日々愚案

歩く浄土158:交換の外延性と内包的な贈与9:中沢新一の贈与論3

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裕福な者が貧乏な者へ富を施すことを贈与と呼ぶのではない。それは交換の裏返しだから。贈与は交換の対概念としてあるのではない。交換と贈与はまったく次元が違う。人と人との関係のありかたが変わることのおまけとして贈与という現象が生まれてくる。貧困者が金持ちに贈与することも可能である。おおいにありうる。そういうものとして贈与という行為を考えている。貧乏人が金持ちに喜捨する。それも贈与である。使うほどに価値が増していく。使いべりのしない行為。これも贈与である。うれしいことのお裾分け。もちろん贈与である。贈与は貨幣の形を取ることも取らないこともある。内包論をすすめるなかでいくつか自前の概念をつくってきた。その概念を前提にして内包的な贈与という考えの輪郭を浮かびあがらせようとしている。わたしの構想している贈与という概念はまだだれも考えたことのない領域に属するので、なかなかつたわりにくいと思う。贈与という行為を貨幣よりもはるかにおおきな概念として考えようとしていることはたしかだ。内包贈与論は経済論ではない。還相の性と内包的な親族をあたらしい自然として受け入れれば、内包的な贈与はただちに存在しはじめる。わたしの構想している内包的な贈与という理念に倫理はまったく介在しない。禁止と侵犯に倫理はいつも晒される。倫理ではなく、おのずからなる贈与という理念をこれからつくる。有形無形の関係の豊穣さから溢れてくる、そのひとつが貨幣である、そのような贈与。贈与のもうひとつのイメージ。ある者が他なるものに一方的に贈るもので無償の行為だということ。外延的な理解では倫理ということにしかならない。倫理ではない自然法爾。それが可能であるということ。またそれが内包的な生や内包的な歴史の準則である。同一性的な公準に基づいた外延表現はおおむね尽くされているという了解があらかじめ前提とされている。国家や貨幣というおおきな自然と個人というちいさな自然。わたしたちが知っている自然はそれぐらいだ。もうそこにはなにもない。世界のもっとも深いものより深い自然をあたらしい自然とすること。

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中沢新一の対称的思考と内包はよく似ているようにみえる。読者のわたしがそう感じるのだから。内包的な贈与は無償の一方的な贈与であり、見返りを期待していない。見返りを制度にすると、贈与は交換にひっくり返る。未明の時代を核家族で暮らし、親族と交易が拡大するにつれて制度があらわれてきたということは容易に推察される。わたしの内包的な贈与という概念は中沢新一の純粋贈与という概念と似ていて違う。『愛と経済のロゴス』の冒頭で吉本隆明の自然(じねん)を取りあげ、それへの解釈を述べている。とても音色のいい言葉だ。

①自然というのは、自はおのずからということで、行者のはからいでなくて、そうならせるということばである。然というのは、そうならせるということばで、行者のほうのはからいでなくて、如来のほうの誓いであるがゆえにそういうのである。すべて、人のほうからはじめにはからわないのである。このゆえに、他力にあっては義なきを義とする、としるべきである。自然というのは、もとよりひとりでにそうならせるということばである。阿弥陀の御誓いは、もとより行者のほうのはからいではなくして、南無阿弥陀仏と願をおかけになって仏がひとをむかえようと、はからわせになられたのであって、行者のはうで善いとも、悪いともおもわぬことを、自然とは申すのだと聞いております(親鸞「古写書簡」。現代訳は吉本隆明「最後の親鸞」ちくま学芸文庫による)。

②親鸞という宗教思想家はここで、このさきはないというはどの徹底性で、「純粋贈与」の思考を人間に可能なぎりぎりのところまで展開しようとしています。そのさきにはたぶん、つぎのようなことばしか出てこなくなるでしょう。

お慈悲も光明も皆一つ。
才市もあみだもみなひとつ。
なむあみだぶつ。

大恩、大恩、御大恩。この仏は
才市をほどけにする仏で、
なむあみだぶと申す大恩

なむ仏は才市が仏で才市なり。
才市がさとりを開くなむぶつ。
これを貰たがなむあみだぶつ。
(浄土真宗の「妙好人」浅原才市の歌)
                       
