日々愚案

歩く浄土220:アフリカ的段階と内包史8

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心はどこにあるか。心的現象とはなにか。心が自己と相関することはまちがいない。では自己とはなにか。宮沢賢治は『春と修羅』で、「わたくしという現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」と言った。なにか自己という実体があってそこに自己があるのではないと言う。なるほど、仏教の機縁から来ているわけだ。西欧近代の知者だったデカルトは人間の身体は機械だと言い、ノーバート・ウイナーは人間を通信と制御による複層態だと考えた。この意識の流れのなかで強いAIが人間の知性を超えシンギュラリティを迎えることは必至なのでビル・ゲイツやホーキングは人類は破滅すると恐怖する。そうだろうか。生物学は化学に、化学は物理学に還元できるという信念を妥当なものだとすれば、人間のちいさな自然である内面は科学という共同幻想に還元できるだろう。この思考の慣性が支配的である時代をわたしたちは生きている。
吉本隆明は人間の心的な現象についてもっとも破綻のない定義をしている。「そこで、わたしたちは、身体の生理過程がそれ自体で矛盾をつくりだすときは、つねに心的な過程をうみだすという規定をもうけることにする。つまり心的な過程は生理的な過程の矛盾を補償するための吐け口であり、心的な過程ははじめてこのような矛盾の捨て場あるいは緩衝域としてうみだされたものであるとしておく」(『心的現象論・本論』所収「眼の知覚論」)よく考えると心的なものについての吉本隆明の定義もあいまいさを含んでいる。生理過程の矛盾の捨て場や緩衝域としてうみだされたものが心的な過程であるとすれば、それは単なる電子ノイズとどこがちがうのか。原因が心的なものの実在という結果によって遡及されているように思う。生理過程の矛盾を補償するための吐け口がなぜ意味をうみだしたのか。意識はなぜ意味をうみだしたのか。いったいなにがここで言われているのか。意識がやがて言語として分節され、言語は自己表出と指示表出の高度化にともない、迷妄から明晰に向かう。文明の外在史と精神の内在性はなぜ矛盾するのか。心的な過程の定義が必然としてアフリカ的段階を渇望してもそれが実現されることはない。なぜ吉本隆明の思想はモダンなのだろうか。生理的な過程の矛盾の吐け口やその矛盾を緩衝域が心的な過程であるとみなす理念の全体がまるごとニヒリズムになっている。この心的モデルと基礎として構想された人間の精神の母型であるアフリカ的段階も空虚な概念だと思う。吉本隆明のおいてもなにか根本的なことが考えられていないという気がする。

吉本隆明のもっとも魅力的な思想を取りあげる。「歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に帰せられます」(『どこに思想の根拠をおくか』)。この思想はアフリカ的段階という概念を設けることで実現できるだろうか。吉本隆明は思想の価値の源泉を大衆の原像に求めた。生まれ、育ち、婚姻し、子を産み、子に背かれて、老いて死ぬ、このことを畏れよ。これが吉本隆明の大衆の原像だ。大衆の原像を生存の最小与件とも言っている。とても味わい深くて思想の芯を感じる。

 そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、その想定のなかに何があるのかといえば、ほんとうは生活という概念よりも、〈生存〉という概念のほうがいいように思います。つまり、ある人間が死んでなくて生きて生活しているばあいの最小条件といいますか、その中からいろんなものを全部排除してしまって、ともかく〈生存〉だけはしていて、それはまさに〈生存〉しないことと対応しているとかんがえられるものです。そういう原点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日食べて明日食べて、そして今日欲望し明日煩悩し、という次元で理解するよりも、むしろ〈生存〉の最小条件を保持しているもの、というところでかんがえられると思います。だからそれは、まさに生活しないことと対応するよりも、〈生存〉しないことと対応していると云ったほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけたのではありませんが、最小限度、〈生存〉しているばあいに、それはだれにでも普遍的にある状態ということになります。〈生存〉しているかぎりはだれにでもある状態という意味合いまでいけば、その重さはすごく重いという考え方が、ぼくにはあると思います。それは、自力以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みたいな原点になると思います。
 それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、全き生命をうるということにおいては万人平等であるという、わりあい宗教的な考え方にたいしても、〈生存〉ということと〈生存〉しないという概念は、すこしちがうような気がします。ぼくは、〈生存〉という概念を、人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物それ自体であるというところでかんがえていて、それにたいして、〈生存〉そのものを再び概念に、反省的に取り出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え方は、ぼくにはないように思います。まったく物質的になくなっちゃうというところが行き止まりのような気がします。(『最後の親鸞』ノート所収「歎異鈔の現代的意味」)

