日々愚案

歩く浄土228:アフリカ的段階と内包史16ーヴェイユの自然2

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まるでわが事のようにシモーヌ・ヴェイユの本を読み返している。読みながら考えていることがほんとうによく似ていると思う。2倍も生きたのだからあたりまえだが、ヴェイユがつかんでうまくひらき切れていない思考の難所を内包論は気づいたら追いぬいてしまっていた。彼女がなにを考えようとしたのか、わが身に起こったこととしてよくわかる。年譜によると、ヴェイユは20歳から極左運動に関与している。哲学教授資格を得て、学校の教師になり、25歳から26歳にかけて休職し、十ヶ月、ルノー工場で工員として仕事をした。その後スペイン人民戦争に義勇兵として従軍。あるとき、亡命中のトロツキーと相対して、あなた方の革命は間違っていると面罵する。その頃もそのあともバタイユはソ連に色目を使い秋波を送っていた。1939年に第二次世界大戦が勃発。翌年侵攻したドイツ軍によってパリ陥落。ヴィシー傀儡政権樹立。ヴェイユ親子はナチの粛清から逃れ、1940年10月にマルセイユに到着。ペラン神父やティボン神父の世話になる。秘することがあり、1942年アメリカに渡航。そのさいペラン神父に『神を待ちのぞむ』に収められた手紙や論考を渡す。ティボン神父に託した草稿は『重力と恩寵』としてヴェイユの死後出版される。アメリカからロンドンに渡り、自由フランス軍を主宰するドゴールに「第一線看護婦部隊編成計画」を上申。ドゴールは気ちがい沙汰だと斥ける。占領下のフランスに派遣されることをなんども願い出るが却下される。ロンドンの亡命政府内はナチス撤退後の新体制を立案。1942年12月から翌年4月まで、独自の意見書を提出する。絶食をつづけ1943年8月24日落命。享年34歳。死因は、飢餓および肺結核による心筋縮退から生じた心臓衰弱。所見では患者は精神錯乱をきたし摂食を拒否、みずから生命を断ったと記されている。強制収容所の囚人とおなじ食事しか摂らないとヴェイユは決めていた。時代に殉教したが、痛ましさのなかに、野の花が匂い、空の鳥が舞っていたと思う。一箇の卑小な偉大をヴェイユはたしかに生きた。観察する理性の者らがつくった知とはべつの知をヴェイユは匿名の領域としてつくった。親鸞の他力の至近のところまで、あるいは内包という考えの近傍までヴェイユの思考は到達していた。若死にした親鸞という印象はヴェイユの本を読み返しても揺らぐことはなかった。

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頭痛もちで虚弱な体質のヴェイユにとってのちにブルバギという数学者集団を領導し、パスカルの再来と言われたアンドレ・ヴェイユという数学の大才をもつ兄をもったことはヴェイユに生きがたさをもたらした。代数関数論を研究していた遠山啓はアンドレと数学の交流があり、そのあまりの才能の違いをみせつけられ、研究者を断念し、数学教育の啓蒙に舵を切り替えたと吉本さんさんからお聞きしたことがある。戦後、アンドレが岡潔のもとを訪れる。あなたのバンドのメンバーを紹介して欲しい。えっ、岡潔はおれで、おれ一人なんだけど、と言ったら、ええっ、とアンドレが言ったらしい。逃避行中に世話になったペラン神父に、心のこもったお礼を述べながらめいっぱい侮蔑する、今生の別れの手紙を何回も書いている。「精神的自叙伝」とされる第四信が印象に残った。そこから引用する。

 十四歳の時、私は思春期の底なしの絶望の一つに落ちこみました。自分の生来の能力の凡庸さに苦しみ、真剣に死ぬことを考えました。パスカルの才能に比較されるほどの少年期、青年期を持ちました私の兄の異常な天賦の才能が、どうしても私に私の凡庸さを意識させずにはおかないのでした。外的な成功を得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけがはいることのできる、真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできないということを口惜しく思っていたのでした。真理のない人生を生きるよりは死ぬ方がよいと思っておりました。数ヵ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、しかも永遠に、いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無に等しい者であっても、もしその人間が真理を欲し、真理に到達すべく絶えず注意をこめて努力をするならば、天才にだけ予約されているあの真理の王国にはいれるのだという確信を抱いたのです。たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の眼には見えないことがあっても、この人もまた、かくして一人の天才となるのです。後になって、しばしば頭痛がおこり、私が持っておりますわずかばかりの能力につきまして、直ちにたぶん決定的だと考えましたほどの動きのとれない無力感を抱きました時にも、この同じ確信が、十年間、結果に対するほとんどいかなる希望も支えることができないような注意深い努力を私に続けさせてくれたのです。(『神を待ちのぞむ』)

レヴィ=ストロースの構造概念を代数的に定式化した兄のアンドレらの知とはべつの知があることをヴェイユは予感していた。複合感情がなければ一人の奇矯で聡明な女性のままだったかもしれない。卑小であることがそのまま偉大であるという匿名の領域の知へいたるその前身が語られている。そしてそういうヴェイユの考えを工場体験が粉々に打ち砕いた。ヴェイユは不幸と出会い、不幸を額に刻みつけ、そのことは終生ヴェイユの思考の源泉となった。