 親鸞が説いた「純粋贈与の思想」をまるごと生きようとした「妙好人」と呼ばれる念仏老たちは、生き物に慈悲を注ぐ阿弥陀仏(純粋贈与者)も、その慈悲の雨を受けている自分も、まったく見分けのつかなくなるほど、まったく「はからい」というものを捨て去ってしまうことを理想としていました。その極限状態では、贈与者と贈与を受ける者の区別もなくなり、自分の存在と贈り物(慈悲)との区別すらなくなってしまおうとしています。これはまったく人類の思想史においても、きわめて類例の少ない事態と言えるのではないでしょうか。
 後期旧石器時代の人類の心に発生した「贈与」の思考は、新石器革命による大規模な組織化をへて、一つの巨大な社会原理となったのちに、その極限に浮上してきた「純粋贈与」の思考を発展させて、さまざまな宗教の思考を生み出してきました。日本の浄土教に生まれた「絶対他力」の思想を、その思考を文字どおり極限まで展開する試みとして、受けとめることができます。それは人類最古の経済思想である「贈与の思考」を、もっとも高度に展開した思想の華なのです。
 そして、はからずも、ここで親鸞のロから「自然」ということばが、こぼれ落ちてきました。「純粋贈与」とは「自然」の別名であるのです。

妙好人の「なむ仏は才市が仏で才市なり」はエックハルトとおなじことを言っている。吉本隆明の自然(じねん)の訳も、中沢新一の自然の解釈もわたしのそれと似ている。ここまでのところ異論はない。どういうふうに意見が分かれていくかみえているが、それはまだ書かない。吉本隆明と中沢新一は市民主義の理念はどこで超えられるかとリアルに思考していた。それもよくわかる。親鸞と親鸞を解釈する吉本隆明、さらにそれらを解釈する中沢新一は欧米起源の人権とは異なる理念を追い求めた。そのことも了解できる。モースの『贈与論』も贈与に気づきながら、交換の変形として贈与を論じてしまった。中沢新一の対称的な思考は交換ではない純粋贈与をうまく表現できるだろうか。内包的な贈与という概念は同一性を逸脱し同一性の基になる原型となる観念から出てきている。謂わば親鸞の悪人正機説に比喩されるなにかだ。おそらく中沢新一は対称性の自発的な破れで純粋贈与の可能性を実体化するのではないか。同一性を準拠とするかぎり唯物唯心一元論は「社会」化されることを不可避とするからだ。純粋な贈与としてはじめに着想されたことがなぜ交換と裏腹な贈与へと転質したのか。

中沢新一の考えたことをたどりながら天皇制の謎にいくらか近づくことができたように思う。遙かな太古に野原を逍遙遊していたスピリットたちはなぜ精霊の象徴である天皇というビッグスピリットに回収されていったのだろうか。親鸞の自然法爾と天皇制のあいだには埋められない落差がある。天皇が汝ら臣民、朕のために死ねといい、陛下お一人をお護りしたいので喜んで死にます、陛下のためなら死ねます、ということが、実感としていちばんわかりにくいこととしてある。ここにある天皇と臣民の関係を人間の関係のありかたから理解しようとすると、理解できなくなる。カルト右翼も、国民主権があるから国がここまで崩壊した、この上は主権在民と表現の自由をストーンと落として、皇国をめざすべきである。そういう意見が一部にある。なぜそういう考えがでてくるのか、実感として理解できない。教育勅語もそうだ。そのうち軍人勅諭も生きて虜囚の辱めをうけずという戦陣訓もでてくるかもしれない。トランプが北朝鮮を攻撃するならば、窮鼠猫を噛む金正恩が報復として日本にミサイルを撃ち込むことは必至である。熊本地震のときは緊急地震情報があった。緊急情報抜きにいきなり戦争ということになるかもしれない。戦時は戒厳令だ。いきなりカルト的な皇国化。ありえないことでもない。

