日々愚案

歩く浄土1

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 前回のブログでは書きませんでしたが、ネットで、後藤健二さんがシリア内戦下の人々の暮らしを報道したかったということを知りました。
 「佐々木俊尚ノート」で、後藤さんのメッセージをコピペして貼り付けました。ほんとうはそのメーセージにコメントをつけたかったのですが、後藤さんに対する愛惜の気持ちがあったので、そこは書きませんでした。まずは合掌と思いました。

 かれが自力作善の心根の良い人であることは顔からも、現地報告の文章からもすぐにわかります。そのことはよく承知しています。でも、と思うじぶんがいます。かれのやり方で、人と人は出会うだろうか。人と人はつながるだろうか。

 出会わないし、つながらないと、わたしは思います。

 そのことは書きませんでした。死者を鞭打つような気がしたからです。ほんとうは後藤さんのそこに言葉を届けたいのです。後藤健二さんはシリア内戦下の人々の暮らしを映像として世界に届けたかったのだと思いますが、テロのない世界はどうすれば可能なのかということは考えていなかったと思います。もちろん、戦場で、かれのメッセージにあるように子どもたちが生きているのは事実だと思います。
 発信された映像と、日本でそれを見る者との関係がもともと傾斜しています。
 では、福島原発の事故で避難させられ仮設住宅でのあてのない生活をしている人が、かりに、かれの発した映像を見たとします。じぶんを重ねて、ああ、おなじだと思うことはあると思います。
 わたしの経験からいうと、それで終わりです。
 むしろ自分の境涯が実体化されます。
 このやり方で人と人が出会うこともつながることもないというのがわたしの考えです。
 人々がささやかな善意をもちよりそれが山となることで、善意に満ちた世界ができるでしょうか。アーレントが「凡庸な悪」と呼んだ人のあり方は変わるでしょうか。そうはならないと思います。あるいは知識を積み増しし、世界のことをよりよく知ることで、世界は善の方に舵を切るでしょうか。そうはならないと思います。
 むしろ夭折した小説家伊藤計劃の『ハーモニー』の世界に漸近していくと思います。管理された生(生命工学が得意とするテクノロジー)のなかで自己がかぎりなく社会と同期する静かで怖い世界にシフトしていきます。その世界では自己の観念が社会の観念と矛盾したり背反したり対立することはありません。自己は社会の中に融即するのです。私はそんな世界を遠望しています。テクノロジーと結合したグローバルな資本はそこまで行きつくと考えています。それこそ自己同一性の究極の自己実現です。

 そこでは情緒は極少になります。とても平和な世界です。自己意識の過剰さなどどこにもないのです。過剰な自己意識そのものが商品化されパーツ交換されると思います。自己の内面そのものが多様な商品としてディスプレイされているでしょう。身体が商品化されるだけではないのです。身体に乗っているる心も選択可能な商品になるのだとおもいます。自己同一性の究極形はそういうものになるという気がします。自己同一性と科学やテクノロジーはきわめて相性がいいのです。そしてこの世界へ漸近していくことはすべて善とされます。

 このおおきな流れに抗することのできなかった高齢の思索家たちは、白川静さんや鶴見俊輔さんや吉本隆明さんや石牟礼道子さんたちは滅び行く人類を予感しました。いったんその流れの中にはいると世界はそうとしか感受できないのです。
 もうすこし若い人たちはグローバリゼーションの猛威に対して弱いつながりを主張します。坂口恭平さんや佐々木俊尚さんは機能的な概念であるレイヤーや場を駆使して対抗しています。もともとレイヤーや場という概念はテクノロジーに付随する概念です。それでしか抗することができないといえば、わからなくはないのですが、Oh! Rock とはなりません。
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 高橋源一郎が水俣を礼賛したことには驚きがありました。かれがそういう発言をするというのは意外でした。
 グローバリズムの猛威によって押し込まれて棲息の余地がなくなった思考の類型をネット記事からコピペします。典型的な思想の退行です。と書きながらびっくりしたのはほんとうです。えっ、???です。横綱の猛烈な張り手で土俵際まで追い込まれた力士が思わす繰り出した禁じ手です。
 ネットで見つけたインタビュー記事を取りあげます。
 記者がインタビューのモチーフを語っています。

<高橋さんは、教べんをとる明治学院大学国際学部で、文化人類学者の辻信一さんと2010~13年、「弱さの研究」という共同研究を行った。身体的、年齢的な「弱者」だけでなく、国籍や差別に悩む、社会によって作り出された「弱者」に共通するのは、世の中が「弱者という存在がやっかいなもの」と考えていること。弱者は社会にとって不必要な害毒なのか。社会にとってなくてはならないものではないだろうか。「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性があるはずだ。そういう視点での研究だ>

今回はその番外編として、「弱さの研究」を通して弱者に目を向け続ける作家の高橋源一郎さん(63)に話を聞いた。(「毎日新聞」2014年09月30日に掲載されたネットの記事)

