日々愚案

歩く浄土175:情況論62-外延知と内包知11:〔ことば〕と〔還相の性〕2/戦後70年の総敗北はどこから来たか

    1

2017年6月初旬。安倍晋三の私議による国家の私物化が止まらない。安倍晋三とその取り巻きが国家の中枢を牛耳り私欲の悪政をなしている。これは安倍による国政のクーデターでありテロ行為である。安倍の挙動が共謀罪の対象そのものではないか。安倍を忖度するあたらしい事実が出てきても頬被りしてやり過ごす。暖簾に腕押し。居直りが常道となる。安倍の公義は私議である。道理がないから無道となり非道がまかり通る。金正恩とトランプと安倍晋三はカルトな三兄弟だといえる。グローバルな世界システムのなかでばらばらになった国家が行方をうしない、つぎつぎに内面化すする。国家の内面化が臨界を越えると国家は私性へと融解する。それがいまわたしたちが目の当たりにしていることだ。東アジアが中東化するのではないかという暗い予感が走る。世界は未知と遭遇している。世界史の未知を内包論でつつみひらいていきたいと思う。

安倍晋三が恋々として地位にしがみつく。無様・醜悪、どう形容されても保身をさらす。頭が弱いからなにを言われても印象操作と言って言い逃れる。いっときでも長く首相として威張り散らしたい。そのほかにこの男にはなにもない。公共の義のかけらもない安倍晋三がなぜ私性で生き延びられるのか。悪の見本のような安倍晋三にたいして個々の国民が憤激する。安倍の顔を見るだけで吐き気がする。このときある錯認が自己と共同性のなかで起きる。衆生は善であり、権力者は悪であるという信憑が意識せずに前提とされる。この擬制が結果として安倍を延命させているのだ。一日も早く退陣してほしいということはわたしも人後に落ちない。安倍と人びととの関係は村上春樹の社会小説と愛読者の関係とまったく同型だ。おわかりでしょうか、一人ひとりの存在のありようが安倍晋三や村上春樹を支えているということが。品格のかけらもない人品卑しい安倍晋三がのうのうとしていられる異常な事態。戦後70年の擬制の総敗北の象徴として安倍晋三が君臨しているということに。人間の個的な生存を社会的な存在とみなすかぎり個人は共同幻想といつもつるむものである。それが人類史であるとこれまで主張してきた。小さな善をいくら積み増しても善なる世界は生まれない。悪を指弾する側は意識することもなく善の立場を仮構している。この擬制が安倍的なものを生き延びさせている。相対的な善と相対的な悪の相克という世界認識の虚偽。戦後の70年が総敗北したことの気づきはない。総敗北なんだよ。安倍晋三をあげつらう反安倍の文化人も安倍とおなじだけ腐敗している。知識人と大衆という権力による生の分割支配を前提として語られる啓蒙の卑しさ。政府になにかを言いうるという立場そのものが虚構である。その虚構のうえで安倍晋三が国民を睥睨する。戦後の70年の擬制の総敗北としてこの異様な事態があらわれているということ。その象徴が安倍という邪悪だとわたしは思っている。擬制に自覚的になることからしかなにごとも始まらない。

西欧近代に発祥し、その後世界に敷衍された自由や平等の理念がある。人類史を画する観念の大革命だったと思う。私的に生存する人びとの生に自由と平等が付与され、人と人は友愛によってつながると夢想された。この理念を人権と呼ぶことにすると、人びとの生は人権によって根拠づけられてきた。国民主権も普通選挙法も思想・信条の自由もすべてこの理念の影響ぬきには実現できなかった。むろん生存権も基本的人権も。いまこれらの理念の延長上に世界のイメージを描くことはできない。人は生まれながらにして自由で平等であるということを考えてみる。この理念が世界の無言の条理をなぞったものでしかないということがグローバリゼーションの猛威に煽られるなかではっきりしてきた。自由と平等と博愛は適者生存を前提として成り立っている。なぜ人は生まれながらにして平等かということを人権の理念は説明できない。おなじように天皇はなぜ尊いのかということを民主主義は説明できない。わたしたちの個的な生存を社会的な存在とするかぎり、この理念のなかには生活の知恵が凝集されている。むろん民主主義が人間の歴史がつくったもっともすぐれた理念であることを内包論も前提にしている。民主主義にはいくつかの特性がある。民主主義は独裁とも天皇親政とも矛盾なく並存しうる。強いものが勝ち、弱者はそのおこぼれに預かるシステムでもある。圧倒的な邪悪が躍りでると苦もなく呑み込まれてしまい、余儀なさとして悪に荷担する。「戦争がおわってからも、血は流れつづけている。人種差別、帝国主義、搾取は依然として情け容赦ない。諸国民は、人間たちは憎悪と侮蔑にさらされ、悲惨と破壊を恐れている。けれども、この犠牲者たちは、少なくともその虚ろな眼をどこに向ければいいのかは心得ているし、荒涼とした彼らの居場所も世界に属していることに変わりない。万人の認める意見が、異論の余地のないかずかずの制度が、そして〈正義〉なるものが蘇っている。さまざまな言説のなかで、文書のなかで、学校のなかで、善はいかなる条件のもとでもつねに〈善〉であるものと合体し、悪はいついかなるときにも〈悪〉であるものと化す。暴力があえてその名を明かすことはもはやない。これに対して、一九四〇年から一九四五年までの時期にあって他に例を見なかったこと、それは遺棄であった。いつもひとはひとりで死に、不幸な者 たちはいたるところで絶望していた。たったひとりの者たちと絶望した者たちのあいだにあって、不正の犠牲者たちはいつでもどこでも、もっとも悲嘆にくれ、もっとも孤独な者たちだった。しかし、ヒトラーの勝利―そこでは〈悪〉の優越はあまりにも確固たるもので、悪は嘘を必要としないほどだったのだが―によって揺るがされた世界のうちで死んでいった犠牲者たちの孤独がおわかりだろうか。善悪をめぐる優柔不断な判断が主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださ ないような時代、いかなる兆しも外部から訪れることのない時代にあって、自分は〈正義〉と同時に死ぬのだなと観念した者たちの孤独がおわかりだろうか」(『固有名』所収「無名/旗なき名誉」合田正人訳)

レヴィナスが「おわかりだろうか」ということがよくわかる。りくつではない。わたしの生存感覚だ。レヴィナスは悪が猖獗を極めた時期を「一九四〇年から一九四五年」と言っているが、もっと長い時期をわたしはまったくの孤絶のうちに悪戦を重ねた。百億の夜が過ぎた。援軍を頼まず一人で事態を引きうけた。出来事は残骸のように遺棄され忘却され、ほとぼりが醒めると傍観者がなにごともなかったかのように凡庸な正義を語る。この繰りかえしだ。個人と社会は密通している。それが人類史だといっていいい。アーレントの悪の凡庸さを市民主義の凡庸な善がつかむことはできない。社会的な倫理として語ることは可能だ。そこで語られる悪と対立する善は、あのときあの状況のなかで生き延びようとすれば、あったことを知らないふりをしてやり過ごすしかなかったとしていつも免責される。吉本さん、おわかりですか。市民主義を愛好しようと嫌悪しようとおなじだということが。わたしたちが知っている思想はその程度のものだ。
生存に建前として自由と平等が付与されるが、民主主義が善と悪を定義することはできない。民主主義が平等と自由と博愛を定義することはできない。人はなぜ生まれながらにして自由で平等であるのかじぶんの言葉で言ってみよ。空気のように自由と平等があるのではない。なにか根源からのうながしとして自由や平等はあるのだが、その根源を民主主義の理念は定義できない。おなじようになぜ天皇が尊崇の対象になるのか、じぶんの言葉でいってみよ。皆がそう言うから、そう言われているからそうであると言うことにしかできないだろう。自由も平等もとても脆い理念だと思う。状況がきつくなれば、きつさにあわせて無理のない生存のありようのなかに自由と平等は押し込められる。そのとき生を分割統治する理性はそれを自由と平等と呼ぶ。同一性的な生のありようのなかで悪の凡庸さはブラックホールとして存在する。
民主主義の理念を拡張しないかぎり、凡庸な悪と凡庸な善の相克が偽装されるだけだ。つまり自由と平等の根拠が理念によって隠蔽される。凡庸な悪はデモクラシーの理念では歯が立たない内省としてありつづけるだろう。この意識の呼吸法で凡庸な悪は内心の咎であることはできても悪そのものがなくなることはない。いつでもわたしたちの生の傍らに不即不離のものとして悪の凡庸さがある。善と悪は顔つきがちがうようにみえるが、おなじ顔の二様のあらわれにすぎないとわたしは考えている。だから悪の凡庸さを凡庸な善の倫理で解くことはできない。ただ存在論の拡張だけが凡庸な悪を消滅することができる。存在する余地のないものを存在すると知覚することはできないからだ。

    2

このところ総表現者という耳慣れない言葉を使っている。猖獗を極めた日中-太平洋戦争の大災禍が無条件降伏で撃ち方止めとなり、一億総玉砕は一億総民主主義となった。この過程のどこにも人びと意志は関与していない。すべては知識人と大衆という権力による生の分割統治として布告された。その擬制のうちに戦後は復興する。内心の咎としてあった惨禍への内省はしだいに薄れ残骸のように遺棄され過去の歴史となり、擬制の亀裂から邪悪が躍りでてきた。それが安倍晋三に象徴されるカルト政治だ。わたしは戦後の70年の擬制が安倍晋三をつくりだしたと思っている。わたしたちの戦後は大地に根づくたったひとつの言葉さえ生むことがなかった。生に根づく言葉をなにもつくることができなかったことが戦後の総敗北の根因だとわたしは思う。擬制に擬制を重ね、撓みにたわんだその間隙から安倍という邪悪が漏出したというわけだ。民主主義はいつのまにかなし崩しに独裁に移行し、取り残された民主主義者は天皇親政を心のよすがとする。安倍的なありかたも反安倍的なありかたもなめらかな自然生成となって円環する。共謀罪で割を食うのはふつうの人びとだ。わたしは身に起こったことを繰りかえし煩悶しながら、やっと総表現者という概念をつくりつつある。統治と被統治や権力と非権力という生の分割支配ではない生の様式が総表現者の理念で可能となる。民主主義の理念を否定するのではなく民主主義の理念の善きものをさらに拡張するものが総表現者という理念だとわたしは考えている。共謀罪をめぐる攻防は義なき安倍と反安倍の当事者性のない義のなれ合いとして対立が仮構されている。問題の本質はこういうところにはまったくない。

総表現者という理念の下ではだれもが出来事の当事者である。総表現者の大地が内包自然であることは言うまでもない。収奪される側が収奪のない世界を構想しうるということが総表現者の醍醐味だ。戦争をしたいだけの安倍晋三という極めつきのうつけ者にたいして、こう考えると戦争のない世界が可能ですよとそれぞれの人が現場で声を挙げることが、言葉の正しい意味での反安倍ということではないか。そうでなければ伊勢崎賢治の「いつか起こるのが戦争です」ということになる。これらの理念の場所からは安倍晋三を批判する言説が観察する理性からなされた啓蒙にすぎないことがよくみえる。凡庸な悪を座視することで民主主義は成り立つ。なぜそうなるか。かんたんなことだ。民主主義の理念のなかのどこにも自由や平等の根拠がないからだ。空気のようにそれがあると思いなしてきたことのツケが、一気に安倍の邪悪となって噴きだしている。凡庸な悪を民主主義は拒むことができない。これからもありつづける。なぜか。それは人間の個的な生存を社会的な存在から規定しているからだ。わたしは「衆」の思想は奉ずるイデオロギーとは無関係に人びとに災禍をもたらすということを金太郎飴のように繰りかえし批判的に主張してきた。

いまわたしたちが向き合っている状況とはなにか。痒いところに手がとどかない見本のような言葉を見つけたのでコメントする。内田樹は邪悪なものを先触れを敏感に感知する気質をもっている。指摘されるとなるほどと思うがはずれている。わたしの生存感覚に触れそうで触れない。いつもちょっとだけ焦点が合わない。意図的なんだろうか。それとも無意識なんだろうか。神戸の事件の犯人である元少年Aの『絶歌』が出版されたとき邪悪なものには近づかないようにしているとして取材を拒否したというツイートを読んだ記憶がある。わたしは片山さんと出している連続討議の歩く浄土シリーズの『性と精神の古代形象』の最後で嫌な気分になりながら取り上げた。邪悪な本だったが、ないことにはできなかった。元少年と相対しても言うだろうと考えたことをそのなかで少し述べた。内田樹はここが勘所なんですよと指さしながら、そこからひょいと身を避けてしまうところがある。かれが極左運動をやっていた頃の体験について、やめましょ、そんな暗い話としゃべったときもおなじことを感じた。「一九七三年の冬、金築君は太股に五寸釘を打たれてショック死し、蜂矢さんは逃亡生活をしていた。私は毛皮のコートを着た青学の綺麗な女の子とデートをしていた。どこに分岐点があったのか、そのときの私には分からなかった。いまでもよく分からない。生き残った人間は正しい判断をしたから生き残ったわけでない」(『「おじさん」的思考』所収「転向について」)内田樹の体験知がどんなものであるにせよ、「ま、やめましょう。暗い話は」で済むことではない。体験知として邪悪を知っていることと邪悪な世界をまるごと体験することのあいだには千里の径庭がある。この落差を民主主義や天皇親政を使い回すことで解決することはできない。内田樹は世界のおぞましさを一度も引き受けたことがない。内田樹的言説はいつもなにか肝心なことを隠蔽している。いつも困難を回避して邪悪を解説する。邪悪はなぜ邪悪か。回避できないとき邪悪と真向かうしかない。邪悪が切迫するとき第三者の場所はない。邪悪のど真ん中を貫通するしかほかに手立てはない。そして邪悪のど真ん中を生き切るときかろうじて言葉が到来する。

