日々愚案

歩く浄土209:情況論70-国家と戦争と貨幣1

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自然を観念の対象として粗視化し、粗視化された自然を観念の土台にしながら、自然についての観念は自動的に更新される。自然の粗視化は、思考の慣性として共同化され、どうじに内面化する。いま観念の自動更新はひとつの臨界を迎えつつある。天然自然を加工してつくられた人工自然が膨化し、その人工自然のなかに生が呑み込まれつつある文明史の転形期をいまわたしたちは生きている。ここで天然自然と人工自然を第一次の自然と呼ぶことにする。国家と戦争と貨幣は意識の外延性がかたどった文明史の必然であり、意識の外延表現は第一次の自然を可視化し生に組み込んできた。第一次の自然と意識の外延表現は対をなしている。第一次の自然は同一性を暗黙の公理として世界を表現してきた。この意識の流れのなかでは国家も戦争も貨幣も観念にとっての自然として存在することになる。国家や戦争や貨幣は外界のおおきな自然が加工されたもので、内面をもつとされるわたしたちのちいさな自然は大きな自然の浸透を受容するようにできている。ビットマシンが駆動している世界システムの属躰になるか、ローカルな自然宗教である天皇制に同期して世界システムの脅威に対抗するか。わたしは世界システムの属躰になることと天皇制を崇拝することとは矛盾するものではなく、ふたつの共同幻想はなめらかにつながるのではないかと思う。電脳がつくる自然とこの国のローカルな象徴天皇制はなんの矛盾もなく順接するということだ。

主体を実体とするとき、わたしたちの生は心身一如のモナドとしてあらわれる。それは疑いのないことだ。だからモナドはさまざまに形容されてきた。外界のおおきな自然にたいしてわたしたちのちいさな自然は内面をもつとされ、内面は自我や主観や主体として修飾されてきた。内面を手のひらの上に取りだすことはできなくても、それが観念として実在することを疑うものはいない。ずいぶんまえに、根源の性を観念にとっての自然とすれば、わたしたちが認識している世界をおおきく拡張することができることに気づき、その驚きを内包論として考え書いてきた。なんども考えることの壁に突き当たり、なんども思考が途絶え、それでも内包の不思議に促されて内包論の世界を彫り進んだ。だれも考えたことも生きたこともない観念の未知を言葉にすることはとても困難だったが、内包という言葉のちいさな丘をつくることができたように思う。

だれも外からうかがい知ることのできない内面を言葉に置きかえると、その言葉に見合った内面が個人の内面に付加される。はたして内面は自己表現できるのだろうか。内面と外界はセットになった表現の形式で、内面を語ることはかぎりなく社会を語ることにしかならない。この窮屈な表現の形式を同一性というものが規制している。さまざまな思索家がこの論理式を破ろうとして思考の限界を貫通することができずに潰れていった。内面と外界という表現の論理は人類史にひとしい規模をもってわたしたちの歴史に負荷されてきた。すきなディランがふとつぶやく。Beyond Here Lies Nothin’ ここから先はなにもないは、人類史を暗喩している。わたしたちが選び取った観念の自然が人類史をかたどり、その自然が人工自然に置き換えられ、その観念を自然として受け入れ、そういうものとして思考の慣性が延命する。その嘆きが内面として表白されても、その内面はあらかじめ通約された社会に回収される。内省と遡行という精神の形式が世界の無言の条理をささえ、回収されない否定性は内面の慰めという生の不全感としてもたらされる。

