日々愚案

歩く浄土171:情況論58-外延知と内包知8:総転向論

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グローバル経済とビットマシンが世界を駆動している。この世界では適者生存が自然だとされる。わたしたちを惑乱させる人類史的な大変動には理念というものがない。ただひとつ、投下した資本を効率的に回収することだけが善とされ、その余は無駄なことだとされる。かくあれかしという世界への意志は蒸散し、生成流動する世界の属躰になることによって、そのことを前提として民主主義も語られてきた。世界を激変させる猛烈な力に国家は抗することができず、身をかがめるように内面化をはじめ、臨界を越えてメルトダウンし、国家の指導者の私性によって国家を私物化として運用する事態が起こっている。この変化の過程のすべてが私性に収斂する。おおきな自然に生の余儀なさとしてちいさな自然が同期する。ここにはどんな世界観もない。まるでサルトルの『嘔吐』みたいだ。おおきな自然に刻まれた符牒が人間であるということにすぎない。おおきな自然とちいさな自然は無分別である。無言の条理が迫り上がるごとに生は希薄になり、金と健康だけが生の目的となる。この世界の変化のどこにも人間の意志を歴史として体現する余地はないようにみえる。世界を構想することができないと、二重の属躰化が起こる。グローバリゼーションを自然として受け入れ、まずこのシステムの属躰となる。この変化はすでに自然なものとなっている。世界はわたしたちのどんな意志とも関係なく自然に生成する。グローバル経済とハイテクノロジーは国家という共同幻想を超えたもっとも強大な共同幻想として現象している。

伝統的な国家はどう対処するか。国家もまたグローバルな変化の下位の属躰としてあるので、精神を退行させることで対抗する。内面化した国家は国家権力を握る者が私物として私性によって運用する。人びとは国家の内面化によってさらに属躰化する。この過程も自然である。そうするとわたしたちの属躰化は二重化される。まず世界システムの属躰となり、しかるのちに内面化する国家の属躰となる。世界システムは人びとに否応なくアスリートであることを強い、そのことを人びとは受容するしかない。これが世界の標準モードなのだ。即ち、人びとは強制的にシステムの下で総アスリート化される。人びとは意識することもなくこのシステムを受け入れている。もう社会にはすきまがないので、ここから墜落すると市民社会の外にある不可視の例外社会を生きるしかない。そこまで生は追い込まれている。民主主義は使い回すもなにも、どこにもなく、すでに理念は底抜けし、むきだしの生存にさらされているということだ。中間共同体の相互扶助もなにもあったものではない。これから競争から共生の時代が到来するということは夢のまた夢である。国家が内面化すると個人の内面は行き場をうしない、電脳社会のもたらす機能的感性に飽き足らず、日本的な情緒の自然生成の粋である心情的な天皇親政に移行する。この過程も自然に起こる。なにもかもが自然である。共謀罪が成立しカルトな心性が憲法を停止すると生を引き裂く権力が身を躍りだす。国家の私物化も私性による恣意的な運用も自然な生成の過程を踏むだろう。

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ケヴィン・ケリーは、『〈インターネットの次に来るもの〉』のなかで、人間とビットマシンの融合した知性のことをホロスと呼んでいる。人間という概念をコンピュータの演算力でさらに外延化できるという信仰である。「私はこうした惑星レベルのレイヤーのことを、ホロスという短い言葉で呼ぶことにする。この言葉で私は、全人類の集合的知能と全マシンの集合的行動が結び付いたものを意味し、それにプラスしてこの全体から現れるどんな振る舞いも含めている。この全体がホロスに等しいのだ」。ケヴィンのたわごとよりもこの本が、BECOMINGで始まり、BEGININGで終わることのほうが刺激的だった。日本的な自然生成という情緒はよくしっているが、欧米人の自然生成はしらなかったからだ。人間の知性とビットマシンの二進法を結合しうるという信念が「成る」と「始まり」という意識の流れを生んでいると思った。人間の知性を電脳のなかに外延すれば、欧米においても意識は同一性的な自然生成となり、生はかぎりなく縮減することが予感される。人間が科学知の属躰になるにつれて生は自然生成的なものに漸近していくことになる。そこにはなにかこれからの社会の象徴的なものがあるような気がして仕方ない。まずわたしたちの国の伝統的な自然生成があり、それを取り巻くさらにおおきい人工的な自然生成がわたしたちの生を覆っていく。意識の外延表現をたどるかぎり、わたしたちの生は自然な生成として二重に属躰化されることになる。人間は総敗北し、人間という概念を縮小させてシステムに同期するしかないのか。

