日々愚案

歩く浄土199:Live「片山恭一vs森崎茂」往復書簡8

第八信・片山恭一様(2017年9月24日)

わたしたちの思考の慣性は自己意識の用語法を観念の自然としている。この自然はわたしたちの存在を自己と対関係や家族と社会関係に類別します。この表現の全体をわたしは意識の外延表現と呼んできました。歴史時代をおおまかに一万年とすれば、人類は一万年を人類史として重畳し、いまビットマシンよる急激な意識の外延革命が進行しているとぼくは判断しています。この意識の変化はいつのまにか、成るようにして成り、この国の伝統的な自然生成ととても相性がいいものです。成るべくして成るように遷移するといってもいいかもしれません。いずれにしても意識の外延史はおおきな転形期を急速に迎えつつあります。電脳社会の革命によって人間という概念が大幅に改変されます。わたしたちの認識の自然は科学知によってより科学知に従順な生の規範を強いられることになります。この変化の過程は天然由来の自然を人工自然が書き換えていくこととしてあらわれています。この変化の過程は必然でありまた不可避です。ぼくは内包論で世界に対するべつのまなざしをつくろうとしてきました。天然自然も人工自然もぼくの概念では意識の外延表現として一括りにすることができます。内包論からみえてくるもうひとつべつの自然があります。この自然のことを内包自然と名づけてきた。意識の外延性と内包性は存在の複論理としてある。存在にはふたつの表現があり、内包自然という土台の上に外延自然があたかも二階屋としてちょこんと乗っていて、わたしたちの生は外延存在と内包存在の複論理としてあります。存在が複論理のしくみをもっているとして、内包存在を外延存在が指さすことはできません。しかし贈与の生が社会関係に組み込まれいつのまにか贈与は交換に転形しました。親族が氏族内婚制から氏族外婚制に転化した時期に、意識の内包性が意識の外延性に分岐し、ひとつの結節点をなしたのではないかと考えています。ユヴァルは奇妙な言い方をしています。「人が親交を深められる範囲は150名程度が限度であるということは、人類に関する単なる事実です。自然にできる集団―ホモ・サピエンスの自然な共同体は150人を超えることはありません。それ以上の規模になるとそれこそ様々な想像や大規模な社会制度が基になっているのです」(「ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」)おおまかにぼくの考えと対応しているようにみえます。

ここであらためてユヴァルの「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求める」について考えてみます。だれでもよく知っていることですが、考えてみるととても不思議です。国家や貨幣が共同主観的現実として発明されたと考えるとき、貨幣のほうが国家より共同主観的現実として普遍性がありますが、それはどうしてでしょうか。貨幣は精神の古代形象としてもっとも古い身体性が可視化されたものではないかと思うのです。もともと貨幣は身体の延長態として身体が粗視化されたものだと考えてきました。水や空気の使用価値は民族や宗教やイデオロギーとは関係ありません。それは人間が生物であるという生理学的事実に基づいているからです。身体の飢餓を緩衝するもののひとつとして貨幣の起源がある。人間という自然は外界の自然に代謝関係を依存しています。精霊信仰がトーテミズムに昇華され、部族から部族の連合に至ったとき、天から天命を付託された王と、王を補弼する司祭層が衆生の生を統治するようになりました。その数千年は一瞬のことであったと思います。

