日々愚案

歩く浄土160 :情況論47 -Live in FUKUOKA 予告

片山恭一さんと、二週に一度「歩く浄土」の討議をやっていますが、この国を取り巻く状況が切迫しています。いまここに戦争の危機があり、治安を維持する目的の共謀罪法案が国会で審議され、強行採決が目前です。それで片山さんと話をして、緊急討議をやろうということになりました。この討議は戦前・戦中・戦後に渡るかもしれません。一昨年秋に戦争法が可決したときにこの国の戦後は終わりましたが、この新戦後は戦争をむかえるのか。なぜこういうことになったのか、そのことを根本的に考えてみたいと思っています。「メルトダウンする国家」についての緊急討議を行うにあたってのわたしの心構えをかんたんに書きます。

このひと月で状況が急旋回している。いったいなにが起こっているのか。だれの胸中にもこんな疑問があると思う。どうなっているのか。4月の中頃(2017年)は北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない気がした。対処のしようがないな。金正恩とトランプと安倍晋三というバカのトリオだからなにが起こるかわからない。それはいまもそう思う。風が吹けば桶屋が儲かるみたいなことは書きたくないから、先行きのみえない世界についていくつかの原則を設けることにする。危機は共同幻想であるから、とりあえずこの危機をふたつに分別する。ひとつは世界の行き詰まり感の投影。もうひとつは、この国特有の精神性、つまりナショナルな課題。この類別は便宜的なもので、深く相互浸透している。
わたしの世界認識の方法を祖述する。いま世界の行方を決めているのはピケティの『21世紀の資本論』の現実だと思う。富める者はますます富み、貧者はますます貧困化する。このことは圧倒的な現実感としてある。投下した資本を効率的に回収すること。グローバル経済とハイテクノロジーが世界の行方を決めている。適者生存にもっとも適った生のあり方だと言える。この猛烈な圧力の下ではポリティカル・コレクトネスは絵に描いた餅で、取るにたらないへりくつにしかならない。大半の人はこの自然の猛威に晒されている。この国も例外ではない。いま、貨幣がもっとも強大な共同幻想としてある。二の次にすぎない国家は、貨幣という自然に煽られて身をかがめ、内面化することで対抗する。国家の内面化という言葉は昨秋から使い始めた。事態は急旋回した。国家が私性のなかに融解しはじめたのだ。メルトダウンする国家。そのことにいま当面している。特別機密保護法から戦争を可能とする安保法制が整い、治安維持を可能とする共謀罪が法となれば、憲法は換骨奪胎される。改憲は現実味を帯び、緊急事態条項を織り込めばこの国のありかたは根本から変化する。グローバリゼーションは新国家にも適用され、カルトな国が実現する。ハイテクノロジーと結合したグローバル経済が新世界秩序のスタンダードなら、カルトな国ではグローバリゼーションと精神のカルトが融合されることになる。経済の合理性が精神の迷妄として実現されることの奇妙さ。

こんなことを書いても腑に落ちない。なぜこれほど急速にカタストロフが起きようとしているのか。戦後のポリティカル・コレクトネスを一瞬で瓦解させる急激な変化。連続的な歴史の過程の非連続としてのカタストロフ。国民主権や基本的人権や表現の自由という理念の根幹が根こそぎ損なわれることが自然に生成されようとしている。これはいったいどういうことなのか。国家が内面化し、臨界を越えて融解する。これはクーデターなのではないか。いま政治によるクーデターが進行している。大半の人がみずからの首を絞めることになる国家の融解を座視する。この不可解さは安倍晋三をカルトだと批判しても説明できない。安倍晋三がアホで、息をするようにうそをつくこともわかっている。すこしわかりにくい言い方をする。グローバル経済の共同幻想に煽られ、だれもが固有な意識の調律ができなくなっている。固有の生がなくなり生きていることの手応えが失われていく。稼ぎと年金と健康であること。それが生の目的となる。それ以外の生は無駄なのだ。むきだしの生存の条理にさらされ、生きていることの剰余が無意識に、外延的に抽象化された一般性を疎外する。この生のありようが安倍の悪政を底から支える。安倍晋三はこの国のひずんだ欲望を体現しているだけではないのか。顔をなくした人びとの象徴として安倍晋三が君臨する。

なにが異様なのか。適者生存というむきだしの生存競争のなかで、この国の風土に根ざした伝統的な自然生成が、精神の古代性へと先祖返りしているということなのだと思う。わたしたちは長い人類史のなかで私性という自然しか身につけたことがないのだから。国家というおおきな自然と内面というちいさな自然。これっきりで歴史を積み上げてきた。そのほかに自然はないのか。あると内包論では考えてきた。民主主義の使い回しを徹底することのなかにも人権を敷衍することのなかにもあたらしい自然はない。唱導する者はいつも勝者である。知識人と大衆という権力による生の分割統治。歴史はつねにそこで語られてきた。そうではない。内包自然というあたらしい自然は元来わたしたちのそれぞれの生に内挿されている。それぞれの外延自然を内面化してもそこに生の未知はない。外延的なおおきな自然と生に付与されたちいさな自然は状況が厳しくなると同期するようにできている。それは人びとの生活の知恵だ。どういうことか。おおきな自然もちいさな自然も先がみえないと私性に先祖返りするということだ。私性という自然を同一性が統覚する。いかなる共同的な信も大地の簒奪をもたらす。このモダンな心性は人類史をかたどってきたが、べつの自然がありうる。精神の古代形象を遡行し、根源の二人という生の知覚で歴史を巻き上げ、ゆっくり巻き戻すこと。歴史は原始・古代・中世・現代として年表のようにあるのではない。歴史はわたしたち一人ひとりのそれぞれの生のなかで縦に直立している。内在するこの歴史を根源の二人という生の知覚において統覚すること。ここにしか私性を超える平等の根拠はない。またここにおいて人は恐ろしいほどの自由を手にする。グローバル経済も国家権力も根源的な生からなにも奪うことはできない。共同的な信に拠らず私性をひらく根拠がここにある。内包自然のうえに総表現者の一人ひとりが舞い降りるとまったく未知の歴史と生が淡雪のように降り積むことになる。

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