このあたりのことはSF小説の独壇場である。アン・レッキーの『叛逆航路』シリーズやピーター・ワッツの『ブラインドサイト』や『エコープラクシア』、柴田勝家の『ニルヤの島』というハードSFに詳しい。伊藤計劃の『ハーモニー』に郷愁を感じるほどだ。すでに人間は融合的知性の部分でしかありえないことが物語の前提となっている。人間の知性がハイテクノロジーの属躰であることを日常とするとき人間の意識に固有のものはあるか。物語の筋は違っても作者たちの意図はおなじである。人間的な意識よりはるかに高度になったビットマシンとの融合は自然なものとしてあるが、そのことがしつこく問われ、なかなか結句しない。融合した集合的な知性の属躰として人間が存在している。究極的な同一性の実現だ。作者の内奥には、人間的な意識が解明されないまま知性が人工的な自然に置き換えられていくことのためらいが隠れている。機械的な知性はゲーデルの不完全性定理をこえることができないとしつこくペンローズは主張してきた。その強い論理にわたしは鼓舞されている。しかしペンローズでさえも人間の意識の起源についてはプラトン的なイデアに準拠するだけで明晰ではない。ビックサイエンスがブラックボックスとなり、医学知の属躰としてわたしたちの生があることを考えると、近未来はもうそこまで来ている。わずかな一歩だ。科学知のおおくを迷妄だと考えることもできるが、その迷妄を明晰だと信じることもできる。共謀罪を善とする信をもつことはかんたんではないか。このようにしてわたしたちの生の固有さはおおきな自然である経済や科学の迷妄に途切れることなく同期していく。

内面というちいさな自然を貨幣や科学というおおきな自然で置き換えることを転向と呼んでみたい。主観的な信を共同的な信に置き換えることは自然に起こる。現にいま起こっている。私性はいかようにも変化しうるということ。私性が恣意的であるとはそういうことだと思う。生を引き裂く力を権力というとき、まずこの力が行使される。恣意性から私性を露わにするためだ。なにもかもが途切れなく自然に生成する贈与の循環。転向もまたこのような自然生成としてある。主観的な信は私性にしか根拠をもつことができない。そしてその信を支える同一性に信を拒むどんな理由もない。むきだしの権力をふるわれるとなぜ主観的な信は壊れるのだろうか。主観的信を信自体が支えきれないからだ。権力によってなにがむきだしにされるのか。身体性だ。いまはまだ先触れのようにしてなし崩しに転向が起こっているが、これからあらゆる理念の総転向が起こる。

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世界の地殻変動にたいして転形期の世界認識の方法がなく、世界は総敗北し、総転向を遂げつつある。わたしはわたしの身に起こったことを腑に落ちるまで考えたくて長く内包論を構想してきた。まずおおきな影響をうけた吉本隆明の思想と格闘し、吉本隆明とはべつの概念をつくってきた。かれの思想と、ある間合いが取れたところで、内包論の独自の概念をいくつか造語し、内包論の世界の輪郭を描こうとしてきた。やっと内包論の固有の世界があるかたちを取りはじめたところだ。いま世の中は世界のグローバル化によって蹂躙され、あらゆる理念が機能不全に陥り、理念は総敗北し、総転向を起こしつつある。すごい速さで変化する世界に抗する理念はどこにも存在しない。わたしは内包論で世界の地殻変動を迎え撃つことも、私性にかたどられた外延的な歴史を内包史に相転移することもできると考えている。世界のグローバルな変化は人びとの生が私性に収斂するように狩りたてる ここで世界の属躰であることと精神の退行がどうじに起こる。固有の生はどこにもなく人間であることが商品となる。自由な意志は精神の古代形象と不可分の私性に先祖返りするしかない。ほかに理念のありようがないからだ。この過程は不可避であるような強度をもっている。わたしはこの敗北の過程の全体を総転向と呼ぶことにした。かつて吉本隆明は社会総体のビジョンをつかみ損なうことで起こる思考変換を転向と定義した。わたしはこの転向という概念は古典的だと思う。世界は古典的な転向という概念をはるかに超えて変貌している。転向は自然に生成する。なにもかもが途切れなく自然に生成する。すでに古典的な転向という概念は消失している。それが現在だといってもいい。転向は自然の謂いにほかならない。いまでは人間は演算式の変数のひとつであり、グローバリズムも、国家を私物化するサイコな心性にとっても、人間は操作可能なモノなのだ。そこにはどんな生の固有性もない。ビットマシンとグローバル経済やハイテクノロジーの結合がもたらす社会と、国家の融解がもたらす精神の退行は矛盾なく同期する。世界は私性に収斂する。同一性による外延的表現の必然だと思う。世界の最先端で起こっている無定型のなにかと、精神の古代性への憑依は、同一性を淵源とした私性の回りを際限なく回転しはじめたということ。生は圧搾され絞り上げられつつある。内包論はもっとやわらかい生があることを告げる。人間はシステムの変数のひとつでも商品でもない。内包論はべつの生の知覚を可能とする。

