日々愚案

歩く浄土226:アフリカ的段階と内包史14

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存在するが可視化できない出来事の端を言葉というのではないか。文字は心的な領域を可視化し内面をつくるが言葉は文字に先立って存在する。文字に分節される手前に出来事が存在する。その出来事が文字でシュミラークルされる。わたしたちが重畳してきた文明の外在史や精神の内在史がそれにあたる。もとより人間は自然の一部である。おそらくわたしたちが思っているよりも人間は動物に近く、他の霊長類と離れている。連続した変異のなかに断絶がある。ここがうまくとりだされたことはない。環界のおおきな自然と生というちいさな自然の相克として生を意味づけてきた。この自然は外界の権力と権力に蝟集する内面をかたどってきたといえる。ここでわたしたちの思考の慣性をささえる内面の砦は私性である。外界のおおきな自然の権力をなぞるように私性による内面の権力が同期している。「例えばカール・マルクスは、このキリスト教(イエス)の倫理を肩からはずし、制度を逆転すればいいはずだと考えた。しかしそれを試みたロシアをはじめ社会主義は、その倫理を個々の人間の肩から集団に移しかえただけで、富んだのは制度を支える『官僚』の集団だけだった。これは人間が利己心を捨て得ない存在で、『聖書』のいうように『神』だけにしか私的利害の問題を放棄できないからだろうか。これが二千年前も、二千年後の現在も『社会』が孕んでいる疑問である」(吉本隆明『中学生のための社会科』所収「国家と社会の寓話」)この問いはまったく解けていない。在るのざわめきをばらばらに生きるそれぞれの生を共同幻想という観念が統御する。なぜ私性は共同幻想に同期するのか。私性を共同幻想へと媒介するものが身体性であるとわたしは考えた。この点で人間は動物と連続的な変異をなしている。私性は自然であり共同性も自然である。むしろ私性は共同性に同期するようにできている。まったく無効である人倫を語っているのではない。書記以前に出来事が存在し、出来事はことばとして書記のはるか手前に変わるだけ変わって変わらない内包的なものとしていつも存在している。内包的な存在として存在する出来事を文字によって可視化することはできない。

内包を発見したときの驚きを30年ほど前につぎのように書いた。
「明暗不明の悠遠の太古に、ある種の霊長類が苛烈な妖しい情動に身を焼かれ、この情動を形にして、起源の言語や芸術を表現した。他の生類の生を掠め取って生きるのが動物の本質だから、灼熱の性からあふれて形になった起源の言語は、人間という自然の欲をいっそうかきたてることになった。ライオンが冷蔵庫を持っているという話は聞いたことがない。そういうことだ。〔内包〕する性の情動を巻きとって発熱した霊長類の一種属が人間の起源をなすとしても、起源の言語は〔内包〕という知覚をあふれ、奔流となって身のなかに流れこんだ。見てきたわけではないがそれは凄じいものだったにちがいない。人間の起源をなす〔内包〕する太陽の像は、罠にかかって煩悶しその亀裂を埋めようとして、アニミズムや神や仏として外延化されるほかにすべがなかった。善悪という倫理がここに発祥する。私の知るかぎり人間がつくった制度についてのさまざまな考察はすべて、これ以降に属するものだった。私は制度以前の太古のひとびとの情動の襞に対の内包像を重ねて〔1〕の思考の外延をやぶろうと考えた。
セクシー・アニマル・コンピュータな人間が数千年をひとまたぎにして現代に到達するのはほんの一瞬だった。ひとびとが自らのなかに際限のなさを発見したとき、無限や無意識という「神」があらたに創造され、古い「神」が死んで近代の知が編制されることになる。科学も資本も、それらが結合したシステムもそうだった。この奔流は止めようがなかった。ニーチェは近代の巨大なうねりに体当たりし翻弄されて狂死した。今、私たちは近代が発見し切り拓いた時代の尖端に長い影を落としている。異様に鋭い感覚の持ち主だったニーチェが気づいた〔1〕の真ん中に存在する昏い穴が〔衆〕にゆきわたるのに、赤眼の人類史の規模の厄災が代償として支払われた。
内包表現論をしぶとく考究することで、私は、ヘーゲルやマルクス、あるいはフロイトがカタをつけたと思い込み、しかし詰めきらずにのこした意識の明証性に関わる、考えることや感じることの根源にある超越の問題群にひとつの道すじをつけることができたと考えている。意識の明証は、〔内包〕という像と相関するが、同じものでなく、ただ〔内包〕という知覚の表現としてのみあるという〔存在〕の原理は、繋ける日の元気そのものだとおもっている。不可知論ではなく、どんな明証もここより先へは行くことができない。また〔内包〕という知覚によってはじめて宗教的な大洋感情が、大洋の像へと拡張されることになる。これよりシンプルなものはなく、これよりプリミティブなものはない。もっとかんたんでわかりやすいものがあったら是非お目にかかりたい。世界はそう複雑でも入り組んでもいないのだ。大丈夫だ、ここしばらく〔世界〕は私の〔内包〕の知覚でやっていける。傲慢な自信が私にある。はじめから意図したわけではないが気がつくと、私は神や仏という超越を組み替えてしまったというわけだった。それは同時に、意識の明証がけっして手にすることができない、なぞることはできても、じかにふれることのできないものだった。無限を発見したカントールの驚きに似ているかも知れない。私は興奮した。私は〔内包〕という直接の知覚を機軸に未存の人類史を構想することが可能だと感じている。言い替えれば人間がこれまでつくってきた膨大な知の体系を根本からそっくり組み替えることができると密かに考えている。
嘆く思想やおあずけする思想なんかいらない。そういう、生をくらくするつらいものは生きていくのに何の役にもたたない。そう、欲しいのは元気の素。北風と太陽、あれだ。幾重にも巻きつけて着ぶくれしたシステムの堅固が、〔内包〕の思想の、あまりの熱さにたまりかねてすこしずつ融けはじめるだろう。それが内包表現が世界に望むことだ。どんどん私の空想はふくらむ。もしも創られつつある新しい自然に〔内包〕という知覚を直結できたらとおもうとゾクッとする。ほんとに〈わたし〉が〈あなた〉に成ってしまう。イン・エクスタシー!」(『内包表現論序説』の「序」から)

