日々愚案

歩く浄土156:交換の外延性と内包的な贈与7:中沢新一の贈与論1

中沢新一はかつてオウム真理教団の広告塔をしていた。『カイエ・ソバージュ』はその咎を表現できているか。関心はそこにあった。オウム真理教に荷担したことを批判したいのではない。おおくの若者がかれの本を読んで入信した。また中沢新一は麻原彰晃をおおいに称揚してもいた。地下鉄サリン事件が起こったときかれへの猛烈なバッシングがあった。サリン事件後、中沢新一は朝日新聞に手記を寄せた。自殺するか、断筆するか、小説を書くしかない、と書いたにもかかわらず二、三ヶ月してそ知らぬふりしてもの書きに復帰している。かれの言説は衒学ではないか。見過ぎ世過ぎということですむ話か。そういうことを感じながら『カイエ・ソバージュ』シリーズの5冊の本を読んだ記憶がある。軽いな、言葉に肉体性がない。中沢新一にオリジナルな概念はあるのだろうか。中沢新一は知識を百貨店の商品のように陳列する。品揃えはいいけど特に欲しいものはない。まるで中沢新一が差しだす知識はカタログの商品のようだ。オンラインでユニクロや無印の商品を見てよいなと思ったら、店に行ってたしかめる。流動的知性ならスティーヴン・ミズンの本を読めばいいし、無意識の思考ならマテ-ブランコの本を読めばいい。提供する知識が雑多すぎる。もっとシンプルに考えることはできないのかと不満がのこる。なぜカタログのように知識を提示するのか。レイアウトされた知識を目の前に出されても喰いたいという気にはならない。おおきな知の錯覚があるように思う。なによりそのなかにいてそこを生きるひりひりした言葉の匂いがしない。かれは観察する理性の方法で世界を睥睨している。かれが語る人類第三期の形而上革命とはなにか。『カイエ・ソバージュ』の読後感想は2年前に書いた。サイトの「箚記」にアップしているので関心があるなら読んで欲しい。

贈与は交換とどう違うか。交換から贈与が説かれるとき眼にみえない倫理が介在している。この贈与は交換の延長にすぎない。そういう贈与を論じたいのではない。中沢新一の贈与は交換の外延の範疇にある。言い方を変えれば、かれの対称性という概念は同一性の派生として言われている。きわどい言い方をすれば、中沢新一はうわべを取り繕い本音では麻原彰晃の所業を肯定していると思う。否定できる根拠がかれの思想にはない。とても怖いことだ。かれの考えのなかでは邪悪も善であるとなっている。ていねいにかれの考えをひもといていくと、いきなり邪悪なものが躍り出る。それはかれの考えの必然だ。騙されてはいかぬぞ。べたべたと貼りつけられた目くらましの知識を剥いでいくと、ぎょっとするかれの素顔があらわれる。かれの思想の輪郭はただふたつのことで描けるとわたしは考えた。サイトにアップした昔の記事を思い出しながらそのことを書く。

①自由の根源の理解
②有情の理解

ふたつの理念の錯誤のなかに生身の中沢新一が浮かびあがってくるはずだ。おそらく本人はそのことを自覚していない。暗闇に閉じ込められると内部視覚というものが生まれ、瞑想のなかにまばゆい光が額に注ぎこんでくるとかれはいう。オウム信者のチャクラがひらくというやつだ。この原初の超越が光として知覚されるところに自由の根源がある。人為的に身体を厳しく追い込んでいくと、チャクラにまばゆい光が注がれる。それが自由ということの根源であるとかれは思っている。若い頃部活の強化合宿でそれに近い体験をしたことがわたしにもある。飢餓状態のとき光が射すこともあるだろう。疲労の極致で光が見えることもあるだろう。生存が危急存亡にさらされるとき生存の知恵が光を生じることもあると理解している。生存することの知恵は脳内の電子ノイズを光だと知覚する。それはありうる。臨死体験に似た脳内の妄想である。この妄想に自由の根源があるとかれは思い込んでいる。わたしは「一人の恍惚」と名づけた。かれは自由という虚妄に酔っている。
心の素過程についてかれは言う。チベット仏教が小乗仏教である由縁が語られているとわたしは理解した。観念の同一性起源はおぞましいことを招き寄せる。ハイデガーもまったくおなじ罠に落ちた。「宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない」「かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです。われわれ人間にはただ一つの可能性しか残っていません。すなわち、思惟において詩作において、この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です」(『形而上学入門』所収「シュピーゲル対談」)存在の謎には肌が粟立つほどのおぞましさがある。