わたしより近いあなたを、主体ではなく領域として生きると、なにがおこるか。まったく未知の世界が拡がってくる。同一性ではなく根源のふたりを表現の公理とすると、世界はおのずと革命されることになる。ながい思索の過程を経て晩年のフーコーは主体は実体ではなく、真理は他性によってもたらされると言い遺した。神は私より近くにいるとエックハルトは言い、最後の親鸞は、親鸞が仏であるのか仏が親鸞であるのか判然としなかった。親鸞やエックハルトは信の共同性をどこまで振り切れたか。ヴェイユが不在の神に向けて祈るというとき、フーコーが倫理的活動の核に結びつけて表現を語るとき、第三者性はどうなるのか。自我は起源に先立って他者へと結びついているとレヴィナスは言ったが、その他者とはなんであり、結びついているとはどういうことか考え尽くせずに国家の正義を要請した。わたしたちの知るどんな思想も第三者性問題を思想として解決していない。信の共同性によって国家も戦争も貨幣の交換も成り立っている。なぜ信の共同性をふっきることができないのか。
内包論は国家を喩としての内包的な親族に、貨幣の交換を贈与へと拡張することができると考えている。個人としての個人があり、家族の一員としての個人があり、社会の一員としての個人があると、わたしたちは思っている。この世界認識は数の1ほどの確からしさがあるだろうか。意識の起源を解明しようとするとき、無造作に個人を前提として自己意識の起源と思いなしてないだろうか。意識の起源は個人に起こったのだろうか。わたしは内包論で自己意識は、意識の内包的な表出を分有する事後的なものだと考えてきた。個人としての個人も社会の一員としての個人も、内面をもつ個人と言おうと、社会性をもつ個人と言おうと、根源のふたりが同一性的に収縮した事後的な意識だと理解してきた。生の知覚としても、歴史としても、根源のふたりという意識のありかたがもっとも始原的なものとしてわたしにはあらわれた。その領域に分け入って意見を言うことはないが、量子力学の観測者問題は物理という個別の問題ではなく、認識の問題ではないかとながく考えてきた。観測者問題と意識の起源は深いところでリンクしているのではないか。モナドとしての認識の主体の矛盾を量子力学に投影したとき、波動関数の収縮としてあらわれるが、人間の認識のありかたが完備ではないことの反映がシュレディンガーの猫の問題を引き起こしているように思えてならない。

内包論を進めるにあたって、エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』とユヴァルの貨幣についての考えに鼓舞された。トッドは、人類の初期は核家族で、父系性や母系制でもない双方性の未分化なありかたが家族の基本であり、歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになることを発見する。心のしなりを言葉でつかもうとする研究者ではないがトッドの「未分化性」や「双方性」という概念はとても太い。父系長子相続や母系制に至る以前に初期人類が核家族を営んでいたというトッドの考えは表現のイメージをふくらませてくれてた。そうすると、親族が氏族へ、氏族が部族へ連結されていくときにユヴァルの貨幣についての考えが登場する。「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求める」。とても含蓄のある考えだ。宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣はなぜ特定の宗教を超えて拡がるのか。貨幣は身体の延長態であり、生命の通貨であるからだと思う。飢餓を共有する生命の贈与。贈与を可能とする身体の通貨。精神の古代形象が内包的な意識に巻き込んだ脊髄反射。同一性的私性の占有と、同一性的な生のなかに残された内包の痕跡である生命の贈与として、貨幣はいつも両義的なものとして存在している。
なぜマルクスの思想が人類史の規模の厄災を招来したのか。第三者問題を思想に繰り込めなかったからだ。『資本論』はマルクスにとっての第十八願ではあっても、第三者にとっては欲望の充足でしかなかった。マルクスの考えた下部構造も、上部構造も共同幻想であり、大衆を媒介にした第十八願は社会化されるやいなやマルクス主義というべつの共同幻想に転化された。マルクスの経済論にたいして吉本隆明は全幻想論を対置し経済論と幻想論を総合しようと構想したが果たせぬままなくなった。三つの観念を統覚するのが同一性であることに気づいた気配はない。わたしはマルクスや吉本隆明の思想のなかで可能性があるのは性の世界だけだと考えた。人は性から来て、性に還る。生の原像を還相の性として生きるとき、人類史は転換すると主張してきた。性は言葉によって媒介される。じぶんに言葉がとどくとき、生はふたりとしてひらかれる。これはたしかな生の知覚で、同一性とは異なるものだった。この生の知覚を基点に世界を表現すると世界はひらかれる。

