日々愚案

歩く浄土9

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 節分はもう過ぎましたが、豆まきって、鬼は外、福は内っていうでしょう。けっきょく、内包ってあれなんです。えっ、ではないです。まさにそれです。レヴィナスは、鬼は内、福は外ってなるんです。かれがやったのはそれです、うまくはやれませんでしたが。。。顔とのじかの対面というでしょう。きつくなりますよね。極限倫理になります。

 内包はぜんぜんきつくならないのです。パウル・ツエランは「私が私であるとき、私はきみだ」といいました。だから内包は外にも福があるのです。というよりいつも福なんです。
 えっ、それはおかしい。鬼は内といったじゃないですか。
 ああ、そうですか。わたしが鬼は内っていっても、そのわたしはあなただから、あなたは福でしょ。あなたが鬼だったとしても、あなたはわたしだから、わたしは福になるでしょう。だったらいつも福じゃないですか。内包がいってるのはそういうことです。1の内面化した3という他者ではないのです。わたしがあなたであるというそれ自体のことを言っています。生まれてきて丸儲けの思想です。生きてて、いいことばっかしです。内包には空虚と孤独がないというのもそういうことです。生きられる死もそこにあります。

 生まれてくるのはけっしてじぶんの意志ではないですね。生誕は自力のかけらもない徹底した受動性です。インマヌエルとか、自我の自然への融即ということでもないのです。神は我とともに在すというインマヌエルは信の共同性を不可避に招きます。神とのじかの対面であればヴェイユの不在の神に向けて祈るということになります。それがあの匿名の領域です。それは〈ことば〉そのものの場所です。ヴェイユはそこを生きました。
 自我を自然に解消するという思考の型は、とどのつまり煩悩解脱の術で、そこに他者はいません。解脱できたその刹那、かれは凡俗に墜ちます。それはカラスの勝手ですが、単独者の生ぬるい境地にすぎません。1を3に融即させても、依然として1と3のあいだの矛盾と対立と背反はありつづけます。

 根源の性によぎられるということは、徹底した受動性ということですが、そこがそのままに生を肯定できる場所です。それは還相の性の場所でだけ可能であるようにわたしには思えます。

 単独者の思考では、鬼は外、福は内にしかなりません。恣意性を根拠にした吉本隆明の思想もコストパフォーマンスを第一義とするグローバニストも同一性の生の監禁のもとでは同型の思想なんです。もちろん金目に控えめか貪欲かの違いはあります。思考のこの圏域に生きるかぎり、なにやってもうまくいくはずはないです。どん詰まります。あとは世界、世の中は、そういうものと諦め受容するしかありません。この歳になれば、あとはどうなろうと知ったことか、えい、ままよ、と逃げ切るのもひとつの手です。

 わたしはとてもシンプルなことを言っているのです。外延論理では三人称の関係は、内包論理では、あたかも外延論理の二人称のようにあらわれます。まだ細かいことはなにも言っていませんが、内包親族論はそこをめざしています。
 外延論理で国家ができるいきさつを吉本さんは解明しましたが、内包論理では国家はできないのです。国家はよくても災いだから、国家をなくしましょうでは、ないのです。なんとか国家の権能を縮小し、できれば死滅に追い込みましょうといっても、それはできないのです。地方分権ということで、権力を分散することは理屈では可能です。でもそれは権力が転移するだけです。がんのように。がんもどきならいいのですが、権力は生に内在する自然ですから、外延論理の枠内でなくなることはないのです。つまり共同幻想はなくなりません。
 現にグローバルなテクノロジーは世界を制覇しつつあります。それは世界権力としてわたしたちの眼前に聳え、わたしたちの生を翻弄しています。利便性や快適性として大きな恩恵をうけていますが、ハイテクノロジーと経済の自然過程的な進展でしかないことも事実です。権力は生の自然に内在するほんもののがんですから、このままだと社会は死にます。つまり人類の滅亡です。高齢の思索家たちはそれを予感しています。わたしは思考の前提をかえたらいいのにな、といつも思います。

 ピケティは現状分析屋さんですからそこにはどんな理念もありません。ないものを望むのは無理というものです。
 マルクスの『資本論』の世界を現実へ適用したときそれは人類史的な厄災としてあらわれました。歴史がそのことを示しています。マルクスの思想とマルクス主義はべつものだったのでしょうか。わたしはマルクスの思想に、ある未遂というか未然があったと思います。ヘーゲルの観念論を転倒させたといっても、思考の型は受け継がれています。宗教は人間精神の夢が外化されたものだと言ったフォイエルバッハの素朴な唯物論の影響も受けています。
 而して、マルクスは個を類生活に解消し、類生活の内に引き取ったのです。そのうえで単独者の疎外された労働を経済領域の言葉として取り出し、壮大な観念の建築物をつくりました。偉大なマルクスにもおおきな錯誤がありました。男性の女性に対する、女性の男性に対する関係をそのまま貨幣のふるまいとして記述することができなかったのです。個を類生活へと融即する意識の息づかいがスターリニズムの起源です。
 もしわたしに残された時間の余裕があれば、マルクスの自然哲学や経済論を、まるごと贈与論として拡張してみたいという誘惑があります。

    2
 対幻想がそれ自体にたいして表現をなし還相の性を生みだしたということはどういうことか。還相の性はいったんできあがった国家の編成を組み替えてしまう。もちろん往相の性に内在する還相の性が歴史のはじめにあったら国家を形成することはなかった。
 わたしがありえたけれどもなかったものを現にあらしめて、そこから人間の内包史を遠望するとき、還相の性は国家が形成に至った経緯を逆にたどることになります。逆にたどるということは国家のない、ゆるやかな内包親族論が可能となることと同義です。
 ともあれ、国家もグローバル資本も現存する。ではこの精緻で壮大な建築物からどう降りていけばいいのか。国家が形成される過程を逆にたどることになるのだが、それは国家の形成とはべつの原理によってひらくのである。内包論はそのことを可能にすると思います。
 国家に至る過程を往相だとすると、往相とはまったく違う生存のありよう、まったく違う原理によって国家がひらかれることになるのです。
 わたしたちは観念の往相とは違う原理である還相の知によって国家から降りていくのです。還相の性はそれ自体としての場所でありつつ1と3を包んでしまいます。

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