日々愚案

歩く浄土231:アフリカ的段階と内包史18ーヴェイユの自然4

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早熟なヴェイユが哲学教授の資格をとり、二十歳ぐらいから極左になり、工場体験を経て、生を死に追い込んでいくようにして神に向かい、神という根をもつことを渇望した生き方のなかに、意識の、ある必然があらわれているような気がする。虚偽や欺瞞や義をぬきにして世界を問うていくと、なぜこの世はこうでしかありえないのかという世界の無言の条理に突きあたる。そのとき世界を問うている者が問われるものとして世界に存在する。
わたしはヴェイユの思想のなかにある、そのなかにいてそこを生きるという生の感受性に、なにか似たものを感じてきた。ヴェイユはじぶんが生きていることを括弧に入れて世界を語ることができなかった。観察する理性のいつわりを絶えず自覚し、生きることの当事者性において世界をつかもうとした。ヴェイユの思想は解釈されることを拒んでいる。まずおまえがそのただなかを生きよ、とヴェイユは呼びかけた。さまざまにヴェイユをあげつらうことはできる。しかしその者たちはヴェイユの思想を生きることがない。この違いは決定的なものだとわたしは考えている。わたしはヴェイユより40年のちにこの国に生まれ、卑小な体験を経て、いまもヴェイユとおなじ場所に立っている。

自力の信の果てるところに親鸞の他力が忽然と理を断ってあらわれるように、ヴェイユの神もふいに実詞化できない不在の神としてあらわれた。わたしは、ヴェイユの不在の神は、言葉としては言っていないが、根源の性の謂いだと思う。善人より悪人のほうが浄土に近いと親鸞は言い、神を否定する人のほうがおそらく神により近いとヴェイユは言う。そのとおりだが、自己に先立つ神や仏という超越も根本的な矛盾を抱えることになる。この矛盾が解けないところに思考の限界が深々と横たわっている。もともと神や仏という観念は共同幻想ではないか。むきだしの適者生存を否定し、類生活を希求したマルクスは宗教の存在する要件の半分は指摘している。すくなくともつぎのことは言明した。「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。/民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる」(マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』冨原眞弓訳)このくだりのマルクスの言葉には赫奕とした思想の意志がある。神や仏はおおきな自然の脅威にたいするちいさな生の慰めであり非望でもある。地上の位階制がいかんともしがたいとき極楽への信をもつことで日々の生をしのいできた。たしかにマルクスの言ったように宗教は人びとの非情な世界を救済する極楽という共同幻想でもある。

神や仏という共同幻想が一人ひとりの生にとどくとはどういうことか。国家による統治とどこがちがうのか。この矛盾に当面して身と心がちぎれるほど考え、ヴェイユは不在の神という観念を編み出した。共同化できない神をつくるために、ヴェイユは自己を放下し、無限に無に近づけることを通じ、ヴェイユに固有の神をつかんだのだと思う。ヴェイユの思想のもっとも深いところに実詞化できない神が存在している。エックハルトやヴェイユにとって神はそのような存在としてあった。この神とはなにか。「キリストは親密なキリスト教的友情、すなわち二人の向かい合った親密さの中に、第三者としてつねに現われる、と正確に言われたのでした」(『神を待ちのぞむ』)わたしの理解ではヴェイユは第三者としてあらわれる神について究尽しきれていないと思う。なにかへと包越する過渡としてヴェイユは不在の神を考えていたのではないか。その根源的な問いに応えるまもなくヴェイユは生を終えた。

