日々愚案

歩く浄土206:情況論69-なぜ戦後理念は総敗北したのか2

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これからこの国は、なんの大義も必然もなく、独裁者による私的な戦争に進んでいくような気がしている。世迷い言がアベシンゾウのカルトとしてつくられる。バランスのとれたカロリー制限食が健康を増進するという迷妄としてあるように。蒙昧は善だとされる。世界のあたらしいシステムに煽られながらそういう世界にわたしたちは生きている。
外敵をつくり国威を発揚し国民の内圧を高め支配者は国民をしばる。選挙戦最終日にアベシンゾウが秋葉原で、警官隊の阻止線のなかから「この国を守り抜く」ときゃんきゃん吠えた。モリカケから逃げまくるこの小者め。動員された国粋主義者が公共空間を占拠し、日の丸をうち振るう。非難のヤジを小声で言う者たちはぼこぼこに殴られ封殺される。おまえ朝鮮か、殺すぞ、この売国奴が。おぞましいと思った。この光景はこれからこの国のどこでもふつうにみられることになるだろう。

この国は戦前回帰をしつつあるのだろうか。かつての大戦のとき人びとの生の力の総和が皇国として集約された。その力がいまこの国にあるか。わたしはその力はもうないと思う。だから戦前に回帰することはない。むしろ戦前回帰よりもおぞましいことが起こりつつある。未知との遭遇だという気がしている。ビットマシンによる文明史の転換にたいして、国家と国民の心性は脊髄反射として内面化する。それが多くの国で起こっている。
アベシンゾウは保守ではない。カルト的な急進主義によってかれの妄執を実現しようとしている。これは安倍による私的なクーデターなのだ。権力を掌握した麻原のオウム真理教事件の再来であり、オウム的なものの全国化だと思っている。アベシンゾウと麻原彰晃は双生児だと思う。酷くて残忍な共同幻想が猛威をふるうと下からの民主主義は一瞬で蒸発する。立憲主義と国家の私性による独裁とどちらがいいか。むろん建前であっても民主主義のほうがよい。では独裁を民主主義が防ぐことができるか。下からの民主主義も生を采配する者たちによる権力の視線である。独裁をふるまう者たちとその受け手も、民主主義を唱導する者らとその受け手の権力の構造はなにも変わらない。このような理念の相克をいくらやっても不毛だと思う。政治の存在しない世界のヴィジョンを世界構想としてつくらない限り、この不毛な対立はいつまでも繰り返される。それが人類史にほかならないのだから。意識の外延革命という文明史の転換にたいして、べつのまなざしをつくることで、この狂乱を包み込むこと。内包論でそのことを果たそうとしている。内包論は未知の世界認識の方法をつくりつつある。

なぜ戦後の営為は総敗北としてあらわれたのか。その戦後の総敗北の根因について考えつづけている。最後の一兵になろうと鬼畜米英と戦い、生きて虜囚の辱めを受けず、赤子として死ぬ、この国民の総意が、無条件降伏で撃ち方止めとなり、一晩で戦争の永久放棄と民主主義になる。国民は総転向したわけだ。もちろん無条件降伏から戦後民主主義への変化は幾重にもねじれている。平和憲法と民主主義が擬制であり虚構であったことが戦後72年の敗北として帰結した。この敗北の根はさらに深い。人々が、知識人と大衆という生を分割統治する権力の視線から自立し、それぞれに固有の生を表現する以外に島嶼の国の数千年の総敗北をまぬがれることはない。総表現者の一人として内包自然の大地に立てば、この敗北の歴史をくつがえすことは充分に可能だと思う。
戦争の永久放棄という憲法の骨格の理念は天皇制だということを追いかけていく。まずは第九条から取りあげる。

日本国憲法第二章 戦争の放棄
第九条 【戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認】
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「非戦に主権を回復しましょう。さもないと9条の平和はアメリカの戦争です」と主張する伊勢崎賢治さんは第二項について的確な指摘をしている。伊勢崎賢治は鋭いことを指摘する。なるほどと思った。

9条2項のThe right of belligerency of the stateは「交戦権」じゃなく「交戦国になる権利」と訳すべきです。「交戦する権利を放棄するからエラい」じゃなく「交戦国になる”主権”を放棄する」というGHQの本当のニュアンスが明確になります。(2017年10月20日ツイート)