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吉本隆明は「転向論」に先立って「マチウ書試論」で人と人との関係が強いる関係の絶対性という概念を提起した。関係の客観性というほどの意味で、このしくみをつかまないと思考は変節を遂げると告げている。

敗戦体験は、こういう気狂いじみた執念のいくつかを、徹底的につきつめるべきことをおしえてくれた。わたしは、ただ、その執念の一つをたどってみたいのである。わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件にたいする思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統にたいする思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。(『全集撰3』所収「転向論」10p)

古典的な転向論だと思う。なにが古典的かというと、「インテリゲンチャ」も大衆も内包論では総表現者に拡張され、また吉本隆明が構想した日本近代社会の構造の総体というヴィジョンそのものが意識の外延表現に閉じられている。この方法では社会も生もやわらかくならない。観察する理性が知識人と大衆という生の分割統治を可能としたことは吉本隆明の思想では考量されていない。「知識人と大衆」という生の分割統治が権力であるということだ。この睥睨する理念のうえで転向論が語られている。支配者の思惑を超えて大衆が行き過ぎることに歴史の可能性があるという吉本隆明の大衆観はかれの意図を超えて権力である。吉本隆明は大衆の原像ではなく生の原像を語ればよかった。生の原像を還相の生として生きるとき、そこには当事者性しかない。総表現者とはそういうことである。吉本隆明の転向という考えは、左翼的な獄中非転向に対する対抗概念としての意味合いしかもっていない。知識人と大衆という構図が権力であること。大衆の生存のありようを知によって観察し采配することが権力なのだ。おおきな自然にちいさな自然を対置する意識のありようが権力なのだ。知識人も大衆もない。知識人と大衆という概念の構図全体を総表現者として相転移できる。自己意識の外延表現を拡張することができるということ。この古典的な転向論で世界の地殻変動を迎え撃つことはできない。

問われているのは近代ではなく現代の行方である。なにもかもが大づかみすぎる。文学を愛好する青年が無条件降伏で戦争が唐突に終わり、たたらを踏んだことを、文学と社会の亀裂とみなし、天皇体験を観察する理性でねじ伏せようとした。それが転向論だ。もちろん文学と政治のねじれはかれ自身のなかにあり、自己幻想と共同幻想は逆立し、その逆立の契機のなかに人間の意志が存在すると考えた。自己幻想と共同幻想のねじれを存在論の根柢において思考する契機は吉本隆明にはなかった。意識の線状性を三つの糸でより合わせたが、これらの観念を同一性が統覚することを吉本隆明は知らなかった。三人以上の人間のつくりだす観念を吉本隆明は共同幻想と定義し、あらゆる共同幻想は消滅すべきと考えた。定義によって命題が裏切られることは明白ではないか。定義によって命題が成就することはない。そのことはわたしには先験的なことだと思えた。共同幻想をつくらないような人間の関係のありかたを構想すればよかった。国家は喩としての内包的な親族へ、貨幣は内包的な贈与へと拡張することができる。わたしは往相ではなく還相の生や歴史が可能だと考えている。ここまで表現しないとこの世のしくみは変わらない。人が生の根柢において〔ふたり〕だから、だれもが生の固有性を生きることができる。総表現者のひとりとして生きるとき、だれもが非僧非俗を生きるしかない。

吉本隆明は「マチウ書試論」をつぎのように結ぶ。「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾、を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ち切れないならばだ」。人間の関係の絶対性という言葉はいくつもあいまいさを含んでいる。関係の絶対性はじつは関係の客観性であり、関係の客観性は構造のことだと考えられる。吉本隆明は人間の生存の矛盾を孤独として表象しているが、孤独と構造は相反する概念である。人間の意志を断念しないで構造という概念は成り立つのか。成り立つと吉本隆明は考えようとした。関係の絶対性を孤独な自然でみている、その当の吉本隆明の生存のありかたを変えないかぎり、生存の矛盾を解くことはできない。そのことに吉本隆明が気づくことはなかった。生を引き裂く力を吉本隆明は中途に体験し、その体験をあいまいなまま救抜してしまった。体験をかれは孤独な観察する理性で抽象した。日本近代の構造を総体のヴィジョンとしてとらえようとする吉本隆明の思想はおおきく歪んだ。