内田樹とわたしのあいだのずれに踏み込む。「やめましょ、そんな暗い話」というところで内田樹は折り返し、わたしは、ツェランを襲来した出来事がかれの生を撃断し、無力のただなかを突っ切ることで手にしたその言葉を、なにかわが身に起こったことのようにして生きてきた。もとよりそれぞれの生は面々の計らいであるから、そこに倫理も是非もないが、「社会」主義への根本的な疑念があることだけはたしかだ。戦後70年の総敗北がここにあるというとき、わたしは他人事ではなくわがこととしてこの擬制を語っている。わたしのリアルと民主主義のリアルは決定的にちがう。この違いをゆずることはできない。生存がむきだしになると知識の言葉はまったく無力である。その世界があることを知識で知ることと生々しく生きることのあいだには目の眩む隔たりがある。このとき知識と生存感覚はまったく離反する。わたしが生の撃断を敢行して手にしたものはツェランやレヴィナスとはべつのリアルだった。それは言葉が言葉を生きると性になるということだった。この生の知覚は深くわたしに根づいた。人と人の関係が傾くときそこには権力がある。勝者はつねに敗者に向かって痛くも痒くないことを啓蒙する。睥睨する治者の視線は権力だと言ってきた。内田樹はそれを見事に体現している。「たとえばマルクスなら、二つの社会階級が競合しあってゆくなかで、生産手段が変化していくという歴史的分析をするわけですね。人類の歴史は階級闘争の歴史 である、と。これは正しいんですよ。でも、その分析から導かれる最終的な目標が、『階級がなくなる社会を作らなくてはならない』という。これは僕から見ると間達っている。対立するものがお互いに対峠しあったり、競合しあったり、否定しあったりしながら共存する、というのが社会の自然であって、それを統合して階級なき社会、国家なき社会、全員が均等の社会こそが人類の到達しうる究極の理想社会であるというのはただの幻想ですよ。だって、そんなものこれまで人類はいちどだって見たことも作りだしたこともないんだし、それが『理想』だなんて、そんな社会が『住み心地がいい』なんて、誰に断言できるんですか。競合するさまざまなファクターが、共存しながらシステムとして安定しながら支え合い、刺激し合ってゆくというのが人問にとってというか、生物にとってはいちばん自然なあり方なんです。・・・社会矛盾というのは絶対になくならない。対立も続く。絶対に折り合わない多様性というものもある。それをなくそうとしても無理なんです。だから、それはそのままにしておいて、多様性のなかから引き出しうる最適性、利益の最大値を取り出すにはどうすればいいかということを考えることが、社会理論としてはいちばんたいせつな仕事だと思うんです」(内田樹『期間限定の思想』巻末ロングインタビュー)こういう虚偽意識で文化的雪かきの精進は成り立っている。きわめて合理的なプラグマティズムではないか。みずからは例外なく勝者の側に位置している。このりくつが欺瞞であることをずっと主張してきた。さらに内田樹が信を啓蒙する使い回しの民主主義のそこはとうにぬけて日々は惨憺たるものである。内田樹に象徴される文化的言説のおぞましさは安倍晋三の愚劣とまったく変わらない。戦後の擬制はこのうえになりっている。欺瞞のすきまから安倍晋三という稀代の邪悪が噴出した。そういうことだ。

熊本で過ごした幼少期から少年期に揺籃期の民主主義があり、青年期の過激な行動はこの民主主義を前提としてあったことも承知している。無意識に民主主義の洗礼を受けている。ここで同世代の内田樹とわたしに違いはないと思う。戦後70年が擬制であると批判するときわたしは当事者性としてこのことを申し述べている。社会を俯瞰し観察する場所はわたしの生にはなかった。知識人と大衆という権力による生の分割支配をわたしは生きなかったということだ。そんな余裕はわたしにはなかった。当事者として生の現場を生きるとき第三者性というものはない。それはわたしの生の公理だ。わたしたちは日々の生の当事者として言葉をつくりだすことができなかった。観察する理性の代理人として日本の良心を内田樹に象徴してみる。任意だからほかの人に代替可能である。戦後の70年が擬制であることの核心が小さな善を積み増す自力作善にある。つながっていない人と人との関係を民主主義はつながっているように仮構することができる。なぜそんなことができるかというと、内田樹が自身を生きていないからである。じぶんをじぶんにとどけることができなくても、他者とつながっているように錯認できる。ここに一瞬の自己欺瞞がある。その虚偽の共同幻想が民主主義なのだ。「やめましょ、そんな暗い話」と言うとき、内田樹はまぎれもなく内田樹でありうそがない。小さな善を積み増す文化的雪かきを主張する内田樹と身を翻した内田樹のあいだには瞬間の自己欺瞞がある。この欺瞞のシステムが民主主義という制度なのだ。民主主義は民主主義を過ぎ越す思想の過渡としてあるにすぎない。護憲もおなじである。過渡として過程的にあるだけなのだ。世界を構想することもなく安倍の独裁を批判してもなにもでてこない。かれはツイートで言う。

僕が恐ろしいのは「国内に国を滅ぼそうとしているたくさんの人々が共謀の機会をうかがっている」という法制定の前提です。

実際に思想警察・政治警察を制度化するまでにはずいぶん手間も時間もかかるでしょうし、既存の省庁からの抵抗もあるかも知れない。でも、それ以前に、共謀罪の前提が認められれば「国の仕事をオレが代行してやるよ」という連中が「官許」を得たと錯覚して「ボランティアで」隣人の告発と私刑を始める。

処罰のおそれも報復のおそれもないと知るといくらでも卑劣にも暴力的にもなれる人間がこの世には一定数存在していることを僕は経験的に知っています。ふつうの市民社会では出番がない彼らですが、共謀罪は彼らに「政府がオレたちの活躍を期待している」という錯覚をもたらします。

相模原のやまゆり園での大量殺人事件の植松容疑者は事件の前に首相と衆院議長に書簡を送りましたが、それは彼らから「殺人許可」がもらえるかもしれないと期待していたからです。だから事件後も「権力者に守られているから死刑にはならない」などと口走っていたのです。

もちろんこれは妄想に過ぎせんけれど、妄想に燃料を備給したのは、ヘイトスピーチや生活保護受給者への罵倒や「病気は自己責任」論や嫌韓・嫌中本であり、特定秘密保護法や共謀罪の前提にある「国内に反日勢力がうじゃうじゃいる」という現実認識です。それらはリアルに今ここに存在しています。(2017年6月1日)

ネットやローカル局の番組まで含めて網羅的に監視する手仕事は膨大な人的リソースと予算を要します。でも、共謀罪を通して、「国内には外国に操作されている反日的なやつらがうじゃうじゃいる」という「前提」を公的に認知させてしまえば後の監視の仕事は市民が代行してくれます。

監視社会というのは政府が網羅的に市民を監視する社会ではなく、市民が市民を監視し、密告し、機会があれば暴力をふるう社会のことです。共謀罪はそういう社会を創り出すための装置です。人間の卑しさと弱さと欲心を「レバレッジ」にして国を支配する術においては安倍政権は確かに卓越しています。(2017年6月2日)

内田樹が言うように、いくらでも卑劣に暴力的になることのできる人が一定数いるし、密告や私刑を権力に先立ってやるような人がいる。邪悪は存在する。邪悪が存在すると語ることと急迫した邪悪を避けることができず邪悪のただなかを生きるしかないことはまるでちがう。内田樹は邪悪には近づかないという知恵をもっているが、向こうから一方的に侵入してきたときはどうする。五寸釘を打たれてショック死した金築君が赤の他人なら厭な話だなで済む。内田樹はなぜ人はそういうことをするのだろうかと考えなかったのだろうか。わたしは地軸が傾くほどに考えた。わたしは邪悪なものがない世界をつくろうと内包論を持続している。内田樹の言説は啓蒙家としてはすぐれているがほかに取り柄はない。事態を傍観する言葉は切っ先を鋭くすることができる。みえすぎるぐらいによくみえるからだ。内田樹の正しい言葉には信と芯がない。言葉を真芯で生きることをしないのがかれの言説の著しい特徴だと言えば言える。邪悪には極悪深重で対処するのだよ。内田樹らの心性が言葉を生きることはない。邪悪にはさまざまなかたちがあるが、市民主義では対抗できない。事態を座視することと凡庸な悪だけが市民主義の精神だ。邪悪を極悪深重で貫通する。避けることができない邪悪はひとりで引きうけるしかない。わたしの生存感覚ではそうなる。小賢しいりくつではない。なまなましい体験知だ。

朝日新聞のインタビューだん。天皇制について話すのはむずかしいです。新聞という媒体は基本的に「超越的なものの現実的機能」などは存在しないという立場ですから。その一方で同系列のテレビはパワースポットだの祟りだのは霊能力だのというものを娯楽としてだらだら消費している。

市民的成熟の条件には「霊的成熟」も含まれるというのが僕の考えです。超越的なものとの「適切なかかわり」についての技術知を会得すること。これを軽視する人はしばしば薄っぺらな宗教的ファナティスムによって報復されます。

霊的成熟のためにはメンターに指導された「行」が不可欠です。頭で考えてもわからない。本を読んでもわからない。自分の体を使って、身銭を切って、こつこつと経験を積み重ねるしかない。(2017年5月18日)

天皇親政は霊的な成熟であり、適切なかかわりを感得することが天皇制の有効な活用だと言われている。なんと機能主義的な考なのかとめまいがする。内田樹にとっては天皇制は具体的なメリットなのだ。あるものの使い回しで民主主義を啓蒙し、あるものの使い回しで天皇制を推奨する。かれのなかでは民主主義的天皇親政はごく自然な感性としてある。それは内田樹がいつも現実を睥睨し俯瞰する観察家だからだ。かれからお節介を取り除くとなにも残らない。生をほかならぬこの「私」の固有性として生きることは内田樹の眼中にはない。あるものの使い回しとして独裁の有効活用と言うことも言い出すのではないか。

    3

じぶんをじぶんにとどけ、じぶんをふたりとしてひらくこと。そのほんとうのことをみつけてしまわないように同一性がある。生体防御反応みたいなものだといっていい。だから「断じて、人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、『自我』であれ『我々』であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの『主観』として、人間であるのではまったくない」(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』)ということはよくわかる。それがどういうことかハイデガーはつかむことはできなかった。同一性ではない存在がどういうものであるかハイデガーが知ることはなかった。内包ってどういうことかと訊かれて、内包危険近づくなといったことが何回かある。孤独と空虚がない生の充溢。生きられるすべてのことを生きると生が壊れる。ファナティックではないがとても激しい。「ところで、およそ人間精神が生命に立向って驚嘆せざるをえないもの、それは犯し難い合法則性のようなものではない。むしろこの合法則性とは、人間精神が自らの不確かさによる苦難と自らの存在のおぼつかなさから来る脅威からの救いを求める安全地帯なのである。われわれを真に驚嘆せしめるものは、むしろ生命が示すさまざまに異った可能性の見通し難い豊かさにある。現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである。もしもわれわれが現実的なもの以外に、可能なるもののすべてに身を委ねたとしたならば、生命は恐らくは自己自身を滅してしまうことになるだろう。だからこの場合には、有限性は人間の悟性が遺憾ながら限定されたものであることの結果としてではなく、生命の自己保存の戒律としてわれわれの眼にうつる」(ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』)ヴァイツゼッカーの言う「合法則性」を同一性と考えても差しつかえない。

