日々愚案

歩く浄土219:アフリカ的段階と内包史7

    1

マルクスは『経済学・哲学草稿』でつぎのように書いている。

人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質かが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間に対するもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されてる。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係になかに示されているのである。

マルクスがつかんだ男性の女性にたいする関係をイェニーさん問題と比喩してきた。またマルクスが考えた人間の全文化的段階はだれのどんな生にも直立して内挿されており、その根っこを根源のふたりが支えていると内包論でわたしはかんがえた。この世界では人びとはだれもが総表現者のひとりとしてあらわれる。マルクスの自然哲学は三つの推移律を類推と対応の魔力で編み上げているが、ほんとうは幾重にも屈折している。イェニーさん問題を根源の性と比喩すれば、同一性は根源のふたりの反照として成り立っているにもかかわらず、同一性でかたどられた自己が人間と社会を措定するとマルクスは錯認した。人間であることの根本はイェニーさん問題のなかにあり、マルクスが生きた性の直観で自己と社会を包み込めば、資本論は贈与論として表現されたはずだ。
同一性を表現の公理にして、同一性をどれほど精妙に刻んで差異性として表現しても、私性と生の不全感を覆すことはできない。キルケゴールの、自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係のことであるという呪文のような言葉を思い出そう。同一性を差異性で表現することはできないから、キルケゴールは関係それ自身を自己に先立って措定する。その関係それ自身によぎられることで自己が自己となるとキルケゴールは言う。キルケゴールの関係それ自身は神のことであり、親鸞の他力とよく似ている。わたしは関係それ自身をキルケゴールとの神とはちがって拡張した。関係それ自身とは根源の性である。根源の性によぎられることで自己が自己となると考えた。世界の無言の条理を統覚している同一性を還相の性によって拡張すると、生を引き裂く業の花(宮沢賢治)は内包自然のなかに陥入する。そのとき自己のなかに、ジョバンニより近いカムパネルラをジョバンニとしていきる不思議がふいに起こる。ジョバンニはおのずと自己を領域として生きる。内包自然はマルクスの自然よりずっと深い。宮沢賢治はそこを生きた。「ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張って/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる」「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ」(宮沢賢治「小岩井農場」パート九)自己が領域となることによって、ユリアとペムペルは「わたくしの遠いともだち」という内包的な親族に転化する。

マルスクの資本論を貫いている自然哲学は内包論によって拡張される。わたしのかんがえでは、人間の人間にたいする最も直接的で本源的な関係は、内包存在にたいする分有者の関係であり、この自然的なおのずからなる関係のなかでは、内包存在にたいする分有者の関係は、内包存在である根源の性を分有する分有者と分有者の関係となってあらわれ、それぞれの分有者は還相の性によって統覚される。また還相の性を表現の核とすると、人間と人間の関係は共同性ではなく喩としての内包的親族という関係として表現され、喩としての内包的な親族が可能となるから、人間の自然にたいする関係は内包的な親族と内包自然の関係となってあらわれる。このとき喩としての内包親族の気圏では、マルクスの価値形態論の交換価値は内包贈与価値へと拡張される。交換が贈与となるということは内面より奥行きのある自然がつくられることと同義である。この思考の転換によって内面は内包化され、内面より深い意識が自然(じねん)に生成する。ここで内面より深い意識を領域としての内包的内面と名づけることにする。これをもってモダンな人類史は終焉し、内面と内包的内面を往還することが可能となり、歴史の外延史は内包によって包み込まれ、内包史が始まる。マルクスが直感したイェニーさん問題はそれだけの思想的な深度をもっていたと言える。外延的な思考と内包的な思考を往還するとおのずから世界は革められることになる。社会化された人間のありようを内包化すると世界の圏域が未知のものとして登場してくる。意識の外延性からいえば、わたしたちはそれが人類史であるというほどに社会的な存在であることになじんでいる。この思考の慣性をなぞりながら人類史を重畳してきた。しかしここが世界の果てではない。ましてAIに未来があるわけでもない。内包論は同一性がかたどった人類史をおおきく跨ぎ超す。わたしたちは社会的な存在であるまえに内包的な存在として存在している。意識の外延性という思考の鞏固な慣性を意識の内包性に向けて往還すると世界に音色のいい風が吹く。

