日々愚案

歩く浄土210:情況論71-国家と戦争と貨幣2

熱狂のない醒めたファシズムの時代を生きている。

内面より深い自然をつくることができなければもうわたしたちはどこへも行けないというところに追い詰められていると思う。わたしたちの思考の慣性は、個人としての個人と家族の一員としての個人と社会的な個人の錯綜したありかたを自然として受容している。わたしの体験に即して言うと、個人としての個人と社会的な個人が三つの観念のなかで弱い環だった。身命がかかるほど情況が煮詰まってくるとひとは二つの態度しかとれない。起こっている出来事を肯んずることができず抗戦するか、蝟集した群れの一員に同期する。ほとぼりが冷めるとぽつりぽつりと参集し、俯きながら、残骸のように遺棄された出来事を禁止と侵犯の倫理で語るようになる。民主主義と戦争放棄という定型だ。平時は出来事を遡行し内省する。どこにでも見られたありふれた光景だった。この倫理は新約聖書のように実現できない言葉に充ちている。およそ一万年の人類史は延々とこの愚行をくりかえしてきた。なにが偽装されているのだろうか。ひとは生を撃断されたときその心性を内面化することができない。むろん社会化することもできず、言葉の膝を抱え込むしかない。

なにが起こっているのか。この心的な過程を普遍的に述べてみる。内面化も社会化もできないということは、内面と外界というわたしたちに与えられたちいさな自然では出来事を表現できないということだと思う。存在を知覚する思考の慣性が存在を始めから錯認し、〈在る〉という生の知覚が初期不良を抱え込んでいたということを意味する。内面化も社会化もできないということは、内面より深い表現が存在しないことの不可能性を暗喩しているようにわたしには思えた。内面より深い表現が要請されている。もう少し踏み込む。個人としての個人と家族の一員としての個人と社会の一員としての個人を分別するとき、それぞれの観念が違う構造をもっていると認識するのは同一性なのだが、わたしたちがつくってきた人類史では、次元の異なる三つの観念を統覚するのは個人としての個人であると仮構されたということだ。個人としての個人が三つの観念を代理している。同一性が三つの観念を統覚しているにもかかわらず、個人としての個人があたかも同一性を担保しているように偽装されたということだった。わたしの身に起こったことを人類史も飽くこともなく蹈襲している。三つの観念の不具合は生の不全感として表出され、偉大な人類史はこの錯誤を内面化により文学や芸術としてかたどってきたというわけだ。内包論はこの思考の慣性を超えようとしている。言葉は本来同一性の手前にあり、同一性的な観念のみなもととなるものである。そうするとわたしたちの思考の慣性が文学や芸術とみなしている心的な現象は還相の性への過渡として表現されていると考えることができる。文学も芸術も内包自然への過渡としてあるということだ。自己の観念が共同幻想に背馳するとき、その背反を言葉で取りだして自己にとどけることができるか。内面化できる出来事であれば容易に言語化できる。そしてそれはどうじに社会的行為として配信できる。そのことによって人と人がつながることはできない。アベ的なふるまいと反アベ的なふるまいが意識としてまったく同型であるとはそういうことだ。どれほどアベ的なものを嫌悪し、憎悪しても、反アベ的な心情は個人や社会を媒介にすればおなじものをつくってしまう。歴史はそのことを証している。その歴史とはべつの歴史や生をつくるしか、思考の慣性を超えることはできない。