天皇制とはなにか。天皇制とはなんなのか。イデオロギー的な批判では糠に釘ということはわかっている。天皇制に民主主義を対置しても無効である。天皇親政民主主義はすでにできあがっている。天皇制と民主主義はきわめて相性がいいことを内田樹や高橋源一郎や中沢新一がすでに、そう言っている。東北地震を見舞う天皇に、陛下一人にご苦労をおかけして申し訳ないと中沢新一が言い、こうなったら天皇に大政奉還しようではないかと高橋源一郎がいい、金のために生きていないのは皇室だけだ、天皇制のメリットを生かしてはどうかと内田樹が、数年前にすでに言っている。不可解だった。どういうことかわからない。「陛下を尊崇している」ことを枕詞にもってくれば和がなりたつことはわかるが、実感できない。これは日本的な霊性ではないかとある時期から思うようになった。中沢新一の対称的思考とはなにかを内包的な贈与論から扱おうと、カイエ・ソバージュシリーズをめくり返していてふと気づいた。そうか、天皇はビッグスピリットなんだ、と。神仏が習合した精神の古代形象である精霊信仰の洗練された象徴なんだ。そう考えるとなんとなく理解の筋道はつく。天皇制は底なしに根が深いということは気づいていたので日本的な精神風土のなかで熟成された精霊信仰であり、天皇はその象徴なのだと考えるといくらか腑に落ちる。この国で人間という概念を問うことは天皇制を問うことにひとしい。イデオロギーなんかで歯が立つわけがない。そういうこととして考えると見通しはよくなるが、すぐわからぬことが出てくる。スピリットのなかのスピリットであるビッグスピリットがなぜ天皇なのか。ここで中沢新一が解説していた物心一元の素過程という概念が逆説的に理解を助けた。

    3   

中沢新一は、存在の究極は物質と心が融合し、その素過程から心も物質もあらわれるという。原存在である素過程があるという唯物唯心一元論とはなにか。かれの純粋贈与の考えを追ってみる。

純粋贈与には物質性も形象性も同一性もないのが本来であり、しかもそれはあらゆるシステムを貫いて、そこに垂直方向から介入してくるものですから、贈与の環と純粋贈与の運動とが交わる二つの交点では、システムの順調な運行が途切れてしまいます。この場所で環のつながりに「穴があく」現象がおこるのです。するとこの「穴」をとおして、人々はそれまでシステムの外にあってその存在が感知されることのなかった流動的な力が、自分たちの世界の内部に流れ込んできたように直観するのです。(略)このとき感じられる「流動する霊」とは、贈り物が違う個体の間を受け渡しされるたびに、贈与の環に発生する小さな「穴」をとおして流れ込む、純粋贈与をおこなう力にほかなりません。贈与が、交換とはちがって、モノの移動といっしょに目に見えない諸力を「引きずっていく」ように感ふじられることも、システムの環に垂直方向から介入してくる、この純粋贈与の働きによるものに違いありません。

この引用から中沢新一という人物の観念がどう構成されているか伺うことができる。唯物的であるとどうじに唯心的な素過程というものをかれは想定した。他者なき一人の恍惚者の面目躍如たるものがあらわれている。父系性や母系制に分割されていない未分化な核家族がまず人類の初期にあった。核家族はやがて親族をなし、父系性や母系制、あるいはふたつが融合した複合親族をなし、観念の自然過程に沿って氏族制から部族性へと関係の網の目を高度化していく。それとともに交易も拡大していくことになる。そこで発生期の国家という観念が析出される。抽象化された一般性として共同幻想を生から疎外したとき、どうじに陽気な面々の内部にひとつの自然ができる。いうまでもなく共同幻想と内面を疎外したのは同一性である。同一性が人びとの観念を統覚することがなければ共同幻想や自己幻想を類別することはできないからだ。国家や王が共同幻想としてそびえ立つとき、どうじに人びとに神という観念が付与されたとわたしは考えた。生を共同幻想として疎外するときどうじに共同幻想の反射として神という観念が同一性によって人びとに封じ込められることになった。人間精神の夢は太陽感情としてちいさな自然に表現された。この自然のことを内面と呼ぶ。宗教がなかば共同的でどうじに内面的であるのはここに起源をもっている。人間は同一性の属躰にすぎないのだろうか。違う。内包存在という渾然一体となった熱いかたまりから身を引きはがし心身一如として生命の自然をかたどったとき根源の性は同一性のなかにも痕跡としてのこされている。人が社会的な存在ではなく内包的な存在であることは〔根源のふたり〕の記憶でもあるのだ。同一性に記された根源の記憶。