「のさり」と生きる:番外編 「弱さ」ってすごい 高橋源一郎さんインタビュー

「急性小脳炎」と診断された当時2歳の次男は劇的に回復した。入院していた2カ月間、病院で重い病気や難病の子どもたちが亡くなっていくのを目の当たりにした。ある日、過酷な状態であるにもかかわらず母親たちの表情がとても明るいのに気づいた。思い切って、どうしてそんなことが可能なのか、と話しかけると「だって可愛いんですもの」という答えが返ってきた。「この時の経験は私を変えた」

 それから、時には知人と、時には1人で、「弱者」と呼ばれる人たちを訪ねる旅をするようになりました。子どものホスピス、重度の心身障害者の施設、認知症の老人のための施設、そういった場所です。興味本位ではなく、そういう場所に行き、そういう人の横にたたずむと、なぜ力が湧いてくるのか、ということを知るためでした。その途中で、「3・11」があり、「苦海浄土」が、池澤夏樹さんが編集された世界文学全集(河出書房新社、全30巻)に日本の作品で唯一収容され、何年かぶりに読むことになりました。

 高橋 「強い国」って言い方をしますよね。それが典型で、「弱気になるな」と。グローバリズムというのは、強い人が残るんです。一方で、弱い人間が増え、切り捨てられていく。「切り捨てられたくなかったら、強くなりましょう」という構図なんです。弱い人間があまりいなければ、ことさらに強さを強調しなくてもいい。だれしも落後者が増えると不安でしょ? 不安の解消には「強くなる。自分が弱い方に入らない」か「弱さを受け入れるか」のどちらかしかないんです。

 弱さを受け入れるということは、「一人一人では弱いから共同体で生きる」ということかもしれません。かつて、僕たちは束縛のない都会や個人主義に憧れ、農村という古い共同体を嫌って外に出た。100年近くそうやって暮らしてきた結果、地方には弱い人間だけが残ったんです。束縛がないというのは、逆に言うと守るものもない。

 祝島に行った時、泊まった宿屋のおかみさんが病気で食事を作れなくなったんです。すると近所の人が勝手に宿屋に入ってきて、僕たちの晩ご飯を作り始めたんです。こんな経験もあります。僕の奥さんの友達の旦那さんの実家が福島にあって、うちの子供たちは去年に続いて今年も1週間くらい遊びに行ったんです。そこにいるおじいちゃんを、血がつながっていないのに「じいじ」とか呼んで、膝枕で寝たりするくらいなついちゃって。そして、家主がいないのに、知らない近所の人が勝手に入ってくる。「これ食べて」と枝豆をどっさり置いていく。お茶を出そうとすると、「いいよ、俺分かってるから」と勝手にいれてる。

 そういうズケズケしていて、プライバシーのない世界がイヤで、昔はみんな田舎を出て行った。でも、こういう社会なら孤独死する人なんかいなくなるでしょう。具合が悪くなったら、誰か来てくれるから。これを、都会でやろうとすると、「見守る人」とか言ってお金がかかる。

 共同体は弱い人間たちの知恵です。全員が少しずつ弱ければ、とても弱い人間を、少し強い人間が助けてあげられる。とても合理的なんです。

 高橋 「弱さ」ってすごいです。「弱さ」を排除し「強さ」を至上原理とする社会は、本質的にもろさを抱えていると思います。

 高橋 「苦海浄土」は悲惨なものを書いているのに美しい。ドキュメンタリーだと、「悲惨だね」となってしまうでしょう。そうならないのが文学なんです。文学は肯定的なもので、99%が闇でも、1%の光を求める。つまり「何があっても生きる」とするものなのです。この世界には、弱いけれども確かな声がここかしこにあるはずです。それは、地方の言葉なのかもしれません。あるいは、子供や老人や病者の言葉なのかもしれません。そういった聞き取りにくい言葉を、聞き取る努力、能力こそが、今一番必要とされているかもしれません。

 子どもが脳炎で死にそうになったとき必死だった、と。これ、わかります。異論はありません。それ以外はすべてお節介です。そこに文学はありません。高橋源一郎が考えることは鏡に映った映像をつかもうとする空しさだけです。

 わたしはこういう発想をしたことがありません。もう40年以上になります。じぶんを生きる、これひとつでやってきました。じぶんを生きるということをわたしは「当時者性」と呼んでいます。わたしはじぶんを生きることでしか世界とつながることはできないと思っています。いろんなことがありましたが、そのなかで根源の性と還相の性とわたしが名づける言葉を手に入れました。
 だから弱者に寄り添うことがなにかであるような言説に出会うと心底うんざりします。ここで高橋源一郎が弱者と呼ぶものを、坂口恭平や佐々木俊尚は種々のレイヤーと読み換えています。でもそこにはわくわくする未知はありません。思想的な退行現象です。高橋源一郎が発言していることのいちいちについて書くことはしません。

