日々愚案

歩く浄土145:内包贈与論19-精神の古代形象・補遺1

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国家があるという信憑と内面があるという信憑はどこがちがうか。なんにも違わないのじゃないか。そんなことをふと考えたりしている。なにかのきっかけで、「私」のこの気持ちをわかる人は世界のなかにだれもいないと考えたとする。この気持ちを外に掻き出そうとする衝動がふいに湧き上がる。それが外化という表現概念としての疎外だ。詩が手っ取り早い。小説を書いてもいい。きっかけがあれば商品として売れることもあるだろう。国家という自然があるように内面という自然があるだけではないのか。もしかすると内面という自然も制度かも知れない。国家が共同の幻想であるように、内面もまた内面という共同の幻想かも知れない。内面もまた同一性に貼りついた制度にすぎないのではないのか。親鸞が浄土教の教義を解体して自力作善を排し、他力を説いたことと関係していると思う。自力作善の往相廻向が内面に比喩されるのではないか。人間を社会的な存在であるとするとき、無意識に人間という規範を媒介にしている。外界の強大な力に抗命して内部という観念があると仮構するほかに余儀なき生を全うすることはできなかった。だから内面という幻想の根拠には故がある。それはよくわかる。最期のフーコーはそういうことを考えていたような気がする。ひとまずかれは人間という概念を終焉させた。なにがかれにわかっていたというわけではない。そしてついに、真理は、同一なものではなく、他者によってもたらされることに気づく。表現の概念は根底から覆されている。この明言がフーコーの遺言だった。もちろん他者は自己に先立つ神や仏という超越をまったく意味しない。わたしは58歳で亡くなったフーコーの考えたことの先を考えている。

内包論からみると、政治と文学はどうあらわれるか。わたしたちは文学というものにある特権をもうけてきた。政治と文学という二項図式のなかで、政治は文学の下位にあり、文学は政治よりも深い内面を表現できるという臆断がある。かつて消費社会が興隆するなかで、政治と文学なんてものはないという思想家がいた。この文脈に沿って言うなら、文学は政治なのだ。そこまで言ってしまえばよかった。なにがかれをとどめたのかいまとなってはわからない。内面が政治とはべつの次元にあるという臆断がなければ政治と文学という対位法はなかった。そこには文学は政治より高尚であることが暗黙に寓意されている。村上春樹の騎士団長殺しと教育勅語の世界はどこが違うのか。娯楽や趣味としてあることは認めるしかないとしても、まったくおなじものとして機能していると思う。

政治は衆を統治する共同性にかかわる理念にかかわり、一人ひとりが内部に恣意的な自然をもつ。国家という自然と内面の自然は同質だと内包論で主張してきた。文学や芸術がなぜ予定調和的なものでしかないかというと、政治的言語と文学的言語が共に同一性という空虚を源泉としているからだと思う。政治が身過ぎ世過ぎの戯れ言だとすれば文学はただ消費される商品としてある。消費されない文学という商品はまれにしか存在しない。文学が商品としてあるということは無印良品の商品が特販されることとまったく変わらない。むしろこの世界を文学や芸術が下支えしている。この世の価値が金に収斂するなかでしくみを相対化する心性が結果としてこの世のしくみを下から支えている。内包論はこれからも喩としての内包的な親族と内包的な贈与論の可能性を追求していくが、文学を内包的に表現する世界はまだだれによっても書かれていない。そこにこそ広大な表現の未知があると思う。

わたしたちのなかにあるちいさな自然にはとても深いものがある。文学という共同幻想で、わたしたち一人ひとりが、根源においてふたりだということを表現することはできない。なぜならば文学という制度が同一性に基盤を置いているからだ。同一性からは根源の二人称は視えない。それはけっして内面化することも共同化することもできない。わたしたちが知っている文学はじぶんがじぶんにとどかないことを先延ばしにして受容し、そのことによって精神を慰撫することによって成り立っている。過剰な意識の剰余はいつも間に合わないという意識を累乗して負荷されている。生の不全感を埋めたくて表現するのだが、いつまでたっても埋まらない。それは国家が宗教であるように文学という自然をかたどる意識が宗教だからである。同一性という空虚でこの閉じた思考の回路をひらくことは先験的にできない。

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文学が迷妄のただなかを漂流しているとすれば、哲学の研究者や未開人の観察をした先学者たちもおなじ錯認にとらわれている。ハイデガーの存在論的差異についてだ。さまざまな解釈があるがどの解釈も存在と存在者のあいだにある謎を貫通していない。かれらの思考が緩いのは世界を解釈する観察する理性という方法の欠陥に由来しているように思う。自分たちが開明的なことを前提にして未開人の観察記録を叙述したからだ。そのいくつかをこれからみていく。かれらの精神の古代形象について理解は、まったくもって明晰ではなく迷妄で未開的である。

