日々愚案

歩く浄土8

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 このブログは一齣マンガのようなものです。ひとつの主題を手を変え品を変え論じています。猛烈なグローバリゼーションの圧力に抗して国家のない世界を、歩く浄土として描きたいというモチーフが貫かれています。むかし書いたことを再録するのも、むかし考えたことや書いたことを、いまどう考えているか、その道筋をたどり、さらに先に行きたいからです。そのことにはわたしの固有の問題であるとどうじにだれもが生き惑い揺れている普遍的な問題があると思っています。

 前回のブログで吉本さんのお宅に伺いお訊きしたことをノートから再録しました。たくさんのことをじかに吉本さんの声でお聞きしました。エンゲルスについては次のように言われました。
 「エンゲルスの方法。制度以降はマルクスの『資本論』、制度以前はモルガンの『古代社会』、人間以前はダーウィンの進化論。これがエンゲルスの方法の全てです。しかし違います。情況の総体をつかまえるにはこれらのことを徹底的にはっきりさせる必要がある」
 若い頃、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読んだことがあります。好かん、と思いました。とても機能主義的な考えをする人です。マルクスの生涯にわたる盟友であることは知っていましたが、青年マルクスが書いた『経哲草稿』の音色のいい言葉とは無縁の人のように感じたのです。根暗なキュルケゴールには親近感を感じましたが、いまの実務文化人に通じるようなかれの明晰は人の生を切り刻むプラグマティズムのようで嫌いでした。
 エンゲルスの考えを批判しながら、吉本さんはむかし氏族制社会から部族制社会への跳躍について次のように発言しています。まったく独自の固有の理念であるとどうじにかれの思想の未遂もここにあります。吉本さんの思想はエンゲルスではないですが、ヘーゲル・マルクス・フロイトの思想のトライアングルのなかに布置されています。

すくなくとも国家というものをかんがえていく場合に、ふたつの重要な要素があります。ひとつは共同幻想、つまり国家である共同幻想というものはなんであるのか、ということなんです。それからもうひとつは、国家という形態は、個人からはでていかないで、かならず家族というものを媒介にしていくということが、問題になるわけです。(『吉本隆明全著作集14』所収「現代とマルクス」164p)

そうしますと、家族形態が、兄弟、姉妹というような形で空間的に拡大されていった場合、どこまで拡大されていくだろうか。つまり、国家のところまで拡大されていくだろうかというような問題があります。ところが、そこにどうしても限界があります。血縁的な集団(兄弟、姉妹の関係)を拡大して、氏族共同制のところまではいけるけれども、氏族制が血縁集団であるかぎり、統一国家あるいは統一社会となりえないわけです。これは血縁集団が、またちがう血縁集団を想定しなければ、統一国家あるいは統一社会ができてきませんから、血縁集団が空間的に拡大される極限は氏族制というものにとどまります。氏族制というのも制度ですから、共同幻想であることにかわりはありませんけれども、これが単独で統一社会を形成することはできないわけです。(同前 170p)

だから、もし家族の形態というものが、国家の原始的な形態である共同性にまで拡大する唯一の契機があるとすれば、それはなにかと申しますと、同じ母親からでた兄弟と姉妹との関係、そういうものだけが部落大に拡大することができます。つまり、兄弟と姉妹とのあいだには、性的な自然行為というものはともないませんけれども、しかしそれはともなわないからゆるい関係ですけれども、ゆるい、ぼくの言葉でいえば対幻想なんですけれども、そういうものをかなり永続的に保持することができます。そうしますと、ひとつの家族集団におけるその一系列をかんがえますと、それにたいして、兄弟というものはその家族集団からまったく除外されていくわけですけれども、除外されてじぶん自身はまたべつの部落あるいはぺつの種族の女性と婚姻するわけですけれども、そういうようなことで系列をことにするわけですけれども、また空間的にあるいは地域的に分散しうるわけですけれども、しかしそれが同じ母親からでたということ、つまり同じ母親をもつという意味では、共同性というものをもちうるわけです。要するに民族性というものの段階へ転化する唯一の契機というものがそういうところに求められるわけです。(同前 「自立的思想の形成について」184p)