むかし書いた文章だが、「私は、ヘーゲルやマルクス、あるいはフロイトがカタをつけたと思い込み、しかし詰めきらずにのこした意識の明証性に関わる、考えることや感じることの根源にある超越の問題群にひとつの道すじをつけることができたと考えている」というところと、人間を「セクシー・アニマル・コンピュータ」としている気づきはビットマシンの外延革命のただなかにあっても概念は古びていずに生きていると思う。人間は思っているよりは動物やビットマシンに近く、存在の複相性において他の霊長類ともビットマシンとも隔絶している。意識の明証性は人間が自然の一部であることや同一性を反復するものであることを証しているようにみえる。人間は存在を複相的に生きうるということにおいて動物ともビットマシンともまったく異なっていると内包論で考えた。意識の明証性に溺れると人間は動物の近縁であるとも、あるいは自我をもつかのようにふるまう強いAIの近傍にあるとも言える。自然言語と分子言語の境界はかぎりなく漸近していく。またそのように自然の一部である人間の天然自然を生物工学によって改変していくことになるだろう。人間が動物の近縁であるということはビットマシンの近傍に人間が位置することを意味する。わたしがここで提示していることは時代の推移と共に明らかになっていくにちがいない。人間は自然の一部でありながらその自然とはべつの存在原理によって人間となったのであり、どうじにビットマシンの二進法に還元できないものとして人間は存在している。セクシー・アニマル・コンピュータである人間の存在の様式は自然ともビットマシンの動作原理とも異なる内包的な存在として存在している。アニマルとコンピュータは意識の明証性として外延可能であるが、人間を人間たらしめている根源の性はいずれとも存在のありかたがちがう。そして根源の性のありようになかに生や世界の可能性が広がっている。

動物的な意識の延長に人間的意識が生まれたのではない。存在を複相的に生きる機縁をもつことで人間となったのである。心身一如の存在に意識の起源をもつとみなす意識の明証性は存在の複相性を粗視化することができない。大脳生理学がどれほど精密に外延的な知をめぐらせても、そのことによって意識の往路は解明できても、意識の復路を証すことはない。存在の複相性から生まれた意識を同一性的な意識の明証性をどれほど重畳してもつかむことができないからだ。主体はいかなる意味でも実体ではない。もし主体が実体であるとすればそれは自然科学の属躰としての意識でしかない。人間が動物の近縁であるということもビットマシンの近傍に人間が位置しているということも自然の一部である人間を自然科学的に記述するだけである。それは共同幻想にすぎない。内面化も共同化もできない意識のありように人間と言う存在の本来性がある。そしてそれは人間が根源において〔性〕であることを意味する。