ここしばらく交換と贈与について考えてきました。古典的経済学のアダム・スミスや、アダム・スミスの経済論を緻密化したマルクスの資本論や吉本隆明の幻想論も検討してきました。かれらは人間が社会的な存在であることを前提にして経済論や幻想論を論じています。もっとも基底にあるのは同一性という観念の自然です。疑うことなくこの論理を暗黙の公理とし、世界を表現しています。同一性は共同主観的なものを現実とし、その虚構から自己という現象も生じています。存在が複論理性としてあることを少しでもあきらかにしたいので、前回のサイトの記事でとりあげた、たまらなく好きな情景を再掲します。「南インドの小さい都市の鉄道の駅で、乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に、飢えた少年や少女が群がって奪い合っている。一歳くらいの妹を片脇にかかえた少年も負けることなく奪い合っている。乗客のひとりがこの少年にバナナを与えると、わたしたちがふつう食用にするまん中のやわらかい部分はすべて、たぶんまだ歯のそろっていない妹に食べさせている。その長い間、少年は法悦のような目つきで、女の子を見つづけている。陽射しの強さもあるかもしれないが、わたしはこんなに幸福な人間の顔を、これまでに何回かしか見たことがない。おしまいの根元の部分を女の子の口におしこむと、少年は皮だけを食べて、またあの容赦のない争奪戦に、仲間をおしのけ蹴たぐりながら走りこんで行く。餓鬼は餓鬼として即菩薩であり菩薩は菩薩として即餓鬼である。もっと「文明的」な世界では幾重ものシステムと観念装置に覆われている関係の真理のようなものが、仮借ない直接性の陽射しにさらされて裸出している」(真木悠介『自我の起源』所収「補論 性現象と宗教現象」)

人が根源において二人であることの見事な喩となっています。ここでバナナは貨幣の喩ですから、「たくさんのビスケット」が実現しています。もっとも根源的な人間の存在がここにあると思います。兄はじぶんより近くにいる妹をじぶんとして生きています。血縁という自然があるからか。そうではない。親鸞が真剣に説いた有情をふくんだ有縁がここにあります。妹ではなく、つい先まで赤の他人であった女性でもいいのです。飢餓にあるとき傍らの人にじぶんが空腹であるにも関わらず、食べていいよ、一緒に食べようか、というのは憐れみか。惻隠の情か。おのずからなるふるまいだと思います。もっとも自然である飢餓が分有されるのです。もしこの不思議がなかったらヒトが人になることはなかった。この驚きが内包的に表出されことに意識の起源があるとぼくは考えています。存在はバイロジカルなのです。安保徹さんの免疫学の理念もバイロジカルです。生物が陸棲化したときに、さまざまな抗原に曝露されて古い免疫系の上にあたらしい免疫系が重ねられたのです。免疫学のメインストリームは、獲得免疫があり、獲得免疫の記述論理で自然免疫を説明しています。理念的な錯誤です。西欧近代の思想家もおなじ轍を踏んでいます。ある思考の慣性を観念にとっての自然として観念を粗視化しても、その思考の慣性に沿う自然を発見するだけです。アダム・スミスの古典経済学を子細に検討し、マルクスはアダム・スミスの使用価値と交換価値にあらたな知見をつけ加えました。それで世界はどうなった。なにも変わらない。世界の無言の条理をなぞっただけです。

ユヴァルは、貨幣は歴史時代以降の共同主観的現実のうちもっとも強い威力をもったと主張しています。それがどういうことであるかを解く鍵が吉本隆明の発言のなかにありました。吉本さんは言語の表現理論をマルクスの価値形態論に負っていると折に触れて書いています。「ついでに申しあげますと、ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったかといいますと、おなじくマルクスの『資本論』から作りました。ぼくは、『価値形態』としての『商品』の動き方は、言語の動き方と同じなんだと、かんがえたのです。そして、ぼくはどこに着目したかというと、『使用価値』という概念が、言語における指示性(ものを指す作用)、それから『交換価値』という概念が、『貨幣』と同じで、万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろう、とかんがえたんです。言語における『指示表出』と『自己表出』という概念を、『商品』が『使用価値』と『交換価値』の二重性を持つというところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました」(中沢新一編『吉本隆明の経済学』所収「経済の記述の立場」)