 引用の箇所について少し敷衍します。この講演が行われたのは学園紛争が盛んな頃です。わたしもその該当者でした。ベトナム反戦や学園紛争で新左翼が世情を乱していました。こういう時代を背景にしての講演なので、マルクス主義とマルクスの思想は違うということや、マルクス主義の唯物史観による下部構造決定論はでたらめであり、幻想論はそれ自体として扱いうるという理念が吉本隆明さんの発言の前提にはありました。1990年に対談をしたとき、あの頃は無駄に力こぶをつくったと言われていました。そうです、ここはもう過ぎているのです。そのことはわたしにとってもとっくに前提となっています。

 国家の形成に至る機序の説明はできているが、その過程を逆にたどり国家を消滅させることについてはなにも述べられていません。どうすれば宗教から法、国家へと馳せ上っていった国家を死滅に追い込むことができるのかについては少しも触れられていません。かれはあらゆる共同幻想は消滅すべきであると宣明したのです。吉本さんは、大衆の原象、あるいは死から照らされる生の場所として、国家のなくなる世界を構想していたのかもしれません。ただ、とわたしは思うのです。もしも原理的な方法であってもそのことが可能だったら、人類が滅亡の過程に向かっているとは言わなかったのではないか。そしてわたしは吉本さんの未遂をこじあけようとしています。

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  吉本隆明が『心的現象論序説』で「心的な領域は、生物体の機構に還元できる領域では、自己自身または自己と他者の一対一の関係しか成り立たない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない」と定義していることはもちろん知ってます。それでもなお、人間がなぜ 共同幻想を不可避に生みだしたのか、その内発力が吉本隆明の思想では不明だとわたしは考えている。それはつまり世界を鳥観し追認するにすぎないのです。かれの世界のさわり方や意識の志向性をわたしは自己意識の外延表現あるいは第一次の自然表現と言ってきました。つまりどういう思考のプロセスを経れば肥大した国家の観念は縮小し、なくなっていくのかということを吉本さんは考察しえていません。

 〈性〉としての人間はすべて男であるか女であるかのいずれかである。しかしこの分化の起源は、おおくの学者がかんがえるようにけっして動物生の時期にあるのではない。あらゆる〈性〉的な現実の行為が〈対なる幻想〉をうみだしたとき、はじめて人間は〈性〉としての人間という範疇をもつようになったのであるといえる。〈対なる幻想〉がうみだされたことは、人間の〈性〉を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった。そのために、人間は〈性〉としては男か女であるにもかかわらず、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば〈家族〉がうみだされたのである。だから〈家族〉は時代によってどんな形態上の変化をこうむり、地域や種族によってどんな異なった現実関係におかれたとしても、人間の〈対なる幻想〉にもとづく関係であるという点では共通性をかんがえることができる。そしてまたこれだけがとりだすことのできる唯一の共通性でもある。わたしたちはさしあたって〈対なる幻想〉という概念を、社会の共同幻想とも個人のもつ幻想ともちがって、つねに異性の意識をともなってしか存在しえない幻想性の領域をさすものとかんがえておこう。
 〈家族〉のなかで〈対〉幻想の根幹をなすのは、ヘーゲルがただしくいいあてているように一対の男女としての夫婦である。そしてこの関係にもっとも如実に〈対〉幻想の本質があらわれるものとすれば、ヘーゲルのいうように自然的な〈性〉関係にもとづきながら、けっして「自己還帰」しえないで、「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」幻想関係であるといえる。もちろん親子の関係も根幹的な〈対〉幻想につつみこまれる。ただこの場合は、〈親〉は自己の死滅によってはじめて〈対)幻想の対象になってゆくものを〈子)にみているし、〈子)は〈親〉のなかに自己の生成と逆比例して死滅してゆく〈対〉幻想の対象をみているというちがいをもっている。いわば〈時間〉が導入された(対)幻想をさして親子と呼ぶべきである。そして、兄弟や姉妹は(親)が死滅したとき同時に死滅する〈対〉幻想を意味している。最後にヘーゲルがするどく指摘しているように兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する〈対〉幻想の関係をもっているということができる。(『共同幻想論』188~189p)