1947年に刊行された『実存から実存者へ』でレヴィナスはつぎのように書いている。

補囚の境涯で記述され、大戦明けに世に出たこの著作に呈示された〈ある〉の起源は、子供のときから胸に秘められ、不眠のさなかで沈黙が響きわたり空虚がみなぎるときに再び現れる、あの奇妙なオブセッションのひとつにまでさかのぼる。(5p)

『実存から実存者へ』はレヴィナスにとってはじめての著作であり、レヴィナスの表現のモチーフがよくあらわれている。レヴィナスには〈ある〉ということについて天与の特異な感受性があった。それは意識の原型とも言えるもので、ハイデガーの哲学に接する以前にすでにかれの生はじぶんがじぶんにとどかないという意識に充ちていた。沈黙と空虚という生の不全感である。この生の不全感をもったまま未開人の世界をとらえるとどうなるか。レヴィナスの言葉を拾ってみる。

雨が降るとか暑いというのと同じように非人称の〈ある〉というこの表現に、実詞を結びつけることはできない。〈ある〉は本質的な無名性だ。(115p)

レヴィナスにとって〈ある〉は風が吹くとか雪が降るとか薪が燃えるという非人称の情態のことを指している。そのことを辺り一面、あるのざわめきで満ちているという。非人称の〈ある〉という状態は、有節音の象徴言語に結びつけることはできないとレヴィナスは言う。主語が登場しないので、実詞化できないわけだ。述語と主語の転換はまだ起こらない。このレヴィナスの意識の原風景を、歴史の段階に置き換えると、レヴィ=ブリュールの未開人の観察記録は、レヴィナスの〈ある〉の知覚となる。レヴィナスはレヴィ=ブリュールの心象に自分を重ねている。

〈ある〉がふっと触れること、それが恐怖だ。私たちはすでに、種々の対象を入れる容器としての機能や存在たちへの通路としての機能を捨て去った空間が、それ自体醸し出す不確定の脅威ででもあるかのように、〈ある〉が夜の中に忍び込んでいることを指摘してきた。それを強調しておかねばならない。意識であるということは、〈ある〉から引き離されているということだ。(略)恐怖は言ってみれば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動なのである。それも、無意識のうちに意識を鎮めることによってではなく、意識を非人称の〈目覚め〉のうちに、レヴィ=ブリュールの言う〈融即〉のうちに、つき落とすことによって。
レヴィ=ブリュールは、恐怖が主たる情動の役割を演じている実存を記述するためにこの融即という概念を導入したが、この新しさは、それまで「聖なるもの」の惹き起こす諸感情の記述に用いられてきたさまざまなカテゴリーを打破したところにある。デュルケムにおいて聖なるものは、それが惹き起こす諸感情によって俗なる存在と際だった対比をなしているが、これらの感情は、依然としてある対象を前にした主体の域を出ていない。そこでは主客二項それぞれの自己同一性は、問われていないように思われる。聖なる対象の感覚的な諸性質は、それが誘発する情動的な力やこの情動の本性とは何の共通点ももたないが、この不釣合いや不一致は、この対象が「集団的表象」の担い手であるということで説明される。レヴィ=ブリュールの考えはこれとはまったく違っている。プラトン的な類の分有とは根本的に区別された神秘的な融即において、主客両項の自己同一性は消滅する。両項は、それぞれの実体性そのものの根拠を脱ぎ捨てるのだ。ひとつの項と他の項との融即とは、何らかの属性を共有することではない。ひとつの項が他の項なのである。存在する主体に支配されていたおのおのの項の私的な実存は、この私的な性格を失い、不分明な基底にたち帰る。一方の実存が他方を浸し尽くすと、そのこと自体によってもはやそれは一方の実存ではなくなる。こうした実存のうちに私たちは〈ある〉を認める。デュルケムにとって、未開宗教における聖なるものの非人称性は「いまだ」非人称の〈神〉であり、いつの日にかそこから発達した宗教の〈神〉が生まれることになるが、それとはまったく反対に、この非人称性は神の出現を準備するものなど何ひとつない世界を描出しているのだ。〈ある〉の観念は私たちを〈神〉に導くものではなく、むしろ〈神〉の不在に、いっさいの存在の不在に導く。未開人たちは絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる。
恐怖はいかなる意味でも死の不安ではない。レヴィ=ブリュールによれば、未開人たちは自然現象としての死に対して無関心な態度しか示さない。恐怖のなかでは、主体はみずからの主体性と私的に実存する能力を剥ぎ取られる。主体は非人格化されるのだ。実存感情としての「吐き気」は、まだ非人格化ではない。それに対して恐怖は、主体の主体性、「存在者」としての個別性を覆してしまう。恐怖は〈ある〉への融即である。まったき否定のさなかに回帰する〈ある〉、「出口なき」〈ある〉への融即である。〈ある〉は、いってみれば死の不可能性、実存の消滅のさなかにまでゆきわたる実存の普遍性なのだ。(118~121p)

