日々愚案

歩く浄土180:交換の外延性と内包的な贈与11:吉本隆明の贈与論1

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〔と共に〕という感覚は、一人称でも二人称でも三人称でもなく、言葉が言葉自身を生き始めることに似ているとずっと思ってきた。だから根源の二人称は生の知覚であると共に、と共にという言葉のことでもある。言葉は生の知覚と共に生きられている。このとき生の知覚と言葉は不即不離である。内包というリアルは、そのなかにいてそこを生きるだけで、俯瞰することも観察することもできない。だからわたしの理解では民主主義や憲法は内包的な自然へと過ぎ越す過渡的な理念であるということになる。民主主義や憲法は内包的な自然の下で喩としての内包的な親族へ、交換は内包的な贈与へと拡張できる。

辺見庸がこの春以降の状況についてどう考えているか知りたくなり、ググってみたら「辺見庸私事片々」は空っぽでなにもない。偶然ログを目にした。辺見庸は状況を呪詛する。気分はわかる。

北朝鮮への爆撃、侵攻にふたたびつよく反対する

大別すれば、おそらく3つほどの観点がある。ひとつは、為政者的観点。ふたつめは、いわゆる市民主義的なみかた。みっつめは、ごく個人的なかんがえかたである。わたしはこれらのうち、第3番目にぞくするだろう。第1の観点は第2のそれと容易に結合することがしばしばである。どころか、必然的にそうなる。つまり、もっとも悪しき意味あいで、第1と第2はかんたんに政治化する。(「私事片々」番外編2017年04月30日)

辺見庸が指摘することはわが身をなぞるようによく理解できる。民主主義が機能不全に陥ると、市民主義たちは天皇親政へとだしぬけに移行する。表現としてはとても卑しい行為である。アベシンゾウ的なものが相対的な悪であり、反安倍が相対的な善であるという立場は仮構された虚偽である。相対的な善は相対的な悪にいつでも転化できる。それが悪の凡庸さである。なぜ凡庸な悪はいつも生き延びるのか。なぜ悪の陳腐さはなくならないのか。倫理ではなく思想として解決できる。人間を社会的な存在とみなし、その社会的な存在を調律する理念に支配されるとき、善と悪はいつでも交換可能である。それがわたしたちの知るモダンな人類史である。ひとは社会的な存在ではなく内包的な存在であるということを生の原理にするとき、悪の凡庸さは存在する余地をなくす。生の原像を還相の性として生きるときおのずからなる生のなかに倫理は存在しない。

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ネットに市川海老蔵の奥さんが、がんでなくなったという記事がおおくあり、近藤誠さんの意見を知りたいと思い、スマホで検索し、かれの意見を読んだ。近藤さんとはずいぶんむかしに夜が明けるまで話をしたことがあったし、かれの出す本はほとんど読んできた。本物のがんとがんもどだ。がんもどきは死に至ることがないのでつらい症状が出たときに対症的に治療し、放置するのが最善であるという考えだ。本当のがんであれば発見されたときすでに他臓器に転移しているから、原発がんを三大治療で治療しても、いずれ転移が他臓器に出るからこの場合も放置し、危急のときに対症療法を施すのがいいと主張している。がん医療のメインストリームからは猛烈なバッシングが浴びせられる。これも既知の光景だ。腫瘍内科医と近藤誠の放置療法のあいだをとる、どっちつかずのいいとこ取りの訪問医もいて、事態をややこしくしている。医療のこの風景はずっとなにも変わらない。最近では幹細胞のレベルでも論じられる。たとえがんもどきのように進行が比較的ゆっくりしたもので転移をしていなくても、悪性度が増し急速に悪化するがんもある。近藤誠も中間期のがんというものがあることを認めている。市川海老蔵が奥さんのがんをメディアに公表したとき、近藤誠は市川海老蔵の奥さんの場合はそうではないかと考えていると公的に発言していた。一万人以上の乳がんの患者を診てきてマンモグラフィーで発見されたもののうち99%はがんもどきであると述べている。がん治療の既得権益層の言い分は、初期の小さながんでも急速に悪化することがある。だからがんの早期発見・早期治療が必要なのだと検診と早期発見・早期治療を強く勧める。幹細胞のレベルにほんもののがんとがんもどき理論が適用される。幹細胞レベルで本物のがんであればどんなに小さながんであっても発見されたときにすでに他臓器にがんは転移しているので治療は無効であると近藤誠は自説をゆずらない。ガイドラインに基づく三大治療を成している者たちは正しいとされていることが正しい治療であるとしか認識していない。既存のがん治療の是非をかれらが本格的に問うことはない。それほどわたしたちの生はいい加減で安っぽいものなのだ。赤の他人である医者に命を丸投げして、あげくはお世話になりましたとなる。