片山さんとやっている連続討議『歩く浄土』第二回「性と精神の古代形象」のあとがきでつぎのように書いた。

こんぐらがった意識がほどけてしまうとあっけない。なんでこんなことがわからなかったのかという具合。意識のしばりとはそういうものだと思う。根源の性の分有者ということについていくつかの錯認があった。
根源の性を「あいだ」として空間化することはできない。ひとであることの根源が〔性〕であるということをいまはそう考えている。自己という現象の奥まったところにある根源の性は無限小のものとしてだれのなかにも内挿されているのだ。また根源の性の分有者という知覚は機縁によってのみ起こるということ。それはまったくの受動性であり、内包的表現意識による他力といってもよい(親鸞の他力とはわずかに違う)。分有者を空間化すると往相の性としてあらわれる。つまり、根源の性の分有者は同一性のしばりをうけるが、分有者という内包的な表現意識のいちばん奥まったところには還相の性があるということ。この知覚は外延論理の世界では領域としての自己としてあらわれることになる。このとき外延論の世界での三人称の関係は共同性ではなく、喩としていうのだが、あたかもゆるやかな親族のようなものとして主観的な意識の襞を超えて現象することになる。
根源の性の分有者は還相の性ということにおいて〔わたし〕が〔わたし〕でありながら〔あなた〕でありうる唯一の場所であるとわたしは思う。ひとが根源において〔性〕であるとはそういうことだ。内包自然の真ん中にひっそりと還相の性があり、外延表現では空間化できないという意味において、幻想の共同性である民主主義を跨ぎ超す契機がここにあるとわたしは思う。このあたりの機微をこっそりヴェイユに耳打ちしたかった。わたしはヴェイユの見果てぬ夢を歩く浄土として生きている。「ある一つの秩序に、それを超越する秩序を対比させる場合、超越するほうの秩序は、無限に小さなもののかたちでしか、超越されるほうの秩序のなかに挿入されえない」(「重力と恩寵」)わたしが構想する喩としてのゆるやかな親族構造のようなものもまた無限に小さなかたちで秩序のなかに挿入される。根源の性の分有者が還相の性として可能となるとき、外延的な表現意識の三人称は、内包的な表現意識では、主観的な意識の襞にある信ではなく、信の共同性でもなく、還相の性との関係において、喩として、あたかも親族のようなものとして内包的に表現されることになる。存在がそれ自体に重なるここで親鸞の他力も消える。そしてここにヴェイユが渇望した世界がある。

内面化共同化もできない観念をそれ自体として取りだすことができれば、まだ一度も生きられたことのない未知の観念が猛烈な可能性となって湧きあがり、生存競争という世界の無言の条理を融かしてしまう。

    2

時代がどれだけ変遷しても、変わるだけ変わって変わらない根源の性があり、根源の性の深奥に、変わるほどに変わらない還相の性がある。内包論は同一性ではなく還相の性を思考の公準にしている。根源の性はべつようにも比喩できる。身が心をかぎり心が身をかぎる心身一如は同一性の起源をなしているが、意識の起源はそこにあるのではない。一身が二心を宿す自然のなかに内包化された内面が意識の奥行きとしてある。ここから吉本隆明の「存在倫理」という発明をみてみる。