 工場経験ののち、教職に復帰する前のこと、私の両親は私をポルトガルに連れていったことがありました。ポルトガルで私は両親と離れ、一人で小さな村へまいりました。私は身も心も、いわばこなごなになっておりました。不幸との接触は、私の青春を殺してしまったのです。それまで私は、私個人の不幸を除けば、不幸の経験がありませんでした。私だけの不幸は個人的なものですから、私にはそれほど重要だとは思われませんでしたし、そのうえそれは生物学的なもので社会的なものではありませんでしたから、半分の不幸でしかありませんでした。この世界には多くの不幸が存在することをよく知っておりましたから、私はたえず不幸につきまとわれてはおりました。しかしながら、不幸と長い間接触を保つことによって、その不幸を確認したということは一度もありませんでした。無名の大衆といっしょになって、すべての人々の眼にも、私自身の眼にも、自他の区別のつきかねる工場内におりました時、他人の不幸が私の肉体とたましいの中にはいってまいりました。何ものも私をその不幸から離れさせはいたしませんでした。と申しますのは、私は本当に自分の過去を忘れてしまっておりましたし、この疲労に打ち勝って生き長らえることができると想像することはきわめて困難でありましたから、いかなる未来も待望してはいなかったからでございます。その時私が蒙りましたものは、いつまでも忘れられないほどに私の心に印されましたので、今日でもなお、たとえいかなる人間にせよ、またどのような状況においてであれ、私に対して粗暴でない話し方をいたしますときには、この人は間違っているにちがいない、その間違いは、不幸なことに、たぶんうやむやに消散してしまうだろうという印象を抱かざるを得ないのです。その時私は、ローマ人達がもっとも軽蔑した奴隷の額に押しつけた焼きごてのごとき奴隷の印を、永久に受け取ったのでありました。それ以後、私はつねに自分自身を奴隷とみなしてまいりました。
 このような精神状態と、悲惨な肉体的状況にあった私が、ああ、これもまた極めて悲惨な状態にあったこのポルトガルの小村に、ただ一人、満月の下を、氏神様のお祭りのその日に、はいっていったのでした。この村は海辺にありました。漁師の女達は、ろうそくを持ち、列をなして小舟のまわりを廻っていました。そして、定めし非常に古い聖歌を、胸を引き裂かんばかり悲しげに歌っておりました。何が歌われていたのかはわかりません。ヴォルガの舟人達の歌を除けば、あれほど胸にしみとおるものを聞いたことはありませんでした。この時、突然私は、キリスト教とは、すぐれて奴隷達の宗教であることを、そして奴隷達は、とりわけ私は、それに身を寄せないではおれないのだという確信を得たのでありました。
 一九三七年、私はアシジで素晴らしい二日を過ごしました。聖フラソチュスコが、そこでしばしば祈りを捧げたといわれる、比類のない純粋さを保つ素晴らしい建物、サソタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀ロマネスクふうの小礼拝堂の中にただ一人おりましたとき、生まれてはじめて、私よりより強い何物かが、私をひざまずかせたのでありました。(『神を待ちのぞむ』)

とてもうつくしい文章だと思う。ヴェイユ自身の言葉によって超越体験が語られている。ヴェイユの超越体験は親鸞に似ている。ただ、引用中の「今日でもなお、たとえいかなる人間にせよ、またどのような状況においてであれ、私に対して粗暴でない話し方をいたしますときには、この人は間違っているにちがいない、その間違いは、不幸なことに、たぶんうやむやに消散してしまうだろうという印象を抱かざるを得ないのです」は、わかりにくい。なんども読みかえした。どういうことか。なるほど悪質なセクハラだ。第6信から探ってみる。「純粋に人間関係の面のみを考えてみましても、私はあなたさまに無限の感謝をしなければなりません。あなたさま以外のすべての人々は、その人々に対する私の友情のために、私がいともたやすく苦痛を感じるようなことは一度もありませんでしたけれども、時に、その人々は私を苦しめて楽しむことがございました。しばしば、あるいは稀に、意識的にあるいは無意識的に、しかしどの人人もみな時々というに過ぎませんでした。意識的だということがわかりました場合には、私は包丁を取りあげ当事者に予告しないで友情を切り取ってしまいました。悪意からかれらがこのような行動をとったのではありませんが、自分達の仲間に傷ついた一羽のめんどりがいるのを見ると、その上に襲いかかり、くちばしで突つくようにめんどりたちを仕向ける、あのよく知られている現象をかれらが実行したのでした。すべての人間は、その内部にこのような動物的性質を持っているものです。それが、知り合いであろうとなかろうと、仲間であろうとなかろうと、かれらの同類に対する態度を決定するのです。それゆえ、時には思考は何も理解しないのに、ある人間の内部の動物的性質が、他人の内部の動物的性質の毀損を感じとり、それに応じて反応することがあります。あらゆる可能な状況、それに対応する動物的反応についても同様です。このような機械的必然性があらゆる人間を絶えず占有して います。ただ、人々はかれらのたましいの内部で正しい超自然的なものの占める場所の大きさの割合に従ってのみ、その機械的必然性からのがれるのでございます」。奥ゆかしくヴェイユが言うことはよくあることで、たくましさがヴェイユには欠けていた。粗暴でないふるまいをする人にあなたたちの人権は他人事なんでしょうとヴェイユは言っている。