これはいったいどういうことかとスマホの記事を見ながら考えていたとき片山恭一さんのツイートを目にした。「『手前勝手にデータをねじ曲げる』『有効と断定する』『対談から逃げる』。安倍晋三さんのことではなくて、がん検診を宣伝するお医者さんたちのこと。(近藤誠『健康診断は受けてはならない』)安部政権のデタラメさと医学界のデタラメさは非常によく似ています」「つまりぼくたち一人ひとりが検診、病院、薬、病気などとの付き合い方を変えないかぎり、アベシンゾウ的なものは改まらないということですね。選挙の投票先を考える前に、自分自身の命に直接かかわるところから現状を変えていきたいものです」(2017年6月26日)深く共感する。

本物のがんとがんもどきは近藤誠の膨大な臨床体験から帰納法的に推論された仮説だが、がん治療にたいして一人で警告を発し続けている態度は驚嘆に値する。かれの手にした信がそれほど確乎としているということだ。メインストリームのがん治療を推進する側からがん放置療法はオカルト治療ではないかという批判が、がんの肝細胞レベルにまで遡及される。幹細胞のレベルで本物のがんであれば早期に発見しても他臓器に転移して死の転帰をとると近藤誠は言う。かれは機能主義的な合理精神の持ち主だから、いまはやりの幹細胞に着目して癌を定義し直す。そこには癌は老化という自然現象だから撲滅の対象ではなく、受容するしかないというかれの根本の考えが前提としてある。強い説得力を持っているようにみえる。近藤誠によって生物学的な死が合理として述べられている。近藤誠が開示する医学の世界は新しいテクニカル・ワードで自分の考えを精緻化したものだと思う。いまはやりの再生医療の分野で先頭を走っている山中伸弥の考えにこっそりすり寄る。一言で反論できる。幹細胞といえども真核細胞ではないかと問われたらどうする。ビッグ・サイエンスという壮大な装いをしているだけで、じつに退屈な風景だ。煩雑な実験プロトコルや業界用語が耳慣れないので精密科学のようにみえるだけで、観念の抽象のレベルは算数のレベルだといってよい。もっと言うとかれの発想は科学に特有の典型的なニヒリズムによってつくられている。かれの物言いは、冷やっとする。生きられる死がどこにもない。かれは次のように言う。

がん細胞はウイルスでもインベーダーでもなく、「身内」です。タバコ、大気汚染、農薬、放射線などの発がん物質によって遺伝子が傷つき、自分自身の正常細胞が少し変異して、がん細胞が生まれます。がんは、「臓器転移のある本物のがん」か「転移のないがんもどき」の2つに1つです。「本物」と「もどき」は、細胞を顕微鏡で見ても瓜二つ。しかし、顔がそっくりで見分けがつかない「ワル」と「いい人」がいるように、まったく性質が違います。 話題のiPS細胞と同様に、無限に自己をコピーし、異種の細胞も作りながら増え続ける性質を持つ「がん幹細胞」が、次々に見つかっています。「iPS細胞とがん細胞は、表裏」と、開発者の山中伸弥・京都大学教授自身が語っています。「本物」か「もどき」かは、幹細胞によって決まります。幹細胞は、組織のおおもとになって性質を決める細胞。がん細胞が生まれた瞬間に、そのがんの性質が、決まっているわけです。だから、本物のがんは、いわゆる「早期発見」でいくら切り取っても、モグラたたきのように再発する。(『「がんもどき」で早死にする人、「本物のがん」で長生きする人』)

わたしは病は身体と心の接触面で生じると考えている。病を表現と考えるとひとはがんにもなることができると言うことだ。心身に負荷されたストレスが閾値を超えると病になるがそれは生の表現でもある。身体は間違わないという根本思想を医学のど真ん中に据えた安保徹は意識することもなくがんを表現としてとらえている。以前片山さんとの緊急討議で話したことだが、そのあたりをかんたんに取りあげる。病について、民主主義について、憲法について、内包的な贈与について、表現の核心が討論された。安保徹は近藤誠と質感の違う医学知に触っている。なにかが決定的に違う。

