日々愚案

還相の性と国家7

519gwJRDsiL 「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」を内田樹は死だと考えている。わたしは同一性の彼方であると考えた。根源の性を分有することによって、わたしたちは分有者として悠遠の太古にあらわれた。対や家族が太古の歴史の主体であったわけだ。わたしたちの生命形態の自然に沿うように、分有者は行き途として身分けと言分けを受けることになった。いつも背中をくっつけて行動することはできない。譬喩すれば、太古、わたしたちは未明の〈我―汝〉を根源の一人称としてあるがままに生きていたのだと思う。

 根源の性の分有者たちは、生の余儀なさとして事後的に長い歴史のなかで、分有者であるにもかかわらず身によって隔てられた分有者をやがて互いに「自分」と名づけることになった。わたしの考えではアニミズムや『言語にとって美とはなにか』の原人が登場したのはそれ以降である。同一性に身心が封入されたことの不全感は、「私は熊であるとか」「私は狼である」という意識のさわりとして表象された。内包存在から同一性への生のかたどりはそれほどの不安としてあらわれた。わたしは自然から離脱しつつあることの怖れや不安がアニミズムとして象られたのだと考えている。

 それはともかくとして、あるものがそのものに等しいということを公理とするわたしたちのありようが人類史を連綿と織りなしてきたということになる。同一性に封じ込められたつながりを見失いつつあった太古の面々は内包のおもかげをそれぞれの風土を切り取り神や仏と呼ぶようになった。これ以降の歴史はわたしたちのよく知るところのものとなる。

 いまわたしたちは、自然人類学の手法も文化人類学の手法も、また民俗学のそれも、自己意識の外延表現によって分別されたそれぞれの領域と理解している。本質的に言うならば第一次の自然表現の華麗な表現にすぎぬわけだ。『悲しき熱帯』という傑作も線状化された意識の饗宴とは言えるが、それだけのことだと思う。もうひとつ戦後の西欧の思潮に特徴的な構造主義は、人間という現象そのものを扱う極度の困難があったので、人間の関係のあり方を代数的な構造として形式化することでその困難を回避した。現代ではなく文化人類学という歴史の古い時代に向かったのは同一性がたどる必然でもあった。ヒットラーのナチがなしたことはそれほどの衝撃をもたらしたと言ってよい。

 グローバリゼーションの猛威を民族国家と民主主義が向かい撃てるだろうか。民主主義を民族主義に仮装すれば対抗原理になるだろうか。わたしの理解ではグローバリズムは、科学、金融資本、IT技術を駆使し、この世界をフラット化してしまうのだと思う。皮肉にもグローバリゼーションの潜勢力は最後に残された天然自然である人間の身体を市場とみなし産業化すると思っている。生の統治は避けようもなくそこまで行くに違いない。ipsにしてもstapにしても研究者は単なるオタクだから、理念なきかれらの善良さを身体のパーツ交換として産業にするのはグローバルな資本家である。

 欲望はここでは使い古しの心臓やくたびれた肝臓を新品に交換することである。欲望を止めることはできない。金で賄うことができるからだ。時代の趨勢として臓器移植は時代遅れのレトロになる。やがて再生医療と金融工学はいっそう結合の度合いを強め、人間という概念を変えてしまい、その流れに沿って哲学や思想が改変されることになるだろう。そしてまた民主主義を破壊するグローバル経済が、明るい廃墟のような街路で民主主義を布教することになる。stap報道をわたしはそういうところからながめていた。

 フーコーが生政治による生の簒奪を語ったのは1979年である(『生政治の誕生』コレジュ・ド・フランス講義 1978~1979)。危機に関する感度の違いは大きい。吉本さんは中流を肯定することで死にものぐるいで思想の大転換をなそうとしていた。日米構造協議による規制緩和はいいことだと言っていた。

 統治による生の簒奪は、フーコーの生政治という認識よりもっと速く転変した。ITによる圧倒的な速度による世界のフラット化だ。国威発揚も、民主主義も、この巨大な動力の前にはひとたまりもない。中国の覇権主義もグローバリゼーションの後追いをするに違いない。IT、金融工学、技術・科学に国境がないというのはほんとうのことだから。ハイパーリアルな剥き出しの生存競争においてもっとも上位にグローバル経済が位置している。統治はすべてそこに収斂する。そしてそこで教導されるのはまたしても民主主義であることは想像するにかたくない。

 それはどういうものか。三丁目の夕陽の情緒などどこにもない。生はどんどん可視化され計測されうるものであると主張される。わたしたちが迎える民主主義とはどういうものだろうか。戦後憲法の高潔さはみじんもない。なんともすごいものだ。すぐ近くまで来ている。

 生命は流れであり、動きであり、デザインなのだと主張する熱力学工学者のエイドリアン・ベジャンは言う。

    同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る。(『流れとかたち』柴田裕之訳)

 ベジャンは勝ち誇って鬨の声をあげる。生命倫理学者ピーター・シンガーは『生と死の倫理』で問いかける。「人格だけが生存権をもつ」という考えは、はたして「滑りやすい坂を滑り落ちているか」と。「教育を受けること、人間関係を培うこと、家庭生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄をすること、休日の計画をたてること」ができない「意識のない生命はまったく価値がない」ので、たとえば(生後日までの新生児とおなじように)「ダウン症の子どもが生存しないように死に至る措置をとる」ことにして、「望まれた子どもだけ産む」ことにするのはすばらしく倫理にかなったことではなかろうか、と。