吉本 テロの例でいいますと、アメリカのブッシュの方は、恒久的な、永遠的な自由のために戦うんだといって、片っ方では、古い宗教特有なものといえばそうなんだけれども、自分らの宗教的な信仰とか、理念とか、そういうものをないがしろにするのは殺しちゃってもいいんだ、その殺しちゃってもということの中には、自分たちが死んでもという意味が当然入っているんだと思います。殺しちゃってもいいんだということは、古い宗教だったら、心理としても、その心情としても肯定されていると思うんです。
 日本でいえば、仏教で一番古いところというと天台宗で、天台宗の根本聖典、法華経の中にも、この法華経を護持することをないがしろにする者は、刀杖をもって殺してもいいんだと書いてあります。それは古い宗教の特徴のようなもので、そういうことは今度のビンラディンという人の個人的声明の中に、やっぱり同じようにあります。
 その両方に対して、今の僕なら僕自身の場所からそれを見ていると、よくもずうずうしく永遠の自由のために戦うんだみたいなことをいえるものだね、とアメリカに対しては思います。そういうふうに言明することは、イスラム原理主義というものは、貧乏国民という意味でもいいし、そういうものを生命にかえても信仰している人たちととっても、どっちでもいいですけれども、それを初めから理解する気も全然ないし、しないということが歴然として出てきていますね。
 イスラム原理主義の方を見ると、先ほどいいましたように、ブッシュが自由という言葉を出しているんだから、自由でもいいですけれども、自由を理解していないよ。これで命を捨ててもいいということは迷妄なものだよ。全般的に迷妄というよりも、自由とは何なんだということについて何も考えていないじゃないかという意味合いで迷妄だというふうになるから、両方とも手前味噌なことをいっているねという以外の感じは持てないですね。
 結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかと僕が思えるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。「存在倫理」という倫理の設定の仕方をすると、つまり、そこに「いる」ということは、「いる」ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに「いる」こと自体が、「いる」ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を
設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか。
加藤 吉本さん、今おっしゃってることは、本邦初公開として今初めていっているんじゃない?
吉本 今初めていっているわけ。(笑)つまり、今度のテロで、発明したわけなんですよ、どういうふうに考えればいいか。
 例えばこの問題は、「存在倫理」を設定しないと、両方とも自分の立場でいっちゃえば全部成り立って、相手はもちろん悪であって、おれの方は善だ。両方でそういうことが成り立っちゃう。
加藤 『アフリカ的段階について』に「史観の拡張」という副題がついているでしょう。それでいうと、いまいわれているのは「倫理観の拡張」という話だ。
吉本 それは種はもちろんあります。(笑)量子力学、量子論とかいうことでもいいんですけれども、そこは歴然と、電子であろうと、中性子であろうと、原子核であろうと、それが「ある」ということは、「ある」ということに影響を与える。つまり、「ある」ということは、「ある」ということの影響をこうむることを抜きにしてはいえないという物質観みたいなのがあるわけです。結局、生まれちゃったとか、生まれて存在していること自体が、存在していること自体に対して倫理性を喚起するということを設定すれば、何かいえそうな気がするけれども、それ以外は両方ともいいたいことをいっているだけで、どうしようもない。

吉本 先ほどの「存在倫理」と関連していて、(略)子供の方から見れば、別におれはこの世に産んでくれとか、生きたいとかいった覚えはないのに生まれた。だれから生まれたかというと、両親から生まれたことは確実なんだけれども、「存在倫理」といいましても、生まれてきたことに対しては半分しか責任は負えない。あとの半分は、自分のせいじゃない。自分が生きているのも死ぬのも、自分のせいじゃないという箇所が……。
加藤「存在倫理」というと、そういうふうな問題も入ってくる。
吉本 その問題を埋めるのは何なんだというと、父親と母親の前には、父親と母親の父親と母親がまだいてと、ずっとお猿さんのところまでさかのぼっていけば、全部理まっちゃうわけですよ。おれの意思で生まれたんじゃないし、産んでくれといった覚えはないとか幾ら主張したって、無限に上の以前までさかのぼっていっちゃうと、その空自な部分はみんな理まっちゃう。生死の内在性としてといってもいいし、遺伝子がみんな満ち満ちちゃって、おまえだけのなんていうのはなくなっちゃうんだよ、でもいいわけです。
加藤 おまえの取り分はない。(笑)おまえの取り分は無限小。
吉本 無限小になっちゃうようなところから続いてきた一種の信仰性とか、信念とかいうものの前には、おまえの存在なんて大した意味はないんだから、そんなものは捨てちゃっても構わないんだみたいな観念が出てくるのは当然であって、古い宗教的な心理状態とか精神状態をどこまでもさかのぼっていけば、どうしてもそうなります。おまえの存在、おまえが生まれたいという意思とか、産んでくれとかいうところから出てきたものは何もなくて、ただ、無限に遠い以前からちゃんとそういうふうに考えると、おまえの分は何もないんだから、生命と取りかえっこ、存在と取っかえっこすることは、いってみれば、倫理の最も根本のところに点として、核としてあるものであって、宗教的なものとは取っかえられるということが出てくることはあり得ますね。
 だから、そういうことは、現在における知的なレベルとか文明的なレベルはどこにあるかということとは全く関係ないんですよ。
 全く関係ないといっちゃうといけないかもしれないけれども、僕もそうだったけど、生き神様があれば、それが存続していくんならばいいんだよという観念に達したときだって、おれ、別にバカだったわけでもないんですよ。かなり知識もありましたし、(笑)科学的でもありました。ほかのことだと結構そうなくせに、そのことに関しては無限に迷妄だということは可能なわけですよ。(「存在倫理について」吉本隆明VS加藤典洋『群像』2001年11月1日)

