヘーゲルにもマルクスにも吉本隆明にもなかった。だから適者生存という世界の無言の条理を外側からなぞることしかできなかった。「物質を歴史の動因たるべく精神にとって替わらせたわけだが、マルクスはこの代替による修正を手始めとして、精神の本質にほかならぬもの、すなわち最善をめざす絶えざる熱望を物質に帰属させるがごとく、歴史を構想してしまった。この点でマルクスは、資本主義思想の一般的潮流と深く一致する」。たしかにそうだ。なぜ、ヘーゲルやマルクスや吉本隆明の思想は世界を外側からなぞり、内面と外界という表現式しかつくることができなかったのだろうか。自己を実有の根拠として世界をつかまえようとしたからだ。だれがどんな個性的な表現をなそうと、主体を統覚する同一性を秘匿し、主体を実体だとみなす表現は非情な世界へ帰順するしかない。

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ヴェイユが論考『自由と社会的抑圧』を書く前年、24歳のとき、1933年10月にトロツキーと会見し、互いに激しく論難する。『自由と社会的抑圧』の翻訳者富原眞弓はその様子をつぎのように解説のなかで触れている。

 ヨーロッパ全域に暗雲たちこめるなか、ヴエイユは一九三一年にパリ高等師範学校を卒業するや本格的に労働組合運動に身を投じ、三〇年代前半のできごとの多くに密接にかかわった。トロッキーの息子のレフ・セドフはヴェイユの両親のアパルトマンにしばしば投宿した「友人」であり、三三年の年の瀬、トロッキー自身も妻ナターリア・セドーヴァとふたりの武装した護衛を伴ってアパルトマンで数日をすごした。ヴエイユはこの機会をのがさず、ロシアが労働者の国家であるか否かをめぐってトロッキーと激論を交わした。この時点でヴエイユはすでに、ロシアの国家体制の歪みをまねいた原因は、たんにスターリン独裁の実践上の誤謬だけでなく、レーニン、さらにはマルクス自身の理論上の瑕疵にも求められるべきだと考えていた。もちろんトロッキーは激怒した。問題はあってもロシアはやはりれっきとした労働者国家だと考えていたからである。それでもトロッキーはヴエイユのアパルトマンを退去するさいに、「第四インタナショナルが創設されたのはお宅でのことだといってもよいですよ」と述べた。
 若きヴェイユもトロッキーへの敬意を失うことはなかったが、トロッキーにぶつけた疑問を翌年の論考「自由と社会的抑圧」で展開することをためらわなかった。第一章「マルクス主義の批判」では、世界同時革命の蓋然性の低さと生産力の際限なき増加の不可能性を根拠として、プロレタリア革命待望論が十九世紀に固有の神話的一形態であり、「覚醒せる労働者の歴史的使命」なるものは空疎な合言葉にすぎないと指摘し、歴史の必然としてプロレタリア革命の到来を説く教条化した科学的社会主義を糾弾する。祖国を追われたトロッキーをはじめ、いまだ多くの左翼活動家や知識人がソ連の指導的役割に期待をよせていた時代にあって、大胆かつ無謀と思える言論であった。

ノーベル文学賞を拒否したサルトルは、毛沢東万歳、人民が希望の星であると戯けたことを言い遺して死んだ。サルトルは卑小ではあるが偉大ではない。ヴェイユが罵倒したトロツキーは、スターリンから指嗾された暗殺者から逃れて流浪し、1940年メキシコで暗殺される。ヴェイユのトロツキーを批判する激しさはどこからきたのか。小娘が、血で血を洗う殺戮のなかをかい潜って生き延びたロシア革命の立役者トロツキーをなぜ批判しえたのか。おなじ問いを吉本隆明ももった。