内包知の近傍に外延知がある。親鸞の自然法爾は外延知の極限というよりむしろ内包知に属していたようにも思う。マルクスの経済論や吉本隆明の幻想論は内包知の近くまで来ていた。自己が自己であるということは奇怪なことである。「私は」から始まり、斯く斯く然々の理由によって「私である」と結句することのなかに、生涯と全人類史が内蔵される。なにかの媒介をぬきに自己が自己であることはできない。およそ二千年のあいだ、神や仏という自己に先立つ超越が仲立ちすることでこの世の条理は成り立ってきた。数学的自然の世界ではユークリッド幾何学が西欧二千年の社会で公理として信じられてきた。いまはユークリッド原論は非ユークリッド幾何学に包摂され、曲率ゼロの面、つまり平面上における公理として平行線公理はある。なぜユークリッド幾何学が長く公理として君臨してきたかというとわたしたちの知覚の自然性に依拠しているからだった。大地は広大できりなく広がっているようにみえる。わたしたちの眼の知覚として大地は面として映る。知覚の自然性としては時間も空間も絶対で伸び縮みするようにはみえない。観念のある領域ではわたしたちの自然な感性を裏切るように観念は拡大している。人間の観念の全領域をある球体に比喩すると、数学的自然や物理的自然を自然な感性が後追いすることはできない。それほどある対象領域の自然は変性を遂げている。思想や文学はニュートンの古典力学の思考の慣性を踏襲することで認識が成り立っている。ヘーゲルもマルクスもフロイドも吉本隆明の思想もそうである。この思考の慣性では世界の無言の条理である適者生存をなぞることしかできない。この国も憲法をめぐる論争もこの思考の慣性を前提としている。護憲か改憲か。改憲は廃憲か壊憲か。憲法の成立の過程にいくつもの要素があることは知っている。しかし護憲にしても改憲にしても、憲法を前提としている。諸国家の憲法のなかで日本国憲法は美しい物語として書かれている。そのことも諒解する。憲法もまた共同幻想という外延知にすぎないから、憲法を超えていこうと意志されることはない。憲法もまた過渡的な共同幻想のひとつなのだ。わたしは憲法についてそのように発言した人を知らない。わたしは外延知から内包知への過渡として戦後70年の総敗北がある。「知識人-大衆」という権力による生の分割統治で培われた思考の慣性から総表現者へ表現の位相を相転移させると現実はまったく異なったものとしてわたしたちの目の前に立ちあらわれる。ちまちました憲法論議を大きく伸張する気運はどうして起こらないのか。わたしは過渡的な憲法という共同幻想を大旨受け入れる。個別的自衛権は自衛権として受け入れる。個別的自衛権を憲法の条文のなかに入れるだけでいいのではないか。わたしは美しい物語の条文を日本国憲法を過程的な共同幻想と考えている。穏当な意見だと思う。護憲も改憲もどうでもいい憲法論議からどんな世界の未知も遠望されない。憲法も共同幻想のひとつであり、内包に向けての過渡として過程的な国家の最高規範にすぎない。第1条第1項に憲法の最高綱領として謳えばいいと思う。わたしは思想として超憲をこれから主張していく。言葉が言葉を生きるとき性になるという信じがたい驚異はだれのなかにも自己よりはるかに先立つ精神の古代形象として内挿されている。国家は喩としての内包的な親族へ過ぎ越すことができる。憲法という掟を超えることは思想として充分に可能だと思う。

ぎっくり腰で身動きがとれなかったのでツタヤで時間つぶしの本を買うわけにもいかず、あるものの使い回しで柄谷行人の『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』とヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』『探究』を読み返した。なんととても面白かった。『探究』で柄谷行人がもがいてる。そうだよあの傲慢な柄谷行人が。マルクスとキルケゴールとヴィトゲンシュタインにたいしては真摯なのだ。地域通貨と世界共和国というつまらぬ小りくつをこねくりまわしてきたあの柄谷行人が。『探求』を読んでそうで思った。これまで時折り柄谷を批判してきたけど、市民主義に冷水を浴びせるかれの気持ちはよくわかる。だから探求のページをらんらんらんと楽しみながらめくった。柄谷の言いたいことも、うまく言えてないこともわかるんだなあ。市民主義は共同体的で独我論に閉じられていると言いたいわけだ。わかるよ。探求を読むとわかるけど、キルケゴールやヴィトゲンシュタインやマルクスにたいしては文句をつけてない。ほかならぬ「この私」にとって、けっして内面化しえない他者の絶対性をレヴィナスなどを引用しながら言いたくてたまらないわけだ。それがかれの内面というの独我にたいする単独者の立ち位置だ。単独者は共同体ではなく社会的に連結されると柄谷は考えようとして迷路に迷い込んだ。じぶんのことのようによくわかる。日本国憲法は日本人にとっての無意識であるというかれは、いまは好々爺かもしれないが、たぶん柄谷行人はとても孤独だったと思う。斜交いに構えながら少しだけ知的になにかを言いたい。再読してそのことがわかった。さあ、なにが言いたいかだ。少し褒めすぎかもしれないが柄谷行人の『探究』の試みは吉本隆明の『共同幻想論』に匹敵するとおもった。若い頃吉本隆明の共同幻想という考えに出会っていなかったら引きうけた出来事の重さに潰れていたと思う。思想は生を根こそぎさらうリアルがある。甚大な恩恵を被った。柄谷行人のなにが斬新なのか。内面という独我論ではなく、他者を論じようとしたことだ。どうやれば生の不全感の根を抜くことができるのか。そのことを内面化せずに孤独のなかで柄谷行人は考えようとした。そして見事に足を掬われ単独者という独我論に立ち戻っている。語りうることは明晰に、語りえぬことについては沈黙せよと言ったヴィトゲンシュタインも、語りえぬことを封殺し隠れた神への信仰を持ちつづけた。宗教的信は内包の同一性的な枠組みの縮減した表現に過ぎない。小さな善を積み増す文化的雪かきが良心として共同的に疎外されるように、宗教的な信も共同的に疎外されるほかない。なぜなら私性は共同性のべつの顔であり、共同性は私性を可視化したものにすぎないからだ。生の不全感の根をぬくことは言葉が言葉を生きることによってしかできない。言葉が言葉を生きるとき性になる。この生は、内面化も共同化もできない、変われば変わるほど変わらない性としてある。(この稿つづく)

〔付記〕貼りつけた文章についての若干の注

むかし書いた文章をひとつ貼りつける。安倍の独裁が出来した淵源がここにある。どれほど戦後が擬制であったか。わたしはその現場を生きてきた。世界を理想として描くことが厄災を招来する、それは「絵に描いた理想主義、いわば羊のロマン主義」と竹田青嗣は言い、困難を回避した。「社会矛盾というのは絶対になくならない。対立も続く。絶対に折り合わない多様性というものもある。それをなくそうとしても無理なんです」(内田樹)なぜ無理なんだよ。ルールとモラルの推奨や民主主義の使い回しを啓蒙する対抗原理がまるごと擬制である。戦後の70年の擬制について若い頃、雑誌に掲載された文章を再掲する。〈部落の背景〉は1974年、〈感性の現在〉は1980年に書いた。偶然『乾坤』誌の編集者の目にとまり、是非掲載させて欲しい、8号に連合赤軍の永田洋子も寄稿するから、と言われ、永田洋子におれの書いたものを読めよと言いつのる気持ちがあって、掲載を承諾した。わたしの初めての公的な表現である。稚拙だが、深く関与した部落解放運動についての殴り書きとしての意味はあると思う。後半の宇宙論についてのメモも、モチーフは現在の多元・多次元宇宙論にもつながっていると考えている。「いまはじめてぼく自身の68年~の政治的運動や部落解放運動への関与は体験のことばから戦後の時間の拡がりの中へでていこうとしている。歴史の未知にぼくたちのナショナルな体験をうまく接続することができるか」(『乾坤』8号)と当時書いたことはいよいよリアルなこととしてわたしたちの日々に迫っている。瞬間の自己欺瞞に目を瞑ると内面は容易に社会化される。部落解放運動が激しくなればなるほど人倫はやせ細り尖っていった。そこに擬制の核心がある。後退戦の部落解放運動の壊滅的な闘いをひとりで敢行した。このときは内包論は着想していなかった。わたしは竹田青嗣や内田樹のように市民主義や民主主義を信奉することができなかった。かれらの「社会」主義を唾棄してきた。また、激動する世界の流れのなかにわたしの孤絶したローカルな闘いを位置づけないと状況の斜面を滑り落ちていくという切迫感がどうじにあった。世界が流動し動いていると言うことを状況論のなかに入れ込まないと痛切な体験が閉じてしまうと感じてきたわけだ。この文章を書いた後、本格的な苛烈が始まった。遠いむかしのことだが、この孤立無援の闘いのなかで内包論を考えるようになった。そのなかで思考しえぬものを思考し始めた。ともあれ、わたしの立ち位置ともの書き文化人の生ぬるい啓蒙とは初発から異なっていた。この時点からかれらとは決定的に離反していたと思う。爾後の相克のなかでわたしは生を撃断され、日本語もアラビア語みたいになって理解することができなくなった。文字はのたくるミミズのようなものになり意味を喪失した。ただ部落解放運動の致命的な欠陥はおおまかに剔抉できたと思う。戦前の治安維持法が適法でありなんら不法なことはなかったと奇怪なことを言う安倍内閣の大臣がぬけぬけと共謀罪は治安維持法だと言い抜ける。この国の無惨はなにより戦後の70年の擬制が招来した。

〈部落〉の背景・〈感性〉の現在               森崎茂

 対立の決定的瞬間俺が考えたこと。《ここでもし、ここでもし俺はだまっていたら人間が何かわからんけど俺は人間でなくなってしまう》とほんとに考えた。確実に(死)を意識した。この時ぼくの内部で殺意や憎悪や屈辱や無念さが渦まいた。
 かつて全共闘運動の後退戦下、ひとつの闘いが全存在を挙げて闘われ惨劇を帰結した。ほかにどのようにもありえなかった戦いがある形象を不可避に刻印したときであったいくつかの自死や狂気や廃疾やことばの嬰児たちよ! 闘いは二重の意味において過渡である。ぼくたちの表現が終わらないうちに世界が新しく始まるということは決してない。-と想いを馳せるとき、情況はすでに訣れにたわみ非在の世界は杏として行処が知れない。
 いまぼくたちは未知の生き難さに直面している。この生き難さは何に由来するのか。闘いの過程で抱えこんだ地獄のような時間はどこにもゆき場を喪い凍ったまま、ぼくたちの生存している基層でもうひとつの時間が地滑りをおこしている。体験としての〈部落〉を抽象することが妄想にも似て切実であるにもかかわらずどこかとおい感じがするという、この距離のなかに情況の現在があるといわなければならない。この距離をうまく時間化できればふたつの時間を連続した相でとらえることができるだろう。そしてそれはおそらく戦後過程が自己表現した非戦後的戦後をどう内在的に把握しうるかということにつきるとおもわれる。

規範あるいは喩としての「部落」から思想としての「部落」へ

    1

 いうまでもないことだが「部落」は遺制的共同幻想をその本質とし、その外的表象が明治以降の急速な近代化に伴う諸矛盾の二重構造として実体であるかのように仮象している。「部落」はその内部本質としては日本的自然宗教を核とする遺制的共同幻想であり、累積された歴史的時間を現在の状況と段階にある世界で切断した面にある抽象された政治城や社会経済構成体から疎外された種々の矛盾が表象され、あるいは個々の人間の感性・感情が表出されたとき「侮蔑」「購視」、「結婚(通婚)差別」として現象する。実体であるかのように仮象している「部落」やその矛盾した諸表象を倫理をまじえずに論理として語るのはひとたび舞台にのるや非常に困難なので、倫理においてしか関係を語りえず、内・外の当事者自らが相互に呪縛され閉鎖集団を形成するという悲・喜劇を演じた。
 六十年代末期の全共闘運動-感性的大衆坂乱の後退戦下「部落」をめぐる闘いがひとつの情況として存在しえたのは戦後過程が自己表現した非戦後的戦後の表出感覚が新たな表現様式を実現することができず、その間隙を、ぬって古典的な表現様式が実現されたちょうどその節目においてであるとおもわれる。それはつまり遺制としての「部落」の現存性(三つの過程)と戦後過程がおしだした唯一のよき兆候としての悪意的感性-自体としては市民社会の成熟に伴う擬似的平等感覚という前史的共同観念を共同幻想の内部で構成している-をうまく理念として抽出することができず、それらが二重化されたまま共存した時代の節目においてであるといえる。
 このような時代を背景とし、表出感覚としては吉本隆明の表現世界を半数しながら、僅かに表現としては北川透や谷川雁の軌跡の延長上に政治・社会運動としての部落解放運動を構想し、壊滅的な闘いが企てられた。尖端と土俗。ぼくたちの闘いもまた闘いの軌跡とみる限り「反近代から近代を撃つ!」という範型に属していたとい
える。
 ぼくはいま解同の運動論や組織論に批判を加えなければならないのだろうか。内・外の当事者をまき込んだ総体としての部落解放運動-解放教育-に批判の矢をなげかけなければならないのだろうか?
 そういうことは別に大したことではない。全て手の内は知れている。彼等をして虚構の闘いを持続せしめよ!情況の浮力に自壊するのは自明である。ぼくたちが抱えこんだひきつるような窒息感はここにはない。他の誰でもなくぼくたち自らがつくり実現した理念の修羅に向かってこそ書きつがなければならない。

