日々愚案

歩く浄土6

    1
 じぶんのなかをずっとのぞき込んでいくとなにがあるか。
 なにもないというのがニーチェの発見でした。かれは天に唾し自爆しました。それはともかく。。。

 わたしはある縁で、個人や自己のなかにはつながりが内包されていることに気づき、その驚きを『内包表現論序説』や『GUAN02(内包存在論草稿)』として書き継ぎました。わたしは、わたしが触った熱い自然を根源の性と名づけ、根源の性と、根源の性を分有する分有者を手がかりにすれば三人称のない世界をつくることができると、当時考えました。そのあと三人称のない世界という言葉に自縛され、思考が混乱し、なにも書けなくなり、10年余、深い闇に墜ちました。ここを脱するには途方もない困難がありました。

 わたしの表現のわかりにくさは、自己のなかの絶対の他を、根源の性という、当の対象が自己意識を前提とした通常の意味では対象となりえない、この世界の内部の諸対象とはまったく次元を異にする根源的対象であるにも関わらず、そこを言葉で取りだそうとしていることに由来していると思います。それは極度に困難でした。もともとそこを言葉でつかみ出すことは不可能ではないかとも思いました。そのつど、内包論理で触った感覚を外延論理に置きかえ、そこを往還しているとあたまにひびがが入るのです。
 そのときわたしが底の見えない深い穴ぼこから這い上がる梃子になったのは親鸞の言葉でした。5巻ある親鸞全集のところどころを眺めながら、考えることを考えました。この10年でひとつの言葉を手にしました。還相の性という概念です。2冊の本を書いたときにはまだ考えついていませんでした。わたしの主観のうちでは親鸞の正定聚という言葉の拡張にあたると考えています。やっと少しだけ息がつけるようになりました。
 グローバリゼーションの「猛獣の理」よりも、イスラム国のならず者どもの残忍さよりも、安倍の自己陶酔する自己愛よりも、鵺のような全体主義が意志を持ちはじめたファシズムという生きものよりも、わたしのつかんだものは、ずっと強靭な概念です。わたしの考えは少しずつしか進みませんが、さあ、かかってこいと思っています。

 なにか特別のことを言いたいのではありません。だれにも、どんなときでも根源的な出来事はひとりひとりに内在しています。それぞれのやりかたでそのことをつかみ出せばいいのだと思っています。長年の友人のHさんは内包を「重なりの1」と読み換えています。勘所はおなじだと思います。ここをていねいにとりだすことは人類史を革めることに通じます。だれもやり遂げていません。電脳社会の到来という第三次産業革命の混乱の只中にあっても、ここに生の未知があるとわたしは考えています。

    2
 レヴィナス自身は戦時捕虜だったのでアウシュビッツには行きませんでしたが家族全員をそこで喪っています。生涯かれはハイデガーの哲学と格闘し、ハイデガーの哲学を包越しようとしました。かれの呪文のような言葉があります。苦界がどういうものかを知り尽くした上でかれは言います。

自己を気遣う自我―存在への固執―「存在への努力」であるかぎり、たとえ自我が心の奥底から他者への「献身」を示そうとも、〈西欧〉という優雅な社会で深く感謝の念に満たされつつ互いに満足を与え合うというかたちでおのれのエゴイズムを消し去ろうとしても、おのれを虚しくしようとつとめても、それはことごとく徒労である。他者のために、他者の立場になって受苦することは、無私には至らない。愛他的意識は、それ自身へ帰還するからである。他人のために、他人の立場に立って受苦すること、それは他人が私を苦しめることである!(中略)だから、他者との関係が「貪欲な」物質への変容をもいとわないほどにひたすら自己自身の強化をめざすものであるかぎり、自己犠牲はヨーロッパ的な個人主義と自我の硬直化のたんなる迂回にすぎない。「私」は他人よりも強いのだ! (中略)わたしたちの偉大なる哲学においては、他者との関係は、究極的には自己意識の用語法で語られ、そこに回収されてしまうのである。(『モーリス・ブランショ』内田樹訳 111~113p /欧文は略 傍点も略)