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他力のなかの他力を観念としてつくることができなければ、もうどこにもわたしたちはゆくことができない。ここで意識の外延性がたどる宿命をとりあげる。わたしは外延的な思考の慣性の流れに沿う意識の明証性によって意識の起源をさぐりあてることはできないと考えている。自然科学的な方法を外延して意識の起源を解明することは先験的にできない。意識と自然科学は離接しているからだ。むろん自然科学的に意識の解明をなすことができるとみなす立場もある。主体という空隙を差異性によって充填することができないと考えたフーコーは早々と人間の終焉を宣言した。
フーコーにとってBeyond Here Lies Nothin’ ということは生のリアルだった。同一性という観念に穿たれた底知れぬ昏い穴を埋めようと思索者たちがさまざまに探究したが、生の不全感が埋まることはなかった。同一性的な観念の由来を尋ねることは意識の起源を問うことにひとしいこととしてあった。起源の意識を問うと人間という自然がなぜ意識という観念をもったのかという根源的な問いに行きつく。意識の起源は心身一如の人間という自然のなかにあるのか。この問いは物質と観念の二元論の始原そのものを問うことになる。

創世以前からの巨大な考えの固まりを意識だと考える池田晶子は言う。池田晶子にとって自然科学も思考の枝葉にすぎない。それはよくわかる。小さい頃から空想癖のある少年だったから、DNAは化学物質であるが、その化学物質に意識が宿るのはなぜなのか不思議でたまらなかった。いまなら自然が自然を差異化して意識をもつのはなぜかと考える。意識の明晰さはこの問いに応えることができるか。

「池田 科学としての医学とは、人間を物質として見ることですよね。
ドクター そうです。
池田 でも人間には精神があることもお認めになりますよね。
ドクター ありますね。
池田 脳は物質ですよね。
ドクター 物質の集合体ですね。
池田 精神は物質じゃないですよね。
ドクター うん、物質じゃありませんね。
池田 どこで一緒になってるんでしょうか。
ドクター さあ。
池田 さあ、ですよね。そうすると、ひょっとしたら精神というのは、人間のもう半面、こっちから見れば精神、こっちから見れば物質に見えるという、そういうことなのかもしれませんよね。
ドクター うん。

本当は、私はこの時は、『魂』と言いたかったのだ。魂であるところの人間は、物質の側から見れば肉体、非物質の側から見れば精神である、したがって、魂とは、物質でもあり非物質でもあるような、それ自体は不可知な何らかの力もしくは動きであると」(『2001年哲学の旅』所収「『死』は、どこにある?」)

これが物質と精神は存在の二相であるという池田晶子の魂説である。人間というのは魂であって、そのあり方は、物質と精神の二面をもっていると池田晶子は理解している。この二相の相乗効果が「私」の個別性をもたらすか。池田晶子は「私はヘーゲルである」とためらいなく言う。でもヘーゲルである自分がなぜこの池田晶子なのかがわからないと言っていた。池田晶子の考え方からすると自然科学もまた思考のうねりが跳ね上げたしぶきのひとつにすぎない。「意識とは断じて『自己意識』ではなく」、「ヘーゲルにとってはまさしく全人間が『「いきなり自己』なのだ」(『考える人』)と理解する池田晶子は「私に言わせれば、現代科学のほうこそ、明らかに半端な妄想である。物質が存在するとは考えても、その物質が「存在する」とはどういうことかと考えたことがない」(『考える日々』)池田晶子のこの気づきは鋭敏だと思う。市販された本をすべて読んだのは池田晶子の存在することへの驚きに共感したからだ。初めて彼女の本を読んだとき存在するとはどういうことなのかという問いの鋭さにすぐピンとくるものがあった。池田晶子の生の知覚にびっくりした。存在することの不思議さに池田晶子ほど腰を抜かした人を知らない。「社会」主義のもの書き文化人たちとは世界への触れ方がまったく違っていて痛快だった。存在することの不思議に驚倒しながら存在そのものを駆け抜けるように生き急いだ。ここでおそらく理性の言葉では語りえないことを語ろうとして池田晶子は魂という考えをもちだしている。「魂とは、物質でもあり非物質でもあるような」両義性をもつなにかであるというのが死を目前にして池田晶子がつかんだリアルだったと思う。思考することの緩みが池田晶子の考えのなかにある。物質でもあり非物質でもある魂とはなにか。究尽されていない。魂は観念であり物質ではない。それに尽きる。このリアルをひらく方法を池田晶子がもつことはなかった。言い換えれば主体は実体ではなく他者によってもたらされるというメビウスになったやわらかい性を生きることなく池田晶子はこの世から消えた。