 弱者でも、レイヤーでもいいです。人を美しく彩られた一個のパチンコ玉に比喩してみます。ひとつとしておなじものはありません。パチンコ玉は勝手に動き回ります。衝突したり、くっついたり、ひらりと交わしたり、それぞれです。1つのパチンコ玉を芸術や思想は自己と名づけました。数学は1、物理なら質点、いろんな名づけ方があります。文学や思想や芸術も抽象ということ抜きにこれについては語りえません。そこで起こる心的な現象を解明しようと巨大な才能がさまざまに挑戦しました。数学も物理もおなじです。すごい知の積み増しをやってきました。それらは巨大な建築物としてそびえています。このことを匿名の領域が存在することを根拠に、うざいと一言でいってのけたのはヴェイユだけです。

 わたしがやってきたこと、いまもなおやろうとしていることは、パチンコ玉の挙動(しくみ)を解明することではなく、あるいはパチンコ玉相互がどう相関するかということでもなく、さまざまな知を可能とする同一性を拡張することです。それ以外のことはやり尽くされているというわたしの実感があります。
 高橋源一郎が弱者はすごいと言おうと、なんと言おうと、勝ち組からのおこぼれを貰うしくみしか人間はつくりえていません。ピケティの、記号だけが一人歩きしている「r>g」にしても、同一性を前提とするかぎり、未知はありません。現象をデータで説明しているだけです。
 バランスのとれたカロリー制限食を真理の基準にするかぎり、そして医療はそれを前提としていますが、そのかぎりにおいて生活習慣病が治癒することはありません。いくら薬剤を開発してもおなじです。前提を疑い拡張するしかないのです。そこがもっとも根本的なことだとわたしは思っています。

    3
 「私」という自己同一性の彼方は、けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではあり得ないようなものとして、そのことを名づけることでしかあらわれてこないように思います。そこでしか人と人がつながることはないと考えています。

 2001年秋の同時テロのとき「テロと空爆のない世界」という長めの文章を書きました。ブッシュとテロ勢力を同時におなじだけ批判しました。いまは2015年2月。9.11の頃より少しだけ考えが進んだように思います。そのことを書いてみます。その頃はこの世のしくみが変わることと、じぶんのあり方が変わることが同時だということに気がついていませんでした。だから間に合わないという感じがじぶんのなかにありました。いまはいつも間に合っていると思うようになりました。歳をとったこととこのことは関係ないと思います。やっと浄土が歩き始めたのです。
 わたしの考えでは、内包という根源の性からの贈与が〈わたし〉なのです。根源の性の面影といってもおなじです。この驚異が自己同一性の本来性なのです。生の原像を還相の性で生きるということはそういうことです。
 おなじことですが人倫という堤防が決壊することは、ほんとうはそのままに人倫の拡張可能性を表現しているのです。だれも言っていませんが、わたしはそう思うし、そう考えています。
 ただひとつの条件があります。根源の性の面影を分有するということなく人倫が人倫として拡張されることはないのです。1を準則とするかぎり人類は滅びの道へ至り人倫が決壊することは必定だと思います。なぜなら1はそれ自体としては空っぽだからです。
 フランス市民革命の自由・平等・博愛という理念はそういうものではないでしょうか。この理念が観念にとっての革命であったとしても、そしてそこに近代の偉大さがあったわけですが、理念としての賞味期限が切れつつあるということがいま世界で起こっていることの根源にあるとわたしは理解しています。その意味ではグローバリゼーションは金という虚構に虚構を重ね最後のあがきをやっているのではないでしょうか。わたしにはそう見えます。

 だれにもふと一瞬が永遠であるような出来事が訪れることがあります。このとき一瞬は永遠と矛盾するように感じられます。ほんとうにそうでしょうか。わたしは、一瞬はそのままに永遠だと思うのです。この機微は洋の東西を問わず1を3に融即する、あるいは1と3は逆立することとして語られてきました。違うと思うのです。根源の性があるから、根源の性の面影として同一性が出来するのではないでしょうか。もしそうでないとしたらなぜ人は人に関心を持つのでしょうか。1と3が融即したり、1と3が逆立するのだったら、自己の陶冶と他者への配慮は永遠の夢です。わたしは思うのですが、自己意識の外延表現で人と人はつながらないのです。
 ニーチェは発狂することで逆説的にそのことを生きました。ニーチェの超人願望も空虚を上塗りしただけです。ハイデガーも思想のおなじ質を受け継いだと思っています。根づくことのない虚言です。

 根源の性を含みもつ〈わたし〉がそのままに〈あなた〉だから、〈わたし〉であるとどうじに〈わたし〉が〈あなた〉であるという〈性〉になる。この心的な機微を還相の性と言ってきました。内包の面影が還相の性であるということにほかならないのです。そのことがわかるのに10年かかりました。いまならば、神仏と往相の性の彼方にある根源の性と言います。
 還相の性を手がかりにすれば、一人称であるとどうじに二人称である〈わたし〉が、他者と結ぶ関係は、外延論理でいえば三人称が内包化され、あたかも二人称の関係のように見えるのです。ここから国家のない世界を当時者性を手放さずに遠望できると考えるようになったのです。内包の理念に外延論理でいう三人称はないのです。

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