意識の外延性で神に触れるには自己を無限に放下するしかなかった。不在の神は実詞化できないので、可視化できないその神のことを不在の神と形容するしかなかった。「神に祈ること。人知れず祈るだけでなく、神は存在しないと考えながら祈ること」(『重力と恩寵』)が不在の神に照応する。不在の神がどういうものか、ヴェイユの言葉を引く。彼女はつぎのようにもいっている。「私が無になるにつれて、神は私をとおして自分自身を愛する」(同前)とてもわかりにくい言い方だと思う。おそらくヴェイユもそれがどういうことかわからなかった。神とヴェイユの関係は二人称の関係であると無意識にヴェイユは語っている。マルクスの宗教はアヘンであるという指摘はここまでは及んでいない。ヴェイユが無になるにつれて、無になったヴェイユのなかに神がしのびこんでくるという通俗ではない。内包論に引き寄せて言えば、この通俗は自力廻向であり、島嶼の国の伝統的慣習である自然生成である。衆生を照らす神の慈悲はこの通俗をつうじて共同的な信へと昇華し、天の国の位階制へと移しかえられる。ヴェイユが渇望した不在の神はまったくそういうものではない。ヴェイユは神をとおして自分自身を愛しているのではない。自己を無に放下するとヴェイユをとおして神が自分自身を愛するようになるとヴェイユは書いている。この表現のぶれはどこからくるのか。意識の外延性が自己に先立つ超越を語ろうとするとき、それはたしかに存在するが語りえない出来事として存在する。「思考の黙して語らぬ働きによって限界づけられているこの概念は、定義されることができないのである」(『ロンドン論集と最後の手紙』)とヴェイユは言っている。つまり、ヴェイユが触れることもできないほど近くにいる神と、無限小のヴェイユの関係は、意識の外延性では両義的なものとしてあらわれるほかない。

それがどういうことであるかをいうには神という言葉を動態化するあたらしい言葉が必要だった。還相の性を思考の公準にすると、ヴェイユの匿名の領域を内包化することができる。キルケゴールは自己を関係が関係それ自身に関係するような関係であると考えた。キルケゴールは神を媒介とすることではじめて「私」が「私」になる機微を告げている。不全な「私」を神が充填するという自然のことだ。べつの言い方をすると、自然が自然を埋めているということしか言っていない。ではその自然がなぜ神なのかということに答えることはできない。キルケゴールのこの神は自己を救済すると同時に共同的な信ともなりうるものである。この信の形では信の共同性の根を抜くことができない。自己の個的な実存が類的な生存になることが先験的にありえないように、この信は欺瞞の体系をつくる。貧しき者は幸いであるという聖句こそが逆説的に適者生存を理念的に支えることになる。むろんこの逆理にヴェイユは気づいていた。原始キリスト教団の苛烈な神への信がその信のなかに地上と天上の位階制を胚胎し、神を祈るごとに、そのたびに、世界の無言の条理がより強靱になることをヴェイユは生の知覚として生きていた。だから神は不在でなければならなかったのだ。

1933年24歳のとき、パリ近郊バルビゾンに潜伏していたトロツキーと会見し、1934年25歳のとき「自由と社会的抑圧」を執筆する。第一章で「マルクス主義の批判」を書いている。まもなく死をむかえる晩年、のちに『ロンドン論集とさいごの手紙』として編纂された『人格と聖なるもの』のなかでヴェイユは言う。

 集団に聖なる性格をあたえるという錯誤が偶像崇拝なのである。偶像崇拝は、いかなる時代、いかなる国においても、もっとも広くゆきわたっている罪である。自分にとって人格の表出だけが重要だと考える人は、聖なるものの意味すら、完全に喪失してしまった。これら二つの錯誤のどちらが、はたしてより悪いかを知ることは困難である。これら二つの錯誤は、同じ精神の内部で、かくかくの調合のもとに結合されていることがよくある。しかし、第二の錯誤の方が、第一の錯誤ほどの力ももたないし、持続性ももたない。
 霊的な見地からいえば、一九四〇年のドイツと一九四〇年のフランスとのあいだの戦いは、主として、野蛮と文明とのあいだの戦いでも、悪と善とのあいだの戦いでもなく、第一の錯誤と第二の錯誤とのあいだの戦いである。第一の錯誤が勝をしめたとしてもそれは驚くにはあたらない。なぜなら、本来的に第一の錯誤の方がより強固なものであるからである。
 人格が集団に従属することは、破廉恥な行為ではないのである。それは、秤皿の上では重量の少ないものが大きいものに従属する関係のように、およそ機械的事実に属するひとつの事実なのである。人格の表出と名づけているものにいたるまで、またそれをも含めて、実は、人格はつねに集団に従属している。
 例えば、自分の芸術をかれら自身の人格の表出であるとみなす傾向のもっとも強い芸術家や作家の場合が、まさにそうである。かれらは、実は大衆の好みにもっとも迎合しているのである。・・・しかもその流行は、帽子の形にたいしてよりも、学問にたいする影響力のほうが強い。専門家たちの集団的意見は、専門家たちひとりひとりの上に、ほとんど絶対的な力をおよぼすのである。
 人格は、事実においても本来的にも、集団に従属しているので、人格に関連する本来的な権利というものは存在しないのである。
 古代には人格に当然支払われるべき敬意という概念が存在しなかった、と言われる時、それは正しいのである。なぜなら、古代人は、ものごとをあまりにも分りやすく考えたから、このように複雑な概念を思いつくことはできなかったのである。無人格的なものの中へわけ入るために、人格的なものを超越することによってのみ、人間は集団的なものから逃れる。この時、人間の内部にはなにかが、つまりたましいの一部分があって、それにたいしては、どのような集団的なものもいかなる影響力をおよぼすこともできないのである。もし、そのなにかが無人格的な善の中に根づくことができるならば、つまり、そこからある養分を汲みとることができるようになるならば、必要な時にはいつでも、いかなる集団にたいしてであろうと、別の集団の力を頼りにしなくても、そのなにかは、確かに小さくはあるが実在するある力を、動かすことができるのである。