 砂漠の商人詩人ランボーの詩を同一性の戯れだとレヴィナスは痛烈に揶揄しました。かれはそう言わずにはいられなかったのだと思います。同感します。高橋源一郎さん、おわかりですか。気になる方は2015年2月3日の彼のツイートをお読み下さい。彼は後藤さんより湯川さんに共感を示しています。それが文学だと言いたいようです。フェイクです。彼はけっして関与しえないことに関心のあるふりをしています。どうであれ湯川さんにはじぶんの顔がありませんでした。わたしはそのことに関与できません。それは湯川さんの問題です。もし高橋源一郎さんが彼に関心をもつのであれば村上春樹の文学を肯定すべきです。わたしは若い頃自身が冤罪事件の容疑者としてマスコミにさらされました。マスコミがどういうものであるか承知の上でこのことを言っています。

存在するとは別の仕方で、存在とは他なるものへと過ぎ越すこと。とはいえ、この過ぎ越しは別の仕方で存在することではない。それは存在するとは別の仕方でそのものなのだ。このように存在するとは別の仕方で、存在とは他なるものへと過ぎ越すこと、それは存在しないことでもない。存在とは他なるものへの過ぎ越しは死ぬことではない。存在と存在しないことが相互に照明し合ってつむぎ出す思弁的弁証法でさえ、あくまで存在を規定するものにとどまる。この弁証法とは逆に、存在を排斥しようと努める否定(ネガティヴィテ)性も、存在を排斥したとたん、存在のうちに没してしまう。空虚がうがたれるや否や、あるの無言の呟き、あるの匿名の呟きがこの空虚を塞ぐ。(『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』合田正人訳 18p:ブログに傍点の機能はないので、傍点は略した)

ここで、ただちに次のような反論が提起されよう。「存在するとは別の仕方で」という表現にふくまれた副詞「別の仕方で」は、存在するという動詞と不可避に結びついているのではないか。「存在するとは別の仕方で」という表現は不自然な省略語法の所産にすぎず、この表現において、存在するという動詞は単に省略されているだけではないのか。つまり、「存在するとは別の仕方で」は「存在するとは別の仕方で存在する」に帰着するのではないか。(同前 19p)

 わかりきった反論はしないでね、とレヴィナスはあらかじめ言っているのに、池田晶子は浅知恵で反論する。

なぜなら、たとえここでなお、「存在ではないもの」「存在の彼方」と言いかつ願望することができることのそこにまさに「存在ではないもの」「存在の彼方」が存在していると言い張ったとして、見よ、そう言い張るそのことがまさに、「存在ではないもの」「存在の彼方」が「存在している」と言うことなのだ!(『考える人』82p)

 レヴィナスは『われわれのあいだで』(合田/谷口訳)のなかで言っています。

「存在するとは別の仕方で」は「なにものか」ではありません。それは他者との関係、倫理的関係です。ハイデガーにおける倫理的関係、「共同存在」は、世界へのわたしたちの存在のひとつの契機にすぎません。倫理的関係が中心的な場所を占めることはない。「共に」、それはつねに~のかたわらに存在することであって、〈顔〉への対応ではありません。それは「一緒にいること」であり、おそらくは「一緒に行進すること」なのです。

けれども、飢えた者を養い、裸のものに服を着せることが存在の意味である、いや存在しなければならないという任務を超えたものであるとハイデガーが考えていたとは、私には思えません。(欧文と傍点は略 166~167p)

 レヴィナスのハイデガーに対する批判の要諦はよくよく諒解できます。同感します。このようにレヴィナスにとっての自己は、自己同一性の手前にある受動性なのです。単独の自己を痛快に生きた池田晶子さんは、愛、そんなものはないと切り捨てていました。どんな愛も自己愛の反映だとして。だから共生は不可能だと。覚者のほかに仏なしとする禅仏教の境地を生きたといえばそういえます。なにかもの足らないですね。ネットで、没後、旦那さんからお別れの会をしますとの告知を知ったときはのけぞりました。旦那さんがかわいそうだと思いました。

 それではレヴィナスは肝心要のことを充分に言い切ったのでしょうか。そうは思いません。レヴィナスの思想を翻訳本で読み込みながら息苦しさを感じました。なにか思考が窮屈なのです。極限倫理のようなものを感じたのです。どういうことかいまなら言えます。ハイデガーに深く薫陶を承け、ナチに荷担したくせに戦後そしらぬふりをしたハイデガーの哲学全体を批判しようと意図したレヴィナスにして、ヨーロッパの知の制約を被っているのです。簡単にいえば知識を往相廻向としてしか表現できていないのです。おそらくレヴィナスの突き詰め方のどこかに曖昧さがあるということではないと思います。帰り道で知を語るという伝統も方法も西欧にはないのです。だから思想の肝を語ろうとして論理が窮屈になるのです。どうしても苦界にあるものの具体を指示性として現前させることになるのです。
 先に引用した「〈西欧〉という優雅な社会で深く感謝の念に満たされつつ互いに満足を与え合うというかたちでおのれのエゴイズムを消し去ろうとしても、おのれを虚しくしようとつとめても、それはことごとく徒労である」や「他者との関係は、究極的には自己意識の用語法で語られ、そこに回収されてしまうのである」という強烈なイロニーを諒解したとして、そしてレヴィナスの言葉にかなりの毒があることをわかった上で、まだ思考の未然があると思えるのです。