中沢新一は純粋贈与が贈与の環に穴をあけ、その穴を通じて流動的な力が流れ込むという言い方をしている。どこに流れ込むのか。自由に酔いしれ恍惚とした唯一者のなかにである。この記憶のことを中沢新一は純粋贈与と呼んでいる。チャクラにまばゆい光が注ぎこまれるように、かれにとって自由は一人の恍惚として訪れる。この恍惚とした自由のことを素過程と名づけている。かれのなかでは自由は物質的であるとともに心的なものであるから、絡み合った素過程は経済的な領域と心的な領域に分割されるほかなくなる。対称的な思考を可能としてきた物心の素過程は二元的に疎外される。純粋贈与は観念と物質に分割され、純粋贈与にあいた穴から、モノと空虚が流れ込むことになる。垂直性としてあった純粋贈与は贈与と交換、国家と王として知覚される。それが中沢新一のいう対称性の自発的破れである。中沢新一はかれのありようを世界の投影している。他者なき一人の恍惚を、マルクス主義とスピリチュアルなものとして見事に表現したことになる。かれの似姿がかれの世界論だと思う。かれはかれ自身を一枚の絵として描いている。生がばらばらになることはなかった。

わたしが考えている内包と中沢新一の対称的思考はどこが違うのだろうか。対称的な思考がひずむ力によって対称性をうしなったとかれは言う。それは同一性の必然を自然な過程といっているだけである。生から疎外された諸観念が高度化し臨界を超えたとき相転移を起こし、国家や王権や神を産出したのだと思う。唯一者にとってこの事態は矛盾だから、中沢新一は思考の必然として唯物的な過程と唯心的な過程を分離することになる。それは心身一如という生命形態の自然的な必然であって、そのあげく唯物性は金がすべてとしてあらわれ、唯心的には空虚として現象する。グローバルな経済と空虚によって埋め尽くされている。2001年9.11はたしかに世界史が転換した象徴的な日だった。そのなかで中沢新一は対称的な思考を構想した。それがカイエ・ソバージュシリーズだった。かれが適者生存に特化したこの世界で生きている生をじぶんがじぶんにとどくようにとどけ、ふたりとして思考をひらくとき、はじめて対称的思考が言葉として生きてくる。同一者のままで中沢新一は対称的思考を語っている。自己が領域になるということが対称的な思考ということなのだ。かれがこのことに気づくことがあるだろうか。人類史はだれの生のなかにも根源のふたちとともに埋め込まれている。どんな生であっても人はいつでも根源の性の分有者として生きる可能性をもっている。なにがあってもどんなことがあっても、もともと生きて行けるようにできているのだ。そこに自由が、恐ろしいほどの自由がある。

おれの考えは正しかったのに、オウムの麻原が勝手に踏み違えたと思っているのか、おれもそうとう間違ったなと思っているのか、カイエ・ソバージュシリーズを読んでもまったくわからない。対称的思考が同一性の彼方に存在していることを直覚していながら、この存在を同一性に準拠して記述するときかれの理念は、交換と霊的なものに分裂することになる。そこに理念の宿命があるのであって、かれの人格に還元することはできない。レヴィナスもおなじことに気づき、ハイデガーの哲学を跨ぎ超そうとして同一性に回帰している。ヘーゲルを超えたつもりのマルクスもおなじ轍を踏んでいる。それはある観念の型が引き寄せる悲劇かもしれない。(この稿了)

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