ヴェイユの生や歴史の概念が輪郭をもつには内包論を待つほかなかったが、ヴェイユは悶絶しながら、生きられたこともつくられたこともない生や歴史の概念を、かすかに、手造りのものとして言おうとしている。なにをやっても間に合わない時代のなかをヴェイユの生は駈けぬけ、人格を媒介にした同一の精神の内部で野蛮と理性が相克しているようにみえた。そのときどちらが善でどちらが悪か。信が集団的に語られるかぎり、判別がつかないとヴェイユは言う。むしろそれが人類史だと言ってもいい。人間の内部には人格を超越したたましいの一部分があって、その聖なるものにはどんな集団性も影響力をもつことができないという。人格の底にある聖なるものに気づき、匿名の領域が存在することを言ってまもなくヴェイユは生を終えた。変わるだけ変わって変わらない、変わるほどに変わらない、存在の内包性のすぐ近くまでヴェイユは来ていた。わたしはヴェイユの言葉にはおそろしいほどの射程があると思う。「自我と社会的なものとは二つの大きな偶像である」ことを思想として表明したのはヴェイユがはじめてだと思う。ヴェイユが思想として提起した思想のおおきさはまったく読み解かれていない。なぜかれらは解けない主題を解けない方法で解こうとしたのか。解読者たちが「社会」思想の持ち主だからだ。ヴェイユはかれらの意識の襞にある自力廻向の信を解体し、還相廻向の信として、じしんの生と歴史を未知の生の様式へと超出しようと試みた。

たとえばつぎの言葉はどうか。

現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、すべてを問いなおす覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。権威主義的で国粋主義的な運動が勝利して、およそいたるところで、律儀な人びとが民主主義と平和主義に託した希望がくずれさっているが、これもまた、われわれを苦しめる悪の一部にほかならない。悪は、はるかに深く、はるかに広く根をめぐらせる。そもそも活動と希望の源泉が人間の生存条件に汚染されていないような、公的または私的生活の領域など存在するのか、と自問することもできよう。

「自由と社会的抑圧」の「序」。25歳のヴェイユが書いた80年前の文章。まったく古びていない。ITや、ITと結びついた金融工学や遺伝子工学を加えれば、わたしたちが目撃している世界の現在そのものだと言っていい。自我と社会はグローバルな先端知という共同幻想に覆われ、わたしたちはそのシステムの取るにたらない属躰となっている。ヴェイユの生きた時代の現在とわたしたちの現在はなにも変わっていない。「悪は、はるかに深く、はるかに広く根を」張っている。むきだしの生存競争だ。その日々をわたしたちも生きている。知識人と大衆という生の分割支配による統治ではなく、じしんをたくさんの中の無力な存在として生き抜くことでヴェイユはついに匿名の領域の存在を覚知した。匿名の領域はヴェイユの第十八願だった。卑小であることがそのまま偉大であることは思想にとっての巨歩だったと思う。いったいだれがこの思想を読み解いたか。