    2

 日本的民衆の存在様式が疎外する地縁-血縁の交通のなかで遺制的共同観念としての「部落」が空間に憑く-表象されると外的規定としての「部落」が外化され、地域的具体性としてあらわれ、個人に憑く-表象されると内的規定としての「部落民」がそれ自体で実在するかのような仮象を呈する。これは相互規定的な概念としてある 「非部落」「一般」についても同様である。そして事のおこりは地域的具体性としてみる限りまず「非部落」「一般」の側からの「購視」「差別」としてあらわれる。ここまでは解同と同じである。「賎視」「差別」に対して個別的具体的な場面で糾弾するのは全く正当であるのはいうまでもない。問題は外的内的規定としてある内部の被差別当体の心的世界の構成である。ここで内部の当事者は錯誤を演じる。内部の当事者はここで必ず遺制的共同幻想としての「部落」-なんら共同性としての実体はない!-に裏側から同致する。つまり地域的交通のなかでないにもかかわらずあるかのように共同性を外部から固定している生活者-大衆の差別当体の共同幻想としての自己意識とその中共同性に裏側から同致する。このようにしてなんら共同性としての実体はないにもかかわらず「部落」「一般」が実体として実在するかのようにあらわれるわけである。これは全くの錯誤ではないか。どうしようもない見事な錯誤ではないか。ほんとうはここからいっきに解同の宗教的儀式としての糾弾闘争や、聖典としての「水平社宣言」をとりあげることで組織論の秘儀をあばいてみせてもよいが、内・外の当事者の心的世界の構成を徹底的に解剖することで本質的には同じように円環してくると思われる。
 「部落」をめぐる現象はもう少し敷術することができるように思われる。

 外的規定としての「部落」とは遺制的共同観念の空間的表象であり、内的規定としての「部落」とはそれの時間的表象である。空間的表象としての「部落」と時間的表象としての「部落」は図式化していえば更に規範としての「部落」と喩としての「部落」というふたつの異なる位相を自己表出する。闘いに関与している個々の主観はともかくとして、規範にひきよせられ、あるいは喩をよびこむことで表現された運動や思想は戦後の時間をのっぺらぼうにとらえたものであり情況としては「反近代から近代を撃つ」という範型に属し世界の地平からは既に消失しまたは遺制としてしか存在していないものである。
 ぼくの内部に焼きついている意識体験を想うとき時間は凍結したままである。ふいに訪れるやさしさのようにして喩としての「部落」が像を結ぶ瞬間もある。しかしそれは錯誤にすぎない。戦後(自己体験に即していえば68年以降)を恣意的的感性と日本的なものの現在というふたつの極から抽象したときはじめて思想としての「部落」が蘇生する。まちがいなくこう言いうる。

 規範としての「部落」に自己を同致したところで部落解放運動を構える! これが総体としての部落解放運動の最たる錯誤である。いらだちを交えていうならばこれは悲劇ではなく喜劇である。一体どこに「部落」が実在するというのか。解放さるべき当体は一体誰か。吉本隆明の言をまつまでもなくもし「部落」が実在するとしたら共同観念、いいかえれば制度としてしか存在しないということは既に自明のことではなかったのか。この共同観念はそのままでは対象になりえないから空間的に疎外されたものが「部落」といわれる地域であり、時間的に疎外されたものが「部落民」「一般」という自己了解である。
 混乱しないでほしい。「部落」は現存するのである。規範=共同幻想という自己意識として。だから「部落」と云われる地域も「部落民」「一般」という呼称も存在するのである。これは矛盾ではないのか。如り矛盾である。部落問題をめぐる一切の隘路はここにある。そこで問題を次のように立てる。何故、規範としての「部落」に移行し、そこに自己を同致する必要があるのかと。規範としての「部落」の諸表象が大衆の次元で実在する(というふうに了解されている)ということと、内・外の当体がそのことを自己了解することは全く別のことではないのか。天皇制に価値が収赦してきた現実や前史的共同観念に価値がおかれていることと、そのことを自己了解することは全く別の次元に属することではないのか。少くともぼくにとってはこれは既に自明のことである。云いかえれば規範=共同幻想としての自己意識のなかで「部落」が現存することと、自己意識のなかの共同幻想として「部落」は現存しないということと同じである。現実には個別的、具体的な関係のなかで「部落」は無化できるし、理念としては政治表現の際の国家論をめぐる論議でかたをつけてきたところのものである。
 しかし次のような声が聞こえる。大衆的基盤で衰退しつつもいまだ影のように存在する規範としての「部落」の諸表象や、歴史的に天皇制に価値がおかれてきた現実や、あるいは前史的共同観念に価値がおかれている現実の諸表象の定在と、それらを認めないという自己了解はちがうと。確かにそのことは認めてよい。しかしなんら共同性としての実体はないにもかかわらずあるかのように外部から共同性を固定している生活者-差別当体の規範としての自己意識にそのことを認めないという自己倫理を付加して裏側から同致している構造は思想的には全く同一のことである。どちらも必ずどこかで規範としての「部落」に自己を同致し、「部落」を実体化している。あとは不本意ながら古典的世界認識を接木しているだけではないのか。ぼくたちの73年4月はこのことを許容しない!

 ほんとうはこうではないのか。規範としての「部落」をどこかで実体化し、生活者-差別当体の規範としての自己意識に裏側から同致する瞬間の自己偽瞞をそのまま対象的にとりだし解放の根拠を穿つ戦いへと戦いを転位すること。決してこれは不可能ではない。ただ誰もこれを実行しないだけだ。思想としての「部落」の構想の端緒はここにある。もし瞬間の自己偽瞞に対象的になれないとしたら、対象的になれないというそのことに対象的になるしかないと思われる。そのことこそが身分差別の端緒を自然性と禁忌として保存している遺制的共同幻想としての「部落」の現在的ありようそのものなのだから。まさに戦いは実践としてではなく理念のかきかえ=幻想の革命として徹底されなければならない。どれほど喩としての「部落」への熱い想いが個々にあるにせま「部落解放」のいかなる実践も「部落」を無化においこむことが不可能なのは先験的である。地縁・血縁をあたかも自己の身体のように保存している自然性や禁忌の理念的かきかえ=幻想の革命を通じ情況としての「部落」を掌中にすることが思想としての「部落」を構想する端緒である。そのことは規範としての「部落」の表象そのものの自己了解の構造をさしているように思われる。

    3

 やっと部落問題の本質的解決のいとぐちだけは示しえたようにおもう。遺制的な共同幻想である「部落」が空間的に表象された、実体であるかのような地域の規範がそれほど問題であるのではない。最も困難なのは時間的表象としての「部落民」ということにまつわる自己了解の構造である。千万言をついやしても「部落民」と自己規定することの根拠をくずすことができなければ「部落民」は存在し続けることをやめない。たとえ外部の当事者である(と思っている)ぼくにとって共同幻想としての「部落民」はなんら現存しないといっても。「部落民」であると自己規定しているものがその自己規定を放棄するとき、部落問題は本質的には解決する。あとは規範としての「部落」の諸表象を個別的・具体的に解決すればよい。ここで内部の当事者は全く転倒している。「部落民」が就職や教育や結婚において規範から疎外されるのは不当であり根拠がない-と解同はいう。この喜劇をこそ同致の構造とよんできたのだ。「部落民」が不当に差別されるのは根拠がないという根拠が「部落民」を実体化させ固定化させ、ひいては差別を固定化させているのは明白なことではないか。解決さるべき第一のことは自らを「部落民」と自己規定することの放棄であり、「部落民」と自己規定する根拠を解体することである。このような言い方に対する内部の当事者のとまどいや反撥の心理のひだをぼくはよく了解することができる。と同時にこの理念のかきかえが喚起する内部の当事者の解放感の深さも了解がつく。「部落」からの解放の最大部分がここにさし示されているではないか。就職や教育から「自由」になることは「部落」が完全に解放されることを意味しないということが逆説的に自らをよく語っているではないか。就職や教育や通婚差別が解決しても「社会意識としての差別観念」は消滅しないというのは問題のすりかえである。表象された「部落」の諸差別が仮りに解決されたあとに尚部落差別が残存すると予見することは自らが「部落民」と自己規定していることが、いかに自らを束縛しているかという自己意識の表象である。部落問題の難関の最たるものは出そろっている。アジア的-日本的民衆の存在様式が疎外する血縁や地縁の交通形態が「社会意識としての差別観念」を容易には消滅させず、共同幻想としての自己意識に不明瞭さを保存していることがはじめに問題になるのではない。解決はもっと根底的になされなければならない。およそ順序が逆である。解同や内・外の当事者が共同幻想としての
「部落」の初源に明確な根拠を与えることができないということが部落問題を「底なし穴」のようにみせているのである。「部落」や「部落民」が人間の現実性としては何ら存在しないのに、あたかも実体として存在するかのようにふるまい、共同の禁忌をつくりあげるのは、全て「部落」の初源に明確な根拠を与えることができないという自己意識の表象である。そのことから自由になることこそが部落解放の出発である。倫理のはいり込む余地はない。思想的に論理として解かれねばならない。

 しかし内部の当事者の心理のひだを描写するのはほんとうはやるべきことではないという気がする。ひとは誰も踏み込まれたくない固有の内部世界をもっている。誰にも触れえぬ、しかし当人にとってはそれが世界の全てであるような内部世界をもつ。他者がその世界へはいりこめるはずがなく、そのような固有の内部世界があることをそのままみとめることが関係のなにごとかであるのだから。 生きているのでもなく、かといって死んでいるのでもなくという具合にぼくたちの73年4月前後がありえたか。秩序に対するひとつの否定の意志(理念)の極限的実現に他の誰でもないぼくらひとりひとりが直面したのではなかったか。その過程でぼくたちは何度も心的に何度も殺人を演じなかったか。内ゲバー党派間抗争・連合赤軍の内部粛清劇をぼくらは経験しなかったか。地方都市における局所的戦いとしてではなく、70年代初頭の後退戦がきりもむように刻印した悲劇にぼくたちの闘いもまた通底していた。ぼくたちの関係から殺・死が現在までのところでていないのはただめぐりあわせにすぎないのではないか。いや現実に殺・死があったかどうかが問題なのではない。ほんとうはぼくたちの理念がその理念のうちに〈死〉を孕んでいたことのほうが重要である。他の誰でもない、ぼくたちがつくり実現した理念はぼくたちの手で葬らねばならない。倫理でも「生活」に降りていくというのでもなく。理念は理念によってしか止揚されることはない。

 内部の当事者はなぜ自らを意識的あるいは無意識に「部落民」と規定するのか。何故「部落民」と称することを放棄しないのか。これは虚妄か。確かに虚妄である。しかし外部の当事者からする共同幻想としての「部落」論が紙一重のところでとどかなかったのには相当の根拠がある。ひるがえっていえば規範としての部落解放運動や喩としての部落解放運動で解決がつく程簡単ではない。目もくらむ程の困難があるというのがほんとうである。しかし解決が不可能であるとは思われない。解決の方向性だけは示しうるように思われる。結局時間ののばし方につきるように考えられる。誤解はないものであるが、極めて本質的にいえば内部の当事者が自らを「部落民」と規定する自己意識の共同的表象(幻影)に外部の当事者が憑かれているのである。もちろんこのことは逆に外部の当事者の共同幻想としての自己意識が「部落」「部落民」を疎外し、それに内部の当事者が憑かれているといっても事態は全く同じである。この無限の循環のなかで総体としての部落解放運動が現にあるのである。部落問額がそれにかかわりをもった全ての著に「底なしの穴」のような感じをいだかせるとしたら、内部の当事者が意識的無意識的に保存している自己意識の時間の奥ゆきをみているのである。かつて外部の当事者が内部の当事者の「告発」や「糾弾」にさらされて一様に沈黙を強いられたのは実はこの時間の強度に圧倒されたのだといってよい。ぼくたちが秩序に対して否定の意志を行使するときまずそれは親の世代の構成する時間やその外化された社会に対してである。この小さな坂乱が秩序と激突する時少くともぼくたちは数十年の歴史を直感的ではあれ対象化しているといってよい。その過程でぼくたちは自死や狂気や廃疾に見舞われ、孤立を強いられる。この時ぼくたちは内部の当事者の保存する時間によく括抗しえたか。いやぼくたちはここで総敗北し、自ら関係を閉じたのだ。敗北は錯綜していたといってよい。内・外を問わず敗北した。時間の了解の質と遡行に。
 内部の当事者はどこで敗北したのか。彼らは彼らが実体として疎外を強いられた地縁や血縁の自然性と禁忌の数百~千年の累積する時間の由来に。共同幻想としての「部落」論は彼らの現在を相対的に解放するにちがいない。しかし「部落」の無意識に明確な根拠を与え、「部落」や「部落民」を解体するにたるほど共同幻想としての「部落」の歴史的構成は解かれていない。共同幻想としての「部落」を解くことはぼくたちにとって日本的(ナショナル)なものを明らかにするであろうし、意識的あるいは無意識の「部落」「部落民」という自己意識が末分離のまま混融させている自己意識、家族・血縁意識、「兄弟」意識の位相を分離して抽出することを可能とするであろう。そのことは意識・無意識に自己を「部落民」と規定することの無意味性を倫理ではなく論理がせまるであろうことは疑いえない。