 シモーヌ・ペトルマンのヴェイユ伝(『詳伝シモーヌ・ヴェイユ』第七章)には、一九三三年十二月末にヴェイユ家が場所を提供した第四インター結成にあてた会合のため、やってきたレオン・トロッキーが、ソ連は労働者の国家といえるかどうかヴェイユと議論したと記されている。ヴェイユはそのときの議論の内容についてメモをのこしていて、この伝記の著者は引用している。
 たぶん、ヴェイユは国家機関にいる共産党官僚に専制をゆるしているロシアの労働者たちをみれば、ソ連邦は労働者の国家とはいえない。国家機関の解体、社会の個人にたいする従属が出来あがらないかぎり、プロレタリア革命の成就とはいえないと主張した。トロッキーは興奮していう。
「きみはまったく反動的だ……
 個人主義者たち(民主主義者、無政府主義者たち)が完全に個人を防衛することは決してない(それはできないことだ)。ただかれらの個性をそこなうものに対してのみ(戦う)にすぎない。」
 これはトロッキーらしいなかなかいい見解だといえる。ヴェイユもまたヴェイユらしくいいことを言いかえしている。
「-観念論的なのはあなたのほうだ。あなたは隷属させられている階級(労働者-註)を支配階級と呼んでいるのだから」
「-このようなペテンに服従している若い世代に何ができるでしょうか。
 -(逃げ口上のがっかりするような返事)」
 ところで相手へのぴたりとはまったトロッキーとヴェイユの相互批判の面白さはいまでも興味ぶかい。労働者が国家官僚に従属しているロシアは労働者国家ではないというヴェイユの批判にたいして、トロッキーが「支配」(と従属)の意味をどう理解しているのかは、ここで真面目にとっていい核心になる。
「ロシアの労働者は、自らが政府を黙認する範囲で政府を防御している。なぜなら、ロシアの労働者は資本家たちが政権の座に返り咲くことより、今の政府のほうがいいと考えているのだから。労働者の支配(と)は(労働者による支配とはの意味-註)、つまるところ、こういうことなのだ。」
 このトロッキーの見解はどうかんがえてもおかしかった。こんなふうにいうためには政府(国家)はいつでも労働者や一般民衆の無記名投票でリコールできるようになっていること、そして労働者や民衆の異議申立てをいつでも弾圧できる国軍や警察をもたないことが、かならず必要な前提になければならない。ヴェイユの論旨のほうがよかった。ヴェイユはすぐに、「-しかし、ロシア以外でも労働者は(自国のどんな政府でも-註)黙認していますが……」と皮肉っている。かりに弾圧の恐怖がなくても、声をあげるのがあまり馬鹿馬鹿しい場合だって、「労働者」は(人間は誰も)黙認することがありうる。ロシアの「労働者はやっと一九八〇年代末になって我慢しきれずに声をあげた。歴史はレーニンやスターリンはもちろん、トロッキーの言説をも審判したことは明瞭だ。ソ連邦共産党の国家支配は現在、歴史を劃する解体にさらされている。この事態にヴェイユの生涯にわたる思想が、すべて生きて超えるかどうかはわからない。だが初期ヴェイユがレーニンやトロッキーよりは、はるかに甦っていることは疑いえない。(『甦るヴェイユ』)

ヴェイユとトロツキーの論争について吉本隆明は脳天気なことを言っている。吉本隆明の発言はかぎりなくばかばかしいと思う。労働者や一般大衆の無記名の投票で政府をリコールし、そうするには異議申し立てを弾圧する国軍や警察をもたないことが前提とされねばならない、と。なにを言っているのだ。皇軍の蛮行を大衆はそういうものであると軽くいなし、それをチェックするのが知識人の役割だとも言っている。ヴェイユの発言を擁護するようにみえてヴェイユの思想の根にあるものを損ねている。吉本隆明の思想の底の浅さが露呈している場面だと思う。現人神を信仰した体験を「マチウ書試論」や「転向論」を書くことで精算できたと考えた安易のなかに吉本隆明の思想が自力廻向にすぎないことのツケが出ているというべきか。

1921年にクロンシュタットで叛乱を起こした水兵数万人を虐殺したときの赤軍司令官はトロツキーである。クロンシュタットの水兵は全世界に向けてメッセージを発した。ヨーロッパの労働者の運動はソ連の権力を信仰し、事態を座視した。

同志労働者、赤軍兵士ならびに水兵諸君。われわれは、党派の権力のためではなく、ソヴェトの権力のためにたたかっている。われわれは、すべての労苦している者による自由な代表制を支持しているのだ。同志諸君、諸君らは迷わされている。クロンシュタットでは、全権力が革命的水兵・赤軍兵士・労働者の手中に揺られている。モスクワ放送が諸君らに語っているように、コズロフスキー将軍に率いられているといわれる自衛軍の手中にあるのではない。(『クロンシュタット叛乱』鹿砦社)

叛乱を鎮圧した者たちはつぎの末路をたどった。

ジノヴィエフ ペトログラードにおける全能の独裁者。ストライキ参加者、水兵双方にたいする無慈悲な闘争を指令。銃殺。
トロッキー陸海軍人民委員。メキシコにおいてスターリニストの手先きの手によって暗殺さる。
ラシェヴィチ 革命軍事委員会委員。ペトログラードのストライキ参加者とたたかうため組織された防衛委員会委員。自殺。
ドィペソコ 歴戦の水兵。一〇月〔革命〕以前は、バルチック艦隊中央委員会の組織者の一人。クロンシュタットの軍事的粉砕にさいして、とくに積極的役割を果す。一九三八年当時、なおペトログラード地区守備隊指揮官。銃殺。
クズミン バルチック艦隊付政治委員。生死不明。消息不明。
カリーニソ 「国家元首」として名ばかりの権力の座に留まる。自然死。
トゥハチェフスキー クロンシュタットへの突撃計画を細密に練り、その突撃を指揮。銃殺。
プンタ クロンシュクツトの軍事的鎮圧への参加によって叙勲され、のちにロソドン駐在武官。銃殺。
ピャタコフ 銃殺。
ルヒモヴィチ 銃殺。
プブノフ 公職追放。行方不明。
ザトソスキー 公職追放。行方不明。(同前)

