日々愚案

歩く浄土146:内包贈与論20-精神の古代形象・補遺2

    1

観察する理性は明晰であるという臆断を前提とすれば未開人は迷妄の世界を生きていることになる。果たしてそうだろうか。時代のなかにある迷妄はいつの時代も変わらないとわたしは考えてきた。遙かな太古、初期の人類もその時代の先端知識を駆使し、日々をこのうえなく明晰に生きていたと思う。観察する理性の初源を解明する方法は未開人の生活のありようから歴史的な段階を推論することになる。自然人類学や文化人類学、古生物学や、古植物学などが参与し、当時の生活を再現しようと試みる。また大脳生理学の先端知の方法によって意識を解明することも試みられている。斯く斯く然々の理由によって意識は解明されたという自然科学的知が開示されるだけでそれは人間的な意識とはべつものである。空間的に配置された出来事の羅列から歴史を段階に区分することになんの意味もない。果たして意識は未開的なものから開明的なものへと漸次進化するものだろうか。いま、ここを明晰にかつ迷妄として生きることはいつの時代も変わらない、わたしはそう思う。遷ろうさまざまな外延的な自然のなかで漂いながらだれもが生きてきた。さまざまに外延自然という共同幻想は遷ろってきた。グローバルな経済もビッグサイエンスも彩り鮮やかな新手の共同幻想である。国家を共同幻想とみなし、理念としての大衆を支配的な思想に対置しこの世のしくみを変えていくという思想は悉く壊滅した。電脳社会では超国籍企業のほうが国家よりすでに巨大であり、そこをビットマシンとハイテクノロジーが飛び交っている。経済も自然科学も複雑に交錯しこの惑星をつなげようとしている。いまでは電脳と結合した経済や諸科学という共同幻想が国家より上位の共同幻想としてそびえている。国家運営の担当者はこの猛烈な圧力におびえて国家を内面化することで対抗しようとする。それがいまわたしたちの眼前で起こっている。

このように現在や歴史を記述することは対象的に不毛であるとわたしは考えてきた。意識の外延史としては外延的な自然が解明されるごとに抽象度をまして、その自然に順伏するように生も社会も再編成されていくだけであり、生きることのリアルは意識の外延表現のなかにはなにもない。それは断言してもいいと思う。人類史が共同幻想に翻弄された人間という自然の変遷だとすると、まったくべつの生や歴史が構想されてもいい。意識の外延性をかたどった人類史という外延史にたいしてそれらを包んでしまう内包史を構想している。歴史を内包化するにはいくつかの概念が必要だった。こつこつと自前の理念をつくってきた。内包自然と総表現者が内包史の基軸になる。これらの概念がなければ内包的な歴史をつくることはできない。内包自然というとき、国家という共同幻想もグローバル経済も、新興の自然科学も外延自然として一括りにされている。なんなら文学という自然も共同幻想にくわえることもできる。総表現者は知識人と大衆という権力の視線による生の分割を前提としていない。わたしは知識人と大衆という生の引き裂きが人類の厄災を招来してきたと考えてきた。またイデオロギーを問わず、知識人と大衆という知の分割が世界の無言の条理を根底で支えてきたのだ。

総表現者のひとりという理念を生きるとき、主観的な意識の襞にある信はまったく考慮されていない。わが身に起こったことを普遍的に語ることのなかにしか観念の力も生きていく元気もあらわれない。体験の固有性とは体験を普遍的に語ることのなかにある。総表現者という理念もそのひとつである。わたしは総表現者のひとりとしてじぶんに掛けられた閂のひとつをあけようとしている。わたしに固有のやり方でじぶんをじぶんにとどけること。それが内包論だ。総表現者という理念を手にして驚いた。歴史が自己に直立するのだ。わたしのなかに人類一万年の歴史が内属している。それはほかのだれであっても妥当すると思う。それぞれの人のなかに人類史が内挿されている。歴史はだれにとっても自己に垂直な時間として内蔵されているということだ。総表現者という理念によって歴史を空間的な配置ではなく縦にすることができる。ここには知を采配する知識人という位相は影も形もない。むろん衆という理念も消滅している。わたしはまったくあたらしい未知の世界の可能性がここから広がっていくように思う。わが身に起こったことをなぞりながら体験を普遍として語ることは思弁的に生の不全感や歴史を語ることではない。それよりほかに生きようがないからそう考えるしかないということだ。そのように生を生きた思索家をふたり取りあげる。何度かブログで書いたことがある。なんど読み返しても考えるという観念の力が生きられている。

    2

神の古代形象についてレヴィナスやレヴィ=ブリュールより池田晶子と往復書簡をなした陸田真志や『こころという名の贈り物』を書いたドナ・ウイリアムズのほうが意識のめざめについてはるかにリアルにつかんでいる。思弁ではなく生きられる知がここにある。陸田真志のヘーゲル理解を貼りつける。善悪未生の動物的な捕食行動を身体性として巻き込んで精神の古代形象はつくられた。ヘーゲルの思考に憑依されるようにしながら鬼気迫るように陸田真志はわが身をなぞっている。かれの言葉にはうそがなく、かれの言葉は生きている。生の不全感の投影でもない。真摯な言葉がここにある。かれは言葉のリアルを生きたのだと思う。