世の中、医療界だけでなく「専門家」が氾濫しています。「専門家に任せる」という精神は、自分の主体性を放棄した生き方に繋がります。究極には「お国のために死ぬ」といったことにも到達してしまう、それこそ怖い思想なのです。専門家というのは、「そのことしか知らない業界人」です。森を見ず、木の枝葉ばかりにやたら詳しいだけの人種。医師だって同じです。あなたの大事な生命を、たかが医療界の業界人に全権委譲して、身も心も委ねる愚かさ―。そろそろ本気で気がついてもいいころではないでしょうか。言い換えれば、あなたのことを丸ごと知っている人は、この世の中にあなた以外にいないのです。つまりは、あなたの専門家はあなた自身なのです。そのことを、常に忘れずにいてほしいと思います。(『長生き免疫学』)

いったいだれかこんなことを言ったか。安保徹ただ一人だった。業界の断片的な知になぜあなたの命を委ねるのか。そのことを安保さんと話をしたことはないが、総表現者の内包知について語られているようにみえる。何度かお会いして話をしただけだが、免疫学についての自身が発見した知見とその肉付けには圧倒的な存在感があった。比類のない医学知が表現されていることを直観した。

ストレスの危機を乗り越えるための条件として、体は「低体温・低酸素・高血糖」の状態をつくるのです。この状態は解糖系にとっての最高の条件です。その「低体温・低酸素・高血糖」 の条件の下で、それまでミトコンドリアの影響下でやっと分裂しているような世界を解除して、どんどん分裂できるようになったのががん細胞の世界です。ですから、がんは解糖系の細胞としては最高なのです。「分裂抑制遺伝子の解除」という遺伝子変異が起こるので、「がんは遺伝子病」などともいわれますが、この変異自体が異常なのではなく、適応現象なのです。それは、危機に対処するために、ミトコンドリアによる抑制を解除して、二十億年前の本当の先祖に近づけたということなのです。ですから、がんが悪いというよりも、むしろ、がん細胞をつくるような適応現象に追い込んだ、その原因である生活習慣に問題があるのです。(『やはり、「免疫力」だ』)

三木成夫は、「奇形」を太古の面影だという。三歳児の遠い眼差しに人類の桃源郷を感得するように安保徹の医学の言葉には温もりがある。医学もまた一つの制度であるかぎり、閉じた信の体系から免れることはない。冷たい合理のニヒリズムのなかにあってかれの思考の断片化の批判には横着さや傲慢さがなくおおらかで、解剖学で詩を書いた三木成夫によく似ている。病という現象について安保徹は免疫学の言葉で詩を書いた。

ガンになるということも含め、それは生命の働きの一つです。表面的な善悪の観念をとりはらえば、ガンもまた体の知恵であることがわかってきます。ガンはストレスによって低酸素・低体温の状態が日常化したとき、体の細胞ががん化してうまれるものです。ガンは自分の体に悪さをする存在ではなく、生きにくい状況のなかで適応しようとする体の知恵そのものです。低酸素・低体温の状態に適応し、最大限のエネルギーを発揮する存在といってもいいかもしれません。ミトコンドリアを持っているのは、細胞内に核を持った真核生物(動物、植物、菌類など)だけ。核を持っていない細胞のような原核生物の多くは酸素を必要とせず、分裂だけ、つまり解糖系だけで増殖をくり返します。その意味では、細胞がガン化するということは、低酸素・低体温でも適応できる原核細胞への先祖返りということもできるでしょう。(『人が病気になるたった二つの原因』講談社)