オウム真理教のなした邪悪に荷担した中沢新一は物質と精神は一元であると奇矯なことを言う。瞑想をしているとまばゆい光が刺すように額に注ぎこんでくる。中沢新一はこの光が自由の根源であると考えた。物質の素過程で起こる現象と心の素過程で起こる現象は同一のものであると『神の発明』のなかで言っている。科学者は心的な世界の起源をニューロンの発火と結びつけて考えようとしているが、中沢新一は物質の素過程と心の素過程は渾然一体となった一元のあらわれであると理解し根源的な問いをずらして考えている。「重要なのは、『内部視覚」が心的現象の物質的な素過程におこっていることの直接的な反映であるということです。コンピュータの『物質的な素過程』と言えば、ソフト面では0と1という二つの数字がずらっと並んだ表のことであり、ハード面ではON/OFFという電圧変化の連続にはかなりません。それとまったく同じで、心的過程の『物質的な素過程』でも、流動的な心的エネルギーの深部から、多様きわまりない光の形態がつぎつぎと出現している過程が、たえまなくくりかえされているだけです。この『物質的な素過程』から意味をもった世界が構成されてきます」。散乱する電子ノイズがなぜ意味をもつようになったのか。なにも書かれていない。『心の先史時代』の作者であるスティーブン・ミラーらの認知考古学に触発されて流動的な知性という言葉を造語し対称性人類学という文化的な言説を唱えただけで世界をすこしも抉っていない。スピリットという心の素過程は心的な働きと物質の過程が渾然一体となっていると中沢新一は主張する。内部が外部であり、精神が物質でもあるとされる。わたしは物質も物質という観念があるだけだと思う。実在するとされる物質もまた観念が粗視化した観念の産物だ。そうすると物質的な素過程それ自体というより、スピリットいうプリミティブな観念と、物質という観念との観念の強度の差異があるだけということにならないか。なにより対象性という概念がつるんとして平板的だ。中沢新一が自由の根源であるとみなす内部視覚は、他者なき一人の恍惚であって、その恍惚とした自由は、空無、即ち、ニヒリズムだと思う。

自然科学的な知は思考の全円性にとって部分知にすぎないことを池田晶子や中沢新一が言おうとしていることは充分に理解できる。生が科学知の属躰ではないと言いたいこともわかる。しかし意識の起源を問い尋ねて、魂が物質でもあり非物質でもあると了解することや、心の素過程は物質の素過程のなかにあるとみなす唯物論は迷妄である。意識の外延性は同一性のくびきをまぬがれないということだけが意識の起源にとって本質的なことだと思う。モダンな心性は外延的な論理式をふりきることはできない。吉本隆明の心的な過程の定義もこの拘束のなかにある。「そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく」(『心的現象論・本論』所収「眼の知覚論」)三者三様に考えているようにみえて、思考の論理式はまったく同型である。観念は観念であり、物質は物質という観念であるにもかかわらず、観念と実在を無理につないでいる。自然がなぜ自然を差異化したのか。同一性的な外延表現はこの問いに答えることができない。この閉じられた円環のなかにビットマシンの外延革命も位置している。

なぜ親鸞は、生涯、禅仏教系の聖道門を自力廻向として批判したのか。池田晶子の感性は自然への融即という日本的な自然生成として現成し、福島原発事故を契機に中沢新一は被災地を見舞う天皇夫婦にたいして「陛下」お一人にご迷惑をおかけして申し訳ないと枕詞を置くようになり、吉本隆明は人類の滅亡を予感をした。親鸞は内面を拡張できる自然(じねん)を竪超(自力の信)ではなく横超として語った。親鸞より近い仏を自己として生きた親鸞にはひとつの身に心がふたつあった。この生の知覚を外延的に表現することはできない。「亡くなった父も死んだ猫も、生きているあいだは施設やソファの上などにいたけれど、いまは『ここ』にいる。近すぎて見えない、近すぎて触れられないんだ。いつかその日が来て、ぼくも誰かの『ここ』になる」(片山恭一ツイート2017年12月26日)ひとつの身に心がふたつあることを同一性は定義できない。近すぎて可視化できない近傍とはそういうことだ。

