日々愚案

歩く浄土213:アフリカ的段階と内包史3-宮沢賢治の擬音論3

    1

内包論をしぶとく考えていると、歴史の段階という理念は、なんの意味もないのではないかと思えてくる。野蛮、未開、原始に込められた概念は同一性が整序した空虚な概念にすぎないのではないか。吉本隆明も、吉本隆明が影響を受けたマルクスも、マルクスが恩恵を被ったヘーゲルも、「社会」主義的な思想家だった。たしかに思想は巨大だ。いずれの思想家も生の不全感を根をのこしたままだった。わたしの理解では宮沢賢治は有情を有縁に結びつけようとして、短い生涯であったにもかかわらずおおくの作品を書いた。世界のありようと宮沢賢治の生のありようは不即不離で、かれの苦悶はどうであれ対象的な理性として観察することで表現できるようなものではなかった。宮沢賢治は世界に巻き込まれながら世界をめくり返す表現をめざした。個人と家族と社会という思考の慣性がつくる世界をまるごと転位したくてたまらなかった。宮沢賢治は、世界を解釈する観察家から遠くへだった地平を、内面と環界という精神の形式の手前にある豊穣と戯れながら、わたしの言い方でいえば、内包自然を総表現者のひとりとして十全に全円的に生きたように思う。歌い踊ることの根源が記紀万葉の思考の慣性のはるか手前で生き生きと生きられている。「言語と音楽における相互影響はしかし、どちらが強く影響したというとらえ方をするより、本来はどちらも、一本の幹から出た二本の枝であると見る方が良いかもしれない」「このように、言語の意味をひろくとれば、音楽はその中にふくまれるように、逆に音楽の概念もひろげて行くと、言語もまた音楽の中にふくまれてしまう」(小泉文夫『音楽の根源にあるもの』)まさにそのようなものとして宮沢賢治の作品はある。擬音をもっと味わいたいので、「〔しばらくぼうと西日に向ひ〕」を再掲する。

  しばらくぼうと西日に向ひ
  またいそがしくからだをまげて
  重ねた粟を束ねだす
  子どもらは向ふでわらひ
  女たちも一生けん命
  古金のはたけに出没する
    ……崖はいちめん
     すすきの花のまっ白な火だ……
こんどはいきなり身構へて
繰るやうにたぐるやうに刈って行く
黝んで濁った赤い粟の稈
 《かべ いいいい い
  ならいいいい い》
   ……あんまり萱穂がひかるので
     子どもらまでがさわぎだす……

濁って赤い花青素の粟ばたで
ひとはしきりにはたらいてゐる
   ……風ゆすれる蓼の花
     ちぢれて傷む西の雲……
 女たちも一生けん命
  くらい夕陽の流れを泳ぐ
   ……萱にとびこむ百舌の群
     萱をとびたつ百舌の群……
抱くやうにたぐるやうに刈って行く
黝んで赤い粟の稈
    ……はたけのへりでは
     麻の油緑も一れつ燃える……
  《デデッポッポ
   デデッポッポ》
   ……こっちでべつのこどもらが
      みちに板など持ちだして
      とびこえながらうたってゐる……
はたけの方のこどもらは
もう風や夕陽の遠くへ行ってしまった

不思議な詩だなあ。
「〔しばらくぼうと西日に向ひ〕」は喩としての内包的な親族の光景だ。なにが収穫されているのか。内包自然の大地でことばが刈り入れられている。記紀神話につながる言葉のかけらもない。《かべ いいいい い ならいいいい い》や 《デデッポッポ デデッポッポ》が戯れの核にあって、ここから言葉があふれ出て、大地の輝きをつくっている。この内包的に表出された言葉をどうより合わせても神話という共同幻想は生まれない。主体を実体だとするモナドの意識にとって、宮沢賢治の擬音は意味不明のものとしてあらわれる。この擬音によって作品の全体が喩として語られていることになる。わたしの理解では宮沢賢治の擬音は言葉が性的な表白でしかありえないことを表現している。宮沢賢治は単独者のままでいつもふたりである。人であることの深みで言葉が言葉を生きると、そこにどうしようもなく〔性〕であるほかない根源のふたりがおのずと熱く息づいている。根源において性であるほかないことが人の存在の基底であって、その基底から歌と踊りが湧出する。歌い踊るとき邪悪であることはできない。存在することの余熱は人と人のつながりをあたかも喩としての親族のようなものとして内包的に表現する。ここは存在するということの核心にかかわる。意識を往還し、内包的な表現の過程に入るやいなや、有情は有縁となり、有縁が有情となめらかにつながる。存在の複相性を生きるとただちにこの世界が現前することになる。いつも生はそのつど間に合うことになり、然りとして登場する。生はなにかへの過程ではないのだ。宮沢賢治言葉は、民族語の固有のリズムよりはるかにふるい精神の古代形象を内包していて、国家という共同主観的現実を引き寄せることがないようにみえる。主体を実体だとすると、洋の東西を問わず、意識は個人と家族と社会に分裂する。実体化された主体が意識の線状性を巻き上げていくと同一性の必然として国家が大きな自然として登場することになる。それが『古事記』であり『日本書紀』だといえる。生きられる未知はなにもない。すでに生きられた既知しかここにはない。記紀の世界から現在までは一瞬である。神話から電脳社会までが瞬く間であったといってもいい。そのときどきに粗視化された自然を思考の慣性としながら世界はさまざまに変容したように語られるが、思考の慣性を統覚している同一性は普遍である。野蛮・未開・原始という歴史の区分は虚構にすぎない。ここではないどこかではなく、ここがどこかになっていく、同一性を変容させるべつのまなざしが意識の内包性のなかにある。そのことを宮沢賢治は作品として表現している。