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世界線を累乗することはできるか。世界の了解線を内包へと冪乗すると、世界はべつのまなざしによって未知のものとして現前する。わたしより近いあなたをわたしとして生きると、自己は主体に付属する実体ではなく、領域としての自己としてあらわれる。曲率ゼロの同一性にかたどられた意識の平面がメビウスの輪となって反転するからだ。この意識の反転によって-意識の内包化ということだが-外延表現の三人称の世界が、二人称となってあらわれる。内包論の根源の一人称は外延表現の自己意識の用語法では根源の二人称となり、自己は領域となる。内包存在が分有され、主体は根源のふたりを分有する分有者へと転位することになる。この表現の全体を第二次の自然表現と呼ぶことにする。第一次の自然表現をかたどってきた人類史は第二次の自然表現へと包摂されることになるのだ。国家や戦争や貨幣の交換やビットマシンの外延革命は第一次の自然表現から第二次の自然表現へと高次化される。この生の様式の転換によってはじめて自己の陶冶と他者への配慮がなめらかにつながり、総表現者というあたらしい歴史が始まる。外延的な意識を内包的な意識に往還させると不思議なことが直ちに起きる。国家は内包的な親族に収縮し、交換は贈与へと切り替わる。意識の変容のどこにも禁止と侵犯という倫理は介在していない。それはおのずからなる生成であるというほかない。なぜこのような意識が生成されるかというと、根源の性の分有者の主体が領域であり、外延意識の一人称と二人称を内包的な主体がふくみもつので、外延世界の第三者問題が意識の外延性の二人称となってあらわれるからだ。なにより意識の外延性を内包化すると、国家と戦争が存在しえないことになる。貨幣の交換性は内包的な贈与となるしかない。第三者性問題は意識の外延表現では、解けない主題と解けない方法で解くことしてあらわれたが、同一性を公理としない根源のふたりを分有する分有者を主体とするとき、第三者性問題は消失する。第三者性問題は存在しようがないのだ。存在しないことの不可能性としてある根源の二人称を表現として取りだすと、意識の外延性がかたどってきた生や歴史は国家や戦争や貨幣から折り返すことが可能となる。往き道の生や歴史が人類史を重畳してきたとすれば、その頂きから内包存在を媒介にゆくりなく降りてくることが可能となる。内包論の細部を詰めていくことはおおくあるが、論理の骨格はできあがっている。国家や戦争のない世界は表現として充分に可能だと思う。貨幣という最強の共同幻想も国家やビットマシンの外延革命が内包世界に陥入することでおのずからなる贈与と成ってあらわれる。この表現の転位のどこにも倫理はない。おのずから世界はそうあらわれるほかない。対の内包性が国家や個人を包み込んでしまうからだ。

ユヴァルは、宗教は特定の神へ帰依することを求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めると言っている。人類でもっとも成功した共同主観的現実であると言う。国家よりも貨幣の共同幻想性ははるかに根深いということだ。共同幻想にもうひとつ共同幻想が冪乗されているわけだ。それは精神の古代形象が脊髄反射として巻き込んだ飢餓への生体防御として組み込まれたからだと思う。もっともなまなましい飢餓への否定的な衝動であるといえる。身体の延長として飢餓を打ち消すものが貨幣の起源をなしている。そういう意味では精霊信仰が昇華された共同幻想よりはるかに古い起源をもつと言えよう。ユヴァルは、国が潰れても国家は痛まない、苦しむのは人々だと言い、苦しみを入り口に転形期の世界について考えようと呼びかけている。どうすればこの世のしくみは変わりうるかという表現をユヴァルはもっていない。人類が初期に核家族であったとすると、生も食も贈与として円環していた。飢餓でさえ分有されていた。家族や親族が意識の線形性の流れを遊弋し氏族制へと飛躍したとき、飢餓の分有は引き裂かれ、交換という貨幣の起源をもったと思われる。意識の外延性は私性として富の占有をめざす。外延表現としては自然である。ただ表現としての普遍性はどこにもない。ユヴァルの人類でもっとも成功した共同主観的現実は根源のふたりという意識の内包性によってただちに交換から贈与へと転換することが可能である。変わるだけ変わって変わらない根源のふたりはだれのどんな生のなかにも内挿されているからだ。初期人類が核家族で生と食が贈与として円環する世界に生きていたとすれば、たんに現在に出会っているにすぎないからだ。そしてその現在は縁があれば、いきなり生の還相を還相の性として生きることで、交換は贈与へ転換する。いつもそのつどあたらしい生は始まる。