2001年のアルカイダによる米国への同時テロをきっかけに、吉本隆明は人間が存在していること自体が喚起する倫理を存在倫理として発明した。なにか苦し紛れにつくられていて存在が外在的に語られている気がする。テロとの戦争で、互いが自分を義と主張すれば、相手を悪だというしかなくなるから存在倫理というものを設定するしかないと主張する。文明の外在史と精神の内在史の矛盾をプレ・アジア的な段階を設けることで解いてみたいと吉本隆明は『アフリカ的段階について』で考えた。『アフリカ的段階について』のモチーフの全体が意識の外延性に沿って流れていて、外界と内面という定型をすこしも超えていない。存在倫理のアイデアを量子力学のもつれから着想したと対談では述べているが、とってつけたような気がして仕方ない。宮沢賢治が、「ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張って/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる」「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た/どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう」(「小岩井農場」パート九)というとき言葉は、概念化を遠く離れて、言葉を生きている。一切のいのちあるものが、変わるだけ変わって変わらないもの、変わるほどに変わらないものとして、かつての彼方がいまここにあることは、狂おしいまでに宮沢賢治の傍らに臨在している。それが宮沢賢治のつかんだ自然だった。つまり宮沢賢治の内面はひとりでに内包化されている。内包化された内面がおのずと自然として知覚されていた。

吉本隆明は存在倫理という言葉をつくることで「遠いともだち」に裏側から触っている。順次生を無限に遡っていくと、これがおれの分であるというものはなくなってしまう。「古い宗教的な心理状態とか精神状態をどこまでもさかのぼっていけば、どうしてもそうなります。おまえの存在、おまえが生まれたいという意思とか、産んでくれとかいうところから出てきたものは何もなくて、ただ、無限に遠い以前からちゃんとそういうふうに考えると、おまえの分は何もないんだから、生命と取りかえっこ、存在と取っかえっこすることは、いってみれば、倫理の最も根本のところに点として、核としてあるものであって、宗教的なものとは取っかえられるということが出てくることはあり得ますね」。ここはとても面白い。アフリカ的段階として吉本隆明がつかもうとしたことがかすかに兆している。なにが精神の古代形象の豊穣さなのか。日本的な自然生成としてあるモダンな記紀の世界がかたどられるはるか以前に一身が二心としてすでに生きられていたということだ。存在倫理を歴史を遡行して宗教以前の可能性を観念でつかもうとすれば、なにより対象を粗視化しようとする観念を内包化すればよかった。文明の外在史と精神の内在史の矛盾は意識の外延表現では永遠に解かれることはない。最期の吉本隆明がつかみかかった倫理のもっとも根本的なところに点としてあるものをアフリカ的段階と実詞化するのではなく、この気づきをそのまま領域化し、自己という主体は実体ではなく、根源の他者によって、自己となると了解すればよかった。文明の外在史と精神の内在史の矛盾という意識の外延性が矛盾の根源にある。内面を内包化できなければ内面のなかでその矛盾を空間化するしかない。それが歴史の段階という概念だと思う。存在倫理は点ではなく領域として存在している。自己を領域として生きるとき、それは〔性〕にほかならないのだが、自己は領域だから、その余の観念は「遠いともだち」になるしかない。内部でも外部でもない観念がある。内面の底がすとんと抜けると内面より深い内包自然の棲まう〔性〕がそれ自体としての領域としてあらわれる。そこに猛烈な観念の未知がある。

21世紀の初頭にテロとの戦争で変質した世界はグローバリゼーションによってさらに壊れ、わたしたちの日々は窮迫の度合いを亢進している。グローバル経済から追い込まれ、わずかな富裕者が世界の富の大半を占め、あっというまにこの国はかつての伝統的な心性に回帰した。たぶんなにをどう考えていいのかだれもがわからなくなっている。いまでは吉本隆明の引用の発言も牧歌的に感じる。すぐにAIが雇用を破壊し、生活がますます窮乏化することは避けられない。わたしは外界と内面というクリアカットな二項対立の思考の慣性こそが問われるべき第一義的なことだと思う。内面と外界という外延的な自然を内包化すること。どれほど迂遠にみえても外延的な意識を内包化すること以外に世界の生きられる未知はない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です