ラスコー洞窟でどういう儀式がおこなわれていたかということを考えてみると、洞窟の中は真っ暗なようです。真っ暗な状態だと、人間って目の中から光が出てくるんですね。内部視覚というのが出てきます。これはチベットでも、僕はやらされたことがあるんですけども、真っ暗な中でも二日もいるとすごい光が出てくるようになります。これを観察するわけですね。チベットの先生は、目の前に出てくるのが、心の原質みたいなものの動きなので、これを観察して、よく心のあり方を観察しろと教えてくれました。そこで動いているのは、流動していく光ですが、それはどこにも所属していない自由な「心そのもの」で、それを心で観察するというやり方をするのです。精霊と言われているものも、これとよく似た体験層につながっています。この世界の中に満ちあふれていて、具体的なものにはみんなそれは宿っているけれども、どこにも所属していない自由な働きであるという考え方が、霊の考え方の基本になってくると思うのです。
これは人間の心の基本構造だと思います。我々が、今こういう自由な言葉を使ったり、自由に思考したり、神学や物理学までできる根源にあるのは、この自由に動いていく流動的知性です。心がこれを意織でとらえようとすると、それは心なんだけれども、心の外にあるもの、超えているものと見えるでしょう。宗教とは一体何だといったら、それに対する関心に尽きると思います。宗教の制度的なことなどをみんなとってみると、「心そのもの」でありながら、心を超越していくその働きへの注目に尽きていきます。未開社会の精霊をめぐる物の考え方、これも宗教と呼んでいいし、キリスト教とかユダヤ教とか、ああいう大きな宗教の、そこでも何に関心があるかといったら、人間の心の中で動いている、どこにも所属していない、抽象的で形もない、そういう流動する光であって、それが人間の本質をつくっていることを知っていて、それをどうやって理解し、わかっているものの世界にどうやって引っ張り込んでくるかということで、宗教がつくられてくるのではないかと思います。(『群像』2004年1月号所収「心と言葉、そのアルケオロジー」)

自由の根源である光は、心的な過程と物質の過程を統一するものとしてあると中沢新一は考えた。精神と物質は存在の二相であるとかれは言う。存在はある面からみれば精神であり、反対からみれば物質であると中沢新一は考えようとする。これで意識の起源が解明されたら大変だ。意識とは事物との矛盾として存在するという吉本隆明の考えに軍配をあげる。こういうところで中沢新一のレーニン好きが本性をあらわす。中沢新一の思考はスターリニズムもオウムのポアも否定できない。本音では思考の必然として許容することになる。怖いよ、この考え。飢餓や疲労や修行で身体を痛めつけると身体は知恵として脳内の妄想を与える。この徴がチャクラに光が流れ込むように知覚される。たんなる電子ノイズが他者なき一人の恍惚として有意味化される。ニヒリズムの変種である。ハイデガーの「神」を中沢新一の光という自由の根源と重ねてみよ。地上を這い回る愚鈍な動物の一群は自由の根源である光に回帰する。他者なき同一者という出来事のおぞましさ。ナチも天皇制もスターリニズムも原始仏教もおなじところに行きつく。

コンピュータの「物質的な素過程」と言えば、ソフト面では0と1という二つの数字がずらっと並んだ表のことであり、ハード面ではON/OFFという電圧変化の連続にはなりません。それとまったく同じで、心的過程の「物質的な素過程」でも、流動的な心的エネルギーの深部から、多様きわまりない光の形態がつぎつぎと出現している過程が、たえまなくくりかえされているだけです。この「物質的な素過程」から意味をもった世界が構成されてきます。