非常に説得力のある伊勢崎賢治さんの解釈だと思う。GHQは第二項で交戦国になる主権を放棄させたのだ。交戦権の否認は米国の国家意志の体現である。わたしの理解では、国際紛争を解決する手段として戦争を永久に放棄することと個別的自衛権の行使は矛盾しない。非戦に主権がないにもかかわらず戦争放棄によって平和が守られているというすごい錯覚。欺瞞の憲法。擬制そのものである。かれは言う。

「9条2項」と「日米地位協定」は、アメリカによる「疑似占領永続装置」の両輪です。(2017年10月21日ツイート)

伊勢崎賢治さんの憲法解釈の鋭さは他の批判を寄せつけない。日米地位協定によって日本は持続的な占領状態にあるということだ。だから改憲より地位協定を見直すことが優先する。この国は未だに米国の占領下にあるということ。知識人と大衆という権力による生の分割統治が左目や右目になって視界が曇っている。

伊勢崎さんは国連の理念からこの国の憲法のありかたを批判しているが、わたしは天皇制的なものから無条件降伏と戦後の日本をみていきたい。なぜ一夜にして国民の総転向が可能となったのか。わたしは戦後的な営為の総敗北を目撃し、総転向の全過程が天皇制であったと考えるようになった。戦後復興のなかで高度経済成長を遂げ、平時の平和が維持されているとき、象徴天皇制は意識されることもなかった。そのことは実感としてある。失墜途上国に成り下がる過程で、内戦も無差別の自爆テロも生存が危機に瀕する飢餓もないのに、いつのまにか天皇制的な心性が迫り上がってきた。生活は窮迫し、民主主義も廃れたし、天皇を尊崇するよりほかに縋るものがない。虚構の共同体の一員であると誇りたい。国家の私物化と共に、人々の心性が天皇親政へと傾いていく。その心性が卑しくおぞましい。敗戦から戦後の過程で政治制度や経済のしくみは変化したにもかかわらず、天皇制という共同幻想の根っこはなにも変化を受けていない。国の凋落と共に、それと自覚することなく多くの人が天皇主義者になっていく。内田樹もそうだ。

内田樹は最近のブログで心境を書いている。対米自立反米右翼で、伝統主義で、天皇主義者だと自称する。その内田樹が国粋主義の極右の心情を読み解く。

安倍晋三は身内を重用するために政治をしているわけではない。そもそもそのような利己的な人物に対して国内の極右勢力が熱狂的な支持を与えるということは考えればありえないことだ。
彼がめざしているのは「戦争ができる国」になることである。
彼の改憲への情熱も、独裁制への偏愛も、たかだか手段に過ぎない。彼の目的は「戦争ができる国」に日本を改造することにある。国家主権を持たぬ属国であるのも、国際社会から侮られているのもすべては「戦争」というカードを切ることができないからだと彼は考えている。そして、たいへんに心苦しいことであるけれど、この考え方には一理あるのである。

「戦争ができる国になりたい。戦争ができない国であるのは理不尽だ」というのは、ある意味で現実的な考え方である。というのも、現実に世界の大国は「戦争」カードを効果的に切ることによって、他国を侵略し、他国の国土を占拠し、他国民を殺傷し、それを通じて自国の国益を増大させるということを現にしており、それによって大国であり続けているからである。国連の安保理事会の常任理事国はどれも「そういうこと」をしてきた国である。だが、日本はそうふるまうことを禁じられている。東京裁判によって、サンフランシスコ講和条約によって、日本国憲法によって、「そういうこと」をすることを禁じられている。戦争に負けたことによって日本人は「戦争ができる権利」を失った。失ったこの権利は戦争に勝つことによってしか回復されない、そういう考え方をする日本人がいる。私たちが想像しているよりはるかに多くいる。でも、そう思っているだけで口にしない。

日本の極右がねじれているのは、はっきりと「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」と言うことに対しては激しい禁圧がかかっているからである。その言葉を口にすることはアメリカの属国である現代日本においては指導層へのキャリアパスを放棄することを意味している。政界でも、官界でも、財界でも、学界でも、メディアの世界でも、出世したければ、脳内にどれほど好戦的な右翼思想を育んでいる人物でも「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」ということは公言できない。したら「おしまい」だからである。
けれども、アメリカが日本から奪った「戦争する権利」はアメリカと戦争して勝つことによってしか奪還できないのは論理的には自明のことである。