彼の根本思想は一言で言える。身体は間違わないと安保徹は考える。かれの言っていることは、ここに尽きる。われわれの身体の調節は基本になればなるほど単純化しており、この単純な系の特徴は病のほとんどを網羅できることにある。35億年の歴史を刻み進化してきた人間や生物は遺伝子を含めて滅多なことでは間違いを起こさない。こういう考えが彼の免疫学の根底にある。さらに近年の安保さんは、ミトコンドリア系と解糖系という概念を導入して、癌の本態に迫ろうとしていた。解糖系というのは、およそ三十八億年前、まだ酸素のない状態だった地球上の生物が、無酸素状態で糖(グルコース)を分解してエネルギーをつくり出す仕組みであると安保徹は言う。やがて光合成細菌が生まれ、大気中に酸素を放出するようになると、酸素のない状態で生きてきた生物は生きづらくなり、一方、進化の過程で、それまで生物にとっては猛毒であった酸素を効率よく使ってエネルギーをつくる、ミトコンドリア生命体が生まれた。ニック・レーンの『ミトコンドリアが進化を決めた』やリン・マーグリスの『性の起源』を安保徹はよく読み込んでいる。このミトコンドリア生命体が、解糖系の反応のなかで老廃物として産出される乳酸を求めて、解糖系生命体に寄生する。ミトコンドリアは寄生した相手がどんどん分裂しないように、分裂抑制遺伝子を持ち込んだ。これは「癌抑制遺伝子」といわれる遺伝子と同じものだと安保徹は考えた。無酸素状態で分裂する解糖系生命体の分裂を抑えることによって、寄生は成功する。つまりミトコンドリアは解糖系から乳酸をもらい、解糖系生命体はミトコンドリアが大量につくるエネルギー(ATP=アデノシン三リン酸)をもらうという寄生関係が成立することになる。われわれの先祖である生命体は、酸素を嫌う古い先祖細胞(解糖系生命体)に、分裂を嫌い酸素が大好きなミトコンドリア生命体が合体して生まれた。二つの生命体の共生によって真核細胞(細胞内に核をもつ)として、人間を含めた生物の新しい祖先になった。リン・マーグリスがネイチャー誌に投稿した生命共生説の論文は生物学の常識に反するとして十数回突き返されたが、いまは初歩的な生物学の常識になっている。この共生が出現したのは約二十億年前のことと言われている。さらに進化の過程で多細胞化が起こったとき、二種類の相反する細胞は、ミトコンドリアを多めに持っていて分裂しない細胞と、ミトコンドリアを少なめにして分裂する細胞という、二種類の細胞を準備することによって新しい生命が誕生することになった。壮大な物語が生物学によって描かれている。安保徹によると低体温・低酸素・高血糖は、いずれもミトコンドリアにとっては不利な状況であり、こうした状態が長くつづくと、ミトコンドリアが持ち込んだ分裂抑制遺伝子が解除され、本来ならミトコンドリアの影響下でコントロールされ、正常に分裂したはずの細胞が過剰に分裂するようになる。これが癌細胞である。つまり癌は発癌物質による遺伝子の多段階異変(失敗)によって生まれるのではなく、解糖系が刺激されることによって起こる。日常のストレスなどから低体温・低酸素・高血糖状態が長くつづくと、危機に対処するため生体は解糖系の細胞を活性化させようとする。それががんであると安保徹は考えた。『緊急討議』(Hot Jam)第六回「生きられる死」)から一部を貼りつける。

ここには癌を悪とみなす思考のかけらもありません。あなたが無理をしたから、身体は生き延びようとして原核細胞に先祖返りしただけなんだ、と安保さんは言います。じつにおおらかな考えです。こういうことを言った人は他にいません。その意味で安保さんは、近代のみならす現代をも無意識に超えていると思います。
ぼくの理解では、安保さんと近藤さんの臨床についての対処の仕方はそれほど変わりません。無用の検査と濃厚医療は避けた方がいいし、苦痛が生じればその時点で対症療法をやればいいとなります。ほとんど同じです。では何が違うのでしょうか。ぼくは相当違うという気がします。生に触るときの触り方と接し方が違います。近藤さんの理論は遺伝子決定論になり論理が冷たいのです。治るとはどういうことかについての理解が異なるような気がします。