 吉本さんの対幻想はそれ自体としての世界というよりは自己幻想と共同幻想のつなぎ目として想定されています。対幻想の領域を特殊な共同性だとすると自己から発した意識は共同幻想へと至ります。ではどうすれば生をおおう共同幻想は縮小するのか。回りを見渡しても少しもその気配はありません。国家を相対化する兆候は皮肉にも、民族国家を非関税障壁だとして世界をフラット化するグローバリゼーションにむしろ見て取ることができます。ハイテクノロジーが金融工学と結びついて国民国家を平定しつつあります。TPPの推移をみているとそのことがよくわかります。国民国家などグローバルな勢力にとって邪魔なのです。でもこの猛烈な圧力は技術それ自体の自然過程的進展を世界に外延しているだけで、そこにはどんな人間の意志の力も歴史に関与していません。批判するのは容易ですが、フラット化する世界の流れに抗する世界像を提出するのは困難です。薙ぎ倒されつつなんとかそこに小さなくぼみを見つけ生をしのいでいくしかなくなっているとわたしは感じています。大半の人々の実感はそこにあるように思います。これは理念的なことではなく日々の実感です。想定を超えた天変地異のようなものとしてあります。

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 吉本さんの「対幻想」という理念はそれ自体であり、完結しています。中流社会の到来を前提としてかれは歴史のはじめにあった対の原型が壊れる段階にきているのが現在の特徴であると言いました。『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』が出た頃です。

ぼくは無意識のうちに、まずはじめに原型があると考えていて、それがどうにもモデルが存在する余地がなくなってしまったと言われれば、原型が先にあったんだが、いまはもう壊れていく段階に入ってしまったんだという考えをしています。(略)エロスの問題でも、対幻想の持続ということについては、もはや壊れる段階にきていてどうしようもないんじゃないか。・・・(「エロス・死・権力」/『オルガン4』吉本隆明vs・竹田青嗣)

 わたしが吉本さんの言説に異和を感じはじめた直接のきっかけがここにあります。ああ、吉本さんは現在を生きていないなとそのとき思いました。若い人の風俗に押しまくられその思潮をなんとかじぶんの思想のなかに取り入れたかったのです。思想は領域として、最高綱領と最低綱領の幅としてしか存在しえないと主張しました。
 わたしは吉本さんとは違った生の感覚でその時代を生きました。わたしは対幻想が対幻想自体にたいして表現をなしたと考えたのです。対幻想がそれ自体にたいして内包表出したのです。吉本さんはこの性のうねりを感じることも理念にすることもできませんでした。わたしの実感では、性が性に対して内包的な表現を遂げたのです。

 吉本さんは自己の恣意性が共同幻想と逆立する契機に歴史の原動力を観ています。それはありえないとわたしは考えます。自己の恣意性もまた自己同一性という生に監禁されているからです。兄妹姉妹間にゆるい性的親和があることを根拠に国家へ至ることは説明できますが、べつの原理がなければ、いったん生じた国家が身を縮めていくことはありません。吉本隆明の思想では共同幻想が消滅することは原理的にないのです。だれもここを指摘していません。
 現実形態の自己表出が観念形態であると考えたマルクスにたいして吉本隆明は、現実形態の自己表出が観念形態であるが、観念形態は観念形態の自己表出をもつと考え幻想論の全円性を描きました。わたしは吉本さんの幻想論がそれ自体にたいして表現を遂げたと考えたのです。それは吉本さんが特殊な共同幻想であると考えた対幻想を基点に世界をめくり返して包み込んでしまうということです。手袋を裏返しにするようなものです。そのことによってはじめて同一性に監禁された生がひらかれるのです。吉本隆明の思想の根底にある自己の恣意性もまた同一性の虜囚なのです。

 4半世紀前に、引っかかりとっかかりしながら内包表現の言葉を組み上げていたとき読者から手紙が来ました。「対の内包という考えはとてもわかりにくくて読んでいて突き離される感じがする」と感想が記されていました。

 わたしはおおよそ次のようなことを書きました。

僕の感じる世界では、「私」の裂け目から「性」の裂け目にむけて、足もとを水が流れるように、しんしんと流れる何かがあります。「自分」のなかの裂け目、「対」のなかの裂け目を流れて、流れ合い求心する、目には見えないけれど存在するものが確かにあります。それが対の内包です。この対の内包にふれることで、〈わたし〉がぽぉーっとあらわれるのです。この〈わたし〉は太陽をいっぱい吸った、ひりひり、じんじんする〈わたし〉です。近代が見つけてめいっぱい磨いた膨らまない「私」とはちがいます。(『内包表現論序説』410p)

