日々愚案

歩く浄土165:情況論52-外延知と内包知4:内包論と天皇制

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世界の片隅に埋もれ残骸のように遺棄された地所を天皇は鎮魂と慰藉のために訪れる。国民統合の象徴としての象徴的な行為である。苦難な生を生きる者たちを天皇夫婦は巡幸する。くるしい旅だと思う。天皇と皇后の内面は波立たないのか。生を引き裂かれた者たちを訪なうことに心が引き裂かれることはないのか。天皇としての自分と個人としての自分のなかに亀裂が生じることはないのか。このずれが国民の天皇への尊念によって埋められ、受苦や共苦を慈愛として国民に贈与する無形の贈与の象徴交換の巧みなしくみが天皇制の神髄だと思う。個人の内面に起こった亀裂を共同幻想で補填することの巧みさ。なにもかもが途切れなく自然に生成する贈与の循環。わたしたちの精神風土がつくった文明の生態史としての自然だといえる。生を引き裂く権力は姿を消し、国民統合の象徴と、赤子というふたつの共同幻想はみごとに融合する。いかなる意味でも離接し、天皇と国民は非対称的なものとして存在しているにもかかわらず、共同幻想が対称的な自然を仮構する。この円環はべつの自然を生の基盤とするほかに途切れることはない。グローバル経済によって生活は窮迫し、金と健康のほかに生の意味はないようにわたしたちの生は追い込まれている。天皇に敬愛をもつことによって、グローバル経済とハイテクノロジーの強力によって粉々に砕かれたわたしたちの空っぽの心性に天皇制はいくらかの陰影をもたらすように思われる。天皇と国民は非対称的な贈与という象徴交換を紐帯とする共同幻想によって成り立っている。しかし生の空虚を埋めることができるならばそれが共同幻想であろうとなかろうと、グローバル経済とAIの問答無用の心の破壊を天皇制はいくらかでも鎮撫するのではないだろうか。グローバルな変化がもたらす無慈悲より、国家も心性も内面化するほかに抗しようがない。天皇制は空虚なゼロではなく能産的な表現なのだ。グローバルな世界の共同幻想の属躰となるより、この国古来の心性に身を寄せる方がましではないか。そのような声が醸成されている。わたしはどちらの理念にも生の未知はないと思う。どちらでもない自然を内包論はつくろうとしている。信のない世界に信ではない信がある。根源の性を分有するという驚異のさらに深奥に還相の性があるということ。それがわたしの信である。この信は内面化も共同化もできない。そこにあたらしい自然がひっそりと熱く息づいている。

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人と人がつながるということはどういうことか。認識について祖述するときの困難がここにある。親鸞もこの難所を捌ききれていない。世界とは時空の祖視化のことにほかならないが、可視化できないことを空間化しないと表現がつたわらないという矛盾がここにある。わたしも思いっきり足を掬われた。体験をなぞりながら、親鸞の言葉を追ってみる。

親鸞の他力を覚知する者が複数いるとする。かれらはかれらの意図に反して他力による信の共同体をつくるはずだ。現に浄土真宗という巨大な教団がある。むろん親鸞の思想と教団の教義はまったくべつものである。他力という自力の教団と親鸞の思想が同じものであるはずがない。それでも親鸞の思想には目に見えない逆理がある。親鸞の思想はこの矛盾に耐えられるだろうか。ここに親鸞の未然がある。共同幻想のない世界は可能かと問いながら始終、信の共同性のことについて考えた。複数の者が親鸞の他力を覚知したとする。いずれも親鸞の他力を他力として生きている。また信の深さについては甲乙つけがたい。あるいはすべての衆生が正定聚を覚知したとする。複数の他力の念仏者はここで根底的な矛盾にさらされる。他力による浄土という信を生きるのはそれぞれの覚者であるが、覚者は不可避に共同の信をもつことになる。わたしたちの時代では自力の民主主義という共同幻想としてあらわれている。

ためらいながら親鸞の他力という信の構造にある未然に踏み込む。だれも踏破したことにない人跡未踏の領野だ。親鸞の未然を拡張できれば私性による大地の簒奪の歴史が根底的に転換されることになる。私性と大地の簒奪は同期していて、信の共同性が媒介している。信の共同性の根を抜き去ることができれば、私性は根源的な出来事の分有者に存在のありようを革め、どうじに交換は内包的贈与へと拡張される。ここに禁止と侵犯によってしばられた秩序と社会のあいだの和解が共同性を媒介とする規範をぬきに実現する。禁止を侵犯する私性の必然は、おのずから、私性と共同性とは異なる人と人のつながりをもたらすことになるだろう。あるときユングは聴衆に「あなたにとって自己とはなんですか」と問われて、「それはあなたがたです」と答えた。天皇制を解く鍵のひとつがここにもある。天皇が臣民に告げる。「わたしはあなたがたである」と。内包論があらかさまになると、ハードであるかソフトであるかを問わず、皇国という擬似的な家族共同体は存立の余地がなくなる。状況に即して言えば、文明の生態的な自然としてわたしたちの生がいやおうなく身につけてきたモダンな天皇制的という自然がこの思考の転換においておのずから消滅することになる。天皇制の神髄は天皇と国民のあいだで無形の贈与が象徴的に交換されるしくみの巧みさにある。それはあまりに自然であるので、生が分割統治されていると意識されることもない。天皇制はわたしたちの精神風土が巻き取ってきたひとつの生の様式であって、天皇制という自然を超えることによってしか天皇制の根底的な批判は成就されない。