構造をとらえようとする吉本隆明の思想をなにが統覚したのか。同一性だ。無意識に同一性を担保にすることで吉本隆明の思想は統覚されている。虚ろな同一性という論理式のなかでは孤独は空虚としてあらわれるほかない。かれの思想は内面と政治の意識に沿ってかたどられていくことになった。のちに消費社会の総体のヴィジョンをつくろうとして吉本隆明の思想は敗北する。外延的思想の必然だったと思う。ほんとうは吉本隆明は、体験の底の底まで考え尽くし、外延化不能の言葉を生きればよかった。自己意識の外延的な表現は企図の如何にかかわらず適者生存をなぞることしかできないのだから。世界をつかもうとするとき、流動生成する世界と、それを対象化しようとする「私」というふたつの変数がある。激しく流転する世界をおおきな自然とすれば、その自然の一部であるちいさな自然がおおきな自然をつかむことはできない。ただ同一性の論理式によっておおきな自然が国家でありちいさな自然が内面であると分別される。世界の統覚を同一性が担保することで世界を対象化するわけだ。同一性という認識の器は、表現としては虚ろだから、意識の外延性が表現した自己は空虚となってあらわれほかない。出来事の当事者であるとはどういうことかということがいちばん問われている。吉本隆明は目を瞑ってこの場所を通過したのだと思う。

ふるさとや親兄弟のためには死ねないが「大君」のためなら死ねると思った平凡な愛国少年が、青年となり、無条件降伏を迎える。当時の「インテリゲンチャ」は赤化思想にかぶれ、治安維持法で拘留され尋問をうけ、獄中で皇国思想へと転向し、戦後に民主主義者になることを常とした。転向は三度起こる。いまも変わらない。極左は民主主義者に、民主主義者は天皇主義者に変節する。転向は三度だ。吉本隆明の転向論はなぜ古典的なのか。天皇のためなら死んでもいいと思ったことを観念的に内省したからだと思う。ずっしりと軽い言葉の根づきがない。獄中非転向をやくざと変わらないと、あしざまに吉本隆明は言ったが、死んでもいいと言いながら死ななかった吉本隆明の体験とはなにか。世界が雪崩をうって私性のなかに閉じこもろうとしている現在、自己の陶冶が私性となり、他者は赤の他人である。この総体をどうつかむか。吉本隆明の転向論はまったく無力だと思う。吉本隆明の思想のなかには、なにか体験の直接性がふれると過剰に相手を攻撃する性向があった。いったい埴谷雄高のなにが吉本隆明の逆鱗に触れたのか。吉本隆明がゆずれない思想の根拠とした消費社会はあっというまに格差社会へと移行した。吉本隆明は体験を普遍性まで考えつめることがなく、中途で引き返している。吉本隆明の体験は内面化できるものだった。吉本隆明が社会思想家であるのはそのためだと思う。吉本隆明の思想の最晩年の達成である「アフリカ的段階」も意識の外延性として表現されている。吉本隆明の意識の線状性をひらくこと。一心に内包論を書いている。

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なにか根源的な生の空虚さが吉本隆明の思想に隠れている。晩年死力を尽くして表現した消費社会の総体のヴィジョンはなぜ失速したのだろうか。消費社会が興隆した時期、吉本隆明にとって「人間というのは実に粗末な、空虚な観念で、いずれにしても将来ゼロに近づき廃棄処分される」ことになっていた。自然が痩せていて痛ましさを感じた。

人間の造るものは、どれも煩わしいといえば煩わしい。煩わしい人間が沢山寄り集まって、ごちゃごちゃ住んでいるのが都市です。僕はランドサット写真を東京論のために挙げましたが、ランドサットまで視点を高めてゆくと、全部人間が消えてしまいます。ある意味で「内面の時代」はすでに終わっています。ミッシェル・フーコーは、「人間」という概念は十九世紀に作り上げられたもので、すでに時代遅れなんだと言いますね。ランドサットの視点から見れば、「人間」なんて実にお粗末な、空虚な観念です。人間の内面性も同じことです。ゆくゆくは廃棄処分になるというのが、これからの人類の未来じゃないですか。視線の高度をぐんぐんと高めて、無限遠点へもってゆく。そうするといろんなものが見えてきます。たとえばエコロジーの党派が叫ぶ、縁の重要性についても、無限遠点から見ればかなり怪しい。彼らの線は、あくまで都市との対比における線なのであって、原型的な緑ではないということです。結局、重要なのはあくまで「人間」なので、緑はあくまでその反射的価値を持つにすぎないわけです。 そうではなくて、いったん「人間」を消して、緑そのものを見ることはできないか。無限遠点に視点を高めるというのは、いったん人間の効用から森林を切り離して、無文明の立場に自分を置いて、そこから眺めなおしたときに、何をすることが本質的なのか考えることです。「人間」はいずれにしても、将来、ゼロに近づいてゆくのですから。(『わが「転向」』121~122p)