「万人の意識あるいは内面のなかに共通にある働きかけの表現」を自己表出と定義しているところにびっくりしました。吉本隆明はものすごい思い違いをしています。万人の意識のなかにある共通の働きかけ、あるいは内面のなかにある働きかけを自己表出というとき、それは共同主観的現実そのものです。かりに万人のなかにあるということでそれが内面の普遍としてあるとしてみます。それは共同幻想そのものです。共同幻想から自己幻想が生まれ、そこに付与されたちいさな窪みを内面と呼ぼうとおなじことを意味します。共同幻想が生まれると共にわたしたちの生のなかにそのひな型ができたのです。その逆でもかまいません、おなじことです。内面は共同幻想と同期するようにできているだけだです。そこで、万人の意識であると共に内面のなかにある共通の働きかけのことを原・共同幻想と呼んでみます。この原・共同幻想がユヴァルのいう「脊髄反射」に相当します。マルクスの資本論では交換はいつまで経っても交換のままであり、吉本隆明の言語の表現理論では自己は自己にいつまで経ってもとどかない。マルクスや吉本隆明の思想では心身の慢性的な飢餓が充たされることはないのです。マルクスの男性の女性に対する関係のなかにもっとも本質的なものが直接性としてあらわれるという気づきがあっというまに社会化され、男性の女性にたいする関係を人間の人間にたいする関係に外延し、それはどうじに人間の自然にたいする関係であると外延的な意識を閉じたときビットマシンによる電脳革命は必然的なものとして招来されます。マルクスの価値形態論から着想を得た吉本隆明の言語の表現理論がニヒリズムとしてあらわれるのも必然です。

人間が生存を維持しようとして自然に働きかけ、自然を人間化し、反作用として人間は自然化されます。身体を自然の台座とする人間の生存のありようは、自然を粗視化する過程の繰り返しでした。それが人類史でもあります。同一性は生の心身一如に原・観念を負っています。不思議なことに意識の外延性は、兄が妹にバナナを食べさせ、妹がおいしいと言って食べ、それを嬉しそうにみている兄がいるとき、そのふたりのありようを措定することはできません。意識の外延性という思考の慣性は血縁であるからと説明します。ぼくは存在は複論理だから、外延的な意識を内包化させ、有縁であると理解します。血縁関係にある兄弟だからというのは外延論理です。そして外延論理は贈与としてある生のすべてを可視化し、社会化することによって生を交換の過程へと参入させるのです。マルスクの思考の野生も、マルクスのどんな大才も交換過程に入った生を転換させることはできません。マルスクは精神の古代継承に起源をもつ貨幣という原・共同幻想を解くことはできなかったし、マルクスの価値形態論から示唆されてつくられた吉本隆明の言語の表現理論もあたらしい現実をつくることができませんでした。内面と外界という意識のあり方が外延表現に閉じられているからです。