親鸞の言葉をたどりながら親鸞も考え残したことがあると長年考え続けてきた。親鸞の他力を覚知した者が、かりに百人いるとする。一人ひとりに他力がもたらされることはまちがいない。親鸞の他力の覚知者だからだ。では他力の覚知者相互はどう連結するか。やはり三人称の世界をつくる。他力によっても三人称の世界は消えない。消えないかぎりこの世のしくみは適者生存を強要する。世界の無言の条理は存在しつづけることになる。他力によってもなにも変わらない。もう少し踏み込んでみる。親鸞にとって仏は仏という言葉であった。親鸞は「末燈鈔」で、無上仏には形がなく、他力のなかに他力はないと言いきっている。阿弥陀仏の第十八願が親鸞の思想の本願であり、本願を媒介する仏の言葉は第十八願を成就させるための方便である。親鸞の浄土教の解体はそこまで徹底していたと思う。仏には形がないということは仏は言葉だということである。第十八願によって個々の衆生におのずからなる救済が自力ではなくもたらされる。親鸞にとってそれは自然(じねん)だったことは疑いえない。なまなましい生の知覚であった。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなりと書き残している。それにもかかわらず親鸞は第十八願がある思考の慣性の上に発せられていることに気づいていない。親鸞でさえも仏と衆生という隠れた意識の線形性を暗黙の公理として意識することなく前提としている。親鸞が仏であり、その仏が親鸞であるとき、親鸞はすでに仏と懇ろになっている。このとき親鸞より近い仏を生きているわけだから、領域としての親鸞を生きていることになる。最期の親鸞が意識していたかどうかわからないがこの領域としての親鸞は〔性〕である。他力が親鸞にとどいたとき親鸞は〔性〕として生きたことになる。このとき親鸞の自然法爾はわずかにふくらみ、そのふくらみに還相の性が棲まうことになる。信の共同性は意識の線形性から放下され、信の共同性という拘束衣を解かれることになる。おそらく親鸞が意識することはなかったが、他力のなかの他力も、他力の手前の他力も存在する。他力の基になる原観念をわたしは還相の性と名づけた。この観念によってこの世のしくみはおのずと変わることになる。還相の性という観念は、適者生存を融かしてしまう、未知の生や歴史にとっての猛烈な、そして世界の無言の条理が蒸散する、唯一の可能性だと思う。
第十八願は意識の外延性に沿ってさまざまに表現されてきた。マルクスの第十八願は『資本論』であり、吉本隆明のそれは、かれの幻想論の全体である。しかし意識の外延性が現実に根づき、現実を変えることはなかった。第十八願は、根源の二人称を分有する分有者の深奥にある還相の性によって始めて内包自然という大地に根づくことになる。ここまで来るのにわたしたちのちいさな自然は生を引き裂く外延自然に拘束されほぼ1万年も地面を這いずりまわってきた。これから天空を滑空するあたらしい鳥たちの時代が到来する。絶望など存在する余地のない世界をわたしたちは逍遙游する。ここでだけ浄土が歩く。(この稿つづく)

〔付記〕
トランプという金だけが勲章の田舎不動産屋の成金を、生涯このかた一度も自分の頭で考えたことのない正真正銘の馬鹿であるアベシンゾウといううつけ者が媚びへつらう姿をスマホで見て、戦後72年の虚妄を思い知る。人びとは蝟集するとあこぎになる。いまそのことを目撃している。トランプの訪日に反対する在日の米国人のデモに、星条旗を掲げた日本の極右がカウンターデモをしたと記事にあった。おお、すごい。トランプもアベシンゾウも極めつきの能なしだが、報ずるメディアも、それに乗るバカも心がつるんとしている。なんなのだこれはという奇形的な共同の規範が1万年もつづいてきた。このサイトで始めて書くが、この錯誤は天皇制よりもはるかに根深い。この過誤からどうやったら免れるのか。わずか半世紀を時代と帆走し、じぶんの体験を洗いざらい反芻して、簡明な結論に行きつく。とても簡単なことだった。私が私であることを公理とする存在のありようがこの愚劣を招来しているということだ。なぜこういう倒錯を演じられるのか、数少ない読者よ、身命を賭してお考えいただきたい。アメリカに追随するから北朝鮮危機が仮構されるのであって、日本国単体は北朝鮮にとってなんの危機もない。アメリカの尖兵として自衛隊が走狗として使われるのであって、その責は戦争をしたいアベシンゾウのカルトな妄想にある。トランプも死ぬのはあちらの国で、米国には被害がないと言っている。アベは言うことをなんでも聞く、武器もどんどん買う、大儲けだとツイッターする。というように世界を感受すると絶望しかない。わたしはこの世がこんなものでしかないのはひとえに世界にたいするビジョンのなさに起因すると思う。知的に世界を観察し嘆くのではなく、一人ひとりが生の現場で世界を構想すること。だれのどんな生のなかにも凡庸な悪とは隔絶した善きものが内挿されている。根源の二人称をひとりでうけ、ふたりとしてひらくことのなかに、まだ生きられたことのない音色のいい生がある。内包自然という大地を総表現者のひとりとして生きることはだれにでも可能だと思う。

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