陸田死刑囚はいくつかの気づきをしています。彼は獄中で自分やったことのいちいちをふり返って、ヘーゲルの理性的なものは現実的であるというリアルを知覚したのです。ヘーゲルの精神のうねりに沿って自己を記述しています。それは見事なできばえです。おお、おまえはおれの言ってきたことがよくわかっとる、とヘーゲルは言うと思います。そのヘーゲルの理念にあるはじまりの不明には気づかぬまま刑を執行されたのではないか。もう少し先まで行けたはずなのに。できれば根源の性までつかんで欲しかった。

彼は行為と観念は一体であったとみなしています。「どうも私の経験からすると、そうではなくて、実は元々『観念』」と『行為』は一体であり、つまり動物一般がそうであり、ヒトとしての動物がそうだったものであり」と考えられています。このときはまだ善悪未生です。このときいろんな観念の可能性があったのに、「自然からの人間の分裂」によって、自我を理性として手に入れ、その後に善悪が芽生えたとこの人は言います。ヘーゲルの理解からそうなるのはわかります。

わたしは彼の認識の階梯は人間の意識の系統発生としても言いうると思うのです。悠遠の太古に、明暗不明で自他未生の観念がむっくり起き上がったと、これまで形容してきました。名づけようもなく名をもたぬこの観念はまだ無分別です。彼によるとヒトとしての動物では行為とのあいだに「決定的な断絶」はないとされています。そうではないかと思います。観念は「自然からの人間の分裂」に起源をもつとも書かれています。その通りだと思います。そのとき身の毛のよだつ凄まじい恐怖とそれを打ち消したいという激烈な衝動が太古の面々に生じたと思われます。わたしたちの知る人倫の決壊はここに起源をもつように思います。わたしが精神の古代形象と呼ぶものです。この退行はおそらく一瞬です。だからこそそのときどきの文明はこの衝動を飼い慣らす風土に見合った文化のしくみをつくったのです。

殺人の実行者が世界の無言の条理をつかもうとした貴重な証言です。そして、悪は、「他がない」窮極的な自己目的の観念のうちに胚胎されると彼は結論づけています。フロイトが触った、善悪の彼岸にある、矛盾律がなく、時間の観念もないエスとはそういうものだと思います。自己意識の外延化はある契機があればぐるっと廻ってエスに同期するようにできあがっているのではないか。ここをまだわたしたちは吹っ切れていないと思います。そして外延表現ではこのおぞましさを禁圧することしかできません。禁止はかならず侵犯されます。内包論ではこの矛盾は解消されます。(「歩く浄土20」)

陸田真志のヘーゲル思想の追体験は感動的だった。一読して嘘がないと感じた。じぶんの為した悪業を身をなぞりながらたどりなおす場面に感動した。これほどリアルなヘーゲル理解を読んだことがない。そういえば往復書簡をやり取りしふたりとも、もういないんだなあ。動物やヒトに善悪はない。善悪未生の世界を生きているわけだから。「悪は、『他がない』窮極的な自己目的の観念のうちに胚胎される」と彼は結論づけています。ここもフーコーの遺言のような言葉、真理は他性によってもたらされる、主体は実体ではない、と共鳴する。ドナ・ウイリアムズは「もの」にすぎなかった自分を他者とのつながりにおいて自分の帰属する場所を発見する。わたしの理解では陸田真志のつかんだ感覚はドナ・ウイリアムズへと引き継がれる。意識の目覚めが内包的にはじめて語られた。

ぼくはこの本を「自閉症」という生をうけた一人の女性がある〈根源的な感情〉を通じて、意識するしないにかかわらずぼくたち一人ひとりがいつもすでにその上に立っている世界のもっともシンプルな熱をみずから手に取り、ひとであることの原義を発見していくこころの成長物語として読みました。5年前のことです。ドナの『こころという名の贈り物』は衝撃でした。ドナの「わたしは人に属する」「わかち合う」という〈ことば=感情〉は、ぼくの内包という概念と重なると思えたのです。いまでもその驚きを憶えています。
25歳でじぶんが「自閉症」だったことに気づき、27歳でイアンと出会い、感情を発見するまでの壮絶な生は読むものを惹きつけ共感を誘います。注意深く読むと、原初の人類がどういう心映えで生きていたのか、性という根源の感情によぎられたときの激烈な情動がどういうものであったか、リアルに感じることができるのです。人間の由縁についての豊富な知見がこの本のなかにちりばめられています。