    2

吉本隆明は宮沢賢治の擬音についてつぎのように書いている。

 文学作品が、言葉で作りだされたじぶんの運命をうけいれながら、しかも運命の磁場の影響を忘れられるのはどこからさきなのだろうか? ここで問うべきなのはそれだ。わたしたちの理解の仕方では、そこから普遍的な意味の喩のすがたがあらわれる。かりにこれを文字による記述の第三の段階と呼ぶとすれば、この段階にきてはじめて文学作品は自分の運命の、じぶんじしんへの影響を忘れさる。作品の物語が音声で語られる段階から、話すように文字で記述される段階へ移ることを知ったとき、物語は語ることと無音声の内語の独白を分離し、作品は自身の運命を知るようになった。この語りの言葉を記述することと、内語の記述の二重性は、層のように積みかさなる。そして、その度ごとに記述は複雑で高度になってゆく。会話のなかに会話があらわれたり、内語がさらに内在化されて独白の幽化がおこったりする。しかしこの二重性はどんなに重ねても、それだけでは文学作品の運命の記述が複雑になるだけなのだ。だが第三段階になると違う。作品の運命は遠ざかり、ただ作品の無意識のなかにしまいこまれる。それと同時に作品はじぶんじしんの運命にたいする他者の表現をうみだすのだといっていい。わたしたちが普遍的な喩とみなすものは、いずれにしてもこの他者の表現をさすし、またこの運命にたいする他者の表現から普遍的な喩の世界はできるといっていい。(『ハイ・イメージ論 Ⅱ』所収「普遍喩論」)

 そこでこの特異な喩の例は、ふつうの話が地の流れに沿って直喩とか暗喩とかかんがえているものと、この作者が志向している普遍的な喩との中間にあるものと指定できそうだ。ふつうの喩の概念は作品形成の地の流れに沿って言語表現の価値を増殖させるために存在している。このばあいの価値概念の基準は作品の言語表現の地の流れの水準におかれている。だが普遍的な喩の概念が成り立つのはその水準ではない。言語が意味をつくるまで分節化される以前と、分節化された以後との最初の分岐点が、いいかえれば言語と非言語的な音節の境界面が価値の基準とみなされて、はじめて普遍的な喩の概念は成り立っている。これが作者の志向する言語表現の普遍という意味を形づくっている。
 この作者の喩の志向性は根拠をもつだろうか。わたしにはじゅうぶんな根拠があるような気がする。かつて古典語と古典詩歌がはじめて文字によって記述されたとき、ほとんど民族語の無意識のリズムによって、最初に普遍的な喩の固有性があらわれた。この作者が修辞の流れという概念を言葉の表記の段階という概念におきかえたとき、当初に民族語リズムが喚起したとおなじことに当面した。このことはこの作者の普遍的な喩の概念が限界まで遠く達したことを意味していたとおもえる。(前掲書所収「普遍喩論」)