    4

 内・外の当事者を含む総体としての部落解放運動と訣別し、結果として抱え込んだ「仁義なき闘い」と味方のような貌をした敵との二重の闘いをつれ合いや特定少数の者らと一日を30時間のように、「眼」と「自己意識」のみでひきつるような窒息感を抱え込んでいた時期、吉本隆明や三上治の「部落」への発言や情況への発言はまさにぼくの身体感覚そのものだった。このような孤立のしかたが浮上することはもはやあるまいという想いはくらくどこまでも底がなかった。病障や「仁義なき闘い」による死を現実に想定し、一日を30時間の「眼」や「自己意識」が対(家族)を空自のようにした無残! 自己表出の千里の径庭! 情況の転質! かつて飯旗紙に掲載された三上治の「部落」についての論稿をわが身体感覚のように読みながらぼく(たち)の窒息感の内部まではとどかないと感じた自己表出の千里の径庭とは何か。おそらく遺制的共同幻想としての「部落」論が紙一重のところで内部の当事者の切実さにとどかないというその内実に関してである。ぼくにはどうしてもある逆転の操作が必要であるように感じられる。ここで解同やその同伴者たちはどうでもよい。党派が内ゲバを、ノンセクトが爆弾を、連赤が内部粛清を体現したように政治社会運動としての「差別・告発」運動がゆくところまでゆけばどうなるかということを自ら体現したのだから。

部落問題や天皇制は遺制的共同観念を本質とし、それは日本的な共同感性としての自然意識や自然的な諸感性と呼ばれるものである。もちろん、この共同感性は虚偽が真実のように転化したもので、習慣化された知識や感性として真なるごとく受取っているもので根拠のないものである。ただこの習慣化された知識や感性は(無意識なるものも含めて)、あたかも身体感覚のように内在化された時間性としての資質としてあり、これはそのこと自体の対象化によって、まさに思想的に止揚するほかないものである。そして、この対象化と思想的な止揚は、内在化された時間性としての資質(諸感性)が個体の直接的な関係や身体の成熟に伴う諸意識によって形成されたものでなく、逆に共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたものだから、個体の直接的な諸関係や諸意識に対する内省としての倫理からは不可能なのである。(三上治「部落解放運動の歴史的諸問題」「乾坤」創刊号)

 部落問題が法制上の問題としては遺構化しており、そのレベルでは課題としてあらわれる場合、極めて部分的なものであるのは今や自明である。そして部落問題が、それなりに大きな問題として登場するのは社会的諸関係においてである。それは虚偽が真実のごとく転じた共同感性としての社会的意識や諸関係が、土俗的なものとして強力に存在するからである。
 この社会的諸意識や諸関係は、いわゆる部落差別として現象する。職業的・通姫的差別として存在する。この部落差別は地域的な差別として現象するが、そのことになんの根拠もないことであり、タブーとして保存され遺伝的な資質にまで転化した宗教の社会化が地域的に疎外され、逆に地域性がそれを保存させるという関係になる。
 ここでは社会的な諸関係へ疎外された遺制的共同観念が、地域的存在を媒介に逆に保存されているということだ。つまり地域的な蔑視や差別として疎外(表現)された諸関係や諸交通が、逆にそれらを保存していくという関係が成立しているということである。lここで難問は、それらがなんの根拠もないことであると軍言し、啓蒙するだけは解かれないということである。この習慣化され、起源の不明なままタブー的に保存されているこの虚構的観念の止揚(無化)は、現実的にはその表現として唯一の根拠となっている地域性の解体しか不可能である。(同前)

三上治の「部落」についての見解をぼくの表現上の課題にひきよせて引用してみた。三上のこの見解は的に当たってはいるが射貫いてはいないようにおもわれる。もし虚構としての「部落」の「対象化と思想的な止揚は内在化された時間性としての資質(諸感性)が個体の直接的な関係や身体の成熟に伴う諸意識によって形成されたものでなく、逆に共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたものだから、個体の直接的な諸関係や諸意識に対する内省としての倫理からは不可能なの」であり、「この虚構的観念の止揚(無化)は現実的にはその表現の唯一の根拠となっている地域性の解体しか不可能である」とするならばほかにどのようにもありえなかったぼくたちの闘いの形象が刻んだ殺意や憎悪やことばの嬰児たちはどこへゆけばよいのか。ぼくには自己意識の内在的課題としてとりだされるよりほかないようにおもえる。そうすることは無間地獄である。しかしぼくがぼくでありうる唯一の場所であることも明らかである。自己(史)について考えることがそのまま歴史でありうる、そのような方法が問われているように思われるのだ。

 ぼくは三上治のこのふたつの見解を切り結んでみたいとおもう。それが始まりを告げるにすぎないとしてもその方向性だけは示しうるようにおもえる。
 虚構としての「部落」は地域性が解体されれば現実に解決されるか。虚構としての「部落」の止揚は現実的には地域性の解体しかほんとうには不可能なのか。そしてまた地域性の解体とは何か。三上治はもちろん規範としての「部落」が実在するという位相での地域性の解体を出しているのではない。それは「部落解消論」として論議されてきたところのものである。地域性の解体を現実のレベルで空間性として考えることは不可能であるし、仮りにそれが実践のレベルで可能であるとしてもそう方向づけることは現実にはとてつもない錯誤をうむと考えられる。しかしこの地域性の解体がひとつの核心であることもまた確かである。地域性の解体とは何かで 地域性の解体とは恣意性の発現である。恣意性の発現が結果として地域性のもつ規範力を解体へとむかわせることは明らかであるように思われる。部落解放運動について必ず当面する普遍現象-生き様を語る→「部落民」の自覚→差別に対して闘う→運動体への参画。この定型! 百歩ゆずってこれがある契機をもった者にとってのとりうるひとつの志向であるとするならば、他の無数の生き方が恣意性として、同様の同等の価値をもつものとして前提とされなければならない。この定型は必ず倫理を付帯するし、空間的に表象されると内部から地域性を固定する。地域性の解体をもたらすものとして恣意性の発現をとりあげることは定型を相対化しうるし、かつじゅうぶん実践してしかるべき内容をもちあわせていると考えられる。この恣意性の発現は個々の主観としてやってくるというよりはむしろ世界の側からくるものであって内部からする「部落」の規範力は恣意性の発現のまえに崩壊に瀕しているというのが実状である。この前提とさるべき恣意性の発現がもたらす相対的な解放感を遺制を復古することで内部から呪縛するのが内・外の当事者でありその共同的表象である解同である。厳密にいえば地域性の解体をもたらす恣意性の発現は二重に考える必要がある。自然過程的に世界の側からおしよせてくるものとしてのそれと個別的・具体的な契機としてあらわれる恣意性の発現とに。地域性の解体を空間的イメージで考えることは錯誤であるが、前者が無意識であるにせよ地域性のもつ閉鎖性を相対化しつつあることは事実である。後者のそれについていえば断固として恣意性を行使するのみである。

 しかしどちらにせよ恣意性の発現の結果もたらされた相対的な解放感は価値自体ではない。ぼくたちにとって切実なのは地域性の解体をもたらす恣意性の発現を前提にして更に別のことである。ここで問題は本質的に解かれねばならない。くり返せば遺制的な共同幻想としての「部落」が空間的に疎外され、実体であるかのように在る「部落」や、それをめぐって闘われているどんな形態にも部落問題の陰路があるのではない。自己意識としての「部落」「部落民」の無意識の根拠を歴史的に解体することが部落解放の最も本質的な課題である。三上治は「そしてこの(虚偽が真実のように転化した習慣化された知識や感性…森崎)対象化と思想的な止提は内在化された時間性としての資質が個体の直接的な関係や身体の成熟に伴う諸意識によって形成されたものでなく、逆に共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたものだから、個体の直接的な諸関係や諸意識に対する内省としての倫理からは不可能なのである」という。倫理で不可能なのは自明であるし、確かに「共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたもの」であることもまちがいない。どのような解決の方法がありうるのか。遺制的な共同幻想が時間的に疎外され個体に憑依したときの歴史的無意識としての「部落民」という自己了解の構造を前景におし出し逆にこんどはそれをあたかも実体であるかのようにみなさなければならない。ひとたび「共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたもの」を観念としての実体であるとみなす逆の操作が必要である。共同幻想としての「部落」論が紙一重のところで内部の当事者にとどかないということはこのことをさしていたといってまちがいない。外部の当事者にとっては強度のちがいはあれ自己意識が構成する共同幻想の内部で「部落」に対して恣意的にふるまうことはそう困難ではない。しかし実体として地縁や血縁から疎外を強いられてきた個々の当該者の数十~百年の累とした歴史は虚構の観念を身体感覚のように疎外し観念を実体化させたにちがいない。だから三上治のいうように虚構としての「部落」の無化は「共同体の歴史的現存性のほうから自己自体化されたもの」であるから「個体の直接的な関係や身体の成熟に伴う諸意識によって形成されたものでなく、個体の直接的な諸関係や諸意識に対する内省の倫理から不可能」なのではない。この論理は内部の当事者の最も切実な、しかし未だ論理を与えることのできない内部世界に決してとどかない。規範としての「部落」が優勢であった時期からの連続した、実体としての地縁や血縁からの疎外が歴史的無意識としての「部落民」を自己表出し、いまだ規範としての「部落」に浸蝕された自己意識があるとしたら遺制的な共同幻想である「部落」の時間的疎外形態である歴史的無意識としての「部落民」の自己了解それ自体の構造がまず問題にされなければならない。歴史的無意識としての「部落民」という自己了解に詰めこまれた時間の奥ゆきと密度が「部落」は共同幻想であるという外在批判でとどかなかったのは理由のあることだった。だとするならば肉体化された自己意識ともいうべき歴史的無意識としての「部落」「部落民」という自己了解を共同の幻想一般ではなく自体としての構造をもつとみなさなければならない。身体化された自己意識は観念として実体であるかのような強度をもつので、他の誰でもなく、自己にとってのみ切実で固有であるように解かれるはかない。ここでぼくたちは「部落」の初源にであうはずである。観念として実体であるようにひとまずはみなさなければならないというのは、言うまでもないことだが歴史的無意識としての「部落」や「部落民」のもつ現実性の解体のためである。この立場は「自己表現としての歴史の端緒自体」(吉本隆明「都市に関するノート」より一部抽出)を問題にすることができるし、「歴史の無意識が感性的に問い直されることができる」(同前)唯一の立場である。

恣意的感性の根拠-方法としての〈疎外〉論

    1

 戦後三十余年の時間の累積にまざれもなく結節が存在すること、ぼくたちはこの了解を理念的ではなくまず感性的に自己表現してきた。少くとも半身には自己体現してきた。60年代末期の全共闘運動や政治運動が戦後の時間の累積のひとつの結節をなしたことは明白である。結果の引き受け方が千差万別であるとしても等しくぼくたちはなにごとかを受感していた。表現された行為と自己の表出意識の背離感として。ぼくたちはその背離感にむかって言語を修辞し、喩としての言語表現を仮構した。が闘いは惨劇をもたらし、ほんとうのことを言えばぼくたちの内的意識体験は凍ったままである。内部にひきつるような窒息感を保存しながら世界はいま生きているのでもなく死んでいるのでもなくただ流れている。ぼくたちは革命の実現ということで世界に叛逆したのではない。なにごとも確固としていないその空自にむかってこそ喩を仮構した。だから結果として抱えこんだ惨劇に表現の根拠を与えたいとおもうとき従来のようにはいかないということにはじゅうぶん自覚的だった。直面した地獄のような事態に表現の根拠を与えたいとおもうときそうおもっているぼく自身の立っている基盤そのものが地滑りをおこしているのだから。二重のプロセスが必要だった。日本的なもの=ナショナリズムに対する考察と非戦後的戦後として自己表出された恣意的感性の現在についての内的構造に関する考察が。後者を表現の基軸におかぬどのような表現も情況を根底から把握することができぬということは、当体にどれだけ切実な課題があろうと、今後ますます明らかになっていくであろう。反近代から近代を撃つ!という範型は思想的には確実に終鳶した。
 この修辞的な世界にどのような表現の根拠をみいだすことができるのか。情況の現在をどのように像として把むことができるのか。
 発語の意識が表現に向かって矢のように集中しつつも周辺を旋回し像を形成せず、そこからはじきとばされるように暗くはなく、かといって明るくもない時間がただ流れている。そこには発語の主体をも景物のようにみている意識の流れがある。そこでは個性が解体させられただ平均化された意識が基調である。修辞的現在というベきか。いや厳密にいえばちがう。ほんとうは平均化された意識などというものはないのだ。誰もが生活や家族や卑小なことで坤吟している。これが現実であることにまちがいない。ただ以前ならばここから世界の像を構成しえた。が、何かがちがうのである。世界へ再び出立しようとする発語の主体がよって立つ現実の基盤が基盤もろとも地滑りしているのだ。この異様な体験は何に由来するのか。何がこの異様な感性を促しているのか。
 たぶんぼくたちは歴史の未知を体験している。この未知の歴史の自体的表象として修辞的現在のある側面や無機的な平均化された意識が疎外されているのである。これは明らかに個性を超えて現存する。尖端的意識や世界史の尖端でおそらく人類史の規模でこの歴史の未知の過渡を経験しつつあるように思われる。
 吉本は『死のサルトル』である意味でサルトルに自己移入しながら次のように述べている。