ほんとうはマルクスは価値形態論をつぎのように考えればよかったのだと思います。人間は自然を粗視化することで生の恒常性を維持します。人間の生が自然との代謝関係にあることはだれもが認める事実です。どうであれ人間と自然の相互作用は人間にとって価値化される。三木成夫が『南と北の生物学』で書いている「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」を、マルクスのありえたかもしれない価値形態論のあいだにはさんでみます。人間は口から腸を経て肛門へとひらいている腔腸動物です。捕食行動に目玉と手足、効率的に狩りをするために脳みそが必要です。マルクスはアダム・スミスの古典経済学を批判的に継承していますが、なぜ貨幣を使用価値と交換価値に分離したのでしょうか。ぼくだったら使用価値の派生態として交換価値を考えます。使用価値は人間の自然にたいする代謝関係それ自体を意味します。交換価値は贈与的な価値が使用価値から分岐してできたのです。アダム・スミスは、果実を収穫するために要した時間が価値であるであると『諸国民の富』で書いています。労働価値説はなんの手続きもなくいきなり使用価値と交換価値へと分離されています。マルクスも大枠ではアダム・スミスの価値論を受け継いでいます。ぼくが不思議でならないのは、苦労して収穫した果実を傍らの人と一緒に分けて食べたらよかったのに、どうしてそうならなかったのかということです。「見えざる手の支配」で市場が調和されると考えたアダム・スミスもマルクスも存在はすでに引き裂かれていると認識していた。存在が複論理をなしていることにアダム・スミスやマルクスが気づいた気配はない。もし気づいていたら、交換ではなく贈与の可能性を探ったと思います。生を引き裂く力は意識の外延性の世界では必然です。それがこの世の条理です。下部構造が共同幻想なら、貨幣も共同幻想です。同一性という曲率ゼロの意識の平面ではそうなるしかありません。結局マルクスは下部構造という共同幻想で上部構造という共同幻想を批判したのです。だからマルクスの思想はイデオロギーにしかなりません。おなじように吉本隆明の芸術言語論は意識の起源が特異点をつくるように不可避にニヒリズムを招来します。国家の起源を解明しても国家から折り返すことができません。
マルクスは下部構造の共同幻想性を解明していません。貨幣はユヴァルの言うとおり最強の共同幻想です。人間が自然との代謝関係において依存する生の恒常性は使用価値でも交換価値でもなく贈与としてあったのだと思います。マルクスも吉本隆明も人間と自然の相関について意識の外延性以外のものを想像することができなかったのです。種族に特有の共同幻想という宗教が発祥する前に精神の古代形象のなかに身体性がすでに原・共同幻想として巻き込まれていたと考えます。「宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求める」のは宗教や国家より貨幣が身体性として古い起源をもっているからだと思います。貨幣は身体や食の延長態なのです。そしてこの身体性はユヴァルの「脊髄反射」を一瞬で実現します。社会が高度化するにつれて、ぼくの推測では氏族内婚制が氏族外婚制に拡大したときに、贈与的な生は貨幣の交換過程に遷移したはずです。交換をどういじろうと贈与になることはありません。意識は〔ふたり〕という場面で表現されたのだと思います。

存在をバイロジカルなものとして考えるときいちばん難しいのは、体験を振り返って言うのですが、外延的な意識と内包的な意識を往還させることだと思います。慣れてくると自在に行き来できるのですが、観念にとっての自然は外延的な意識がつくる思考の慣性の外になかなか出ることができません。キズは消毒するや、バランスのとれたカロリー制限食が真理であるとされているとき、科学知の外に出にくいこととおなじです。いったんその常識の外にでると、真理がなんであるのかよくみえます。意識の往還もおなじことです。意識は外延性と内包性を円環することで全円的なものになると考えています。〔世界〕とは〔性〕のことにほかならないのです。むろん、還相の性は対幻想とは違います。

最後に「脊髄反射」について少し書きます。未曾有を「みぞうあれ」と読んだ麻生太郎が、9月23日に朝鮮半島から難民が押し寄せる可能性について「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言したことを朝日デジタルの記事で知りました。国家は内面化を超えてメルトダウンしつつあります。たんなる精神の退行現象では説明がつきません。皆が一心不乱にスマホを見入ることと北朝鮮危機に便乗することはおなじことではないか。どうもそんな気がします。ああ、これは天皇制のグローバル化だと、つい思ってしまうのです。いまの時代の空気感にたいして言いようのない嫌悪感があります。もうそのことについて書くのが嫌になるほどに。ぼくは単純な戦前回帰では説明のつかないことが現にいま起こっているように感じます。トランプが北朝鮮危機を煽ることをビジネスチャンスとしているのか、啖呵の応酬が不測の事態を招くのか、ネットの記事からはうかがい知ることができません。安倍晋三がトランプの忠犬として米朝問題の当事者ではないにもかかわらず、もりかけからの逃げまくり解散を偽装するために、危機の現場に油を注いでいることは事実です。こういう状況の只中で、これからも公然と世界を構想していきたいと考えています。舌足らずですが、往復書簡第八信をお送りします。

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