生存しないことに対応する生存の最小与件はだれにでもある状態でそれはとても重いという考えはすごく好きだ。
でもなぜ生存という概念はそれ自体で重いと考えられるのか。おそらく生存それ自体のなかになにも根拠はない。死ねば死にきり、自然は水際立っているという言葉がすきだと吉本隆明はよく書いていたが、それはあなたの都合で、身勝手な考えだと思ってきた。自己が自己であることのなかになにか善きものはなにもない。保守すべきものは自己のなかにはない。自己はそれ自体としてはたんてきに空っぽだからだ。プレ・アジアとしてアフリカ的段階を構想し順次生を遡ると、そこに宗教的制度以前の生の可能性が点としてあるということに気づいたとき、点を領域化することで記紀の世界から折り返せばよかった。

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吉本隆明の心的現象の理念はAIと異なる理念として普遍性をもつだろうか。あるいはAIとべつの心的現象の固有の普遍性をもちうるだろうか。強いAIが精度をあげていくとアルゴリズムによって人間という概念は書き換えられてしまうのではないか。心的世界をどうとらえるかについて吉本隆明は言う。

生理としての生物体が存在しなければ、あらゆる心的現象は存在しえない。このことはいうまでもなく〈自然〉としての人間の本質に根ざしている。それにもかかわらず心的現象は、生理的現象に還元しうるか? もし、量子生物学の発展が、生理的なメカニズムをすべて微視的にとらえうるようになったとき、心的現象は生理的現象によって了解可能となるか? もちろんこれにたいする答は〈否〉である。ただし、不可知論的な否でなく構造的に否である。これは心的存在としての人間の本質に根ざしている。この本質は単純化して説明すれば、生物体としての人間が、個々の細胞の確率的な動きのメカニスムを把握するようになったとき、心的な存在としての人間は、すでに〈把握している〉ということをも把握しうる冪乗された心的領域を累加しているという前提を、その把握が包括しているからである。このような意味では、生物体としての人間と心的な存在としての人間は、個体の内部でも、集合的にも矛盾としてしか存在しない。(『心的現象論』)

冴えてる!と若い頃読んだとき思った。なるほどと思ったわけだ。解題をみると『試行』1965年~1969年の連載分が『心的現象論』として収められている。吉本隆明の心的世界の概念は確乎としたものだろうか。個人としての個人・家族・社会はゆるぎない理念だろうか。吉本隆明の心的内容主義はいくらか牧歌的で古典的だと思う。心的であることと生理的であることの境界がビットマシンの外延革命によって融解しつつあるからだ。科学知が心的なものをどう定義しようと、なるほど斯く斯くしかじかの理由で科学知が心的世界を記述しているということを心的世界は知りうるというのが吉本隆明の心的な世界の定義だ。実感的によくわかるが、それほど心的世界がたしかなこととはおもえない。分子言語で心的世界が記述されるとき、その記述を自然だと受容すれば、心的世界は分子言語の属躰となる。分子言語によって粗視化された世界が思考の慣性となるからだ。言い換えれば心的世界は容易に先端知によって共同幻想化される。1972年のジャック・モノーの『偶然と必然』はたしかに衝撃だった。いまではジャック・モノーでさえのどかだ。ビットマシンと生命工学の結合は人間という概念そのものをつくりかえようとしている。ものすごい強度として津波のように押し寄せてきている。外部世界の内部化と内部の外部化がすごい速度で更新されつつある。ヒトゲノムの解読がひとまず成ったとき多田富雄は恐慌をきたして「基本的人権はヒトゲノムの完結性と安定性にある」ことをもって再定義すべきであると発言した。ヒトゲノムの解読は分子生物学の進展と高速なシーケンス技術によってもたらされた。そこでは身体は30億の塩基の組み合わさった分子記号に置きかえられる。A、T、G、C、このたった4種の塩基の組み合わせで生命の基本は成り立つ。この信憑を担保するものも同一性だ。当面していることは自然科学という外部を内部に持ちこみ、その応力として内部が外部化されるという未知の体験で、分子記号のレベルで基本的人権を再定義すべきだという多田富雄の危機感はまったく無力だと思う。そしてこの不可避の過程のすべてを統御するのが同一性となる。奔流となって生を翻弄するビットマシンによる意識の外延革命に抗することはできるか。十分に可能だと思う。無用な、知識人と大衆という権力による生の分割支配を捨て、総表現者の場所で外延的な意識を内包化すれば、固有の生がおのずと立ち上がってくる。