彼の医学思想の比類を絶したところだと思います。つまり医学思想によって医学を解体している。医学という信の共同体を解体している。医学や医療もまた閉じた信の体系であるわけですが、その中心的な教義は、「病気は悪である」ということです。だから治療をして取り除く。あなたの身体に癌という悪が発生しました。除去しましょう。いまの医学がもっている対症療法の考え方です。そこには近代由来の大きな観念の動きが前提とされています。犯罪は悪である、だから隔離する。病気は悪だから、治療によって除去する。隔離し、除去する。まったく同じ論理です。いまの社会そのものでしょう。ここを疑ったのは安保さん一人です。悪は除去してしかるべきという理念に乗っていないのは、安保さん一人ですよ。たぶん無意識だと思うんですけれど、現代医学の枠を完全に超えている。現代の現代性を無意識に超えている。
これまでにもフーコーの」生権力」という考え方に何度か触れてきました。いまの文脈でいうと、悪を除去し隔離する、それが現代社会の通念として、身体を貫く生権力として、ぼくたちの生を覆い尽くしています。医学もその一つです。医学という名の生権力によって、ぼくたち一人一人の生の固有性が奪われる。医療という現場では誰もが一つの症例として治療の対象になる。そして医者は専門家として、生権力を行使する者として立ち現れる。無残なまでに収奪された、ぼくたち一人一人の生の固有性は、どうやれば復元できるのでしょうか。簡単です。自分の生き死には自分で決めればいいのです。そのために「生きられる死」の場所が必要です。直感として、安保さんの病因論には「生きられる死」という思想がうねっているように見えます。安保さんの死には「生きられる死」があり、近藤さんの考えには生の果ての死しかありません。この違いは決定的だと思われます。安保さんが「癌は自分で治せる」と言うとき、病を背負った者一人一人の死の場所を無意識に暗示しているように見えるのです。

オプジーボという免疫治療薬の評価について安保さんの考えを知ろうとして安保徹を検索したら、突然、亡くなっていることが記事になっていてびっくりした。ほんの少し前に安保さんから『安保徹/研究業績と経歴』が送ってきた。封書が同封され、そこにはおおよそ次のようなことが書き添えられていた。御二人の対談を読み、久々の感動、感激です。ありがとうございます。うれしいです。研究を深めるために努力しています。この手紙にはいきさつがある。そのやりとりをすこし。突然安保さんから携帯に電話があり「まだ生きてますか」「ええおかげさまで」「ぼくの考えについて褒めて書いた本があると聞いたのですが、森崎さんが書いたのですか」「作家の片山さんとの対談のなかで触れました」「それどうやれば手に入りますか」「手元にあるので送ります」。

送られてきた紀要の付箋の貼られていたところを貼りつける。

 今は情報化時代で大量の論文がつくられ、どの論文が大事でどの論文がつまらないのか、ひとりひとりには判定が困難になっている。100年くらいの歴史を経て、私たちの発見した古い免疫システム(つまり、自己応答性のextrathymicTcellsと自己抗体産生B-1細胞の同時活性化)の重要性がわかると思う。

 私たち人間は真核生物で、20億年ほど前の地球で解糖系生命体にミトコンドリア生命体が合体してできた新しい生命体である。解糖系生命体は無酸素の地球で生き続けていたのであるが、その先祖はメタン生成古細菌だったのではないかと考えられている。一方のミトコンドリア生命体の先祖はα(アルファ)プロデオバクテリアではないかと考えられている。その後、ミトコンドリアを得た新しい生命体は豊富なエネルギーを使って、多細胞化や進化の道を歩み始めた。真核生物に対応する言葉は原核生物で、今の細菌類である。一方、真核生物にはいまだ菌類のままのものも存在する。それが真菌類で、カビ、酵母、キノコがこれに属している。私たちの進化の流れにつながる原生動物(アメーバなど)が単細胞生物である。ここから多細胞化が起こって、腔腸動物などから始まって節足動物や脊椎動物への道がある。

 動物と植物はずい分異なる生き物のように見えるが、その違いは光合成をする細胞内小器官である葉緑体(光合成細菌が寄生)がないかあるかである。光合成で糖を自前でつくることのできない動物は、植物などをエサにすることで生きている。エサを求めて動き回る必要がある。一方、葉緑体の働きで自前で糖をつくれる植物は地中に根を張って水分を得ることで十分である。しかし、動物と植物の共通点もある。共にミトコンドリアを保有しているということである。このため、動物と植物はかなりの部分同じ法則に従って生きている。
 最近、そのことに気づいたので表をつくった。この表に従って説明を加えてゆく。まずミトコンドリアの活性化が、太陽光の紫外線を介して起こることから共通の性質が生まれる。ミトコンドリア系のエネルギー生成はクエン酸回路で取り出した水素(H)分子をプロトン(H+)と電子(-)に分離させるが、ここに太陽光の主要な電磁波である紫外線が使われるからである。ミトコンドリアの働きは分裂抑制作用である(分裂抑制遺伝子)。従って、太陽の光をたくさん浴びた動物は背が低くがっしりするし、植物なら茎を太くして丈夫になる。一方、太陽光の少ない場合は、動物なら背が伸びるし(北の人)、植物なら上に伸びる。もやしや白アスパラがその典型である。 太陽光の次に動植物に影響を与えるのがカリウムである。通常のカリウム(K39)の中には0.012%のレベルで中性子の1個多いカリウム(K40)が存在する。1個多い中性子は不安定なので陽子と電子に分かれこの時ガンマ線などの放射線を放出して安定したカルシウム(Ca40)に変換している。