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ここまできてある可能性に思い至る。これまでのじぶんの体験の根を洗いざらい反芻し、自己幻想と共同幻想は同期するといってきた。べつの言い方をすることもできる。西田幾多郎の、特異で空疎な、自己のなかの絶対の他という理念がある。個人と社会を自然へ融即する思想だ。典型的な自力廻向の信で、聖道門の中心的な理念である。親鸞が生涯をかけて批判した自力廻向の考えだ。なぜ親鸞は自力廻向をそこまで批判したのだろうか。わたしの考えでもあるが、自力廻向ではたしかに、自己と自己のなかの絶対の他を不可分・不可同のものとしてとらえて自己を自然に融即することができる。覚者の他に仏なしという日本的自然生成の精髄だ。ぬるいし、究尽されていない。この国の愛好される伝統芸だ。日中―太平洋戦争を思想化しえたのは吉本隆明ただ一人である。そのことは疑いえない。わたしもまた若い頃吉本隆明の思想の圏域でかろうじて日をつなぐことができた。

吉本隆明の思想の第十八願とはなにか。大衆の原像だ。親鸞の他力やヴェイユの匿名の領域も第十八願だと言える。いずれも意識の明証性として、ほらここに、こんなふうにある、として取りだすことはできない。では大衆の原像はそれ自体として自存しうる思想か。他力や匿名の領域はそれ自体として自存できるが、大衆の原像は大衆の原像それ自体にたいして自立できない。吉本隆明という類い稀な思想家の主観的意識の襞に宿ったイメージでしかないからだ。大衆の原像を語る吉本隆明と、大衆の原像という理念とのあいだには、観察する理性の必然として空隙が生じる。社会思想とはそういうものでしかありえない。言い換えれば、大衆の原像を俯瞰する観念の場所を想定しないと大衆という理念が浮遊する。浮遊しないようにその観念をつなぎとめる観念がある。それが同一性的な観念の統覚だと言ってきた。他力や匿名の領域には同一性を包越する機縁が秘められているが、大衆の原像には存在をまたぎ越す機縁がないとわたしは、わたしの生の体験を経て考えている。どう理解するかは面々のはからいであるが、大衆の原像という思想には同一性を超える契機はないと思う。同一性的な生を拡張しないとわたしたちそれぞれにとっての生の未知はない。わたしは大衆の原像という理念は社会的な存在の概念だと思う。他力や匿名の領域には思考の慣性を超える契機があるが、大衆の原像はわたしたちが祖視化した自然をなぞることはできでも、そこからなにか生にとっての未知がこぼれてくることはない。親鸞の他力やヴェイユの匿名の領域は解体された知であってどこにも知識人の役割という気配がない。なぜなら概念がそれ自体にたいして自立しているからだ。他力や匿名の領域は大衆の原像とちがって社会思想ではない。親鸞の他力とヴェイユの匿名の領域はそれとはちがう。意識の外延性を媒介とせずに存在することからじかに生えてきた言葉だ。

吉本隆明の第十八願は、「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます」(『どこに思想の根拠をおくか』所収「思想の基準をめぐって」)と言っていい。すぐあとに「しかし、そこへの道程が、どんな倒錯と困難と殺伐さと奇怪さに充ちているか、は想像を絶するほどです」とつづけられている。わたしは意識を外延するかぎり、吉本隆明の大衆の原像が自然史として実現されることはないと考えた。吉本隆明の心的な領域の定義によって、大衆の原像もまた意識が外延的に表現された共同幻想にすぎないからだ。大衆の原像は宗教であり、その宗教によって生を定義することはできないというシンプルな事実に帰せられる。

ヴェイユの匿名の領域と吉本隆明の大衆の原像というそれぞれの第十八願がどう違うかを考えてみる。吉本隆明は匿名の領域についてつぎのように書いている。

 これは「人間」にたいするヴェイユの究極の理解と、じぶんの願い、望み、羨ましさを複合した表現にあたっている。もしかするとじぶんの写像とみなしたかったかもしれない。ヴェイユが科学、芸術、文学、哲学といった人間の最高の所産だとみなされてきたものの彼方に、ひとつのべつの領域を暗示しているのは、はじめての、とてもこころよい感じだ。そして人間がそこへ到達できるのは、人格でもなく、人間的固有性でもなく「かれ・その人」であるような存在、直接の自己同等そのものである〈その人間〉だといっていることに驚かされる。そして〈その人間〉はヴェイユのいう「神」と人間との融合同等でもある存在にほかならない。この直接的な自己同等がたどりつく、匿名の世界は、なにも人倫にかかわる意味をもっていない。直接な自己同等の存在としての人間というほかの意味をもたない。(『甦るヴェイユ』)