 そこで、サルトルはわたしたちに宿題をいくつか残していったとかんがえる。そのひとつは、マルクス主義ではなくマルクスの世界像はいまも可能で正当かを徹底的に検討しつくすことである。そのことは現実に世界に存在するマルクス主義の国家、制度、権力、諸党派の位置を、それらの外から浮き彫りにすることになる。それらが巨絶されるものか、修正されるものか、部分的に生きるものであるかという地平においてではなく、解答は板抵的になされるだろう。さらにもうひとつあげれば、歴史という概念は人間の存在、その存在仕方の全領域を覆うにたりるものかどうかを根抵的に問いつくす課題を、サルトルはわたしたちに置いていった。もしかすると人間は無意識のうちに歴史を作成してきたが、意志をもって塵史を創出するのに適さないし、また耐えない存在ではないか、それが自己偽瞞の体系を世界大に拡大し、いま自らその偽瞞の深い穴に人間は陥没しつつあるのではないか。人間という概念は事実という概念とまったく等価なものにすぎないのではないか。(「現代思想」1980年7月号)

 ヨーロッパのおいこまれかたの直接性にくらべ日本のそれが横に拡散したナショナルなものと二重に錯合した形態でしか現われない-この自体的表象として修辞的現在や風俗の現在があることはまちがいないものと思われる-ということをみておけば抽象の水準さえきちっととれば、同じ事態をみることは可能である。ヨーロッパが蒙っている危機やその表象との共時性が日本においても確実に存在する。確定された理念としてよりはまず感性的にあらわれてくる。
 「人間という概念は事実という概念とまったく等価なものにすぎない」のかどうか。
 ぼくたちの内的モチーフがこの歴史の未知の表象によく耐えその根源に向って垂鉛をおろしうるかどうかは今後の課題である。

    2

確かに受感されつつもことばを明確には与えられないこの歴史の未知のもたらす異様な感性の根拠をぼくたちは人間の自然からの離脱が質的に飛躍をとげ、自然-人間の相互規定としての〈疎外〉が新たな水準を獲得したということのなかにもとめようとしてきた。このことのもたらす感性的な変化は自然過程であり自体としては価値ではないが、ぼくたちの考えているより強力で奥ゆきがひろいようにおもえる。戦後過程が自己表現したこの非戦後的戦後意識は戦後ナショナリズムの横への拡散の極限的なあらわれとしてとらえることができるのかもしれない。ナショナリズムを自己表現としての歴史の連続性としてとらえるならば、そうであるといえよう。しかし、直観でしかいえないが、ぼくにはこの感性を促している根源は個々のナショナリズムの枠を越えたところで発現されているように思える。尖端的意識や尖端的国家において人類史の規模ですでにおこり、現在、進行中であるようにおもえる。
 歴史の未知の段階の現存を現実とすれば、吉本はこの現実の形態を資本主義社会の質的な変容と宇宙論の現在というふたつの基軸をもうけることによって占うことが可能であるという。
 次のような問いかけにはおそらく誰にもとまどいがあると思われる。19世紀の自然観に立脚したマルクスの自然と人間の相互規定としての〈疎外〉はある質的な変容をおこしている。これはよい。ならばなぜ〈疎外〉の質的な変容が宇宙論の現在という方法でつかまえうるのか。更にこの方法はなぜ歴史の未知がもたらすある異様な感性に根拠を与えうるのかで そのプロセスを示せと。
 吉本隆明はこれらの問いを自らに課しフッサール以降の現象学が捏起した問題に触れながらていねいに説明している。

 ただもうひとつ現在、問題になることがあるとおもいます。現象学的な理念が出現してから以後に気づかれたことです。フッサールやハイデッガー自体そうですし、その影響を受けたサルトルやメルロ=ポンティでもそうなのですが、マルクスが意識しないですんだことで、じつはほんとうは意識しなければ誤差を生ずるという問題が生みだされてしまったことだとおもいます。それは現代では、人間が現実から膜のように隔てられてしまったという自意識の繰込みに関係があることです。
 それは、理念として描かれる現実世界のなかで、行為や実践と具体的な実践の現実そのもののあいだには亀裂があるという意識の問題であり、また人間が、現実に働きかけるということと働きかけた具体性とはちがうということです。
 つまりフッサールのようにいえば、事実と人間がそれを感覚的に受容することの間には誤差が成り立ちうるということです。どういう誤差かといえば、外界の事物は、これに働きかける場合、ある視点からの〈射映〉をつうじてしか働きかけられないのだけれども、事物そのものは一つの永続性をもって自体で存在している、そういう存在性があるということです。
 ところが意識・観念あるいは幻想性を対象としていえば、「幻想性を対象とすること」と「対象の幻想性」というものは、おなじではないということだとおもうのです。メルロ=ポンティはこれを〈物〉としての存在と〈意識〉としての存在との間にはジレンマがあるというように説明しています。
 この間題に〈気づき〉ますと、マルクスの〈自然〉哲学の〈自然〉理念と、具体的な自然とは次元のズレを生じることになってしまいます。つまり、人間の思惟のなかに登場する現実性・具体性というものと、具体性そのものとは、おなじとみなされて済んできましたが、実はちがうということを繰込まなければならないことになるのです。
 そうかんがえますと、さきほど申しあげたマルクスの確実に認めうる〈歴史〉観-経済カテゴリーだけは〈自然史〉的に扱えるということと、すべて人間の現実的具体的活動がそこに意志的に集約するなら〈歴史〉は意志的に変りうる-は、そのままでは通用しなくなります。つまりある対象的なことがらを〈自然史〉として扱うということは、対象が〈自然〉そのままであるということと、人間がそれに働きかけて対象とすることによってそれを〈歴史〉とするという考え方の両方が含まれていますが、そのことと〈自然〉は人間が働きかけなくてもそれ自体で展開していくものだということとは、別の意味だということがしだいにわかってきたのです。
〈対象〉自体と人間が対象としたときのその〈対象〉とは、まるでちがうものだということを現象学は発見したのです。それ以後、思想は大なり小なりそれを考慮にいれなくては、マルクスを受けいれることができなくなってしまいました。(『世界認識の方法』所収「表現概念としての〈疎外〉」)

 マルクスの時代の (自然)と(自然理念) の間には比喩的にいえば一意対応が成り立っていたということができる。つまり現実形態の自己疎外する全観念領域の部分をなす自然科学の自然認識の水準に自然像はその根底で規定されていたといってよい。これはもちろん時代の制約に帰すべきものである。ぼくたちの時代の自然認識や自然からの離脱は自然史的過程については目もくらむほど高度になったといわなければならない。この領域に関してならたとえばマルクスの『数学手稿』をひきあいにだすまでもなく決定的である。(運動)や連続する(量)の分析の方法である徴・債分やユークリッド的空間概念から、象徴としていえばヒルベルトの『幾何学の基礎』にはじまる(自然の切断)/カソトールによる無限概念の拡張/アイソシュタインの相対論にはじまる時間・空間概念の拡張/更に量子論-量子力学のはじまり。およそ一世紀前に開始をつげた自然接念の革命、人間の自然からの離脱の高度化、感性的対象としての自然との一意対応の切断。そしていま、ぼくたちは、この一世紀の時間に詰めこまれた自然科学的(知)の新たな自己表現にたちあおうとしている。
 情況を占う二つの基軸のうちの経済社会過程の質的な変容はとりあえず留保して、自然概念の新たな自己表現について吉本隆明の発言を続けてみる。

 ぼくは、自然史的過程だけについては相当はっきりしたことが言えるんじゃないかなという気がするんです。はっきりと、ピタッて決まっているんじゃないかなってね。それをひとくちで言っちゃうと、物質観が革命的に変わっちゃったということだと思います。自然科学および科学技術の発達というところで、根本的に変わっちゃったなあということがあります。それはたとえばエンゲルスの時代と今との違うところだと思うんだけれど、エンゲルス流の自然弁証法みたいなのでいえば、物質という概念は、感性的、感覚的かつ具体的現実的にとらえられるものとして、こういうふうに形があるとか、勾いがあるとか、目で見ると色があるとかというように、物質とはそういうものだというとらえかたでまちがいなかったと考えていたと思うの。ところがそれがすこぶるあやしくなっちゃって、今の物質概念というと、ほとんど素粒子とか幅射とか、つまりエネルギーですからね。エネルギーというのが物質概念で、これは感性的なもんじゃないんですよ。まあ感性的ではあるとしても、少なくとも直接的には感性的じゃないんです。こういうふうに手応えがあって、感覚的に対象として確固としているからこれは物質であるというふうには言えなくなってしまったところに物質概念がうつっちゃったということだと思いますね。そのことは何であるかということは全然はっきりしないけれど、自然史過程におけるそれだけの革命的な変化というのは、連中が言っている唯物論ってなもんじゃダメなんですよ。それは唯物論じゃないんです。ものっていう概念がちがってきちゃった。それが反映しているっていうんじゃないんですよ。そうじゃないけれどそれが相当大きな問題なように思います。(インタビュー「大衆・知識・思想」『伝統と現代』1978年5月号)

吉本隆明のこの発言は歴史の未知のもたらす異様な感性の根底をぴたっときめているように感じられる。しかし確かにそれと感じられるということをある抽象の水準で論理的にたぐろうとするとみえない幾重にも重なった抽象をプロセスとしてふまなければならないということにすぐゆきあたる。ながい間ここで逡巡してきた。いちどにそこに到達できるとは思わないが経験を手がかりにしてそのいくつかをできる限り納得のいくようにときふせていきたい。

       3

 ぼくにとっては切実でまた誰にとっても多少は思いあたるとおもわれる経験的なことからはいっていく。逆説的に問題を提出してみる。
 さて数学のおもしろくなさはどこからくるか。あるいは科学のおもしろなくさはどこからくるのか。あるいは、何故ぼくは科学の世界に身をおくことができなかったのか。ほんとうはこの問いのなかに未知の厖大な課題がある。
 ふと気がついた時ある世界のとばぐちに立っていた。ぼくにとって自然-生物学はそのようなものとしてあった。夢をふくらませてそれにかけようとした。が68年はぼくを別の世界へと駆り立てた。とりあえずこのように考えてみる。ここに何があるか。自己の内的世界へのいらだちと世界への否定の意志にとって疎遠なものとして科学があらわれた。いかにもそうである。固有の一回性の生を生き急ぐ意志は肌ざわりの確かさのない科学を激しく拒絶した。しかし科学の政治的裁断や個の倫理はなんら問題の所在を穿ったわけではない。そういうことは別にたいしたことではない。経験や時間の積み重ねがそれらを部分化してしまうからだ。ぼくたちが手にしたいのは科学についての極めて本質的な把握なのだ。
 吉本隆明以降のすぐれた思想家のひとりである菅谷規矩雄は近代科学について次のように言っている。

 自然科学(ひいては近代の科学総体)が対象とする自然(存在=カテゴリイ)の内部には実存(人間の死)は包摂されない。…(中略)…科学にとっては、存在と対象とはつねに無限近似(客観性)の関係にある。この関係は自然に対しては測定・計量システムを疎外する。その本質は自己表現ではなく、対象の近似的〈表現〉である。ここに科学者と人間の実存(大衆)とのさけめもまたある。(『国家・自然・言語』)