ものすごく生々しいことをレヴィナスは言っている。すくなくともかれの記述の方法はかれの生の固有性からきていて観察する理性の方法を逸脱している。恐怖が迫りくると存在者の個別性は主体を脱落させて非人称の〈ある〉に融即すると言う。存在の感得は神へと導かれることはなく神の不在へと、一切の存在の不在に導くという生存感覚がレヴィナスにある。のちにレヴィナスは『われわれのあいだで』という本のなかで「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」と書いている。ここからレヴィナスの言説の本質は祈りであるという思想が出てくる。それはよくわかるのだが、ハイデガーの哲学を批判することに生涯を賭けたにもかかわらず、存在の謎を解き明かすことはなかったとわたしは理解している。往相の知を横ざまに跳ぶ還相の知というものがヨーロッパ的な精神風土に欠如しているということに由来するのかもしれぬ。
精神の古代形象として多くのことが迷妄として言われている。めまいを起こすほどだ。レヴィナスやブリュールのモダンな心性はなんとかならないか。いずれにしても、あるのざわめきのひとつをだれもが生きるわけだが、なぜそれが「私」なのかがわからない、それは恐怖であるという。〈ある〉の根底にある非人称への融即の恐怖を実体化して語ることもできる。レヴィナスは生々しく体験したはずだ。生の不全感を思弁的に語るときのレヴィナスはモダンで、言説の本質は祈りであるというレヴィナスはモダンを超えている。このねじれがレヴィナスの思想の魅力だということもできる。

死を不可避とする極限的な状況を想定してみる。その世界では、美しいとか悲しいという形容詞がまず脱落する。つぎに主体がはがれ落ちる。その極限状況を生き延びようとして精神は先祖返りをする。雨が降るように人を殺す。あるいは殺される。一瞬でそこまでいく。いま南スーダンで起こっている民族浄化。レヴィナスの思想は本質的に言うと、自我がエスに融即するフロイトの認識を超えていない。レヴィナスには幼少の頃より名づけようのない生の不全感が漠然とあり、その生の不全感を過去の歴史に投影しているだけで思弁的なものだとわたしは思う。モダンな全円的な倫理的思想をレヴィナスはおおくの困難を超えてつくりあげたが存在の謎をかれに固有の方法で解くことはなかった。レヴィ=ブリュールの考えにレヴィナスの生の不全感をかぶせて語っているところにそれが象徴されている。たぶんレヴィナスはあるのざわめきへの非人称的な融即とユダヤの神とのあいだにはさまれて悶絶したのではないか。

「未開人たちは絶対的に、〈啓示〉以前に、光の到来以前にいる」とレヴィ=ブリュールは語った。この言葉にレヴィナスは吸い込まれる。ほんとうに未開人は暗黒の啓示以前の世界にいたのか。光の到達しない真っ暗な世界を生きていたのか。若い頃この箇所をよんで、疑問がいくつも頭のなかを飛び交った。なにかをレヴィナスは考え損ねている。でもそのなにかがわからなかった。おなじことを滝沢克己も言っている。「むろん、近代以前の人々といえども、そのような擬似知識、それと難しがたく結びついている呪術によってだけ生きていたわけではありません。いくら未開であっても、それなりにちゃんとした生産の技術と、それに見合う社会的組織が『自然発生的』に形づくられていました。それがすなわち人間が現実に生きていたということでありましょう。けれども、かれら自身がそれと『自覚』していたかどうかはともかく、もともと『考えるもの、意志するもの』として物を感ずる人間は、かれらの実現しえた技術・知識の及ばぬところは、呪術的な想念や儀礼によってその欠を補うことで、暗黒のXの恐怖に堪えるほかはなかったのでしょう」(『純粋神人学序説』36p)

レヴィナスもレヴィ=ブリュールも滝沢克己もモダンがねつ造した物語に埋没している。未開人は光の啓示以前の呪的な儀礼のなかで生きていたと言う。うそだと思う。太古を生きた人びとにとって呪術は当時のハイテクノロジーであり、原始的な宗教は当時の先端知だった。一度地勢を目に焼きつけるとカメラアイは100キロ離れたところにグーグルマップがないにもかかわらず寸部違わずたどりつくことができる。驚嘆する記憶力。それはかれらの生活の知恵だ。ある時代を生きるとき、その人が時代とのあいだでもつ明晰さと迷妄の度合いは変わらない。現代を生きているわたしたちを、追憶される未来の人がみればなんという迷妄の時代を昔の人は生きていたのだろうと目を回すだろう。いつの時代もその時代を生きる人は生を全円的に生きている。いつもそのつど間に合っていることとして。なにかへの過渡として生きているというのは近代がねつ造した妄想である。近代は生の不全感を発明し、不全感を先延ばしにして、いつか充たされた生が到来することを時代の公準にしている。そうではない。人はいつもそのつど然りとして生を全円的に生きている。(この稿つづく)

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