 その次にまた問われました。

 〈対の内包像〉という概念は、点を領域とするための媒介となるもの、もっと言えば手段としてあるものなのか、それとも領域化された「ある場所」そのもののことなのでしょうか?(同前411p) 

 わたしは内包という考えは手段ではなく、「ある場所」そのものであると答えました。

 サランラップ一枚ぶんかぶったところで吉本隆明さんは世界や社会や歴史のイメージをつくりました。吉本隆明さんの思想を画した「転向論」もそれをまぬがれていません。もうすこし先までゆけばよかったのにという気がします。ここが根本から変わらないかぎり、吉本隆明さんの世界思想が現実をわしづかみにすることはないと思います。
 それはともかく、知と非知の背反を直進すれば、いやおうなく存在それ自体の自然に直面します。信と非信でもいいし、往相の知と還相の知でもいいんですが、わずか紙一重のところで自然に直面することを回避しています。だからそのぶんどうしても言葉が膝を抱えてしまうのです。
 言葉は現実に触れたいのにどうしても膜一枚隔ててしか現実に触ることができません。〈わたし〉の外延表現という意識の息つぎの仕方が知の特異点を不可避につくるんだと僕は思っています。
 僕は知と非知が矛盾・対立・背反することが自然だと考えています。このちがいはどこからくるのだろうか、僕は考えました。僕はもっと自然に踏み込まないと〈ことば〉にさわれないと感じています。特異点をひらく鍵は〈わたし〉の外延表現のなかにはないと思いました。
 知の扱い方においてポストモダンの思想の諸家、たとえばボードリヤールやガタリは論外として、フーコーもドゥルーズも詰め方は甘いものです。むしろ失敗しています。そこはフーコーにしてもドゥルーズにしてもまるで駄目です。
 〈わたし〉の外延表現、つまり第一次の自然表現のうちにある思想は社会の説明原理をもちえても自分が熱ではぜることがないのです。〈あること〉と猛烈に背反し、矛盾する自然がここをするどく衝きます。そこはごまかしがききません。はっきりしています。僕は第二次の自然表現で、疎外に拠る表現の拡張が可能だと考えてやってきました。そこはこれからも内包知の在り方として考えていこうと思います。(同前412p)

 こうやってじぶんが考えたことや書いたことをふり返ると、2015年いま現在までくるのに長い歳月がかかったんだなあと思います。そしてここは吉本隆明さんの思想の根幹と切り結びます。対幻想が対幻想にたいして表現を遂げたということを4半世紀前にはまだうまく言えてなかったことに気づきます。2002年に『GUAN02』を出したときもまだうまく言えていません。還相の性を言葉で取りだすのにそれからさらに10年余かかりました。けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして、そのことを名づけること。それは「ある場所」そのものであり、還相の性です。
 対幻想がそれ自体に対して表現をなすというとはどういうことでしょうか。わたしの困難はふたつあったように思います。根源の性の分有者は、いまのわたしの理解では、還相の性をふくみもつ往相の性、あるいは還相の性それ自体としてあります。分有者には往相の性と還相の性というふたつの性の位相があります。往相の性には自己同一性の影が紛れこんでいます。性はついに還相の性を内包的に表出したのです。固有であるとともに普遍性があると思います。
 還相の性は表現としてのみ可能なおのずからなる〈ことば〉の場所ですが、往相廻向の言葉でそこに触ることはできません。かろうじて帰り道の知、還相の知としてその場所を指し示すことができます。往相廻向ではなく還相廻向の知として、けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして、そこにあるのです。ここではすでに自力は尽きています。また自力でそこに到達することはできません。

 還相の知で還相の性を語ること。ここまでくると自己意識の用語法の制約はどうでもいいことになります。自力の果てるところに還相の性はあります。わたしたちはその根源の性からのまなざしによぎられ、その呼びかけに応えるだけです。わたしはそこが歩く浄土の場所だと思います。見ることも触ることもできませんが、絶えざる受動性としてこの〈ことば〉の場所はあります。それはいつもそこにあります。親鸞の正定聚より艶っぽい場所です。対幻想がそれ自体に向かって表現を遂げるということをわたしはそのように諒解しています。

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