雄大な医学知を発信しつづけた安保さんはもういない。がんという病を悪と考えるのではなく、ストレスの負荷によって生命体が生き延びようと先祖返りして適応したものが、解糖系の原核細胞だった。送られてきた紀要のなかでも古い免疫系という言い方をたびたびしている。イメージとして言うと安保徹の古い免疫系という理念が内包論の内包存在に対応する。古い免疫系・新しい免疫系と自然免疫・獲得免疫はまったく概念のレベルが違う。免疫学のメインストリームである自然免疫と獲得免疫という論文のレベルでは安保徹の古い免疫系という概念に触れることは先験的にできない。それほど理念の抽象性が違う。内包論になぞらえると同一性的な思考で内包存在に論究することができないのとおなじだと思う。この紀要のなかでがんになることを「お懐かしゅうございます」と書いている。だれがこんなことを言いうるか。そのかれはもういない。ニック・レーンは最新の著作『生命、エネルギー、進化』のなかで、原核細胞から真核細胞が誕生するシナリオが、この惑星の深海のアルカリ熱水孔で、40億年の進化の歴史のなかで一度だけ起こったと言っている。もういちど不思議なことが、ある霊長類に起こった。生が根源において二人であるという内包的な意識の表現だ。生の基底にある性によってヒトは人となった。そこに変わるだけ変わって変わることのない同一性の起源がある。(この稿つづく)

〔付記〕ドクター江部の糖尿病徒然日記から

肺癌患者におけるケトン食の有用性と安全性についての検討
江部康二

2015年11月04日 (水)

おはようございます。
2015年10月29日から31日に京都(国立京都国際会館)で行われた第53回日本癌治療学会学術州会において、29日木曜日に、「肺癌患者におけるケトン食の有用性と安全性についての検討」と題して、大阪大学大学院医学系研究科漢方医学寄附講座、萩原圭祐教授らの発表がありました。

本ブログにおいても、2013年に何回か、「非小細胞肺がんⅣ期の患者さんとケトン食、臨床研究のお知らせ」と題して、大阪大学漢方医学寄附講座における研究開始のことを記事にしました。

研究に参加された5症例いずれも、ケトン食同意のインフォームド・コンセント時は、肺腺癌Ⅳ期でした。
以下は2015年10月29日の癌学会での発表時点でのデータです。
2013年2月から研究開始です。

症例1は、化学療法、放射線治療、手術あり。
ケトン食開始1年後寛解。開始後974日生存で、ケトン食継続中。

症例2は、ケトン食への同意をその後撤回、治療なし。当初同意日602日後死亡。
症例3は、化学療法あり。ケトン食開始3ヶ月後がん胸膜播種あり。
その後がん胸膜病変はあるが、792日後も生存で、ケトン食継続中。

症例4は、化学療法、放射線治療、手術あり。
ケトン食開始1年後寛解。開始後617日生存で、ケトン食継続中。

症例5は、化学療法、放射線治療、手術あり。
ケトン食開始を同意するも、その後不参加。当初同意日172日後に死亡。

肺がんⅣ期の症例で、ケトン食を導入して症例1と症例4は、1年後に寛解して、その後も経過良好で、それぞれ974日間生存中、617日間生存中で、ケトン食を継続中です。
症例3は、がん胸膜播種がありますが、792日後も生存で、ケトン食継続中です。
症例2と症例5はケトン食を継続せずにいずれも死亡されています。

症例が少ないので、断定的なことは言えませんが、2例は寛解(がんが消えること)して、Ⅳ期と診断後974日間、617日間の比較的長期の生存ですから、ケトン食には肺癌Ⅳ期の患者さんに対して、一定の延命効果がある可能性が示されたと思います。
Ⅳ期肺癌の生存中央値が、8~10ヶ月ですので、ケトン食継続中の3名の、32ヶ月、26ヶ月、20ヶ月というのは、なかなかの数字と思います。

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