日々愚案

歩く浄土5

81GUrIgCWyL__SX425_
    1
 わたしは、ひとが思考するというそのことを考えるのが好きなので、考えることを考えてしまう思考の習癖があります。つい考えることを考えてしまうのです。本を読むのが好きということではないのです。マンガを読んだり、ロックを聴いたり、いまはよくユチュブでピアノ曲を聴きますが、それはとても好きです。

 もの書き文化人に比べたら読書量はごくわずかです。ヘーゲルにしてもフーコーにしても、この人たちは一体なにが言いたいんだろうと考えるのです。フロイトの精神医学について書かれた著作集を眺めながらそういうことを考えるのです。知識を身につけて世界を理解したいということはまるでないのです。
 考えることを考えることにはひとかけらの啓蒙性もないので、それが職業になることはありません。もともと思考するということはすでに同一性の彼方を生きることです。グローバリゼーションという「猛獣の理」ごときの歯が立つ領域ではありません。また書誌学的な読み方にはなんの関心もありません。じぶんに引きよせてしか本を読むことはできないのです。
 ヘーゲルは、人が暮らしの中で不断にくり返す、失敗・反省・納得という精神のうねりを正・反・合と名づけ、それを弁証法と呼んだだけです。気をつけ!、前にならえ、が好きな人でした。そう考えないと彼の精神が安定しなかったのだと思います。
 難解をもって知られる西田幾多郎の『善の研究』を読んで、ああこの人は禅仏教を解釈しているんだなと腑に落ちたらもうそれで読了です。自己の中の絶対の他とか、自己矛盾の絶対的同一なんていう舌を噛みそうな漢字の羅列も、なんだ、1と多のあいまいなつながりについて念仏を唱えている人なんだな、で終わりです。かれの世界に深いものはありません。日中戦争-太平洋戦争の和平工作に奔走する、帝国海軍少将の高木惣吉に、高木君、君しかいない、がんばってくれ給えと言った、その当の本人が太平洋戦争の聖戦文を起草したという情けなさ。必要ならもう少し詳しく覗くこともあります。夭折した池田晶子さんの本の読み方によく似ているなと思ってきました。

 わたしはわからないことを腑に落ちるまで得心したいから考えるのです。じぶんに引きよせてしか読むことができません。偏っていますが、それで不都合なことはなにもありません。
 フロイトの翻訳本を読んで、ああ、この人の表現理念はリビドーなんだと得心したら、そうか、この人の表現の公理は性のうねりなんだと理解したら、それでフロイトに関して読了となります。かれによって発見されたというesを自我や超自我という概念で織りあげたのです。さまざまな思考の大爆発があった時代の転換点の反映です。数学では無限がテーマになっていました。アインシュタインの相対性理論もその流れの中にあったのです。
 もう少し時代が下ってフォン・ノイマンがゲームの理論を作り、いま興隆の極みにある電脳社会の基礎となるノイマン型コンピュータができました。サイバネティクスの登場です。ワトソンとクリックが遺伝子の二重らせん構造を発見し、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(S)、チミン(T)という分子記号を取りだしたのです。コンピュータの二進法と分子記号は極めて相性がいいのです。金融工学もそうです。世界はもうこれ一色というほどに席巻されまくっています。

 わたしの中にもいくつかの公理らしきものがあります。思いだすことをあげてみます。
 ひとつは、明晰は迷妄から人を救いはするが生を熱くはしないということです。

 この公理から、ある時代を生きる人がその時代との関係でもつ迷妄の度合いは変わらないという系が導かれます。カリフ制を唱える人が迷妄の塊であることは間違いないのですが、それではカリフ制より明晰だと称する人が、今の時代との関係でもつ迷妄の度合いは少ないでしょうか。わたしは変わらないと思います。現在という時代から眺めるとカリフ制という風土を復権しようとする砂漠の思想は迷妄です。わたしたちの世界では凶暴なオカルトとしてしか存在しません。それは明らかです。
 しかし、この世界のこの時代を生きている者が、この時代とのあいだでもつ迷妄の度合いはカリフ制を信奉することよりいくらかましでしょうか。おなじだと思います。
 貨幣も、医療も、多くの部分が制度を媒介にした幻想です。

 まだわたしが意識せずに生きている公理があります。
 もし人が孤独でありえたら生きることはどんなに楽だろうかとわたしは思っています。この考えはわたしに内在し根づいています。
 人は孤独だからつながりを求めるというのが常識です。わたしのこの認識は世の常識と真逆です。内包に孤独と空虚はないからです。なかなか人に伝えるのが難しいのです。


 まだあります。若い頃からの疑問です。
 ちょっとしか食べ物がないとき、お互いになぜ分け合わなかったのだろうかと思いました。どの本を読んでも人は奪い合うものだということを前提にしているのです。マルクスは公平な富の分配にできるしくみを言葉でつくりました。でもそうはなりませんでした。余剰物があるとひとはもっともっと欲しくなります。どうしてでしょうか。いまはわたしは同一性に原因があると思うようになりました。同一性に監禁された生が余儀なさや制約としてあるのです。わたしはここを内包という概念でひらこうとしています。

    2
 悠遠の太古を生きていた陽気な面々が、あるとき群れからむっくと身を起こしました。ひとが自然の一部であることはそのときもいまも変わりありません。そのときにひとという自然に亀裂が生じたのです。自然が自然を認識するようになったのです。おそらく凄まじい恐怖がそこに起こったと思います。おれたちも自然の一部だからまた仲間に入れてくれという叫びが、氏族神を祀るトーテミズムだったように思えるのです。太古の面々を襲ったこの意識の変容から現在までは一直線で一瞬だったと思います。その全過程をわたしはモダンと名づけています。この国に伝承される八百万の神はその遺制であり残滓です。
 生きられる生の未知はそこにはありません。ヴィユが匿名の領域が存在することをからだで感じながら不在の神へと向けた祈りと、石牟礼道子さんの「いのちの共鳴り」はまったくべつものです。先のブログで、カリフ制を奉じることと水俣を礼賛することは意識として同型であるといいました。おそらくわたしの発言は奇異に映るだろうし、いくらか挑発的な物言いだということは自覚しています。おなじことが中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズにも言えます。ほんとうにかれはその世界を生きたいと思っているのでしょうか。解釈として軽く言っているだけだと思います。わたしはアニミズムの世界を言葉として理解はできますが、そこを生きたいとは思いません。

 自己意識の外延表現をどれだけ世界に伸張しても、どれだけ内面を社会化しても、人と人はつながらないのです。その長い影のなかをわたしたちはいまも生き惑いながら生きています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です