 思わず誘い込まれそうな魅力的なことが述べられている。科学についての本質的なことが述べられているようにみえる。以前なら我が意を得たとばかりに首肯したことは疑いない。しかし菅谷はここで失敗しているのだ。かつてのぼくたちのように。ぼくたちは闘いの渦中にあるとき政治の表現する世界のあまりの貧しさに文学と政治をこのように対位させて考えたことがなかったか。これと同じ事態をみてとれなければぼくたちは永遠に敗北を続ける。ほんとうはここで何が言われなければならないのか。ぼくはここで(文学・政治)と人科学)の対位構図を止揚しょうとおもう。何が必要か。おそらく科学の自己表出(史)という視点である。文学が現実の一方の極を対象とした自己表出であるとしたら自然科学は自然を対象とした現実の自己表出である。極めて本質的に言えばこう言いうる。両者とも現実の自己表現であることに何らちがいはない。文学・政治も科学も〈表現〉(史)という視点でとらえうるし、またそう構成されなければならない。文学に作品と批評という関係が成立するように、科学にも原理の発見(作品)と批評(の原理)の関係は成立する。科学が自己の内部世界の切実さと疎遠であるかのように現われるとしたら、作品ともいうべき原理の累積を批評する批評言語やその原理が現在までのところ不在であるということに帰せられる。これこそが解決さるべき本質的な課題なのだ。実存と客観を対立させることに本質があるのではない。科学者は科学の無償性に促されて作品を創作したとしても、彼らは何をなしつつあるのかを跡づけることはできない。だとしても自然科学が自然を対象にした現実の自己表現であることはまちがいない。かつてぼくたちが科学の世界に身をおこうとしておこしたアレルギー反応は自己表出(史)としての自然科学(史)・数学(史)が現在までのところ不在であることの表象であったといえる。問題の本質はそこにだけある。これは疎外論の変容を宇宙論の現在として連関づけたいだけがためではない。それ自体としての構造をもつというべきである。

 機能の論理が正系を占めるのはまちがいないとしても自然-人間の相互規定としての疎外の質的変容は〈文学・政治と科学〉の構図を極限化して顕現させるだろう。一方は徹底した機能の論理=科学的神学の姿であらわれ、もう一方はそれに対して反科学、科学の部分性等々という形容に形容を重ねたものとして。いくところまでいけばよい。ただそこに問題の本質はないだけだ。現実形態の自己表現する観念形態のある部分として自然科学や数学の観念が位置する。これをひとつの極とするならば、自然科学、数学的観念それ自体の自己表出する観念形態-抽象領域を想定することができる。このふたつの極にはさまれて自然科学、数学の現在=情況があらわれるというべきである。

    4

 もうひとつ経験からはいっていく。数学(物理)の無限(とそれをめぐる諸問題)という概念が高校生のときもそうだったがよくわからなかった。どうしてもわかったような顔ができなかった。今おもえば受験数学や受験なんとかでわかるはずもなかったのだ。わからないということには相当の根拠があったといってよい。〈無限〉の科学的記述にこそ近代科学の起源があったのだから。経験と仕事柄当面している問題を手がかりにまたひとつ科学についての仮説を提起してみる。
 おそらく、神(という概念)に自己意識の無限性を仮託することができなくなった-ということは神が世界の地平から失効した時期-ということと近代科学の始源は軌を一にすると考えてまちがいないものと思われる。自己意識の無限性を神にあづけることができなくなった自己意識は自己自身に反射する。観念は不可避に無限を自己表現しようと志向する以外にないはずである。じつに近代科学はいくらか喩を交えていえば無限をめぐる諸問題の科学的記述のしかたの相違に端を発したというべきである。自己意識の無限性の自己実現の諸形態としてひとつに近代諸科学があったと考えるべきであって近代科学がその発端において人間の実存を内包していなかったというのは結果論である。現実や観念の自己表出に促されて科学は作品を創作し続けその極まったところに科学の現在が位置しているのではないか。近代科学が神に仮託することのできなくなった自己意識の無限性の自己実現に端を発しつつも、自己転回の現在があたかも人間の実存と無関係のように現われているということは時代の制約に帰すべきものであり、現在問題の本質は別に立てられるはずであり可能であると思われる。それこそが累積する作品を批評する批評言語とその原理の不在であり、自己表出(史)という視点から批評の原理=基礎論を構想することである。この視点以外に文学・政治と科学の不毛な対位構図が解決されることはない。

 基礎論の領域が現在までのところ不在であると言い切るのはほんとうは正確でない。ぼくたちは遠山啓の仕事をもっている。この領域で遠山啓はどのような表現をなし、また何を未踏としたまま遠山啓は逝ったのか。
 遠山啓は現実形態の自己表出のある領域が教学的観念の諸形態であることをていねいにたどり表現し、かつ数学的観念はそれ自体の自己表出の観念領域をもつということを明確には表現せぬまま中途逝ってしまった唯一の数学者ではなかったか。ぼくたちが遠山啓の仕事に感じるみとおしのよさと、もの足りなさはこのなかにあったという気がする。
 前者について遠山啓は既に三十年近くも前に現代数学のおちいる危険性に向けて警告を発している。

 抽象的ということは現代数学がしばしば受ける非難の主たるものである。たしかに数学が自己の真の地盤である自然とのつながりを忘れ、ただ自分自身の興味だけに駆られ、抽象化の方向にのみ進んでいったら、実在の世界から浮き上がり、やがて学問自身の死がやってくることは疑いの余地がない。たしかに現代教学のなかにこの抽象化のための抽象化という危険がないとはいいきれないだろう。このような危険に打ち克つためには、一方において具体化への執拗な努力が行なわれなければならない。表現という手続きはこの具体化への試みと考えてよい。(『無限と連続』)

 現在手に入る限りの著作についていえばぼくたちは遠山啓の表現の首尾一貫性におどろかされてしまう。現在ぼくたちは表現された現代数学の〈知〉の建築物の緻密さを前にしてほとんどたちいるすべを知らない。しかしこのことは基礎論の領域が不在であるとするぼくたちの立場をいくらかでも軽減するものではない。固執するにじゅうぶん値すると考えられる。吉本隆明は次のように言っている。

なにが問題なのだろうか。数学的な(構造) の与件となる(理念)は、意識の相関性である限り無限の自由度をもっている。けれど他方では〈理念〉であるかぎりにおいて、無限にある度合の普遍性を融解して高次の普遍性にゆくに相違ないことである。ここに数学基礎論のもっとも重要な課題が潜んでいるようにみえる。(『初源への言葉』所収「遠山啓さんのこと」)

 後者のこと(と思われる)について遠山啓は『数学の未来像』としてその骨格を次のように言っている。

……本来の構造というものは動かない。空間的ではあるけれどども、時間的ではない。ところが、実際のものは構造をもっていて、しかも、変化する。つまり時間的に変化する。だから、構造ということだけを考えていくと、どうしても空間的な面だけが強調されて、時間的な面がおろそかにされるという傾向があるのです。構造は、建物を理解するのには都合がいいが、生物の現象を理解するのにはどうしてもかたよってしまう。生物は変化している。こういった点で、やはり、空間的であって、しかも、時間的であるような、両方をかねているような概念が新しく生まれてくる必要があるのではないか。そうしないと動的な面がどうしてもおろそかになります。
                    (『数学は変貌する』)

 空間的であって時間的な新しい数学の必要性という必要にして十分な数学の未来像がえがかれている。このくだりをみつけだした時思わずとびあがったほどである。ここからぼくたちは何を予感すればよいのか。ふたつあげてみる。
 ひとつは〈構造〉という概念が数学の全対象領域をおおいうるかという問いに対して動的体系という新しい数学の到来を素描してみせたということ。しかし数学的〈構造〉の自己表現としての動的体系の命運はまだ確定すべき段階ではないように思われるし、ひとまずは純粋に数学固有の領域での事件であると限定しておくことにする。
 ふたつめは、構造という概念は生物の諸現象を記述するのに静的であって限界をもっているということから発して動的体系の必要性を説いている点に関してである。これはもちろん遠山啓の「具体化への執拗な努力」として述べられているのであって抽象の水準が想定されなければならないことはいうまでもない。現代数学は不可避にその方向をめざすだろうということを認めた上で別様に問題が立てられると思われる。現代数学がそのことを意図するのかどうかにかかわりなくあることを示唆しているように思われるのだ。ぼくたちの理解では全観念領域の内部で数学的観念の占める位置についての手がかりが提示されているように思われる。それはまた現代数学の無意識の表象であるかもしれないが。イメージで語ればこうである。空間的に配置された全観念領域があるとしてそれらを時間化した時の了解の時間の質やそれら相互の関連を解く手がかりがあたえられているように思えるのだ。層別化された自己表出の多様な時間の質とそれら相互がどう関係しているのかを解く手がかりが。ぼくたちの直観にまちがいがないならばこれはおそらく人間の認識様式、思考様式の窮極的な課題と不可分に結びついているはずである。あとでもう一度ぼくたちはこのことにであうだろう。

    5

 神が消失した世界の地平に始めて自己意識の無限性が自己自身に投射し、観念は不可避に無限をめぐる諸問題を近代諸科学としてひとつの極を表象した。その果てに情況として、創作された諸作品を自己表出(史)の視点から批評する批評の原理が基礎論として構想される必要があるということを、科学の現在的課題であるとして仮説を提起してきた。そこで宇宙論の現在が〈自然観〉や〈物質観〉に変容を与え、そのことが世界認識として非常に大きなベースをなすという吉本隆明の発言に近づくためにもうひとつ仮説を提起する。いままでのところ直観的にそういう気がするという以上のことは言えないが敢えて踏み込んでみる。
 現実形態の自己表出が観念形態であるとして、その部分としての自然科学的観念(物理的観念)や数学的観念が、自然と人間の相互規定としての〈疎外〉という観点からみれば現実の自己表出のある尖端的表象をなすのではないかということである。なぜ現実が自己表出する観念の尖端的表象として物理や数学の観念が位置するのかというその構造は現在までのところ不明であるとしても、事態は現在的に尖端的表象としての物理や数学の認識が人間の自己意識のありようそのものを基層のところで規定するに足るほどの強度をもたらしているのではないかと思える。理論物理や数学の観念の高度化は現実そのものや観念の自己表出の構造が促しているとしてもである。

#1哲学がいくら概念の抽象化を行なうとはいえ、「宇宙」、「無限」、「時間」等々の概念を論ずる時に人々の念頭にあった具体的表象は、やはりおのおのの時代における自然認識と社会思潮とに制限されたものであったに違いない。

ここで時間というきわめて抽象的概念を考察しようとする際にも、やはり現代の自然(人間の意識を含む)観をふまえなければならないであろう。時間は種々の場面で用いられるが、大別すれば、意識過程や社会過程に関したものと物理的過程に関したものとになり、両者の複合したものとして生物的過程がある。(佐藤文隆『宇宙の創成』所収「宇宙論と時間」)

#2一般相対論は膨張宇宙の初まりにはこのミンコウスキー時空が存在しないと結論するのである。そこで現代の物理学は一切御破算になっているのである。一番徹底した形で因果的記述を裁断しているのである。
 それでは我々の宇宙は一切の規則から自由な存在としてそのスタートを切ったのであろうか? これに対する一つの常識的解答は一般相対論の結論は不十分であって新しい法則によって特異点は解消され、我々は因果的にさらに過去にさかのぼれるようになるというものである。しかし、これには無限に続く過去という、「過去がない」と同様に病的な、結論にいきつく。
 この法則が変わるということの意味にもいろいろなタイプがある。単に現在のそれがより一般的法則の近似であるという可能性もあるし、法則が生まれてくるという場合もある。すなわち我々の宇宙での物質の特殊なあり方に対応した法則がしだいに確立してきたという考え方である。それは丁度、地上の生物の法則は生物の発生とともに成立するように、物理法則のあるものはこの宇宙の特殊性に依存して定まったという可能性である。
 もう一つは超宇宙的存在から生み落されたという筋書きである。勿論、超宇宙の存在自体の説明に同種の問題が発生するが、我々の宇宙を小宇宙と認定することで暫定的解決を計ることである。この場合も物理法則のある部分はこの小宇宙の特殊性に依存しているかも知れない。
 いずれにせよ物理法則が宇宙を超越した存在であるかどうかという問題が提起されているのである。

 最近、こうした着想を→そう拡張した宇宙論における「人間的原理」という考えを唱える人もあらわれた。これはまず我々の宇宙が、人間あるいは他の知的存在を許すように非常に都合よく出来ている点に着目する。そしてこの都合の良さ、合目的性は偶然ではなく、このように都合のよい宇宙だけが認知しえる物理学の体系なのだと考えるのである。他の場合では多分そこにそれを認知する知的存在が現れず認知されない。知的存在との関連でのみこの宇宙での物質の法則があるのだというわけである。人間はそこでは単なる宇宙の傍観者ではなく、認知しえる宇宙を形成する上では欠かせない存在となる。
 筆者には人間まで持ち出して物理法則の起源を論じようとするのは少し行きすぎのようにも思えるが、物理法則のある部分が我々の膨張宇宙の特殊性に依存してあるのだという事は本当のように思える。(佐藤文隆「宇宙の中で」『現代思想』1979年7月号)