精緻に〈読む〉ことがそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の現在は、この事態を物語っている。このなにかの転倒は、すでに現在というおおきな事件の象徴だとおもえる。(略)この現状では〈わたし〉はただ積み重ねられた知的な資料と先だつ思考のなかに融けてしまって、すでに存在しないものにすぎない。そして〈考えること〉においてすでに存在しないものである以上〈感ずること〉でも、この世界の映像に融けてしまって、すでに存在しないものにすぎない。(『言葉からの触手』)

吉本隆明の剛胆な直接性はどこに行ったのか。「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる/ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる/ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる/もたれあふことをきらつた反抗がたふれる」(『ちひさな群への挨拶』より一部抽出)どこにも行っていない。吉本隆明の直接性は内面と社会に幽閉されている。内面の文学と実在する社会を疑うことのない直接性だった。内面は吉本隆明にとって比類のないたしかさとして存在していた。内面化できない存在が内面を表現しているにもかかわらず、どこかで直接性を可視化した。内面化はきりなく循環し内包に到達することもないので、同一性によってやがてむなしさが付与される。吉本隆明は直接性を観念として実体化している。関係の絶対性も、転向論も、『わが「転向」』も意識の直接性として表現されている。いつのまにか吉本隆明の直接性は対象を喪失し、やがて、意識は重層的な非決定としか言表できないことになり、直接性と時代を作者とする『マス・イメージ論』は、観察する主体と空虚な主体へと乖離していった。それが現在ということなのだと言いたかったのだと思う。消費社会のビジョンをつかもうと死にものぐるいになりながら、それをつくろうとしている主体が空虚である。それはいったいどうしてかと吉本隆明が問うことはなかった。『マス・イメージ論』を読みながら時代の新しい兆候をサブカルチャーにみようとしていることは理解できても、それを楽しんでいない吉本さんの孤独な風貌が浮かんでくる。消費社会の感性をなんとか、どんなにしても肯定しないと思想は生きられないという吉本隆明の思い込みは壮絶だった。占いは外れてすぐに格差社会が到来した。かれが手にしたものは空虚であり塗りつぶされ無だった。2011年の大地震と津波以降は、人類は滅びにむかってとぼとぼと歩いて行くしかないと思想を結句した。意識の外延性に沿い、文学と政治を直接性として生きた思想家だった。わたしの推測にすぎないがもっと先まで行けたはずだと思う。吉本隆明にとって自己はあまりに自明すぎた。自己の自明性がゆらぐほど体験を普遍化しなかったからだ。吉本隆明が所与の自己をうたがうことはいちどもなかった。吉本隆明の思想の方法ではじぶんをじぶんにとどけることはできない。

体験の個別性を普遍的に表現することにおいてわたしと吉本隆明のあいだにはずれがある。吉本隆明は現人神体験を内面化し共同幻想という概念をつくり若い頃のわたしを鼓舞した。吉本隆明の思想によって生きられた時期があった。しかしわたしはじぶんの身を貫通した体験を内面化することも社会化することもできなかった。当事者性に徹することはさまざまなひずみをじぶんのなかに招き寄せる。生を引き裂く力のただなかで、事態から身を引きはがし俯瞰する余裕はない。日々はひしひしと傾き百億の夜に千の閂がかけられた。わたしはひずみをまるごと対象化したかったが、内面化できることではなく社会化することもできなかった。自己はそれほど自明でも堅固でもない。自己はたやすく自己から脱落し、あるのざわめきにみたされる。熱い自然に触れて、しだいにわたしの体験のなかに表現の未知があると思うようになった。内面化も社会化もできないからそこに表現の可能性がある。いまはそこにしか生の固有性も歴史の未知はないと思っている。固有の他者によぎられることによって、はじめて、わたしがわたしである各自性があらわれるということ。同一性を無意識の表現の公理とする外延表現とはべつの意識があることを内包論として考えてきた。フーコーが生きていたらいまなにを言うか。フーコーは最晩年に思考の転換を果たしている。フーコーは観察する理性を放下した。生は語られることではなく、生きられるなにかだとフーコーは考えた。自己の陶冶がゆくりなく他者への配慮を実現する。ついにその思想の場所をフーコーは生きた。

私を駆りたてた動機は、ごく単純であった。(中略)つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。(中略)はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるためには不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。(『快楽の活用』)