他力という信によって浄土教の教義を解体した親鸞の思想のなかにある未踏の領野を踏破する。親鸞でさえ解きつくしていない他力という思想の未然を解く鍵がある。歎異抄によると、親鸞は聴衆に、父母の孝行より、有縁を度すべきであると呼びかける。生あるものは山川草木悉く皆仏性があるというのが道理だから、有情ではなく有縁を度すべきである、と。イエスも聴衆に血縁よりも神の言葉を信じなさいと呼びかけた。ここにあらゆる宗教が直面して解けなかった信の謎がある。衆生の生に先立つ超越はなぜこのように人びとに呼びかけるのだろうか。なにを実現したいのだろうか。

親鸞の他力の思想でさえ、極悪深重な親鸞に先立つ仏の慈悲は、生身の親鸞の外にある。仏の慈悲は信心のあるなしにかかわらず、衆生の脚下にきている。それが他力であると。よくわかるが、では親鸞は仏ではないのか。仏が親鸞ではないのか。親鸞はためらって控えめに、この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり、と述べている。この道理は信の外にあるのか、内在するのか。おそらく境界にあると親鸞は言いたかった。信と非信の境界に悪人正機はある。この正気にうながされるほかはすべて煩悩にすぎない。だからいっときもはやく正定聚になるべきなのだ。親鸞の思想の要諦はこのようなものである。信は非信であり、非信は信である。最期の親鸞の信はここにあった。妙好人たちはおそらく此処で途惑いためらった。生あるもの一人ひとりに他力はどんな計らいもなく自然(じねん)に授けられる。おれはこの驚異をりくつではなく生きている。そうか、おまえもか。そうか、そうかは、はてなくつづく。そのときこの者たちは相互にどんな関係をつくるのか。他力という信の共同性を他力という信に沿ってつくることになる。それは計らいではない。すでに他力を覚知したのだから、覚者たちの計らいはどこにもない。自然法爾として訪れる。そのような関係のおのずからなる自生。ここで親鸞さんにお訊きしたい。信と非信をわかつその境界はどこにあるのですか。あなたのなかにあるのですか、それとも仏の慈悲として衆生の外にあるのですか。こんなはずじゃなかった、とは言うかもしれないが、親鸞は答えないと思う。他力を語る親鸞は親鸞であり、その親鸞が仏と対座している。その親鸞を統覚しているのは親鸞は親鸞であり、仏は仏としてあるという同一性だ。その極北を親鸞が生きたのはまちがいない。親鸞が生きた時代を800年流れ下り、生のただなかで、悶絶し七転八倒しながら、考えに考えた。親鸞の他力にもわずかに言葉の残身がある。言葉が落としたこの影は自力廻向を排する他力廻向でも消すことができない。じつは仏はわたしのことであると自己を領域化すればよかった。衆生の一人ひとりを他力という慈悲が照らしているのではない。衆生の脚下に慈悲がとどいているのでもない。衆生の一人ひとりに固有のものとして仏は内在しているのである。ここまできて宗教の信はほんとうの意味で解体される。もし親鸞の他力がこのようなものであったら、親鸞の他力を覚知した者たちの相互の関係は家族となるほかない。その機微を内包論として書いてきた。わたしの生の体験のなかで、親鸞の自然法爾は内包自然へ、他力は還相の性へと拡張されている。

長さに長さを足すことも、広さに広さを足すこともできるが、性の奇妙さはこのありかたと違う。AとBが出会って、AでもBでもないXになることの不思議な生の感覚を内包論でひっかかりとっかかりしながら書いてきた。この偶然がある必然となるのは縁だが、ここにAがAの生存のかたちをのこしたまま領域化したAになり、BがBの生存のかたちを保ったまま領域化したBとなる驚異がある。性のなかにはそのような妖しさがある。性はいつも観察する理性のふるまいを超えている。わたしにとって自己は所与のものではなく、根源の性の分有者であることの驚きとしてある。この往相の性の深奥に還相の性がある。このとき「世界と私」という意識の構えは消滅する。内包を内面化することも共同化することもできないのは、そのような意識のありかたで、内包を表現することができないからだ。同一性的な思考の慣性はここで転倒される。わたしはわたしにあらざるもののうながしによってわたしになるのである。このとき、私性と大地の簒奪が消える。だれもが生をこのように生きることができる。なぜならばだれの生のなかにも還相の性が内挿されているからである。往相の性のなかにも還相の性があり、往相の性がなくても還相の性はある。ひとは生の根柢において〔ふたり〕である。わたしは、〔根源の二人称〕のあらわれを〔わたし〕として生きている。わたしはひとりで〔根源のふたり〕を闘っている。(この稿つづく)

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