はっきり口に出して言えばいいのに、と私は思う。安倍首相は「戦争ができる国」になりたいだけではない。「アメリカとも、必要があれば戦争ができる国」になりたいのである。「思っているでしょう?」と訊いても必死で否定するだろうけれど、そう思っていると想定しないと彼の言動は説明できない。
 彼は属国の統治者であり、あらゆる機会に宗主国アメリカに対する忠誠を誇示してみせるけれど、まさにそのアメリカが日本に「与えた」最高法規をあしざまに罵り、そこに書かれているアメリカの建国理念や統治原理に対して一片の敬意も示さない。彼はアメリカが自国の国益増大に資すると思えば、どのような非民主的で強権的な独裁者にも気前の良い支援を与えて来た歴史を知っている。(「こちらは『サンデー毎日』没原稿」)

内田さん。極右の心情をずばりおっしゃってますね。そのとおりだと思います。でも幾分かは内田さんの真情でもあるでしょう。極右の皇国はオカルトであるが、天皇親政を主張するわたし内田の皇国は本物であると。そう思っていますよね。大きな声では言えないでしょうが。内田樹は天皇主義者に転向することで言説の地の利を謀っている。民主主義と天皇親政は矛盾するものではないと言いたくてたまらない内田樹がここにいる。極右をネタに幾分か自分を語っている。勝ち組の社会人間が善人ごっこをする。いったい内田樹とは何者か。人間は強いものと弱い者がいて、富む者と貧者がいて、さまざまな違いによって生きているのが自然である。その人間の多様性に合いの手を入れて、暮らしやすさの公約数をとるにはどうすればいいか。内田樹は適者生存の勝者の立場から時代を眺め下ろしている。さぞかしいい気持ちだろうな。内田樹のつるんとした薄っぺらな倫理には、親鸞の、苦難を生きる者、迫害をうける苦界の者たちは、みなわられなり、という傲然としたことばのかけらもない。なにが言いたいのか。みぞおちにある良心にむけてひそかに小さな善を積み増せばこの世のしくみがいくらかでも善い世界に近づくということはない。人間という現象についての根本的な錯誤が内田樹にある。みぞおちにある良心にむけて善に勤しむことをこの手の文化人は徳とみなしている。それだけ人間理解が浅いということだと思う。そしてその種の人はおなじ匂いのする人と手を組む。若い頃からこの種の啓蒙家を軽蔑してきた。いまも変わらない。内語と社会的発言が激しく乖離する意識のありようのなかにだけ、それが否定性であっても、そのなかに、この世ならざる表現を生む契機がある。社会に言葉をとどけるのではない。じぶんに言葉をとどけるのだ。そのとき言葉は言葉を生きることになり、言葉が性としてあらわれる。そこにだけこの世のしくみを突き破る可能性がある。うつろな命の芯をふいに他なるものによぎられるとき、言葉が内包的に表現される。アベ的なものや反アベ的なものがいかがわしいのは、存在を社会化し、社会的な存在のありようを人倫で采配するからだ。社会的な存在、あるいは共同的存在のありようをめぐって人類は一万年のあいだ右往左往してきた。どんな人倫も、どんな思想も適者生存以外の存在を表現したことはいちどもない。内包論は意識の外延表現に王手をかけている。

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わたしの知るかぎり生の不全感についてもっとも鋭いことを言っているのは瀬尾育生だと思う。オウム真理教事件のとき、なかば古色蒼然とした発言のなかで、かなり鋭敏なことを言っている。たまたまパソコンに眠っていたデータからいくつか引用してみる。一度も会ったことはないが、わたしが理解する生の不全感についてもっとも鋭敏な感覚を持った表現者だと思った。個人としての個人の内奥を共同性に還元することも、共同性の規範を自己意識に還元することもできない。自己という現象のなぞに瀬尾育生はかなり迫っている。生はなぜ不全感を伴ってあらわれるのか。自己幻想と共同幻想が逆立するとはどういうことか。どうやっても自己が自己にとどかず生がうつろであるということは、逆説的に自己が拡張できることを表現している。同一性は生の平行線公理であり、自己という観念の拡張性が生の不全感となって表現されているということだった。存在しないことの不可能性が生の不全感として、背理として表現されている。そのぎりぎりまで瀬尾育生は迫っている。