最晩年の『講義集成13 真理の勇気 自己と他者の統治2』でフーコーはパレーシアについて語る。翻訳者によると、パレーシアの語意は、率直な語り、すべてを語るとある。すぐに親鸞の言葉を思いだした。なにか語感が似ているのだ。「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』とか、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」(『正像和讃』)ついにフーコーも死の直前にあけすけに語り始めたのか。それによって主体がつくられるという「倫理的活動の核」やサルトルの表現概念と真反対の「真正性の実践」はフーコーが自己意識の外延表現を超えつつあったことの表明ではないか。

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人間の個的な現存を社会的な存在であるとする考えは世界の属躰であることを不可避とする。解釈の余地なく冷厳な事実だと思う。島嶼の国の成るべくして成るという自然生成はローカルな心性だが、世界もまた自然生成に向かいつつあり、人類史の規模で、理念が消滅しつつある。世界は険しさを増し漂流する。世界の地殻変動が起こっている。国家の内面化と融解のもとで生存は私性に収斂し、グローバリズムのもとでも人びとはシステムの属躰となり生存は私性へと収束する。吉本隆明や白川静、鶴見俊介や石牟礼道子が人類は破滅へ向かっていると嘆息するとき、年寄りの繰り言ということはたやすいが、世界へのどんな理想も空無であることが表出されていることも事実だと思う。グローバリズムを賞賛しようと、国を閉じようと、どちらの理念を批判しようと、出口はみえない。自己を実有とする生存のありようや理念は縮減し、必然として私性に拠るしか生存を繋ぐことができない。自己意識の外延表現は総敗北するしかなく、同一性的な生に収斂していくが、敗北の構造が問われることはない。生々流転する世界をどれほど精緻に記述しても、あるいは社会総体のビジョンをつかんでも世界は変わらない。世界は同一性的な生へと総転向する。この総転向を外延表現が超えることはない。どういう理念を選択しても生存は私性へと圧搾される。グローバルな経済やハイテクノロジーは意識の外延性を自動更新し富は効率的に集積される。観念の遠隔対象性によってハイテクノロジーも自動更新される。この過程のどこにも人間の意志は関与できない。風が吹くと桶屋が儲ける。それが世界だとされる。意識の外延表現ではただ適者生存をなぞることにしかできない。そういった日々にわたしたちの生はさらされている。世界の無言の条理に沿った世界の属躰にあたらしい自由や平等が付与され、わたしたちは地に怨嗟の声をあげることもなく唯々諾々としてこの生を自然に受容するだろう。意識の外延性は、同一性に生を縮減することで、一切の理念を消去し、世界規模で、総転向として表現されている。外延表現を同一性が統覚することで見事な円環をなしている。閉じた円環の外にでることの不可能性が、人類は滅亡に向かっていると老齢の思索家に言わしめたのだと思う。

わたしたちの自由な意志はどこにあるのだろうかと総表現者のひとりであるわたしが声をあげる。人間が創ってきたさまざま観念は存在が危機に瀕すると私性に収斂する。依拠する理念によらず一斉に私性に遁走する。自己を実有とするかぎりこの過程は不可避である。存在了解の未遂があるにもかかわらず、長い歴史のなかでわたしたちはさまざまな理念を生活の知恵として積みあげてきた。その人類の叡智が、グローバル経済の無軌道や権力者による国家の私物化によって一瞬にして空無化される。ちいさな自然は身をかがめて私性に憑くしか生存を維持できない。存在了解の未遂は理念の総転向としてあらわれ、適者生存をなぞることしかできない。世界がおおきく変貌するなかで人間の意志を私性に還元することで延命しようとする理念は世界の無言の条理をなぞることを理念の根拠とし、理念の敗北は理念の総転向としてあらわれる。わたしたちの生も歴史も同一性に呪縛されている。生が同一性に生を縮減されることの必然として世界規模で総転向がいま起こっている。外延表現は状況に対して総転向として表現される。マルクスは『資本論』の冒頭で「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる」と書いている。マルクスは商品の分析から貨幣のメカニズムを解析し、資本が内在する矛盾によって自壊し、富が公平に分配されることで人間精神の夢が実現すると考えた。かれの思想のなかには疎外された労働から生を回復することができるという信があった。マルクスの思想の信は外延され人類史の規模の厄災を招来することになった。貨幣という共同幻想はマルクスが考えていたよりはるかに強靱だった。貨幣は適者生存の謂いである。わたしたちの生はいまではまるごと商品である。巨大な商品の集積とあらわれている。原価率と利益率に還元されるコストパフォーマンスのよい商品であること。それがわたしたちがこれから生きる生である。商品管理として共謀罪も発布される。戦前回帰よりはるかにおぞましいことがいま眼前で起ころうとしているのだ。グローバルな経済や国家を私性で運用する者たちにとって人間は演算子のひとつにすぎず、操作可能なモノなのだ。眼を背けずにこの現実を直視すること。ハイパーリアルなむきだしの生存競争を効率的に運用するために共謀罪が適用されるのだ。かつての治安維持法よりはるかに入り組んで生が管理される。ハイパーリアルな治安維持。わたしは共謀罪は生の徹底した管理の端緒だと思っている。生の改変を外延知由来のすべての理念は受容する。どんな理念であれその理念なかに理念を担保する根拠をもたないからだ。この思考変換のすべての過程をわたしは総転向と呼んでいる。吉本隆明の「転向論」も「わが『転向』も外延知に属する。これから流転する世界の生成変化がつくりだすグローバルスタンダードに沿って続々と思考変換が起こるだろう。