#3われわれの宇宙は、たとえばNr~10の90乗という量で特徴づけられる。なぜこんな特別の値をとっているのだろうか? こういう問への答え方は、単純な物理学上の問題として考えるのでは不十分かも知れない。物理法則や物理定数自体が宇宙の構造と関連して決まっている可能性がある。たとえば地上の重力は地球という特別の環境においてのみ普遍的なものであるように、物理法則もわれわれの宇宙という特別の環境においてのみ妥当なものかも知れない。″他の宇宙″では物理定数が違っている可能性がある。
 ここで″他の宇宙″とか″われわれの宇宙″とか宇宙があたかも複数あるように考えているが、このことは可能性として十分念頭に入れておかねばならない。少なくともわれわれの宇宙自身の特性を自覚するには他の可能性と引きくらべて理解するのが一番よい。
 単純なこの種の議論をひとつしてみよう。もしNrがわれわれのより小さかったら時間のスケールの小さい宇宙となる。そんな宇宙では多分長時間安定した環境が要求される生命の起源はおこりえなかったであろう。したがって人間のような知的存在もなく、なぜわが宇宙のNrがたとえば 10の60乗なのかなどと問われないわけである。
 このように考えると、問題はどんなNrの宇宙が″問われる宇宙″となるか、すなわち認識可能宇宙となるか、という具合に変質する。なぜ膨張宇宙かという問も「そんな問を発する知的存在はどんな宇宙の段階に居合わせることになるか?」という問として考える必要がある。そしてまた″問われる宇宙″と″問われない宇宙″があり、″問われる宇宙″の知的存在は″問われない宇宙″にまで想いを駆せる義務があるであろう。

「宇宙は自己励起の回路のようなものです。宇宙は膨張し、冷却しそして進化するにつれて、観測者がついに実現するのです。この観測者の参加こそわれわれが感知しえる実体性と呼ぶものを宇宙に与えることになるのです」(J.A.Wheeler)〔中略〕Wheelerの議論自体は量子力学の観測問題を論じたものだが本文中の内容と主旨において共通するのでここに引用した)
(佐藤文隆「″問われる宇宙″から」「日本の科学と技術」特集天文学の最前線1980年7-8月号)

 ぼくたちに尖端での自然観・物質観を刻々とおくり続ける佐藤文隆の世界を発表された時期に沿って任意に抽出してみた。#1は佐藤文隆の方法意識であり、#2は宇宙論の現在であり、#3は#2と微妙なズレをもつと思われるやはり宇宙論の現在である。任意に抽出されたこれらの引用からぼくたちは何を予兆のようにうけとればよいのだろうか。詳細にたち入ることはできないとしても、ぼくたちは表現された宇宙論の現在にある何かを確実に感じとれるように思われる。いくつかとりあげてみる。ひとつは現代宇宙論の現在のもたらす〈自然観〉の革命は必然的にぼくたちのもつ先験性ともいえる時間概念や空間概念を相対化してしまうであろうということ。このことのリアクションは必ず〈自然〉自体と人間が対象としたときの〈自然〉との間に亀裂を生ぜしめる。感性的対象としての〈自然〉理念は変貌をとげつつある〈自然〉理念から感性的には→意対応を切断され、疎外される。社会の高度化がもたらす人工的自然の膨化やこの疎外された領域が自然と人間の相互規定的概念としての疎外に質的な飛躍をもたらすことは確実であるように思える。もうひとつはひとつめと不可分に結びついているが自己表現された多様な自己了解の時間性の質や相互の関連、あるいは多様な了解の系列を統括する時間とは何か、叉それは可能かというおそらく人間の認識にとっての窮極的な課題を孕んでいるようにおもわれるのだ。佐藤文隆は無意識に越境し、逆説的にこの最後的な課題が存在することを照射しているように思われる。ぼくたちがここで当面している課題は個別理論物理や個別現代数学のわくをはるかに越えて人間の認識様式・思考様式そのものを問うているようにおもわれる。

 ここにはほんとうはどういう問題があるのか?
 かつてはこの問題は神学と観念論との、観念論と唯物論との、また思惟の対象とその対象が対象的な思惟の外に客観的に実在するかどうかの哲学の闘争場であった。けれどその意味での観念論か唯物論かという対立はすでに宗教的な思惟の問題が世界の主要な地平線から没してしまった以上、局部的な課題でしかあり得ない。そしてこの意味ではさまざまな色合いをもつ観念論と唯物論とはそれに固執することがすでにどんな意味を開くこともないということで博物館に陳列してみせることができるだけだ。そして陳列室に番号をふることができるし、類別することができるとすればその規準は観念論であるか唯物論であるかでもなければ、自然科学的であるか反自然科学的であるかでもない。それは多様な了解の時間に番号をふり層別化できるかどうかによっているようにおもえる。

「地球中心的」であるか「宇宙中心的」であるかはただ自然認識の尺度の問題にすぎないように、「自己意識」を中心に客観的世界を展開するか客観的な実在を中心に「自己意識」の世界を解釈するかは何ら〈あれかこれか〉の問題とはならない。それらは了解の時間の質と量の差異としてひとしくある認識の球面に位置づけられるだけである。何を「中心」にして対象を解釈するかはどんな時間の質と測度をもって了解するかということを別に云いあらわしているだけである。自然科学の認識はただひとつ自然の客観的な時間をもとに「星雲から人間まで」を理解しようとする。そこでは生物も無生物とおなじように〈物質〉なのだが、どうして「自己意識」が入りこまないのかといえば自己了解の意識という了解の時間が自然的あるいは(物質)的な実在に帰せられない(自然のなかに場所がない)からであってそれが幽霊のように自体で浮遊しているものだからではない。(吉本隆明「宇宙の島」『初源への言葉』)

 #2から#3へと流れる意識の微妙なズレ(と思われる)は吉本隆明のこのふたつの引用できちっとおさえることができる。つけ加えるものはかくべつないといってよい。しかし個別物理の対象とする時間(とその質)からの無意識の越境(と思われる)がひきおこしている混乱はあることの象徴のように思われる。個別科学についての素人や個別科学の専門家のしたり顔をした相互の越境にはよくおめにかかれても手ごたえを感じさせる越境にはほとんどであうことはない。そういう意味では何かを予兆させているといわなければならない。個別物理学の対象とする時間の質の現在が不可避に自己意識の時間そのものを問題にせざるをえなくなった(たとえ無意識の越境であるにしても)その追いこまれ方には何かがあるといわなければならない。吉本隆明の言うように「それらは了解の時間の質と量の差異としてひとしくある認識の球面に付置づけられるだけである」とするならば比喩でしかいうことができないが、ある認識の球面の中心では時間が統覚されなければならないのではないか。層別化された多様な了解の時間をいま縦軸におきかえればこれは同時に自己表現としての歴史内部の時間の統覚として比喩的に語ることができるように思われる。

 〈自然〉と〈歴史〉との相互的な関係をみるのに「歴史はただ自己意識ある有機体の発展過程としてだけ自然の歴史と異っている」(森崎注・エンゲルス『自然弁証法』)という考えはそれ自体がまったく無意味なものなのだ。なぜかといえばこれは「自己意識」の自然的な生成をただ自然時間の了解をもってのっペら棒に割りつけているだけだからだ。(同前)

 神秘的な衣をかぶせた俗物思想や唯物論あるいは科学的神学であるこの種の虚妄さにぼくたちはうんざりするほどであうことができる。しかしこの非連続の境界領域は抽象の尖端が必然的に尖端を表出する人間の認識・思考様式そのものを問題にせざるをえないところに追いこまれるように、ぼくたちの批評の意識が不可避に志向する領域でもある。この領域についてぼくたちは確定しうるに足る何ものもまだもちあわせてはいない。人間にとって最終的な課題はいぜんとして人間そのものであるということを歴史の未知に告げるためこのトポロジカルな特異点は断固として解明されなければならないことのように思われる。
 抽象に抽象を重ねる震えるような自己意識の尖端でぼくたちは何にたちむかおうとしているのだろうか。

 この〈痛ましさ〉(注 不具・障害・病気に出遇う時感ずる痛ましさ・有機水銀中毒症のもつ痛ましさ……森崎)の識知は、被害者の「植物的生存」への病変退化が、非人間的生存である段階から非動物的生存である段階をへて無機的存在〈死〉へつらなる連鎖の最終段階にまで生存が追いこまれてゆくことの識知に基いている。意識しているかどうかにかかわらず、生存の最小与件にまで、生存そのものが追いこまれてしまっているということが、この〈痛ましさ〉の本来的な意味である。同情、倫理、公害、政治問題という連鎖は、問題の一部にしかすぎず、人間の存在にとっての最終の問題がここに微弱な匂いで象徴されているとみることができる。(吉本隆明「身体論Ⅵ」)

 おそらく直接に、〈人間〉という概念が可能かということに出遇おうとしている。無限に抽象に抽象を重ね続ける多様な了解の時間が現実との一意対応を喪失し、膜のようにその無意識によって現実から隔てられてもひとつの基底だけははっきりしている。このたとえようもない困難な抽象の高みで、しかし吉本隆明は、ぼくたちが何を根底において出発すればいいのかということについて暗示とも思えることを述べている。

 この遅々とした五感の発達と変遷の過程は、本質的には、言語表現の遅々とした発達と変遷の過程と類比できるものである。五感の発達と変遷が、身体の発達と変遷の遅さから逃れられないように、言語の発達と変遷の遅さも、言語の規模(文法)の発達と変遷の遅さから逃れられない。そして、たぶん、規範の最終的な枠からは永遠に逃れられないのではないか、という悲観的な結論に到達せざるをえない。これは五感が身体の枠組みから永遠に逃れられないのではないかという認識と一致する。(吉本隆明「感覚の構造」『初源への言葉』)

 たとえば数学の大きな作品は自然をそのままに叙述することを意図しているのではないにもかかわらず、自然の写像たりうるのはなぜか。また自然を切断したところに数学的観念それ自体の自己表出の機構にうながされて新たな作品が創作されたにもかかわらず、自然によく整合しうるように思われるのはなぜか。あるいはまた、逆に無限に抽象を重ねているように思える現代数学の構造理念は、どのように自然と切り結ぶことができるのだろうか。認知しうる宇宙(と認知しえない宇宙)は認知しうる自己意識をもつ生物がいるから認知しうるのだという自同律にも似た逆説的なある混乱は何を認識の基底にすればよいのか。尖端の自己意識が中心を喪失し像を結ばず感覚的なイメージによってしか自己表現をなしえないという情況の課題はどこに帰属すればよいのか。あるいはことば=時間や身体の最小与件としての空間のふくらみ、即ち対-家族の解体に瀕した規範はどこにその新たな水準を確定しうるのか。これら抽象の極みでぼくたちは無意識に初源の身体を自己表出している。このことからふたつのことをひきだすことができる。ひとつは言語表現が規範を、五感が身体を台座とするということが同型をなすとすれば両者はある対応をなすはずである。とするならばこれは「悲観的な結論」であるかもしれないが同時に徹底的に〈論理〉でありうることを示しているように思われる。ふたつめはこれを基底となすことができればその余は認識の歴史的現在だけが問題になるはずである。無意識に自己表出された初源の身体はこれらふたつを意味していると思われる。自然過程的にもたらされた〈疎外〉の新たな水準は原理的にはこの認識のうえに着地されなければならない。

 確かに受感されながらも明確にはことばを与えることのできない、歴史の未知のもたらす異様な感性の根拠を〈疎外〉の質的変容にもとめようとしてここまできた。経験や感性にどれだけ論理の筋目をつけることができたかはよくわからないが、〈疎外〉の質的変容が人間の自己意識、観念のありようそのものの変容を強いているようにかんじられることだけはまちがいないものと思われる。自然過程として不可避に疎外されたこの〈疎外〉が根源のところで尖端的自己意識や現実過程におそらく人類史の規模で未知の〈生き難さ〉を発現しているということができるだろう。情況としていえばこの歴史の未知のもたらす感性と日本的なものと二重化されたところに修辞的な現在を自体的に表象させている。自己表現としての歴史の内部ではナショナルなものの横への拡散の極限とある対応をなして恣意的感性すらが解体的に浮遊させられている。しかしこの非戦後的戦後はある抽象をほどこせば別であるがナショナリズムの連続性という単一の時間でつかむことはできないようにおもわれる。もうひとつ別の時間軸を導入することが必要である。ぼくたちはこの〈疎外〉の根源に垂鉛をおろすためにまだ視えないいくつもの迂回路を経なければならないだろう。

 いまはじめてぼく自身の68年~の政治的運動や部落解放運動への関与は体験のことばから戦後の時間の拡がりの中へでていこうとしている。歴史の未知にぼくたちのナショナルな体験をうまく接続することができるか。(『乾坤』8号1981年5月)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です