三つの観念のきしみのなかで狂乱の共同幻想の属躰になることも、共同幻想と逆立する「マチウ書試論」を書くことで、世界を呪詛することもできる。すべてが同一性の手のひらの上の戯れ言である。わたしたちは国家のない世界を、戦争のない世界を、貨幣の交換が贈与として分有される世界を遠望している。意識の線状性とはべつのまなざしをつくることができれば、その世界は実現できると考えている。信の共同性をつくらない世界はどうやれば可能となるか。マルクスの「イェニーさん問題」のなかに未知の思想の原石が輝いている。
わたしは自身の苛烈を反芻しながら生を引き裂く自然ではなく、熱い自然で世界をつくることができるのではないかと考えるようになった。もし曲率ゼロの意識の平面をたわめることができれば、わたしたちがくぐってきた人類史とはべつの人類史が構想できるのでないか。できるとわたしは考えた。だれにとどくとも知れなかったが、この驚きを〔わたしは性である〕とひそかに名づけた。ひとはだれも、ひとりでいてもふたりなのだ。わたしはこの生の知覚を公理として世界をつくろうとしてきた。道行きは困難を極めた。いろんな思索家がのこした言葉をたどりながらわたしが内包と呼ぶ生の知覚を言葉にしようとしてきたが、どの本の、だれの本を読んでもなにも書かれていなかった。いまはいくらかの余裕をもって思想の先達の言葉をながめることもできる。それにしても、存在しないことが不可能な言葉を、言葉として取りだすことの異様な困難さ。
同一性的な思考の慣性を親鸞にならって自力廻向と呼んでみる。三つの観念は自力廻向によって布置されている。個人としての個人が社会的の一員としての個人と背反するようにみえても、状況のしばりがきつくなると、内面は共同幻想に回収されていく。なぜそうしかならないのか。自力作善の心ばえをどれだけ集めても戦争のない世界を実現することはできない。戦争に反対を表明しても、戦争が国家意志の作為であるとしても、戦争は雨が降り風が吹くように自然に起こる。なぜなのか。国家や戦争や貨幣の交換を超える世界構想を自力廻向はもちえないからだ。この世のしくみを変えようとするもののなかに巣くう思考の慣性。自力廻向で世界を善きものにできるという安易。知識人と大衆という生を分割統治する権力を自力作善はなくすことができない。アベシンゾウ的なものも、反アベシンゾウ的なものもおなじ意識の囚われのなかにある。人々は知によって采配される権力の駒でありどちらかに投げ入れられるだけである。いつまでこういうことをやっているのか。

生を分割統治する知の采配にたいして、わたしたちは総表現者という、だれもが生を表現として生きることを可能とする概念を提起した。ビットマシンの外延革命の網の目がこまかくなって生が人格を媒介にすることなく経済的資源として可視化されようとしているからだ。この世界システムのなかでは人は総アスリートとして強制的に登場させられる。知の采配によって分割統治される総アスリートの一員として生きることより、総表現者のひとりとして固有の生を手にしたいではないか。自力廻向は適者生存をなぞることしかできないし、世界の無言の条理は知者たちの心優しい文化的雪かきによって覆われてしまう。

わたしたちは擬制をきっぱり拒み、これまで存在したことのないまったく未知の世界を構想している。内包論で生や歴史を還相廻向として表現しようとしている。生や歴史を自力廻向という往き道ではなく、還相廻向という還り道で表現するということだ。自力廻向の知は三つの観念を類別することはできても、三つの観念を統覚する観念が同一性であるので、だれが、どうやろうと生の不全感をもたらすことになる。そこから先はなにもないにもかかわらず、ここではないどこかを自己意識の外延表現は求める。この思考の慣性はべつの世界認識に拠ってしか拡張できない。そのとき世界認識の基軸になる理念が〔わたしは性である〕ということになる。個人としての個人の意識も社会の一員としての個人の意識も、根源の性を分有するという驚異の事後的なあらわれにすぎないのだ。人であることの起源は〔性〕にあり、その〔性〕から自己意識や共同意識が派生したということ。

じぶんがじぶんにとどかない生の不全感は逆説的に内面という自然とはべつの自然の存在可能性へとひらかれている。共同幻想に個人の内面を還元できないことが、内面より深い自然が存在することを示唆している。ヴェイユが言った人格の底にある聖なるものや、親鸞の自然法爾のいちばん奥まったところにある、わたしの言葉で言えば還相の性は、三つの観念を分別する自然とはべつの自然であるように思えた。内面より深い自然は内包自然ではないのか。そういうことをながいあいだしきりに考えた。つまりわたしたちの思考の慣性が自然だとみなしている文学や芸術は内包自然へと至る過渡として表現されてきたということだ。性に還るとき、生の不全感は消え、一切のなぜが消える。だれもが総表現者のひとりであり、固有の生を生きることができる。生きることの全円性をなぞる行為を表現と名づけてもいいかもしれない。外延的な意識と内包的な意識を往還すると、国家や戦争のない世界が、貨幣を分有する世界が、ありありとみえてくる。自力廻向でこの世界に到達することはできない。世界を還相廻向として生きるとき、内包自然という大地にあたらしい鳥たちが舞い降りる。

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