①私は寄る辺なく世界のなかにいます。

②社会や現実がどんなに理想的なものに近づいても、そこにいかなる不全感もなくなっても、人間の超越への欲望を消し去ることは出来ないし、同様に、悪しき超越の形も消し去ることは出来ないと、どうしてもぼくには思われるのです。なぜなら社会や現実にたいして超越の欲望が生じる根拠は、別に社会が悪いからでも、現実に欠陥があるからでもなくて、社会が社会であり、現実が現実であるあり方そのものだと思うからです。
 いいかえれば人間の内面性は、社会や現実がどんなに多様性を許容し、寛容になり、柔構造になっても、そのなかに配置してしまうことが出来ません。それは人間の内面性が、社会や現実との関係で出来ているものではないからです。少なくとも数百年単位の時間のなかでわれわれが現在おかれている世界の構成のなかでは、人間の内面性は社会や現実とはまったく別の、独立した根拠をもっています。そして人間の超越性への欲望は、社会や現実に還元不可能なこの内面性の存在に根拠をもっているのだと思います。

③われわれが宗教的な超越を求め、神を求めるのは、ただ一つの場合だけ、すなわち自分が自分と衝突しているときだけです。(略)すくなくともわれわれを現在支配している世界の構成のなかではそうです。(略) 自分が自分と衝突するという場面があれば、人は不断に神を求めているはずです。自分の死を思うとき、一つの欲望ともうひとつの欲望とのあいだで引き裂かれているとき、高揚する精神と落下していく肉体とのあいだでメランコリーになるとき、自分の理想や当為を自分自身が裏切ったという形での倫理的な負荷に陥るとき、等々。

④自分と社会との対立ならば、内面と現実との異和ならば、超越は必要ないのです。自分と自分との衝突である場合のみ、われわれの存在的な二重性が亀裂として現われてくるときだけ、人は神を呼び、宗教的な超越を求める。人間の内面性がその現実存在にも社会的な存在にも決して還元できないといったのは、これと同じ理由です。人間の内面性、すくなくとも二十世紀的な内面性は、社会と自分、現実と自分といった対位の中には場所をもっていません。ただ自分と自分との衝突の中にだけ場所をもっています。

⑤ぼくの場所から見てとてもはっきりと、ここがオウムという教団の核心なのだといえる部分があります。それはシャクティパットというもので、・・・(略)・・・ ぼくにとってはオウム教団の持つ意味、麻原という人間の持つ意味はもうこれだけで十分なのです。 ・・・(略)・・・それは自分の苦しみの核心部分、つまり自分と自分との衝突を消し去ってくれるからです。

⑥ぼくには、オウム事件のあとのわれわれの言説空間がいっぺんに、ほぼ半世紀ぐらい逆戻りしてしまったように感じられます。これまで半世紀のあいだにわれわれが思想の領域で見いだし、確認してきたはずのことが、あっという間に忘れられ、捨象され、打ち捨てられつつあると思う。何が忘れられつつあるのかといえば、ひとことでいって「共同性と個との逆立」と言われてきたところのもの、個的な幻想世界は共同幻想と必ず逆立する、という言い方で語られてきたところのことです。たしかに今となってはこの言い方は誤解を招きやすいものでしょう。「逆立」するというが、それはどういうことで、どのように証明されるのか、「逆立」という以上それは再度の反転を根拠付けており、つまりこの言い方は反権力というものを何か必然的なものとして正当化することになっているではないか、などと現在ならだれでもが思うでしょう。だがここで語られていることはそんなことではない。共同性と個とは原理的に必ず逆立する、とは共同性と個とが相互に「還元不能」であるといっているだけです。共同性として構成される世界とは、相互に還元不能であって、どこまで追い詰めても二重性にしかならない。個の内面世界は決して共同性の世界を完全に内面化することはできない。同じように共同性の世界はどんなに多様化しても、どんなに寛容になっても、この内面世界をその内部に布置させることはできない。

⑦現実の救いようのない後進性を前にして、それを反転し、奪回しようとしている内面性、架空の共同体を未来に構想して現実をそれへの過程にしようとしているような内面性、現実に存在する諸対立にたいして、それらに超越としてふるまうような内面性、総じて現実との対位によって定義されるような、現実と内面、社会と個という対立として構想されるような十九世紀的な、ロマン主義の水準で、彼らは内面性を理解し、それに対して自分たちは勝利していると考えている。だがそんな十九世紀的な内面性についての理解で、オウムに対処できるわけがないとぼくは思う。われわれが目の前にしているのは数百年単位の時間を経て、世界戦争のあとに死後の死後のようにして残っている内面性であって、それは自分が自分と衝突するという場所に、ただ社会的なもの、共同的なものに対して「還元不能」であるというだけの権利で、「物」のように、石ころや木や風や地震のように存在している。しかしこの存在を消去しようと思ったら、現実というものの定義、内面というものの定義を根こそぎ変える以外にはないわけです。