マルクスと異なる時代を生きたフーコーは、非資本主義的で非西欧的な文明を渇望し、諸哲学の遷移を考古学とみなし、考古学を渉猟し、実体ではない可視化できない他性によってもたらされるあるひとつの真理を手にして生を終えた。西欧近代の長い哲学の歴史のなかではじめて共同的な信のありかたを組み換える可能性がフーコーのつかんだ生の知覚のなかにある。わたしたちのちいさな自然は流転する世界のおおきな自然の遷ろいに意志的に関与できない。それはわたしたちのちいさな自然がもともと外延的な自然であるからだ。ちいさな自然はおおきな自然に同期する。それが世の常だった。わたしは人間という概念が消滅するとは思わない。外延表現を内包表現へと相転移すれば、人間という概念は広大な未知にひらかれる。外延表現が急速に私性へと収束する総過程が総転向であるが、外延自然とはべつの自然をわたしたちが生のなかにつくることができたら、ただちに自己の陶冶が他者への配慮にひとしい世界が現成する。

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レヴィナスの翻訳本は一通り読んだ。内田樹がレヴィナスの文章を読んだとき、なにかこの人は他の文章家とちがうと感じた直感はよくわかる。レヴィナスが自己に先立つ超越を生きていたからだ。なぜ家族や同胞がガス室で殺されたのか。かれは臓腑を抉るようにして考えた。これは〈在る〉の知覚のちがいが招来した出来事ではないか。わたしの生存感覚を貫いている知覚として、レヴィナスが直感したことをじかに感じた。知識ではなかった。生の知覚だ。〈在る〉はいつも社会化されて、自己と共に語られる。この途方もない錯誤。それが人類史であると言ってもいい。〈在る〉は公共化できない。外延的な個人と社会は同期する。そうではなくて、〈在る〉は内包的に存在している。〈在る〉はつねに自己に先立ち、内包的に〈存在〉する。ゆずることのできないわたしの表現の公理だ。わたしは安倍晋三を唾棄しているが、わたしではないほかのだれかが安倍晋三を絶賛することを理解する。あるいはわたしとまったく異なったりくつによって安倍晋三を左翼的に批判することもできる。自己を公共化するときどちらの立場も信の共同性をつくる。どちらが義であるか判定不能である。毛沢東の文化革命を、この国の文化人たちの99パーセントは、人類史の偉大な革命であると絶賛した。吐き気がした。おなじように安倍晋三の錯認を褒めちぎる者たちも、安倍晋三を批判する者たちも、自己を公共化できるという錯誤においてまったく同型である。わたしはどちらにも与しない。数少ない読者よ。総転向論としてわたしが言おうとしていることがおわかりいただけるだろうか。わたしは社会的な表現が欺瞞で虚偽であることを知識ではなく現場で生きてきた。自己を公共化できるという錯誤が人類史の規模の厄災をもたらしたことをわが身で体験した。わたしの信とかれらの信は地軸が傾くほどにちがう。わたしの信は共同化できないが、かれらの信はイデオロギーのちがいがあるにもかかわらずいつでも共同化できる。このちがいは決定的だと思う。わたしは内包論で共同化できない信をつくろうとしてきた。往相廻向の信は共同的な信であり、還相廻向の信は他力となり共同化できない。非僧非俗は自己にも共同性にも属さない。この考えは親鸞からの贈与だと思う。その親鸞でも究尽していない未知がある。だから親鸞の思想の未然を内包論として書きつづけている。わたしはひとりで世界と戦っているが孤独ではない。内包の生を、と共に、生きている。ビットマシンと結合したグローバルな経済が富のさらなる偏りを招くことも適者生存ということで自然であり、窮迫した生は例外社会を疎外することになる。おおきな自然がちいさな自然を疎外し、ちいさな自然はさらにちいさな自然を疎外する。なまなましいわたしたちの人類史だ。そのただなかにまったく未知の自然を出来させることができる。それは内包知によってだけ可能だと思う。思考の総転向はこの未知を現前させることで矯められる。