クロンシュタットの水兵の蜂起を鎮圧した司令官であるトロツキーは目的は手段を正当化するという書簡を発表する。

-他の多くの人びとと同様に、貴兄もこの原理に悪の根源があると見ている。この原理は、それ自体非常に抽象的かつ合理的なものである。この原理は、大変多様な解釈を許すものなのだ。だが私は、唯物論的かつ弁証法的に-この原理の弁護を喜んで引受けよう。然り、私は手段というものはそれ自体では善でも悪でもないし、何か絶対的な超歴史的な原理と関係があるとも思わない。自然にたいする人間の力の優位、人を支配する人間の権力の拒否をもたらすような手段は善である。このように広い歴史的な意味からすれば、手段は目的によってのみ正当化されるものである。(同前)

これが政治だ。どういう大義であっても信の共同性は人と人のつながりを狂わせる。ヒットラーのなしたこともスターリンのなしたことも皇国がなしたことも毛沢東がなしたことも変わらない。政治がなくならないかぎり人類史の厄災が熄むことはない。政治のない世界をつくるにあたって吉本隆明の思想はまったく無効である。なぜならば吉本隆明の思想が自力廻向でしかないからだ。無記名の投票による政府(国家)のリコールも、軍隊と警察のない世界も絵に描いた餅である。ヴェイユとトロツキーの相克は過去のすぎた時代のことではない。なまなましく転形期の世界で人類史の規模で現在進行中のことでもある。合理や金という最強の共同幻想によって文明史の規模で一人ひとりの生が収奪されつつある。だれも異議を唱えない。わたしたちの生は意識の外延性で埋め尽くされようとしている。AIによる無産階級の出現や、心身がビット情報に寸断され、商品として再編成されようとしていることに否を表明する者がいるか。音を立ててわたしたちの生は崩壊しつつある。それこそが共同幻想だ。この共同幻想の脅威にだれも警告を発しない。ただ、人は個人である手前に内包的な存在であるという存在の複相性を生きるほかに国家や政治や戦争のない世界を遠望することも、貨幣の交換を贈与に転換することもできない。それだけはたしかだと思う。人類史の未知を言葉で表現することは充分に可能である。

    3

信の共同性の根に身体性があるのではないか。あるいは生を引き裂く権力の真芯に身体性が潜んでいる。精神の古代形象を考えるとそんな気がしてくる。根源のふたりを心身一元のモナドに封じ込めた最大の動因は精神の古代形象が身体性を巻き込んだことにあると考えてみる。秩序にたいして謀反を試みる者たちへの拷問や処刑も富を占有したいという渇望も、身体性の外延だと思う。もっといえば共同幻想の核に初源の身体性が刻み込まれている。吉本隆明は心的現象について以下のように書いた。

「心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成りたたない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない。」(『心的現象論序説』)

これでまたひとつ吉本隆明の思想の未然が解けた。自己幻想と共同幻想は逆立するものであると吉本隆明の主観的な意識の襞がその信を表明しても、なぜ、自己幻想と共同幻想は同期するのか。自己という心身一如のモナドのなかに精神の古代形象の初源の身体性が外延的に空間化されているからだ。意識の外延性という閉じた観念は逆立することと同期することが背反しないように円環している。個人の個人にたいする関係やべつの個人にたいする関係は身体性に還元できるが、それ以外の観念も共同性として疎外されるとき、この共同性のなかに空間化された身体性が外延されている。そのことに吉本隆明は気づいていない。なんのことはない。共同幻想を共同幻想としてつなぎとめているのは、やはり外延化された身体性だ。そう考えると共同幻想の嗜虐性や貨幣を占有したい欲望は外延的に観念化された身体性ということになる。じつはこの世界で人間がとりうる三つの観念のすべてに初源の身体性が掩蔽されているわけだ。この観念の構造をまるごと拡張することを内包論ではしぶとく考究している。三つの観念がそれぞれべつの観念に属することを同一性が統覚する。三つの観念が身体性によって統覚されていることに吉本隆明は気づかなかった。だから国家から降りる思想をつくることができなかったとわたしは考えた。吉本隆明の全幻想論を動態化するには意識の外延性とはべつの公準が要請された。国家のない世界や交換ではない贈与を吉本隆明の思想は構想することができなかった。世界認識を還相廻向として表現できないこととして帰趨したことになる。それは吉本隆明の天皇体験が内面と外界に閉じられていることに由来している。かつての大戦期をもがきながら生きたヴェイユと宮沢賢治はそれぞれに固有の神をつかんで早々と生を終えた。ふたりとも観察する理性を行使する文化人ではなかった。語りえぬ世界のただなかにいて、そこを生きた。かれらは意図せずして言葉を内包化しているようにみえる。ほぼ同時代を生きた双璧をなす表現者だとわたしは思う。存在の複相性の間近までヴェイユの思想は来ていた。(この稿つづく)

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