スピリットは私たちの心の、いちばん深い場所に住んでいて、そこでは心の働きと物質の過程とが渾然一体となっています。「内部視覚」の問題は、このことを大きくクローズアップして見せてくれます。のちほどもっと詳しく見ていくように、スピリットとともに人類ははじめて「超越」というものに触れることになったのですが、それは一神教的な理解からするとまことに奇妙な「超越」だったと言えます。なぜならスピリットは人間の通常の能力を大きく超えていく領域からやってくるだけではなく、そこはまた物質の根元があらわれる場所でもあるからです。(『神の発明』)

数少ない読者の皆さん、おわかりになりますか。中沢新一の思想のおぞましさが。なぜかれは麻原彰晃を称揚したのでしょうか。同類だからですよ。もしも心の働きと物質の働きが渾然一体のものであるなら、身体をポアして滅却しても心の救済というりくつが成り立つのです。殺人は救済ということになる。原始小乗仏教はそういう苛烈さをもっており、チベット仏教として痕跡を残したのだと思う。そうではない。同一性に準拠していえば、物性的な過程の矛盾の緩衝域として電子ノイズが心的な過程として仮構されたということだ。心的な過程が物質であるとすれば、心的な過程を物性の変容と了解する観念があるだけのことだ。物質も物質という観念があるということにすぎない。スピリットというプリミティブな観念と、物質という観念があるだけだ。中沢新一のように心が素過程として物質であり、物質が心という素過程であるとしたら、物質である身体を滅ぼしても、素過程としての心は残存し、その心の素過程は身体ではないかと無限に循環する。而してポアは正義となる。ユダヤ人を絶滅する政策に荷担してもハイデガーの心が痛むことはない。心的な過程は物性の過程の矛盾の緩衝域であるという吉本隆明の心的な過程の定義のほうがよいとわたしは思う。中沢新一はみてきたようなうその不具合を覆い隠そうとしてもうひとつうそを重ねる。それが有情だ。大学院の学生の頃、中沢新一はチベットに行って仏教の教えを乞う。修行の仕上げに先輩の僧が動物を屠殺する市場に連れて行き現場をよく見るように指導する。

さて、ここからが重要なところで、もしそんなふうに私たちの存在が巨大な生命の輪廻の環の中にあらわれる束の間の現象であるとするならば、今朝お肉屋さんの店先に繋がれて、自分の死を待っていたあの山羊、あの山羊はかつて自分のお母さんだったことが一度ならずあったはずではないか、あの山羊がお母さんだった頃、山羊は子供のお前に(このあたりからパッサンの口調は、すでに先生の話しぶりがすっかり乗り移っています)精一杯の愛情を注いで、慈しんでくれたはずではないか。 動物の親が子供をかわいがる様子を観察したことが、お前たちにもあるだろう。犬や猫も小鳥も牛や山羊も馬も、子供を外敵から守り、食べ物をせっせと運んだりお乳をあげたりして、心をこめて育てている。そのかつてはお母さんだった「人」が、いまこうして山羊となって、人間に食べられるために殺されようとしている。この山羊は赤の他人などではない。ましてやただの動物でもなければ、お肉になるために殺されるモノでもない。この山羊はお前のお母さんなのだ。そう思ったとき、自分の心にわきあがってくる感情を、ようく見つめるのだ。その感情が、いつか慈悲の大木に育つ。この世のありとあらゆる生き物たちは、お前の母親であり、父であり、兄弟であり、姉妹であった老たちだ。このことを忘れてはならない。
こういう瞑想をしていたんだよ、とパッサンは教えてくれました。その頃私はまだチベット語がよくできませんでしたから、前の日の講義で先生の語っていた内容を理解していなかったのですね。それにしてもこの話を聞いた私は、さきほどの光景を思い出して、激しい感動におそわれたのです。山羊と私がたしかな連続体としてつながりあい、山羊と私のあいだに同質性をもったなにかが流れている。そのことを理解した瞬間に、心の中に愛ともなんともつかぬ激しい情動がわきあがってきたのを、よく憶えています。(『対称性人類学』)