⑧九十パーセントの人々が自分が中流だと思い、現在の生活に満足だとこたえるようになっているのだから、そういう最後の一人の問題というのはもう本当に差し迫った問題なのだと思います。その最後のところで出てくる問題がどんなに深刻な、不気味な姿で現われてくるかということをオウムは暗示してみせていると思う。社会の原理が個の原理を包摂し得るかのように、あるいは捨象し得るかのように進行するかぎりでは、これからいよいよ最後のところで、どんな不気味な最後の一人がつぎつぎと身を起こさざるをえないかということを、です。(『飢餓陣営』NO15)

瀬尾育生が、自分と自分の衝突といっていることは、じぶんがじぶんにとどかないという生の不全感のことであり、そのことをかれは内面性と呼んでいる。だから人は不断に超越を求めると、まるでバタイユみたいなことを言う。なるほど、共同性と個とは原理的に逆立するというあの命題を、個人の観念と共同の観念は相互に還元不能であると瀬尾育生は読みかえる。妥当だと思う。人格を媒介にしたとき自己の観念は共同の観念に同期することをわたしはなまなましく体験している。瀬尾育生の発言はオウム事件にさいしてのものであるから、頭目の麻原彰晃を意識している。自己が自己と衝突して軋むとき、超越への願望が注ぎこまれると言っている。おもわず観察者の賢しらが顔を覗かせる。それは違う。麻原があなたの頭に手をおいて、光あれ、と言えば、だれであれそれを拒むことはできないと瀬尾育生は言うのだが、言葉遊びをしている。せっかくよい感覚をしているのに内面を台無しにしている。もっと深く考えよ。内面が共同化できないという気づきはまっとうだと思う。ではその内面を超越ぬきに言ってみよ。麻原彰晃がわたしの額に手をかざしたとする。わたしならその汚い手を退けろという。それだけのことだ。生が不全感としてあらわれるのは、自己同一性的な存在ではない存在が、存在しないことの不可能性として逆説的に、あるいは背理として表現されているからなのだ。そのことに瀬尾育生が気づいた気配はない。虚ろな生は他なるものによぎられるほか意識の外延性からのがれることはできない。晩年のフーコーを想起せよ。かれは生が豊穣でしかありえないことを、主体は実体ではなく、他者によってもたらされるという意識のありかたとしてつかんだ。ここではないどこかは、もうどこにもない。消費社会が勢いをもつかのようにあらわれた時代からほぼ30年がすぎた。オウム事件でさえ牧歌的なのだ。戦乱の狂気がモノのようにしてそこまで迫り、麻原の妄想はアベシンゾウに継承された。そこに現実がある。たしかに生はモノのように、石ころや風や地震のように存在している。この精神の勾配は急峻さをいっそう増している。瀬尾さん、あなたは「現実というものの定義、内面というものの定義を根こそぎ変える以外にはないわけです」と書いていますが、どうやればそれが可能なのかみえていませんね。それはあなたの表現の作法のなかにはないのです。あなたもまた解けない主題を解けない方法で解こうとしています。それはそのことに鈍感な内田樹においても同様である。徳の倫理家内田樹は一切を問わない天皇主義の自然生成に身を任せることによって思考の困難さを回避している。苦界を入り口に、生の不全感にたどりつき、他なるものによぎられておのずからなる生を手にするという自然。わたしはこの自然を内包自然と名づけた。だれの、どんな生のなかにも根源のふたりが存在している。

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内包論をつくり始めた頃、民主主義を主張すると過激派になる時代がやってくると書いたことがある。周囲にもその話をしてきた。1990年に吉本隆明さんと対談をしたときも、吉本さんは貧困や欠如を土台とする思想は生きられないし、消費社会の欲望を肯定する思想をつくらないといけないと盛んに言っていた。あなたはどう思うかと問われ、これからはハイパーリアルなむきだしの生存競争の時代になりますと申し上げたら、あなたの世界認識は間違っていますと返答された。むきだしの生存競争の時代はビットマシンによる世界システムとして実現しつつある。その勢いはますます急峻なものとなっていくだろう。わたしたちの生はこのシステムによって切り刻まれたんなるビット情報へと還元される。
これから到来する時代の流れのようなものはずいぶん前から察知していた。発言した当時は、民主主義を唱えることが過激派になるわけないという周囲の理解だった。世界はわたしの体験したことに後ろから遅れてついてくるという内在的なリアルさが日々のなかにあった。事実そのとおりになりつつある。しかし当時、憲法の非戦条項が天皇制であることには気づいていなかった。戦後の非戦の理念は公理のようなものとして疑うことがなかった。大半の人もそう考えていたのではないか。この公理が根元から揺らいでいる。憲法改正の発議は現実的なものであり、緊急事態条項が繰り込まれるだろう。