    3
 そのあたりのことを表現できている言葉を見つけたので取りあげます。

 ほんの一年前、この子はまだ無に等しいものだった、と周作は思う。そのころのことを、彼はもう思い浮かべることができなかった。生まれてから半年余りのあいだに、赤ん坊は すっかり家族の一員、というよりも周作の一部分になっていた。それは長く飼われているペットが家族に溶け込むのとは、また違うことのような気がした。彼と赤ん坊とのあいだにある親密さは、反復によって築かれたものではなかった。むしろ、この親密さゆえに、周作は子どもとの関係を生涯にわたって反復していくことができるのだと思った。濃やかな感情は、周作の存在の深みの、さらに深いところからやって来るようだった。
 彼はあらためて赤ん坊を見た。もう思い出せないくらい遠い過去に遡って、赤ん坊はずっとそこにいたような気がした。赤ん坊との関係で、彼は自分が、けっして関与することのなかった過去へ向かって投げ出されているのを感じた。記憶の外にある過去の暗闇から、赤ん坊は周作を見つめていた。その遥かな場所から、赤ん坊は現在と未来の彼を間いつづけていた。周作には、この小さな生命の何ものであるかを名づけることはできない。逆に、一個の小さな生命が、彼の何ものであるかを絶えず問いつづけているのだった。
 赤ん坊は瞬きもせずに、じっと見つめている。不意に周作は、見られることによって、自分が選ばれた者になった気がした。誰からともなく選ばれて、ここにいるような気がした。赤ん坊との関係で、彼は自分という存在にたいして、いまはじめてピントが合うのを感じた。目の前にいる赤ん坊にたいして、周作は自分以外の何者でもありえなかった。他の誰も、彼のいる場所を占めることはできない。この場所は、広大な宇宙のなかでただ一箇所、彼だけのために用意された場所だった。暗がりのなかから見つめる二つの目が、そのことを果てしなく肯定していた。(片山恭一『もしも私が、そこにいるならば』所収「九月の海で泳ぐには」225~226p)

 以前この作品を雑誌で読んだことがあり、この箇所を記憶していました。それで片山さんに本を送ってもらったのです。とても好きな箇所です。なにかわたしが考えてきたことと似た感触があります。おそらくレヴィナスはこういうことが言いたかったのだと思います。「赤ん坊は瞬きもせずに、じっと見つめている」、これがレヴィナスのいう他者です。この視線によぎられることによってはじめて自己の各自性が生まれるのです。けっして自己は自明で実有の根拠ではないのです。よぎられるという受動性の賜物です。レヴィナスの「自我は起源に先立って他者へと結びついている」ということはこういうことなのです。目の前の赤ん坊にたいして、かれはじぶん以外の何者でもなく、他の誰もかれのいる場所を占めることはできません。それはかれだけのために用意されているのです。この場所はけっして共同化することができず、それ自体としてあります。そしてこのときひとはだれも同一性の彼方を生きているのです。
 存在の彼方からの襲来とか、存在の背後の一閃とか、いつもすでにそのうえに立っている、それがあることによってはじめてヒトがひととなったシンプルな情動とか、いろんな言い方をしてきましたが、根源の性とはそういうことです。作品の主人公は、自己以外の何者でもなくかれ自身でありながら、けっして共同化できないそれ自体としてどうじに〈性〉なのです。根源の性の分有者が外延論理で一人称であるとどうじに二人称であるということはそういうことです。この反復をくり返すなかにゆるやかな内包親族論とでも呼ぶものがしだいに輪郭をもってきます。もっとも中心的な概念は、根源の性を分有する分有者に内在する還相の性ということになります。それは表現論としてのみ可能です。
 内包自然をもとにした理念は、マルクスの資本論とも、吉本隆明の共同幻想論とも、フロイトの性の分析理念ともことなるものとして姿をあらわします。わたしは歩く浄土という国家のない世界をめざしています。そこにしかグローバリゼーションという猛威を超える生はないと思っています。

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