すごいなあ、中沢新一の欺瞞。ステーキ喰うときそんなことを考えるか。宮沢賢治が言うのなら信じる。中沢新一の理解はとことん通俗的だ。吐き気がする。山川草木悉有仏性を見事に空間化している。俗そのものではないか。とてもきわどいことを言おうとしている。ここを言おうとすると卒倒しそうになるくらい疲れる。麻原彰晃と中沢新一が同類だとみなすとき、人格は問うてない。会ったこともなく知らないし。ある思考の型とその必然を取りだそうとしている。心の素過程を存在の二相とすれば、つまりある面では精神であり、そのおなじものがべつの面では物質であるとすれば、身体を滅却することはどうじに心を救済するという論理が成り立つということだ。ほんとうは心的な過程と物性は矛盾し異和をなす。中沢新一の思考には心的な観念と、心も物質であるという観念があると、観念を二重化できないしくみになっている。このことをおぞましいと言っている。このおぞましさのなかにこの世の邪悪さのすべてがある。オウム神理教の信者がポアを正当化できた理由はここにしかない。そしてそのことを中沢新一は知っている。レーニンはなぜ革命の秩序を維持するためにクロンシュタットの数万の兵士を虐殺することができたのだろうか。なせスターリンは数千万人を粛清することができたのだろうか。そのレーニンをなぜ中沢新一は愛好できたのだろうか。国家の秩序を存在の二相のうち物質的なものと考えうるということ。社会を構成する人びとを滅却することと、人びとの心を救済することは主観的にはまったく矛盾しないということになる。それよりも吉本隆明の心的な過程は物性の過程とのずれであるという理解の仕方のほうが格段に優れている。もちろん吉本隆明のこの説では電子ノイズが有意味された謎は解けない。自己表出は自己同一性を前提としなければ成立しないからだ。そのことについては先のブログで少し触れたからくり返さない。

中沢新一の対称性という概念にはまだ突きつめられていないあいまいなところがある。自由の根源であるとかれが考える、流動的知性によって額がひらかれ、そこにまばゆい光が注ぎ込むということでもいい。スピリットが横溢した精神の古層を生きた人々の生のありようでもいい。自由の根源だとかれがいう光は他者のいない一人の恍惚にすぎない。「私は熊である」というとき、かれの対称性の思考は空間化されている。対称性という人間にとっての観念の可能性を取りだすことは、だれがやろうと多くの困難をともなう。かれはこの思考の難所で遭難している。対称性という理念とそのことを語る自己とが矛盾しているということに気づいていない。なぜそうなるか。対称性という概念が空間の概念として言われているからだ。自己に垂直なものとして歴史や生を表現すること。「私が熊である」ということは、ここに「私」がおり、そこに「熊」がいて、その「私」が「熊」であるということではまるでない。中沢新一の有情も同一性の戯れにすぎない。対称性とは、「私」のなかに「熊」がすっぽり入ってきて、「私」が領域化されるということだ。それが対称性ということのほんとうの意味だと思う。また自己を実体化したまま対称性という概念を空間の概念として語るとき、一は多となり、部分は全体として延長され、自然への融即へと向かう。他者なき一人の恍惚は天意が自然であることに昇華する。神仏習合はこうやってできあがる。中沢新一の自由の根源は空無であり、他者なきニヒリズムである。有情は中沢新一のポリティカル・コレクトネスである。あるとき、一休さんにお弟子さんが、心とはどういうものですかと尋ねた。傍らに墨絵が掛かっていた。一休さんはその絵を指さし、心は墨絵に描いた松風を吹く音のようなものだよ、と答えた。この心を色っぽくすると還相の性になる。リーアン、ここまできた。(この稿つづく)

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