ある時代を生きるとき、その人が時代との関係でもつ明晰と迷妄の度合いは、いつの時代も変わらないのではないかと考えている。迷妄から明晰への遷移を進歩だとする信は、その時代を生きている人の共同幻想にすぎない。歴史的に古い時代を生きたとする。日々はきわめて明晰であるとともに迷妄だったにちがいないということ。それは現代を生きているわたしたちもおなじではないか。さらば消毒とガーゼの夏井睦さんがブログで、熱したオリーブオイルを傷口にかけるのが消毒と考えられていた時代があったと書いていた。その時代では煮えたぎるオイルを傷に注ぐのが治療として明晰であったわけだ。いまは傷口を殺菌することが消毒だと考えられている。夏井睦さんは傷は消毒するなと提唱し、何度も勤務先を首になったが、草の根的に湿潤療法はひろがっている。がんの早期発見・早期治療が推奨される。がんの発現についての迷妄があると思う。その迷妄の上に治療が施される。迷妄の上塗りが医学であり明晰なことだとされる。わたしは明晰であることはつねに迷妄を伴っていると考えてきた。明晰であることと迷妄は時代とともに移り変わる。時代におおきな負荷がかかるとわたしたちの心性は一気に精神の古代形象に先祖返りする。この現象がいま世界的な規模で同時多発している。この太い精神のうねりのことを総転向と名づけた。人間が長い歴史のなかで織り上げてきた生活の知恵が一瞬で、奉ずる信を問わずに精神の古代形象まで遡行する。ここは俺の日向だとする心性が私性の根源をなしている。もっともたしかな歴史の始原に身をかがめること。それが生の恒常性だ。人間という生命形態はそういう自然としてある。

先端科学と結びついた富を至上のものとする金融工学の経済人間も、皇国主義が自然だとする社会人間も、いずれも私性の発露として信を外延的に表現している。この信を崩せないとき人類は滅亡の過程を進んでいると表象される。わたしは私性もまた、と共にという存在のありかたの制約された表現にすぎないことに気づいた。私性は内包存在の外延的な表現にすぎないのだ。人間は、あるいは人類は、と言ってもいいが、存在の内包性を生の余儀なさとして、ここは俺の日向だと可視化しただけだと思う。つまり私性はもともと内包にむけてひらかれている。わたしはわたしの身をよぎった体験をすこし普遍化できたと考えている。わたしは若いとき部落は共同幻想であるという吉本隆明の思想に出会って熾烈な生をつなぐことができた。内包論はおおきな恩恵をうけた吉本さんへの答礼ということもできる。総転向論は吉本隆明の転向論に触発をうけた。吉本さんは自己を可視化し、表現を論じている。わたしは自己は内包存在の事後的なあらわれにすぎないことをじぶんの体験をなぞりながら発見した。吉本さんの転向論には思考の伸びしろがない。すでに自己が共同化されており、社会化できない意識を内面と言っている。あらかじめ共同化された自己を社会と言い、その意識の剰余を内面とみなしても、共同幻想も自己も外延化された意識にすぎないから、内面の意識は空虚と表白されるしかない。経済人間の富の追求と、そこに同期することのできない意識は、意識としてまったく同型なのだ。大衆の原像と、天皇の赤子は万民平等であるが同型であるというのはそういうことだ。転向論のモチーフそのものが社会化されていることが不満だったとも言える。政治と文学という対位の構図がまるごと擬制だった。体制と反体制という意識のありかたが意識の外延的なあらわれにすぎないということ。世界の生成変化を察知して生は私性のなかに胎児のように身を丸くしてもぐり込む。いずれにしても生は改変されていく。左傾化もリベラルも右傾化も世界の生成変化の関数としてしか存在しえないので、諸理念は思考の変換を総転向として強いられる。世界の無言の条理である適者生存は私性を変形させ、私性もまたそのことを受容し自然とするだろう。世界の変貌によって生存のかたちが改変され、あらゆる理念はその生存のあり方に沿って再編成される。ここまできてはじめて親鸞の他力という思想にある未然がみえてくる。神仏と往相の性の彼方に還相の性が遠望される。神仏と往相の性の彼方はだれのどんな生にも内挿されている。また人類史はだれのどんな生にも外在的にではなく直立して内在されている。わたしはこの生を根源のふたりが統覚していると内包論で考えた。内面化も共同化もできない生の知覚のなかにだけ固有の生と人類史の未知がある。

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