日々愚案

進撃の内包3

51VjHfsa2tL 夏井さんの「新しい創傷治療の更新履歴」をわくわくしながら読んでいる。
 ついに近藤誠さんのがん理論を夏井睦さんがとりあげた。長年がん治療の弊害をしつこく説いてきた近藤理論について賛意と反論がともに掲載されて気持ちいい。こんなに面白い記事にお目にかかることはめったにない。
 そのなかで、夏井さんの2013/05/21 16:30の記事
http://www.wound-treatment.jp/title_new.htm)が本質をついていていちばんすっきりしている。

 近藤さんとは30年くらい前に福岡の小さな集まりで話を伺い、夜を徹して語り明かしたことがある。とにかくまじめな人だった。以来、かれの著作のすべてに目を通してきた。
 わたしの近藤理論にたいする疑義は二点に尽きる。

1 本物のがんと、がんもどきの分け方から転移を説明することができるのか。がんは老化という自然現象だから撲滅の対象にはならないというかれの意見は卓見だと思うが、わたしと免疫についての理解のちがいがあるように思う。立花隆の『がん 生と死の謎に挑む』にもおなじ感じをもつ。少しずつノートをとっているので、できあがったら公開する。

2 死についての思想がない。生の延長に死があると考えている。生物学的な死を論じことはできても、生きられる死はどこにもない。かれが善良な人であることはわかるが、表現としての死を描く器量がない。だから近藤さんが記述する死は冷やっとする。

 2の傾向はひとり近藤さんだけではなく大半のもの書きにみられる傾向である。一昨年の地震津波以降、原発事故について積極的に発言をしてきた京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんにも似た感じがある。立派な人にはちがいないけど、なにか大事なことを取り違えている。それはかれらが役割人間としての発言をしているからだと思う。専門家としての発言は、業界人間としての断片化された知識からの発言ということであり、生きることがどんな専門知よりはるかに広大で深淵であるという自明を逸脱している。

 生きることをどれだけ細分化しても生きているということの本態にはとどかない。ましてその微分の果てに死があるということではなおさらない。この錯覚をもたらすものを機能的言説と呼んでみる。機能的言説に席巻されてしまった世界に圧倒される。
 ホロビン『天才と分裂病の進化論』、ミズン『心の先史時代』、デネット『解明される意識』、ドーキンス『神は妄想である』の著作を読んでもおなじ印象がある。なんと遺伝子の突然変異が現生人類の意識を生じさせたという。DNAという化学物質の延長に意識が発生したというわけだ。これほど安易な理屈はない。
 グローバル経済の動向を論じる論調でも、大阪市長・橋本のアホな慰安婦発言でも、それを批判する人権派の論調でも、みなおなじ。そこにあるのは道路交通法の記述と似た息づかいではないか。

 こういう風潮は明晰をもって任ずる分析哲学の領域でも起きている。

本書は、心的なものを何らかの意味で物的なものとして理解しようとする物的一元論の可能性を探りたいと思う。心的なものを物的なものとして理解するということは、心的なものを何らかの仕方で動的世界に定位するということ、動的世界のうちに心的なものの適当な居場所を見い出してやることである。つまり、心的なものを超自然的なものとしてではなく、物的世界に生起する自然現象として理解するということである。物的一元論はこのような心の自然化を目指す」(信原幸弘『心の現代哲学』)

 なにかプラグマティックな実用言語一色で、かなり息苦しい。どの領域でも自然の延長に意識の発生を見る自然生成論の立場をとっている。なんなら人権論を敷衍すればよい世の中になると愚見を主張してもいい。強者の上から目線が暴露されるだけだ。
 なぜこのように平板な思考が世の中を蹂躙しているのか。それは観念が現実に侵食され表現の余韻をつくれなくなっているからだと思う。

 そういうときハッとする言葉に出会った。

父が亡くなる4、5日前のことでした。父の病室に入ると、その日は興奮気味らしく、父は手をミトンで拘束され、目を見開いたまま、何やらうめいていました。「ヤレヤレ」と思いつつ、私は洗濯物などを回収しながら「早くうちに帰って来てね。シーちゃんもさびしがってるよ」と言うと、父は大きな声で振り絞るように「◯×△□※!」と叫びました。入れ歯が入っていないので聞き取れず、「え?   何だね?」と聞き返すと、父は再び「◯×△□※!」と、同じ言葉を叫びました。気にかかっていたものの、それっきりそのことは忘れていました。父が亡くなって2週間ほどたった頃です。父の祭壇の前で猫たちと一緒にグダグダとうたた寝していた時、いきなり殴られたように「ガツン!」と、あの時の言葉と、その意味が降ってきました。それは『どこだって同じだよ!』でした。……中略……病院ではなく家で死ぬためには―などと、そろそろ自分の身がアブナクなってきた「団塊の世代」が言い出した昨今の生ぬるい風潮に、父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました。(「連れてっちゃったよ」ハルノ宵子 『猫びより』7月号)

 ここを読んだとき、あっと思った。なぜどこだって同じなのか? まちがいなく還相の知を吉本隆明さんは生きた。自己表出100パーセントの言語化不能の地平に正定聚の世界があるといったのではないかと思う。なによりかれがそこを生きて見せたことがうれしかった。(つづく)

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