ヴェイユが間違った一般化を厳しく拒むのは工場体験が根づいているからだ。「かくして、間違ってかれらは〔自分たちの体験を〕一般化することができると信じている。このような間違った一般化が、ある高潔な動機から発したものであるとしても、この一般化には十分な効力がないので、匿名の人間の問題が、じつは匿名の人間の問題でなくなるのが、かれらの眼には見えないのである。しかし、かれらがこのことを理解する機会をもつのは困難なことである。なぜなら、かれらはそのような機会に接することがないからである。人間にあって、人格とは、寒さにふるえ、隠れ家と暖を追い求める、苦悩するあるものなのである。どのように待ちのぞんでいようとも、そのあるものが社会的に重要視され暖かくつつまれているような人びとには、このことはわからない」(『ロンドン論集と最後の手紙』)他人の不幸がヴェイユの肉体とたましいの中にはいってきたのはうそだろうか。つねに自分自身を奴隷とみてきたことは欺瞞だろうか。超越体験は虚偽だろうか。それならば訊きたい。宮沢賢治の『「注文の多い料理店」序』や「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/・・・デクノボートヨバレ/・・・ソウイフモノニ/ワタシハナリタイ」は虚偽の作為体験か。そうではなかろう。ほんとうのほんとうのことをヴェイユは語っている。

このふたつの体験を経てヴェイユはヴェイユにしか語りえない思想を手にする。キリストはヴェイユに内在しているが、彼女はその信を内面化も社会化もしない。引用をもうすこしつづける。

 一つの集団は教義の守護者です。教義は、極めて個性的な三つの能力、愛、信仰、知性の観想の対象です。以上のことから、キリスト教においてはほとんどその起源以来個人は不自由を感じ、とくに知性が不自由を感じるということになったのです。このことは否定し得ないことでございます。
 真理そのものであるキリスト自身でも、公会議のような集会を前にして語るとすれば、キリストが最愛の友と向かい合って交す言葉を用いたりはしないでありましょう。ですからたぶん、私達は文章を対照させながら、もっともらしくキリストを責めて、その矛盾と虚言をあげつらうこともできましょう。と申しますのは、神が太古の昔から望んでおられるという事実に照らして、神自身が尊重しておられるこれらの自然の法則の一つによって、同じ言葉で構成されているとはいえ、まったく明確にことなる二つの言語、すなわち集団の言語と個人の言語とがあるからでございます。
 キリストがわれわれに送ってくださったなぐさめ主、真理の聖霊は、場合に応じてどちらか一方の言語を語りたまうのですし、本来この二つが一致しなければならないという必要性はないのです。
 神の真の友人達が―私の気持ちではマイステル・エックハルトのような人です―ひそかに、沈黙の中で、愛の結合の中で聞いた言葉をくり返す時、そして、かれらが教会の教えと一致しなくなる時、それはただ、公けの場所での言語が、婚礼の部屋の言語とは異なるからであるにほかならないのです。
 二人ないしは三人の間でしか真に親密な会話は存在しないということは、誰でも知っております。もしそれが五人あるいは六人になれば、すでにして集団の言語が支配しはじめます。ですから、「あなた方のうちの二、三人が私の名において集まるところではどこでも、私もその中にいるであろう。」という言葉を教会にあてはめますと、完全な間違いをおかしていることになるのです。キリストは、二百とも、五十とも、十ともおっしゃいませんでした。キリストは二、三人と言われたのです。キリストは親密なキリスト教的友情、すなわち二人の向かい合った親密さの中に、第三者としてつねに現われる、と正確に言われたのでした。(『神を待ちのぞむ』)

ものすごく大事なことをヴェイユは言っていると思う。Beyond Here Lies Nothin’ おう。everything is broken おう。荒野をゆくヴェイユがこの世のどこにも身を横たえる場所がなくても、ヴェイユはひとりでいてもふたりである。おう、ロックンロール。キリストはヴェイユにかぎりなく内在しているので、その神を内面化や社会化することができないとヴェイユは言っている。婚礼の部屋は〔性〕である。だから神は「二人の向かい合った親密さの中に、第三者としてつねに現われる」。この第三者を意識の外延性がとりだすことはできない。ぎりぎりのところまでヴェイユは思考を延ばしていた。ヴェイユの第三者は逆向きに意識を求心することができる。同一性的な意識の平面では第三者としてあらわれる、と共には、根源のふたりの痕跡なのだ。この面影のことをわたしたちは神や仏と言い習わしてきた。自己も共同性もそれほど堅固なものではない。内面を内包化すると他力のなかの他力がふいに湧いてくる。内包という言葉をつくればヴェイユはもっと生きられた。あとは内包が引きうけている。(この稿つづく)

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