若い頃から日本国憲法は日本人には分不相応な美しい物語だなと思ってきた。その前文の一部を貼りつける。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

言葉が凜として、背筋がしゃんとする。トイレの壁にでも貼っておけば聖句の代用にもなる。GHQによって強制と検閲を受け、そのねじれのなかで、戦争の反省を支配者として創案した。この憲法とはなにか。この美しい物語はGHQの占領下になぜ書かれたのか。無条件降伏をした皇国の支配者の主観的意識の襞になにが起こったのか。尽きぬ謎がある。強制があったにせよ、皇国の支配者が敗戦の将として日本国を再統治する支配者の弁であることに注目せよ。かれらには屈辱はあっても敗戦の痛みはない。わたしはねじれた無段階転向が果たされているように思う。民主主義の理念で書かれた君臨すれども統治せずという天皇制の継続である。国体護持については占領軍の司令官であるマッカーサーの統治にも、マッカーサーの臣民でしかなかった天皇も、それぞれの思惑を充たすことができる。かくて皇統は護持された。現行憲法の最初の言葉はなにか。憲法を発布するにあたって、昭和天皇の「お言葉」が公布文としてある。一昔前なら勅語だ。

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
    御名御璽 昭和二十一年十一月三日

国家である朕が平和憲法を公布することの不思議。朕がだれであるか、その行為がどういうことであるか、一度も問われたことはない。現人神が人間として公布したのではない。朕が憲法を宣布するのである。この全過程をわたしは無段階の転向と呼ぶ。統帥権はマッカーサーによって剥奪され、マッカーサーの臣民として天皇が憲法を公布するのである。米国の見事な国家意志の体現である。このようにして日本国は米国に従属する二度と戦争のできない国として再編されることになった。国民統合の象徴としての天皇制も見事に生き延びた。統帥権をもち君臨して統治する現人神が、象徴天皇として立憲君主制に移行するとき、天皇制の真髄はなめらかに遷移している。おそらく戦後憲法の全体が天皇制的心性によって成り立っている。戦後の総敗北はそう解するほかない。
無条件降伏によってアメリカの国家意志に沿って国家を再建するとき、国民の意思は反映されたか。ここでも知識人と大衆という生を分割統治する権力は、国民の意思をないがしろにする。憲法は天の声として宣明された。この感性が日本なのだ。戦後の国体も天皇制の真髄を継承し、問われることのなく、思考の慣性として行使されている。国は敗れたが、国民の痛みはどこにもない。GHQによって検閲と強制を受け、唯々諾々として米国の意向に沿って憲法を創案するしかない大戦期の支配者は、天皇制を護持することで意趣返しを謀っている。第九条一項の戦争放棄は、天皇制を担保としている。それはまたマッカーサーを代理人とする米国の国家意志に適うものだった。戦後憲法は幾重にもねじれている。

16歳のときから反米自立の民族派右翼で天皇主義者であったことを告白した善人ごっこがすきな内田樹さん。自己の観念を共同の観念に還元することはできず、共同の観念を自己の観念に還元することができないと言う瀬尾育生さん。どちらにどう転んでも意識の外延性のはらむ矛盾を解くことはできない。天皇制的な心性はこの島嶼の国が育んできた至宝の自然宗教であり、イデオロギー的な批判で歯が立つものではない。まして無国籍の瀬尾育生的心性でなんとかなるものではない。内面とは共同幻想にも還元できない、端的に言えば、曲率ゼロの意識の平面にあらわれる生の不全感である。自己が自己にとどかない、自己が自己と衝突することとしてあらわれる意識のなかに背理のようにして生まれる超越への志向を内面によって解くことはできない。なにによっても埋めることのできない生が不全なものとして表現されるということにおいて、それはおおきな表現の可能性なのだ。瀬尾さん、わかりますか。天皇制は否定でも肯定でもなくべつのまなざしのなかに融解することで自然に消滅する。わたしは内包論の総表現者という理念と、総表現者の一人ひとりが生きることになる内包自然という理念のもとで天皇制を無化することができると考えている。意識の外延性を内包的な意識に拡張するなかで天皇制はいつのまにか消えてしまう。

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