もしも主体が実体だとすると人間という存在はビット情報まで還元されることを拒むことはできない。分子言語で心的現象は記述されるようになり、それを人びとは受容し、思考の慣性とすることになるだろう。観念が粗視化した自然がぐにゃりと変形しようとしている。世界のおおきな転換期をわたしたちは生きている。片山さんの最新のサイトの記事「AIと恋・アイ」を読んでいて、ふと、サイバネティックスの創始者ノーバート・ウイナーの『人間機械論』を思いだした。ここにAIの起源をなす知性が出現している。片山さんは最新のサイトの記事で次のように書いている。「たとえば人間の遺伝子を構成する塩基を、A=0001、T=0010、G=0100、C=1000と二進法化すれば、遺伝子によって規定される『自己』はビット情報となり、アルゴリズムによって演算可能なものになります。ヒトゲノムは30億塩基対で遺伝子は約2万2000個だそうですが、量子コンピュータを使って解読すればあっという間でしょう」。この思考の原型をウイナーはつくっている。アルゴリズムの変遷とCPUの進化をあいだに挿入すれば、ウイナーの考えはそのままAIの方法に妥当する。「初版でサイバネティックスというものを定義するさい、私は、通信と制御とを一体のものとして扱った。なぜそうしたのか? 人が誰か他の人と通信する場合には、こちらが相手に一つの通報を伝えるのであり、相手がこちらに返事をする場合には、相手が、最初は私の方ではなく相手の方が知っているある情報を含む一つの通報を返してくるのである。他方、人が誰か他の人の行動を制御する場合は、こちらが一つの通報を相手に通信するのであり、その通報は命令形ではあるが、その通信の技術は、事実を伝える通報を通信する技術とちがわない。そのうえ、その制御が効果をあらわすためには、柏手がその命令を理解し実行したか否かを示せるような通報が相手から送られてきたのをこちらが判読できなければならない。本書の主題は、次のこと、すなわち、社会というものはそれがもつ通報および通信機関の研究を通じてはじめて理解できるものであることと、これらの通報および通信機関が将来発達するにつれて、人から機械へ、機械から人へ、および機械と機械との間の通報がますます大きな役割を演ずるにちがいないことを示すことにある。人が機械に命令を与える場合の状況は、人が他人に命令を与える場合に生ずる状況と本質的にちがわない。言いかえれば、人は、自分の意識の範囲内では、自分からでていった命令と、その命令が遂行された結果が自分にもどってくる信号とを知っているだけであり、当人自身にとっては、その中問の諸段階で信号が機械を経たのか人間を経たのかは問題でなく、そのどちらであるかのちがいが当人とその信号との関係に大きなちがいをもたらすことはない。こういうわけで、人間にも動物にも機械にも通用する工学的制御の理論が、通報の理論の一要素をなすのである」。

ノーバート・ウイナー(1894-1964)の『人間機械論』は1950年に出版されている。人間と機械を情報を媒介にすればおなじシステムであることがこの本で書かれている。まだDNAの二重螺旋構造は発見されておらず、ウインドウズマシンもなかった時代に、すでにハイテクノロジーと生物工学がどれほど相性のいいものかを予見していた。ウイナーが創案したサイバネティックスという理念はどういうものか。ビル・ゲイツやホーキングが恐怖するシンギュラリティとはなにか。
「私」が「私」であることと、A=Aであることはまったくちがうことなのに、いずれも同一性を暗黙の公理にしているので、意識の外延性はビットマシンの外延革命によってかぎりなくA=Aに漸近していくことになるだろうと予測してきた。生が科学知によって浸潤され、侵襲されることを受容する思考の慣性ができるということ。同一性の穿った穴を科学知が充填し、同一性は差異性として反復される。このとき同一性を差異性として媒介するものが技術である。意識の外延性はこの過程を不可避のものとして受け容れていく。自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことであるというキルケゴールの呪文のような悩ましさが、アルゴリズムで埋められてしまうということ。その勢いはなにが人間という現象に固有のものかという問いそのものを呑み込んでいくにちがいない。人間はわたしたちが考えているよりずっと動物や機械に近く、どうじにはるかに隔たっている。その根拠はどこにあるのか。強いAIはかぎりなく人間という現象をシュミレートするだろう。どうじに科学知の理性と深淵をもって隔てられた人であることの根源が同一性の手前に根源の二人称として存在する。同一性によって同一性が拡張された意識のありかたを表現することができるか。科学知が根源のふたりを可視化することは原理的にできない。

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