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親鸞は自力と他力でこの機微をうまく言っている。「无上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに自然(じねん)とまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃仏とはまふさず」(「末燈鈔」)親鸞は仏は可視化できない言葉だと明言している。可視化できない仏という言葉がなぜ空間化されたのか。可視化不能であれば空間化もできないのではないか。阿弥陀仏の第十八願として他力を説諭しているがわずかにモダンだと思う。可視化できず空間化できないとしたら他力のなかに根源の性という他力をつくるしかない。親鸞の膂力をもってしても信が衆生に空間化され、他力という信の集団をつくるからだ。親鸞は弟子一人もたず候という遺された言葉は親鸞がそのことにきわめて自覚的であったことを示している。かたちのない出来事をなぜ阿弥陀仏のはからいとして言ったのか。かたちがないとはどういうことか。親鸞も時代の知の布置のなかで生きていたので、かたちのない第十八願を仏という共同幻想を媒介にしてしか言えなかったのだと思う。親鸞が生きた時代の制約をとりはらうと他力や自然法爾よりもっと音色のいい出来事があらわれると内包論で考えた。たしかにかたちとして可視化することはできないが浄土の真宗に先立ってある出来事が存在する。浄土教を最後まで解体するとなにがでてくるか。自然法爾よりも色っぽい還相の性があらわれる。この還相の性によって親鸞の自然法爾はわずかに膨らみをもち、他力が〔性〕となる。かたちがないとは文字として語られる他力の信ではないことはあきらかだ。根源の出来事は文字に先立ち、宗教という共同幻想に先立ち、可視化も実体化もできないある出来事としていつも存在している。わたしは存在の知覚のことを言おうとしている。親鸞より近くにいる仏を親鸞として生きるとき、それは他力という信ですらなく、親鸞がどうであろうと親鸞が〔性〕になっているということだ。仏である親鸞は仏の他力によって親鸞と成ったが、このとき親鸞は仏という自己としてではなく、あたかも中心をふたつもつ自己が楕円体にひろがった親鸞として親鸞を生きている。いずれにしても根源の二人称という出来事は、仏というかたち、仏という文字に先立っている。では信を解体して親鸞はどこにいるのか。どこを生きたのか。浄土教の教義を解体した親鸞は仏と共に〔性〕になったのだと思う。

他ならぬ固有の他者がじぶんよりかぎりなく近くにいるとき意識の同一性はこの出来事を可視化することも空間化することもできない。つまり同一性はこの驚異を定義できない。意識の外延性は〔性〕を自己に遅延して到達するようにかたどった。人間という存在がわたしたちが考えているよりも動物に近く、どうじに他の霊長類と離接していることの非連続性は意識の内包性として解かれるほかない。自己が他者を措定する思考の慣性のなかに生や歴史が閉じられている。根源の二人称は自己意識や神や仏という超越の手前に内包的な存在として存在する。
ここで存在の複相性から吉本隆明の心的な領域は根底から拡張されることになる。自己意識の外延的表現の範型として吉本隆明は心的な領域をつぎのように定義した。「心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成りたたない。また、生物体としての機構に還元されない心的な領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない」(『心的現象論序説』)存在は複相性としてあるから、内包論から吉本隆明の心的な領域を全面的、根本的に読みかえ、拡張する。内包という心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では還相の性を媒介にして一対の根源の性の分有者の関係として表現され、生物体の機構の還元できない心的な領域は共同の幻想ではなく内包的な親族として表現される。内包論は人倫を媒介とせず、共同性も疎外せず、それ自体として自存する。また内面の内包化によって、他力のなかの他力がおのずと表現され、還相の性という潜力がもつ余熱は外延的な共同性を内包的な親族へと転位させる。ここに生や歴史にとってのまっさらな未知がある。

もとよりサイトの記事はこの国や世界の壊れを横目で睨みながら生の劣化をもたらしている意識の外延的な思考の慣性を拡張したいというモチーフをもって書かれている。

 

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