知的な障害はないのに対人関係を欠落したドナは、二十代半ばでじぶんが「自閉症」だったということを知ります。第一作の『自閉症だったわたしへ』にはどこかうさんくささを感じて、書かれていることに半信半疑でした。話の筋が見えなかったのです。しかし二作目の『こころという名の贈り物』で彼女の叫びや驚きや戸惑いが見えてきて感銘を受けました。母親から「お前は宇宙人だよ、地球の人間じゃないね」と言われて、ドナは「だがこの人は、一体誰なのだろう。まるで、たくさんのピースがなくなったジグソーパズルのようだ」と思うのです。ありがとうもさようならも言わないで、ただ、黙って母親の前から去った、そのドナが、「属する」、「わかち合う」、「いとおしさ」という感情を発見していく過程はすさまじく感動的です。個体発生は系統発生を繰り返すと語ったヘッケルに模すまでもなく、人間にとっての〈根源的な感情〉をつかんで激烈なパニックに襲われたドナの体験は、人間の由来や存在のあり方に関してふかい示唆をふくんでいます。

ドナは彼女のそれまでの生涯において人類史を体験したのだと思います。物たちは意志の力を持っており、人は、人という名の特殊な物体だったとドナは言います。「『知る』も『感じる』も、わたしにとっては『それ』とか『の』とか『で』といった単語と同じようなものにすぎなかった」「だからわたしは、まるで目の不自由な人が『見る』ということばを使い、耳の不自由な人が『聞く』ということばを使うように『知る』とか『感じる』ということばを使うようになった」と述懐しています。
あるときドナは、「物は感覚も知識もない死んだもの」ということを発見します。そのとき「わたしは人たちにではなく、物たちに見捨てられた、ものの死骸でいっぱいの世界に生きている」と考えます。ドナの「わたしの世界」が根底からくつがえされます。それまで「物たちは、複雑なことは何も考えたり感じたりせずに、ただわたしと一緒にいてくれて、わたしにやすらぎをくれていた」のに、木の葉たちはダンスしていたわけではない、わたしは彼らを信頼していたのに、家具たちはわたしを囲んでいてくれたわけではないのだと感得するのです。そうやってドナはまるで「これから発生する場所を捜しているひとつの文化」のように、寄る辺ない世界に一人佇むのです。小さな余震が絶えずドナをゆさぶり続けます。
(略)
やがてドナは決定的な出来事に襲来されます。
「首筋に、寒気が走り始めた。わたしは紙とクレヨンをつかんだ。全身をつかまれてしまう前に、わたしは急いで紙に書く。『大丈夫、わたしは戻ってこられる。大丈夫、わたしは戻ってこられる。大丈夫……』。体は、まるで大地震の時のビルのように、ぐらぐらと震え出す。歯は、猛烈な勢いでキーをたたいているタイピストのような音をたてて鳴る。体中の筋肉という筋肉が、わたしの命を絞り出してしまおうとするかのように、収縮する。やっとその収縮がおさまると、ついに『大波』がぶつかってくる。何度も、何度も、何度も。悲鳴でのどが張り裂けそうになるが、叫びは決して外へ出てゆくことができず、押し戻されて爆発し、心の中で反響する。『息をして』。合い間に、ふと声が聞こえた。わたしは深く息を吸い、一定のリズムで深呼吸を続ける。なんとかわたしは、襲撃をしのいだのだ」。

「真っ暗な底なしの無の世界の主が、わたしを連れ去りにくるという、身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正体は、このあふれ出した感情だったのだ。そしてそれは、うれしさから怒りまでのあらゆる感情によって、引き起こされていたのだ」。
ドナの身も凍るようなパニックはおそらく人類史の初期を生きたひとびとが体験したことに違いありません。自然と戯れていた太古の面々に感情ということばが、ことばという感情が宿った瞬間に比喩されていいかと思います。ついにドナに、未明のひとびとに、〈つながり〉が自覚されたのです。ドナの生涯にとっての、人類にとっての大いなる一歩が踏みだされました。そしてついにドナはじぶんが人に属していることを発見します。感情の発見から「帰属感」までは一瞬でした。感動的なクライマックスです。そしてその発見は同時に分け持つことの発見でした。

「人が胸をいっぱいにしているのを感じると、こちらの胸までいっぱいになってきてしまいます。・・・人がなぜわたしを抱きしめようとするかが、わたしにはもうわかるのです。人は、胸がいっぱいになった時に、人を抱きしめるのです」「ああ、二十七年、二十七年もかかってしまった」「わたしは全世界が自分に向かって開かれたような気がした。わたしの根は、新しい土の中に、しっかりと張った。わたしはその根に『帰属感』という名をつけた」。・・・・イアンといると、「互いに相手に属している、感じることができる」「こここそ、わたしが属するところ。ほんとうの場所」。(『guan02』)

世界のどんな深いものより深い場所にドナは立っている。レヴィナスの〈ある〉のざわめきという生の不全感も、レヴィ=ブリュールの「未開人たちは絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる」も、陸田真志やドナ・ウイリアムズによって本質的な意味で超えられている。なぜ超えられたのか。かれらは観察する理性によって世界を解釈する余裕がなく、わが身をなぞりながら世界を体験したからだと思う。歴史は外在的なものではなく、だれの生のなかにも内挿されている。ひとが根源において〔ふたり〕であることを観察する理性や科学が知覚することはない。心身一如の自己を1や質点に比喩するかぎりにおいて諸科学が自己をシミュレートできるだけである。わたしたちはいつも〔ふたり〕として内包的に存在している。わたしたちはだれもが根源的に二人称である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です