 ベジャンとピーター・シンガーはまったくおなじことを言っている。いまわたしたちはこのような時代を生きている。おぞましい考えだと思う。小手先の理念はすべてなぎ倒される。可視化し計測する生政治は、純化された民主主義という名の下にここまでいやおうなく進んでいくと思われる。

 わたしたちは蹂躙され押し切られてしまうのだろうか。そうではないと思う。
 もっと本音を言おう。口先だけの余計なものがはぎ取られて剥き出しになり、いまは面白い時代だと思う。飾りの建前だけの理念が滅び、人間の欲望が剥き出しになるということは生を監禁する同一性の必然であり、それがわたしたちが手にした自然だった。親鸞は鎌倉のその時代を生き、わたしは平成26年を生きているが、人々の業の深さはみじんも変わっていない。じつにわかりやすいではないか。わたしはわたしの過剰さを自戒しながら、非僧非俗、ことばがことば自身を生きるということを唱えながらこのノートを書いた。もうすぐこの落書きを閉じる。

 わたしは内包論と、そこから導かれる表現を世界認識の公準とし、グローバリゼーションの猛威を迎え撃とうと思う。わたしの想いは固い。複雑に絡まりあった往還の性をほぐしながら、還りの性をていねいにたどるならば、これまで知られ、語られてきたどんな世界認識よりも、わたしたちの生が伸びやぎ、匂い立つ世界を手にすることができると思っている。

 いまわたしは還相の性を生きようとしている。根源の性を分有する分有者は往相の性と還相の性が捻りあわされた渾然一体となった生を生きているが、還りの性の場所だけが共同幻想をなさぬ、三人称が仮想にすぎぬといいうる最後の場所だと思っている。ずっしりかるい還相の性はわたしたちの生の可能性であり、いかなる意味でも共同化できない。根源の性の反射としてのこの他者とのつながりを還相の性において生きること。そこが世界の淵に立つわたしの生がひらかれる場所である。神や仏という言葉でも言いあらわしえぬ、存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方そのものである。

 生誕とお迎えの狭間をわたしたちはともかく生きるのだが、生の行き止まりが死だとひとびとは永いあいだ思いなしてきた。それは人類史の規模にひとしいのだが、まったく違うと思う。彼岸の浄土は、自己意識の非望ではあっても、余儀なさや制約として作為されたねつ造なのだ。ここまで言わないと死はひらかれず、「生きることの発明」は現成しない。はじまりがあって終わりのないしだいに深くなる内包という渦のなかのちいさなくぼみが死であるということにすぎぬ。

 死は追憶でも追想でも、類への個の消滅でもない。生のくぼみから生成されるあたらしい生なのだ。なんのてらいもなくわたしは然りと応える。そう言い切ることによってわたしたちひとりひとりの生はひらかれるのだ。死は共同幻想の彼岸でもなく生の果てるところでもない。還りの性は、たとえ姿やかたちはないとしても、内包存在というリアルに縁取られている。自己意識の外延態のなかに死は存在する。内包というあたらしい生の様式では、死は生の一部であり、はじまりがあって終わりのない渦として実在する。わたしは死んだ父を毎日想い出すが、じつにずっしりとかるい。わたしたちはいつもすでに内包浄土を生きているのだ。

 還相の性という言祝ぎの余勢を駆ってついでにこの世のしくみを変えようか。あらっ、わたしのありようも変わってしまった。内包論はいつもここをめざして日をつないでいる。やっとたどりついた還りの性という場所だけが、他者を自己の生存の手段にしない場所である。それが当面するハイパーリアルな世界に抗する理念でありえるか、その道行きはながくてみじかい。

 還りの性はすでにシステムを超えているということにおいておのずと制度を超えている。還りの性ということばの始まる場所が内包論の核心の核心をなす。イエスや親鸞の見果てぬ夢を追いかけてきてとうとうここまできた。親鸞やイエスの意図がどうであったかにかかわらず、かれらの信は、共同化できた。還りの性というこの他者との関係はけっして共同化できないのだ。わたしたちは途方もない生や思想や文学の可能性を手にしたことになる。この他者との共同化できぬ固有の生は、書誌学の彼方の出来事としてある。わたしたちは自己意識の外延表現からあるものをなぞらなくてもいい。それらはつねに同一性を前提にした現実の写しである。現実を受け入れても、現実に叛意をもとうと、そこでの軋轢は対立と倒錯にさらされつづける。わたしはそこでの内面化も、人々と繋がる言葉の社会化も、拒んできた。天が下に新しきものなし、だからだ。

 もう生を絶えず未来への過程として順延することもない。いつもすでにそのうえに立っている根源の性の分有者に内在する還りの性を生きるとき、いまはつねに然りとして現成する。わたしたちの生はなにかへの過程ではない。生まれ、育ち、老いていく自然のうつろいのなかにあって、内包というしだいに深くなる渦のようにして、わたしたち分有者の生がある。然りは共同化されることなくあまねく響き渡りおのずとこの世は革められる。

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