シモーヌ・ヴェイユの匿名の領域と吉本隆明の大衆の原像を隔てるものはなにか。ヴェイユは匿名の領域の存在をそのなかにいて内在的に生きたが、吉本隆明の大衆の原像は吉本隆明の主観的な意識の襞にある信が共同的に表現されている。是非を問うているのではない。大衆の原像を懐に抱いて吉本隆明が表現をなしてきたことはもとより充分に承知している。しかし、ヴェイユの匿名の領域は大衆の原像とはまるでちがう理念である。匿名の領域を共同化することはできない。不在の神に祈るということをわたしはそういうふうに理解している。ヴェイユが神を待ちのぞむというとき、不在の神は親鸞の他力とおなじように言葉である。
大衆の原像を思想の根拠としてきた吉本隆明は観察する理性の知識人としてつぎのように語る。「ぼくのもっている戦争中の大衆のイメージはそういうものじゃないんだな。赤紙一丁くれば、インテリゲンチャみたいにぶすぶす言わないで戦争に行くわけですよ。国家の命ずるままに、妻子と別れて命を捨てるために出ていくというのが先験的なのであって、その内部に、あの上官はおもしろくないとか、そういうぼそぼそがあるわけです(赤紙一丁で命を捨てるために出ていく、反体制運動でも同じで、わっとやれば指導者の意図を越えてしまう。これがぼくのもっている大衆のイメージですね。そこで問題になるのは、こういう大衆を何がチェックできるか、ということです」(『どこに思想の根拠をおくか』)わたしは虚偽の命題だと思う。共同幻想が燃えさかるとき人格の集団性は支配と反支配を問わず狂気へと突進する。皇軍の蛮行を想起せよ。そこに一人ひとりの貌はあるか。皇国の理念の結界を張ればなにをやっても許容される。卑小がそのまま偉大となるどんな契機もそこにはない。その存在のありようを知識人の言葉が事態をチェックできるか。「まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね」(『浄土からの視線』菅原則生)吉本隆明の言う「底」とはなにか。かれは生き神信仰の内省として「マチウ書試論」を書いた。自力廻向が引いたおおきな信だと思う。それがどれほど底の浅いものかを吉本隆明が識ることはなかった。晩年の『アフリカ的段階について』で語られた文明の外在史と精神の内在史というモチーフも、解けない主題を解けない方法で解こうとしている。かれは適者生存の非情さをみごとになぞりきった。問われているのは内面と外界という対になった表現の様式が耐用年数を超え、表現そのものの自重に耐えきれなくなっていることだと思う。

神という言葉を生きるしかなかったヴェイユは、はるかに絶望していた。極左の体験の挫折と同胞への殺戮と亡命と拒食による餓死。社会運動家として言葉をつくりはじめ、不在の神へと向かったのはヴェイユにとって必然であったが、不思議なことに、彼女は追い詰められつつ、そのつど生をひらいている。それが匿名の領域という実詞化不能の思想だ。たしかに吉本隆明の言ういうように、匿名の領域は人倫にかかわる意味をもっていない。そのことを吉本隆明は「『神』と人間との融合同等」や「直接な自己同等の存在としての人間」と理解している。まったくちがう。神と人が自己同等になるとき、自己はおのずと領域化する。ヴェイユはいつもひとりでいてもふたりだった。この自然のことを親鸞は他力といった。生存しないことと対応する生存の最小与件という大衆の原像は、自力廻向の聖道門の理念の系である。皇国の理念と吉本隆明の思想が同型であるとはそのことを意味する。たしかに自己を放下することでひとつの自然を手にすることはできる。いずれにしても自己を自然に融解することになる。そうではない。同一性を相対化する契機は自己のなかにはない。「お花を摘んできてくれるか」(『なお、この星の上に』片山恭一)という言葉への応答として自己はもたらされる。内包への応答として心身一元のモナドが表現される。この関係は不可逆である。わたしはそこに世界のなにより深い、もっとも深いものより深い、豊穣な生の源泉があると思う。仏が言葉であるように不在の神も言葉であるとき、言葉は言葉を生きることで、この深奥のしくみを開示する。そのとき言葉はおのずから性となる。人びとをしてヴェイユの思想を解釈するに任せよ。解釈されることを激しく拒んだヴェイユは可視化できない生をゆるりと自然(じねん)に舞った。そこにヴェイユの固有の生がある。(この稿つづく)

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