吉本隆明は宮沢賢治の擬音が内語の記述の第三段階に到達し、この段階になると作者の無意識は表現の運命から遠ざかり、他者の表現をうみだす。それは普遍的な喩となる、と言っている。なにを言っているのかお分かりの方いますか。表現の第三段階も、他者も、わかるようでわからない。シンプルなことを複雑に記述しているだけのような気がする。意識の外延性では記述できないことを無理に記述している。相模原殺傷事件で娘を殺された父親が、がんを患い、もうすぐおれも行くからと治療をせずに、娘さんが好きだったコーヒーを仏壇に添えながら、元気か、元気なわけないな、と言葉を交わす。端から理解すると、特別のことが言われているわけではない。父親と娘さんのむつみ語だ。娘さんと父親だけにつうじる秘めやかな言葉で、内面化も共同化もできない。父親は娘さんによって表現されている。父親の内面ではない。娘さんによって父親が受動性として表現される。南インドで少年が幼い妹に手にしたバナナを食べさせ、おいしそうに妹が食べるさまを見ていて、お兄ちゃんが表現される。実体として表現の主体があるのではない。死を目前にしたフーコーが、主体は実体ではない、真理は他なるものによってもたらされると言って鮮やかに表現を転倒した。妹にバナナを食べさせることで兄ちゃんに充ちてきたなにかが、宮沢賢治が言う《デデッポッポ デデッポッポ》という擬音だ。意識の明晰さをどれだけ緻密に描いても無惨な死を生きた娘さんにも、父親の語りかけにも、とどかない。言葉は同一性のはるか手前から受動的にもたらされるものだと思う。「『健太郎』と声が追いかけてきた。/彼は振り向いた。/『お花を摘んできてくれるか』/無邪気にたずねている人は、おれよりも近くにいる」と、片山さんは『なお、この星の上に』を結んでいる。清美は健太郎にとって固有名だが、認知症を患っている清美が健太郎を識知できているかどうかわからぬ。清美が健太郎に投げる「お花を摘んできてくれるか」という言葉も、健太郎にとってだけ意味をもつむつみ語であり、擬音である。固有名から始まり、固有名のまま匿名になる心性の機微が「お花を摘んできてくれるか」であり、それは擬音であると共に還相の性でもある。
同一性を前提とすると、なにをどうやってもじぶんがじぶんとはぐれてしまう。それは内面という精神の形式の必然だと思っている。宝くじとおなじで何度やってもはずれる。当たりくじを引くきっかけはモナドの自己のなかにはない。内面の行使みたいなもので、宝くじは買わなければ当たることはないという反論はありうる。おなじようなことをフーコーも長年考えてきた。そしてついにパレーシアを手にする。あけすけに、あからさまに、というニュアンスだと思う。同一性的な明晰さはこの気分を指さすことはできない。ということを確乎とした吉本隆明の自意識が理解することはない。

わたしの理解では宮沢賢治の擬音を自己表出と指示表出の編み物として言語の美からとらえようとしても、宮沢賢治の擬音の意味はするりと滑り落ちる。作品の運命から遠ざかるとはどういうことか。作品の無意識の中にしまい込まれた自分自身にたいする他者の表現とはどういうことか。内面と外界という精神の形式を前提とするかぎり、宮沢賢治の作品の核にあるものに到達することはできない。ここで吉本隆明が解釈しているように「運命にたいする他者の表現から普遍的な喩の世界ができている」とすれば、民族語の無意識のリズムを原日本語ができる過程とみなすほかない。わたしには宮沢賢治の作品は、歌い踊る言語の根源的な表現が、記紀の習俗に世界に収斂するはるか手前で、喩として表白されているように思えて成らない。宮沢賢治は習俗という日本的心性のかわりに作品と擬音によって喩としての内包的な親族を表現したことになる。擬音と同時に地名を造語することも盛んにやっている。内面と外界という表現の定式の全体を宮沢賢治の作品は拡張しているようにみえる。互が相犯すことがこの世の条理であれば、言葉によってこの世ならざる世界を現前させたい。有縁によって有情がむつみあう世界を宮沢賢治はつくりたくてたまらなかった。この世界はこの世ならざるものとしてこの世の条理をはみだしてしまうから、内面と外化という表現の定式を宮沢賢治が使うことはなかった。宮沢賢治の作品世界は表現の根底で習俗や日本的心性を拒んでいる。

宮沢賢治の「〔しばらくぼうと西日に向ひ〕」と親鸞の言葉はこの世の条理を包越する表現として双対をなしている。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々」(『歎異抄』)内包的に表現された言葉は意識の外延性の彼岸にあり、ここをいつでもどこかにしてしまう。ここがどこかになるから、ここはどこでもあることになる。この世界は共同性をつくらない。ローカルとグローバルなちがいはあるにしても、共同幻想をつくらない世界がここにある。国家も貨幣も存在の仕方を変えて、国家は内包的な親族に、交換財としての貨幣は内包的な贈与へと転位する。個人の内面は内面を統覚する同一性の必然としてわたしたちの文明史を自然なものとしてかたどってきた。そういう意味で野蛮・未開・原始という歴史の区分は同一性的な歴史が必然とした虚構である。歌い踊る《デデッポッポ》は、変わるだけ変わって変わらない、変わるほどに変わらない内包的意識として、だれの生のなかにも内属している。一万年の人類史と共に生に直立して内挿されている。宮沢賢治は生をそのようなものとして生きた。宮沢賢治の没後一世紀近くを経て、宮沢賢治の希有な文学は赫々として内包論に引き継がれている。

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